これまでの社会は、競争によって発展してきました。
相手に負けない品質とコストによって競争に勝つということが、供給する側にとってもそれを消費する側にとっても利益のあることでした。
競争がなければ、かつての社会主義の悪しき平等のように、改善する意欲がなくなるということが言われていました。
今のスポーツや音楽のような人間的な活動においても、それに携わる喜びの多くは、スポーツや音楽体の喜びではなく競争に勝つことの喜びに結びついています。
しかし、この競争の元になっている哲学は何かといえば、それは欧米の個人主義だったのです。
個人の利益に立脚している限り、競争は個人と社会の両方の利益をつなぐ見えざる手と考えられます。
しかし、人間は個人で生きるのではなく集団で生きるのだという日本的な人間観に基づけば、この競争優位の考え方とはまた別の考え方が生まれてきます。
日本の文化の中には、個人ではなく集団で利益を分かち合うという考え方が根付いていました。
その一つの例が、運動会の赤組と白組の競争や、紅白歌合戦のようなグループに分かれた競争です。
この集団がひとつの単位となる競争においては、優れた個人と劣った個人は、競争の関係ではなく助け合う関係になります。
強い者が弱い者から奪うのではなく、強い者がその集団の中での弱い者を助けるという関係が生まれるのです。 それによって弱い者が成長し強くなり、集団全体の強さが増すというのが、集団を単位とする他の集団の競争との利点でした。
今日の社会では、競争はますます速く激しくなっています。
それはインターネットの時代には、情報が瞬く間に広がり、情報の差による競争優位は瞬時に解消してしまうからです。
このような時代に生き残るためには、競争から共創へと考え方を変えていく必要があります。
競争に勝つことを動機とするのではなく、強者が弱者を助け互いに成長することを動機とするような時代がやってきつつあるのです。
そういう形の文化を、教育の分野においても実現していきたいと思っています。
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子供の勉強においても、競い合わせるより助け合わせる方が効果が出るようになっています。
それだけ、みんなの人間性が高まっているからだと思います。
競争は即効性があるように見えますが、かえって長続きしません。
それは、強制と自覚の関係と同じです。
競争に価値があるとする考え方の根底には、人間にはもともと差がありその差は埋められないとする人間観、生物観があります。
だから、競争に勝った者が生き残れば社会はよくなるという、弱肉強食の自然淘汰説で考えてしまうのです。
しかし、本当はそうではありません。
あるのは差ではなく単なる違いであり、その違いを生かせば勝者も敗者もありません。
かえって、競争よりも、みんなが利益を得られるようになるのです。
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作文を書く力は、年齢によって急に変わる時期があります。
最初は、小学3年生になるときです。
それまで、自分のしたことをただ書くことに喜びを感じていた小学2年生が、3年生になると読む人を意識して書くようになります。
作文に書く題材についても、単純に今日のことをそのまま書くのではなく、自分なりに面白い話を選んで書くようになります。
また、表現も工夫して書くようになっていきます。
この小学3年生から小学4年生にかけてが、小学生の作文が最も子供らしくのびのびとしたものになる時期です。
小学5年生になると、考える力と構成する力がついてきます。
5年生になると、作文に自分の内面的な心の動きが出てくるので、身近な人に作文を読まれることを嫌がる子も出てきます。
小学生新聞などに入選して心から喜べるのは小学4年生までで、5年生になると喜ぶよりも恥ずかしがるような面が出てくるのです。
この小学5年生から中学2年生までが、子供が作文をいちばん書きにくく感じる時期です。
それは、読む力と書く力の差が出てくるからで、読む力のあとから書く力が伸びるために、自分の書く作文が物足りないと感じるようになるためです。
中学1年生になると、言葉の森の作文の課題がそれまでの事実文や説明文から意見文に変わってきます。
意見文になると、事実や実例を書くよりも、自分の考えを中心に組み立てることが必要になるので、その意見文に応じた語彙力が必要になってきます。
生活作文の場合は、日常に使っている言葉と作文に使う言葉の差がそれほどないので、作文を書くことにあまり苦労はしません。
しかし、意見文になると読書によって語彙力をつけていることが作文の語彙の土台になるので、読む勉強を伴わないと作文が書けなくなるのです。
中学3年生になると、それまでの勉強の蓄積と、年齢的に物事を社会的に考える力がついてくるために、意見文を書く力が自分なりにコントロールできるようになってきます。
したがって、中学3年生からが、安定した文章の書ける時期です。
作文を大人並みに書く力は、この中学3年生のころの作文の勉強で身につくのですが、実はこのあとに更にもう一度進歩する年齢があります。
