作文力の基礎は、読書力です。
読書をしっかりしている子には、作文を書く力があります。
しかし、それは潜在的に書く力があるということで、作文は、実際に書いてみなければ字数やスピードの感覚がつかめません。
この作文を書く際の最も重要なことが事前の準備です。
書く過程と同じぐらい準備という過程が大切なのです。
準備とは、与えられた課題で何を書くか考え、両親など身近な人に取材して話をふくらませてくることです。
感想文の場合は、もとになる長文を読んで理解しておくというのも準備に入ります。
準備とは、作文を書くための材料集めといってもよいでしょう。
材料がそろっていれば、作文は半分書けたのと同じです。
作文を書く準備としての構造図を書く練習は、現在思考発表クラブで行っています。
最近思ったのは、ここで書く子供たちの構想図がもとても充実しているということです。
これは構想図をお互いに発表し合うので、自然によい内容のものを書こうと思うようになるからだと思います。
しかも、その見てくれる人が同じぐらいの学年の子で、いずれも好意的な目で見てくれるというところがいいのです。
作文も、人に見てもらうことよって上達しますが、構想図も人に見てもらうことによって上達すると思いました。
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作文は、ほかの勉強と違って○や×がつくものではありません。
だから、意欲的に書くかどうかということが上達の重要な条件になります。
書く練習を続けていれば、誰でも上達はするのですが、意欲がそれを加速する度合いがきわめて大きいのです。
その意欲を持てるかどうかは、その子の書いた作文を好意的に見てくれる人がいるかどうかということに左右されます。
最近思ったのは、作文を書く前の準備の段階でも、人に見てもらうことができるということでした。
子供たちの読書紹介や構想図の発表会などを見ていて思うのは、どの子も優しいなあということです。
必ずと言っていいほど、ほかの子の発表のいいところを評価するような発言をしているのです。
みんな、素直に育っているのだと思います。
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今、思考発表クラブでは、読んでいる本の紹介と、課題作文の構想図を書く練習をしています。
練習といっても、みんなで和やかに書いたものを発表し、その発表について感想を言い合うような集まりです。
ですから、勉強というよりも楽しい雑談会のような雰囲気です。
この構想図を書く練習というのは、言葉の森の作文の課題に合わせて自分なりに体験したことや思ったことを書き、それを身近なお父さんやお母さんに取材をしてふくらませるという練習です。
その構想図の、小学校4・5・6年生のサンプルを末尾に載せました。
構想図のスタイルは特に決まっていませんが、散らし書き風に思いついたままに四方八方に矢印を使って書いていくというのがひとつのパターンです。
なぜこういう書き方をするかというと、人間の考えというものは、文章のように1本の線のようにつながるものではなく、平面的に広がるものだからです。
構造図を1枚仕上げるのにかかる時間は、ほかの人への取材の時間を除くと、大体10分程度ではないかと思います。
この10分で作文の全体を考えられるのですから、かなり能率のよい勉強です。
普通、作文を実際に書くとなると1000字の作文を書く場合1時間ぐらいかかります。
ところがこの構造図を仕上げれば、作文を書くのと同じような考える過程がわずかな時間でできるので勉強としては密度の濃いものになります。
この構想図を作文に仕上げる段階ですが、今は構造図をもとに手で書いたりパソコンで打ったりするので、やはりある程度の時間はかかります。
しかし、現在音声入力が実用的なレベルにまで達しているので、この構想図をもとに音声で作文を書くとすると、10分で1000字程度の作文は十分に可能です。
将来の作文の勉強は、構想図+取材+音声入力という形になっていくと思います。
つまり、作文の勉強の中の、考える過程と、取材する過程と、書く過程を独立させて密度の濃い勉強にしていくのです。
そして、その作文をプレゼンテーションとして発表し合うというような形の新しい作文の勉強が将来生まれるようになります。
作文の勉強は、自分の考えを深め、正確にし、発表することでその考えに磨きをかけるというところにあります。
その結果として、受験作文にも対応できる力がつくということです。
高校生以上の生徒が書く作文は、それ自体独自の価値のあるものがかなりあります。
