国語の勉強で、すぐに成績を上げる方法はあります。
それは、読解問題で、解き方のコツを理解するという方法です。
こういう理屈ではっきりわかるような勉強法は、現代人には好評で、多くの人がこの確実に成績が上がるやり方を評価してくれます。
しかし、理屈で理解できる技術をもとにした勉強法は、実は根の浅いもので、本当の国語力は技術的な方法で身につくものではありません。
例えば、読解問題の解き方のコツで成績を上げた子も、読む文章が難しくなると、そこで成績の上昇が止まってきます。
技術でカバーできる範囲は、限られているのです。
では、国語力を本当に上げるにはどうしたらよいかというと、それはかけた時間なのです。
もっと正確に言えば、勉強した時間というよりも、勉強した日数に比例して国語力はいつのまにかついてくるというものなのです。
小学校高学年の生徒で、作文力は普通で、特に上手でも特に下手でもないという子がいました。
真面目な子で、毎日の音読の自習をきちんと続けていました。
しかし、毎日やっていても、その成果はもちろんすぐには作文に出てきません。
ところが、毎日の音読の自習と、毎週の作文のよくできたところを褒める指導を続けていて、半年ほど経ったある日、気がついてみると作文が前よりもずっとリズミカルでめりはりのあるものになっていたのです。
作文力の上達は、こういうものです。
優れた先生が、優れた添削をして、すぐに上手になるというものではありません。
少なくとも、すぐに上手になる部分は、根の浅いものなのです。
もう一つの例は、小学校低学年の生徒です。
思考発表クラブで、毎週、それぞれの生徒に読んでいる本の紹介をしてもらっていますが、低学年の子は、本のあらすじをぼそぼそと言うような紹介がほとんどです。
その子も、毎週そういう紹介をしていました。
しかし、その生徒は、毎日の自習として読書と音読を続けていたのです。
もちろん、毎日音読をしていても、目に見えるような成果は出てきません。
ところが、やはり半年ほどたったある日、気がついてみると、いつのまにかとても的確に本の内容を紹介できるようになっていたのです。
現代の勉強法は、「こういう方法でやれば、こういう結果が出る」という理屈で理解するようなものがほとんどです。
社会全体が、そういう理屈で納得するような勉強観を持っているのです。
しかし、江戸時代の寺子屋の勉強法は、そうではありませんでした。
毎日の素読のような、平凡な繰り返しの勉強が中心だったのです。
その名残りが、今の九九の暗唱のような勉強法です。
欧米では、九九の暗唱ではなく、掛け算の一覧表を目で見て覚えて、テストで評価するという方法が主流です。
どちらが、本当の掛け算の実力になっているかと言えば、日本の単純な繰り返しの勉強法の方だというのは異論がないと思います。
この日数をかけて上達する方法というのは、やっている生徒の方も見ている親や先生の方も張り合いがありません。
何日もやっているのに成果があるのかないのかわからないという日が、何週間も、何か月も、時には何年も続きます。
そこで、ほとんどの人は、そういう単純な繰り返しの自習をいつの間にかやめてしまいます。
ところが国語力というものは、この毎日のわずか数分の積み重ねでいつのまにかついてくるというものなのです。
作文力の基礎は、読書力です。
読書をしっかりしている子には、作文を書く力があります。
しかし、それは潜在的に書く力があるということで、作文は、実際に書いてみなければ字数やスピードの感覚がつかめません。
この作文を書く際の最も重要なことが事前の準備です。
書く過程と同じぐらい準備という過程が大切なのです。
準備とは、与えられた課題で何を書くか考え、両親など身近な人に取材して話をふくらませてくることです。
感想文の場合は、もとになる長文を読んで理解しておくというのも準備に入ります。
準備とは、作文を書くための材料集めといってもよいでしょう。
材料がそろっていれば、作文は半分書けたのと同じです。
作文を書く準備としての構造図を書く練習は、現在思考発表クラブで行っています。
最近思ったのは、ここで書く子供たちの構想図がもとても充実しているということです。
これは構想図をお互いに発表し合うので、自然によい内容のものを書こうと思うようになるからだと思います。
しかも、その見てくれる人が同じぐらいの学年の子で、いずれも好意的な目で見てくれるというところがいいのです。
作文も、人に見てもらうことよって上達しますが、構想図も人に見てもらうことによって上達すると思いました。