それが高校3年生です。
高校3年生になると、社会的な意見文や論説文を書く力が一段上に上がります。
ですから、本当はこの高校3年生から大学生にかけてが、難しいテーマの文章を読んだり書いたりすることに最も力のつく時期なのです。
ところが、この時期は大学入試の勉強に追われ、大学に入ればそれまでの受験勉強とは打って変わってあまり勉強もしないし本も読まない生活になってしまう人が多いのです。
本当は、この大学生の時期に古典を読むことができれば、その人の考える力の基礎は確実に身につきます。
古典というのは、古今東西の名著で、物語文よりも説明文に属する本で、気合いを入れないと読めないような難い本のことです。
大学生で、自分の実力を確実に身につけたいと思う人は、こういう読書を学生時代にしていくといいと思います。
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学生時代は、自分も遊んでばかりいたのであまり人のことは言えませんが、いちばん大事なのはやはり難しい本を読むことです。
すぐには役立たないように見える読書が、あとになると生きてくるのです。
そのためには、中学生、高校生時代に、読書の習慣を絶やさないことです。
そして、そのためには、小学生のうちに説明文の読書の面白さを感じられるようになっておくことです。
言葉の森の教材は、本当は大学生、社会人になっても続けられるようになっていますが、メンテナンスが大変なので、今は高校3年生の課題で卒業ということにしています。
いずれ、大学生・社会人の課題も復活させたいと思います。
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木彫りは掘って削っていくことだけだが、塑像は粘土でいくらでも付け加えて調整ができる。そこで何度も手を加えてしまう。そこに、卑しさのようなものが出てくる。
このようなことを、木彫りの彫刻家池上俊氏が、中島多加仁氏との対話の中で話していました。(「超宗教」中島多加仁著より)
中島氏はそれに関連して、水墨画や書に見る1回限りの仕事と、西洋の油絵などの何度も上書きできる仕事との対比していました。
同じことは、文章を書くことについても言えます。
手書きの作文であれば、手直しをすることはあまりできません。特に、ペンで手書きの作文を書けば、うっかり間違えた場合でも大幅な手直しはできなくなります。
そこで、文章を書くことに、一種の気合が入るのです。
ところが、パソコンのキーボードで入力するときは、手直しが容易にできるためにかえって時間がかかってしまうことがあります。
だから、パソコンの入力をするときも、できるだけ直さずに書くということを心がけていくといいのです。
しかし、人間の考えるスピードは手書きやパソコン入力よりもずっと速いので、書いているうちに文章の流れが不自然になることもあります。
ここが難しいところです。
また、日本語の場合は特に同音異義語の変換をしなければならないために、パソコン入力では思考の流れが中断されるということもあります。
ところが、ここに新しい入力方法として、音声入力というやり方が出てきました。
音声入力は、考えながらゆっくり喋るようにすれば、少し慣れると誰でも楽にできるようになります。
この音声入力の利点は、同音異義語の選択による思考の中断がないことと、言い直しや修正がしにくいことです。
そのため、ゆっくり話していけば、同音異義語の変換と文章の修正という後戻りがないために、手書きやキーボード入力よりもずっと早く文章をテキスト化することができます。
これが、文脈によって文字変換をするようになった深層学習の成果だと思います。
ただし、音声入力は自分が喋ろうとする内容の全体の見取り図を持っていることが必要です。
その見取り図は、構想図を書く過程で深めておくという形の分業ができます。
今後の作文は、この音声入によるテキスト変換が第一で、第二に手書きOCRによるテキスト変換というものになっていくと思います。
付け加えることのできるやり方ではなく、削ることしかできないやり方で物事を仕上げて行くのが作文のひとつのコツになるのです。
だから、今後の作文指導は、長くたくさん書くことよりもむしろ、短く削っていかに簡潔に書くかということが重点になってくると思います。
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文章を書くときは、消しゴムを使わないつもりで書いた方がいいものが書けます。
いつでも消して直せると思うと、かえって書くことに時間がかかり、そしていい文章が書けないのです。
これが、記述問題の練習をするときの一つのコツです。
推敲というのは、推す(おす)か敲く(たたく)のどちらにするかという選択から来た言葉ですが、気合いが入っているときに書く文章は、そういう選択はほとんど出てきません。
だから、時間をかけた作文より、あっという間に書き上げた作文の方がいい文章になっていることが多いのです。