この自分のオリジナルが考えを表現し発表する作文というものが、これからの創造教育の一つの重要な柱になってきます。
高校生大学生になって独創的な考えを深めそれを文章に書く、その準備として、小中学生の作文の練習があると考えておくとよいのです。
なお、思考発表クラブは、現在、次の日程で行っています。
月18:00~18:45 小学4・5・6年生対象
火18:00~18:45 小学1・2・3年生対象
火19:00~19:45 小学4・5・6年生対象
水18:00~18:45 小学1・2・3年生対象
水19:00~19:45 小学4・5・6年生対象
木18:00~18:45 小学1・2・3年生対象
(月4回の授業で、受講料は月額2,160円です。)
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子供たちの書く構想図は、一見落書きのように見えますが、よく見ると実はかなり密度の濃い実例や感想が書かれています。
作文を書く前の全体の構想を考える過程が、この1枚の図の中に書かれています。
だから、60分かけて書く作文と同じ思考力を、この10分程度の構想図で使っているのです。
言葉の森は、まだパソコンを使っている人が、大人でもほとんどいない時代にタッチタイピングで小学生の子供たちに作文を書かせていました。
しかし、パソコンが普及して誰もが使うようになったころに、作文は手書きに戻しました。
それは、構想図を書くという考える過程が、パソコンのデジタル的・線形的な仕組みと相性がよくなかったからです。
今考えているのは、考える過程は手書きの構想図で、書く過程はAI化された音声入力でという方向です。
いずれもかなり能率のよい、密度の濃い勉強になると思います。
そして、その作文をプレゼン作文発表会で、お互いに発表し合うのです。
更に、子供たちが書き溜めた作文を、セルフパブリッシングでkindle本にして記念に残るようにしておきたいと思っています。
これらは、決して空想的な話ではなく、明日からでもすぐにできるものですが、しばらくは仕事がたてこんでいるので、やはり少し先の話になります。
今後、森林プロジェクトの人たちと協力して、こういう新しい勉強を広げていきたいと思っています。
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【前号までの話】
作文の指導が難しいのは、直さなければならないところがたくさんあるからです。
30人の生徒がいれば、30人それぞれに様々な作文の欠点があるのが普通です。
そこで例えば、「字をもっとていねいに書きなさい」とか、「漢字を使って書きなさい」とか、「姿勢をよくして書きなさい」とか、「鉛筆の持ち方に気を付けなさい」とかいうことを注意していると、作文はどんどん暗い勉強になっていきます(笑)。
そして、そういう注意を受けない、よく書ける子の作文を模範作文としてみんなに見せるようなことをすれば、書けない子はますます作文が書けなくなります。
言葉の森に来る子供の中には、作文が好きでたまらないという子と、作文が嫌いでたまらないという子の両方がいます。
作文が嫌いでたまらない子というのは、これまで注意されたり比較されたりして作文を評価されてきた子です。
そういう子が、体験学習で楽しく作文を書けるようになるのはなぜかというと、できないことを教えるのではなくできることを教えているからです。
「字をもっとていねいに書く」などということがすぐにできればもちろんよいことです。
しかし、そういうことは、すぐにはできないのが普通です。
親がこれまで注意してできなかったことが、初めて教える先生にできるわけがありません。
それなのに、「先生の言うことなら、うちの子はよく聞くんです」などという適当なことを言うお母さんが結構多いのです(笑)。
字の間違いがある場合も、なぜ間違えているかというと、できないから間違いが続いているのです。
このできないことをやらせることに力を入れるのではなく、できることをやらせるのが作文指導のコツです。
例えば、「そのときの会話を思い出して書こう」とか、「『どうしてかというと』という言葉を入れて書こう」とか、「数字や名前がわかるように書こう」とかいう明確な指示があれば、子供は作文を書く目標が分かります。
さらにこの指示も、いくつもするのではなく、その中の一つができれば合格というようにしていくのです。
もっと大事なことは字数です。
「100字まで書けるようにがんばろう」という、誰でも書けそうな字数の指示があれば、子供は俄然やる気を出します。
そして、ほとんどの子が、頑張って全部できるように作文を書こうとします。
そうしたら、できたところを大いに褒めてあげればよいのです。
子供が先生の言ったとおりにせっかく頑張って書いたのに、先生が指導していないこと、例えば、「字をていねいに書く」とか「漢字を使って書く」とかを言ってしまうと、子供の努力を無視したことになります。
「先生、これとこれとこれができました」と、嬉しそうに作文を持ってきた子供に向かって、「あ、でもこの字じゃねえ。もっときちんと書かなきゃ」というような対応してしまう先生が、初心者のうちは意外と多いのです。
言葉の森に体験学習に来た子が、最初は来るのを渋っていたにもかかわらず、書き終わると晴れやかな顔をして帰るのは、できることを指導して評価しているからです。
このできることを指導する教え方と並行して、もう一つ重要なことは読む力をつける毎日の家庭学習です。
この毎日の家庭学習をスムーズにできるようにするために、言葉の森では、オンラインで家庭での勉強や読書をモニターする自主学習クラスというものを行っています。
この褒める指導と毎日の家庭学習で、途中でやめさえしなければ、どの子も確実に力をつけていくのです。
◆誰でも楽しく書けて実力がつく。――Online作文教室言葉の森◆
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誰でも作文が書けるようにするコツは、その子ができそうなことよりももっと易しいことを目標にすることです。
例えば、「字数は100字までがんばろう」というような目標です。
100字は普通の原稿用紙でわずか5行ですから、誰でもすぐに書けそうな気がします。
それで、安心して書き出せば、必ずそれよりも長く書いていきます。
作文指導がうまくいかないのは、難しいことを言い過ぎるからです。
子供が作文を書けなくなるのは、先生が難しいことを言い過ぎるときです。
例えば、「心を込めて書こう」とか、「自分らしく書こう」とか、「具体的に書こう」とかいうアドバイスです。
「もっと具体的に」などというアドバイスは、全然具体的ではありません。
「ここをこう書く」という、誤解の余地のないことを言わなければ、子供は安心して書き出せないのです。
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作文の指導が難しいのは、直さなければならないところがたくさんあるからです。
30人の生徒がいれば、30人それぞれに様々な作文の欠点があるのが普通です。
そこで例えば、「字をもっとていねいに書きなさい」とか、「漢字を使って書きなさい」とか、「姿勢をよくして書きなさい」とか、「鉛筆の持ち方に気を付けなさい」とかいうことを注意していると、作文はどんどん暗い勉強になっていきます(笑)。
そして、そういう注意を受けない、よく書ける子の作文を模範作文としてみんなに見せるようなことをすれば、書けない子はますます作文が書けなくなります。
言葉の森に来る子供の中には、作文が好きでたまらないという子と、作文が嫌いでたまらないという子の両方がいます。
作文が嫌いでたまらない子というのは、これまで注意されたり比較されたりして作文を評価されてきた子です。
そういう子が、体験学習で楽しく作文を書けるようになるのはなぜかというと、できないことを教えるのではなくできることを教えているからです。
(つづく)
(2)
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それまで作文を書くのが嫌で嫌でたまらなかった子が、言葉の森の体験学習に来て、その日のうちにどんどん書けて、先生に褒められて嬉しそうに帰るということがよくあります。
子供は誰でも、その子にできそうなことであれば、喜んでやるのです。
嫌がるのは、できそうもないことをやらせようとするからです。
作文を教える前に、お母さんによく言います。
「子供は作文の勉強、お母さんは褒める勉強です」。
そういうと、ほとんどの方が納得してくれます。
そして、その子は、ずっと楽しく勉強していって、やがて本当に褒められる子になるのです。
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算数数学の勉強で、答えが出れば結果が出たことになります。
しかし、その勉強で本当に大事なことは算数数学的な考え方が身につくことです。
物事を見たときに、理詰めで考えれば正しい答えが出るということに対する確信が湧いてくるのです。
答えを出すだけであれば、短期間にできるようになります。
しかし、考え方が身につくようになるまでには長い時間がかかります。
作文も同じです。
文章として書かれたものは結果で、それはそれなりによく書けたり書けなかったりします。
しかし、その結果とは別に、作文を書く過程で作文を書く力が育っているのです。
長い時間をかけて作文の勉強をしてきた生徒は、何を書いてよいいか分からないときでも、一応何かしらは書けるという確信を持っています。
こういう確信を持てるようになることが、作文の勉強が身につくことなのです。
暗唱も似ています。
ある文章を暗唱できるということは結果です。
しかし、本当にできるようになるとは、その文章がいつでもどんなときでも、ふと頭の中に浮かんでくるようになることです。
そして、その暗唱の練習の中で、どんな文章でも繰り返せば暗唱できると言う確信が持てるようになるのです。
◆小学1年生から高校3年生・社会人まで作文の一貫指導◆
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勉強でも習い事でも、できるようになればいいのではなく、できることに対する確信が持てるようになることが大切です。
作文の勉強を長い間してきた子は、どんな書きにくいテーマが与えられても、迷わずに書き出します。
何とかなるはずだという確信があるからだと思います。
作文を書くことにまだ自信が持てないうちは、教えられたとおりに書こうとします。
しかし、作文を書くことに自信が持てるようになると、教えられたこととは意地でも違うことを書こうとするようになります(笑)。
こういう力をつけることが、作文教育の目的になると思います。
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言葉の森は、今後次のような方向で教室を運営していきたいと思っています。
まず第一は、作文指導を創造教育として発展させていくということです。
言葉の森が作文教室を始めたころ、作文の入学試験というようなものはありませんでした。
ところが近年入試に作文や小論文の試験が出るようになってから、塾や予備校でも作文指導を行うようになってきました。
言葉の森の作文指導は、受験対策にも対応しているので勉強の内容は似ているように見えます。
しかし、言葉の森の作文の目的は、思考力と創造力と感受性を育てることで、その結果として作文試験の合格もあるという考え方です。
そのため、言葉の森の作文指導は、単に受験技術の指導で終わらせずに、プレゼン作文発表会や作文検定のような形で作文の勉強そのものが目的となるような方向で進めていきたいと思っています。
第二に、思考発表クラブで行っているような、子供たちが自分でいろいろなことを考え体験し実験し発表し交流するという勉強の機会を作ることです。
これからの学力は、受け身で知識を覚えるようなものではなく、自分から進んで物事を考え発表する面を要求されるようになります。
それを子供の興味や個性に合わせて対応できる学習機会を作っていきたいと思っています。
第三は、自主学習クラスの運営です。
子供たちは学校の勉強で間に合わない場合は、学習塾で学校と同じように人に教わるような形の勉強をしています。
間に合わない場合というのは、学校のレベルより先に進みたい場合と、学校のレベルより前に戻ってやりたい場合です。
しかし、本来勉強は自分で立てた計画に基づいて自主的に進めた方がずっと能率がよく、しかもやりがいのあるものです。
ただし、自主的な学習は、全体の見通しが立てにくかったり、チェックしてくれる人がいなかったり、励まし合う友達はいなかったりという理由で、受験直前の熱意のある生徒以外は続けることが難しかった面があります。
それを、オンラインの指導によって、家庭で自学自習が意欲的に続けられるような仕組みとして作っていきたいと思っています。
第四は、自然寺子屋合宿の運営です。
子供たちの勉強内容のほとんどはオンラインの授業や学習で対応できます。
しかし、自然の中で様々な経験をしたり、友達とリアルな交流をしたりする機会は、実際に自然の中で直接に友達と関わるようなやり方でなければ実現できません。
そこで、自然の豊かな場所で学校が休みの時期に合宿を行い、勉強と遊びを両立させるような機会を作っていきたいと思っています。
また、この自然寺子屋合宿は、日本の各地に合宿所を広げるとともに海外の子供たちも参加できるようなワールドワイドな合宿教室として運営していきたいと思っています。
以上、創造する作文、思考発表クラブ、自主学習クラス、自然寺子屋合宿の四つの方向で、今後の言葉の森の運営をしていく予定です。
そして、この幅広い企画の担い手になるのが、森林プロジェクトです。
森林プロジェクトの企画の中心は、作文の指導ですが、教室の運営の中に思考発表クラブや自主学習クラスや自然寺子屋合宿の取り組みも入れられるようにしたいと思っています。
今の日本の社会は、様々なところで行き詰まっているように見えます。
それは古い権益に依存している人が多いため、社会全体が停滞しているからです。
この古くなった社会を直接変えようとするのではなく、未来の社会を担う子どもたちを育てることによって、自然に新しいよりよい日本の社会を作るということに結びつけていきたいと思っています。
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VR(バーチャルリアリティ)という仮想現実技術の発達によって、教育の内容もこれから変わってきます。
しかし、ここであらかじめ将来の問題として予測をしておかなければならないことがあります。
それは、幼児期や小学校低学年の時期の成長途上の過程にある子どもには、仮想現実は感覚機能の低下をもたらす可能性があるということです。
これは、あらゆる電子機器について言えることですが、機械が作り出す音や画像がデジタル的なものだというところに問題があるのです。
人間を取り巻く自然環境は、境目のない滑らかなアナログ的なものです。
だから、色の数にしても、本当は無数なのです。
ところが、パソコンやスマホのモニター画面が作り出す色の数は、現在は1677万色で、将来は10億色を超えると言われていますが、デジタル的に限界のある数になっています。
この限られた数ということが、無限に多様な自然の色との違いです。
幼児期や小学校低学年のある臨界期に、このデジタル的に有限な色の数に慣れてしまうと、自然界を見るときも、1677万色の範囲でしか見られなくなる可能性があります。
子猫を縦縞だけの部屋で育てると、横縞を見るための視覚が減少して、横に置いてある棒などにつまずくようになるという実験を知っている方も多いでしょう。
臨界期というのは、生涯のわずかな期間ですが、その後の成長に重要な影響を与えるのです。
これは、今はまだ大きな問題として認識されていませんが、幼児期のテレビの見すぎや、CDなどの機械的な音の聞きすぎが、人間の感受性の発達を制限し、人間らしい感情の発達を阻害するということが次第に明らかになってくると思います。
だから、小さい子供は、できるだけスマホやパソコンやテレビやCDなどの機械的な環境から遠ざけて、自然の環境と人間の肉声の中で育てていくといいのです。
子供の勉強も、タブレットを使った便利なものが増えていますから、将来はVR機器を使ったより魅力的なものが出てくると思います。
しかし、人間の肉声によるお父さんやお母さんとの対話の中で、子供の人間的な思考力は成長していくのです。
◆◆親子の対話を生かした作文指導――言葉の森◆◆
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昔は、テレビに子守りをさせることがあり、そのさせすぎが問題になりました。
近い将来、VR機器に子守りをさせる人が出てくると思います。
すると、人間の自然な感情の発達に、大きな問題が出てくる可能性があります。
子供は、本来自然の中で成長する存在です。
大人は先進的な方がいいのですが、子育てはできるだけ保守的な方がいいのです。
感覚の豊かさは、感情の豊かさに比例します。
「わあ、きれいな夕焼け!」と感動する人と、「ただ空が赤いだけじゃん」という人と、同じものを認識していても感動に差があるのは、この感覚の違いだと思います。
自然の美しさに感動するには、子供時代に、自然とたっぷり触れ合っておく必要があります。
そうでないと、自然を見ているのに、「絵葉書みたいにきれい」などと言ってしまうことになるのです。
まあ、そのたとえもそれなりにいいのですが。
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先日、事務局の人たちと近くの店に食事に行ったとき、後ろの席に座っていた小さい子とお母さんの二人連れが、話している声が聞こえました。
お母さんが、英語で、「アーユーハングリー?」みたいなことを言って、小さい幼稚園ぐらいの子が、「イエスアイアム」のようなことを言っていました。
たぶん、英会話教室か何かからの帰りだったのでしょう。
これは、二重の意味でよくないことなのです。
第一は、幼児期に日本語以外の外国語を入れると、言語能力が正しく育たないからです。
しばらくは、両方できるような気がしますが、学年が上がるにつれて、日本語が不完全にしか育っていないということがわかってきます。
英語教育に優れた実績を残している鵜沢さんも、幼児に英語のCDを聞かせるのは1日15分までと書いています。
「日本人の小学生に100%英語をマスターさせる法」(鵜沢戸久子)
http://amzn.asia/fXLLrgw
(この本は、英語教育の優れた本だと思います。)
しかし、本当は、幼児にはそんなことをする必要はないのです。
もうひとつ参考までに、英語学の専門家による英語教育についての本も紹介します。
「英語の早期教育・社内公用語は百害あって一利なし」(渡部 昇一)
http://amzn.asia/9efmN9h
第二は、親が英語を話すということがよくないのです。
英語を話すと決まっている人が英語を話すのであれば、幼児はそれを別の言語として受け取ります。
しかし、本来日本語を話すはずの母親が英語を話すと、子供は日本語も英語も混乱して受け取るのです。
だから、海外に赴任したときなども、家庭の中で親子で話す言語は、現地語ではなく日本語と決めておくことです。
幼児期の英語の勉強は、お遊びとしてやっていれば、大きな弊害はありません。
ですから、最初に書いた親子も、たぶん何も大きな問題にはならないでしょう。
問題になるのは、真面目な親が熱心に英語教育をやってしまうことです。
先日もある雑誌で、小さいころから英語の本を読み、今では日本語より英語の本を読むのが好きになっているという小学6年生の子が紹介されていました。
読書力で大事なことは、英語で読めるか、日本語で読めるかということではありません。
難しい内容のものが読めるかどうかということです。
たぶん、その子の読んでいる英語の本というのは、英語の物語の本なのだと思います。
そういう英語力は、ほかの子が英語を勉強するようになればすぐに追いつかれてしまいます。
すると、英語を読めるかどうかといことよりも、英語であれ日本語であれ、難しい内容のものを読み取ることができるかどうかということこそが本当の学力だったということがわかってくるのです。
というようなことを以前、言葉の森のホームページの記事に書いたところ、生徒の保護者から猛烈なクレームの電話が来ました。
「うちの子は、幼児期から英語をやっている。しかし、英語も日本語も両方しっかりできる。英語の勉強の水をさすようなことを書かないでほしい」ということでした。
ほかにも、そう思っている人は、多いと思います。
でも、今回もまた書きました(笑)。
百歩譲って、日本語と英語の両方をしっかり学べる新しい教育方法を開発している人はいるかもしれません。
しかし、ほとんどの場合、そういうことはありません。
幼児期からの英語教育は、大した効果がないか、弊害があるかのどちらかだと思います。
では、英語はやらなくいいかというと、今はまだそうではありません。
やるとしたら、日本語能力がしっかり定着した小学4年生以降からということなのです。
では、幼児期に英語の環境にいすぎて、日本語が不十分のまま成長してしまったということがあとからわかった場合はどうしたらいいのでしょうか。
それは、日本語を外国語の学習のつもりでじっくり時間をかけて取り組むということです。
よくないのは、親が、日本語はすぐできるはずだと思って性急に成果を望むことです。
いったん英語の土台ができてしまった子が日本語を習得するのは、想像以上に大変なことです。
しかし、決して不可能なことではありません。
努力して複数の言語を学ぶのだということを自覚して取り組んでいけばいいのです。
◆◆作文は日本語力の集大成――Online作文教室言葉の森◆◆
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日本人はまず日本語をしっかりというのは、決して保守的な考えでも何でもなく、ごく当然のことだと思います。
幹をしっかり育ててから、枝葉を育てていけばいいのです。
「幼稚園で、もう英語を喋れる子がいる」と、うらやましがっていたお母さんがいたので(笑)、ひとこと書きました。
うちの子は、インタースクールでバイリンガルですが、そのために国語ができないのでしょうか?
作文を始めたのも、国語が弱いからですが、なかなか上達しません。
日本語能力が弱いのでしょうか?
どのような日本語能力が弱くなってしまうのでしょうか?
作文から読みとれますか?
namiさん、国語が弱いという程度でしたら問題ありません。
問題になるのは、日本語が実感として読み取れないというようなレベルです。
これから、読書と音読に力を入れて、学年がある程度上がってきたら問題集読書なども組み合わせて読む力をつけていくといいと思います。
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