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昔、学習院大学の学長だった木下是雄さんが、「理科系の作文技術」という本を書いていました。(1981年)
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今、見てみたら、その漫画版も出ているようです(笑)。
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私もちょうどそのころ、理詰めに書く文章が大事だと思っていたので、その内容を共感を持って読みました。
国語というと、文章表現の巧みさのようなところで評価されることが多いようですが、生活に役立つ国語は理屈で成り立つ国語です。
当時行われていた国語を教える学習塾では、学年が上がるにつれて古文や漢文の世界に進んでいくようでしたが、それは国語の本来の方向とは違う気がしました。
そこで考えたのは、国語の究極の目標は哲学であり、それはまた理系の頭脳を必要とするということでした。
今の国語の先生の多くは、文系の教科として国語を考えているので、子供たちにも理屈で説明しきれない心情や表情などを過大に評価する傾向があるように思います。
また表現の上でも、川がさらさらと流れているか、とうとうと流れているかというようなニュアンスの違いをやはり過剰に重視する傾向あるように思います。
さらさらか、とうとうかということは、文化の問題であって国語の問題ではありません。
国語の本質で大事なことは、流れているかどうかということと、更に詳しく説明するのであれば、その流量や速度や川幅や透明度がわかるように表現することです。
そして、それを単なる自然の記述だけに終わらせないために、そこにより抽象的な思考が入ってくるのです。
抽象的な思考とは、なぜそこにそう流れているのかとか、それをどう生かせるのかというような、今の川の現象面を超えた思考です。
だから、国語の好きな人は、国語でとどまらずに理系の勉強を進める必要があり、逆に、理系の人は国語の文章力を伸ばすようにしていくことが大切で、その両者の共通点は、哲学的な深い思考にあると思ったのです。
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理科系の国語ということで、小学生の子供たちに奨めたいのはこういう本です。
理科好きな子に育つ ふしぎのお話365
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この本は、単に現象面だけの不思議な話にとどまらず、その原因などもわかりやすく書かれています。
言葉の森の高校生の作文項目に「自然科学実例」というのがありますが、その実例としても使える内容ですから、小学生だけでなく、中高生も読んでみる価値があると思います。
自然科学系のわかりやすい本を読むと、子供たちはその話をすぐにほかの人に伝えたくなります。
それは、人間に知的好奇心というものがあり、何かを理解できたということがうれしいからです。
子供のそういう話を聞いたお母さんやお父さんは、それをうるさいとは思わずに(笑)、感心して聞いてあげることです。
そして、できれば、子供の話を上回る質問をして、一緒に考えてみるといいのです。
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オンライン学習が、さまざまなところで行われていますが、それらのオンラインの形態は大きく二つに分けられます。
一つは、一斉指導型のオンライン学習で、一人の先生が大勢の子供をオンラインで教える形の学習です。
その発展した形態が、あらかじめ作られているビデオ教材でいつでもどこでも無料に近い低価格で提供されるMOOCなどのオンライン学習です。
このビデオ授業が優れている点は、生徒の個別の進度に対応できることです。
この大規模な教材提供型のオンライン学習は、コストが低いという利点があります。
しかし、勉強をする動機づけに弱いので、生徒が飽きずに続けることが難しいという弱点があります。
この打開策として、アメリカなどでは、教室に通ってオンラインで学ぶ形の教育が行われているようでが、教室に通う形だと、場所と時間の制約がないネット教育の利点がなくなります。
もう一つは、一対一のマンツーマン型のオンライン学習です。
一対一の学習の場合は、対応する先生がいるので、勉強の動機づけは高くなります・。
しかし、それと同時にコストも高くなります。
言わばオンラインの家庭教師を頼むようなものですから、ネットを使ったオンラインの利点があまり生かされているとは言えません。
ただ、場所の制約がなくなるという利点はあります。
言葉の森の行っているオンライン学習の思考発表クラブは、これらの二つのオンライン学習とは異なっています。
それは、先生と生徒が、少人数のクラスの中で学習するという点を特徴としています。
このオンラインクラス学習は、生徒の動機づけの高さとコストの低廉化を両立させます。
このようなオンラインクラス学習が、これまでほとんど行われてこなかったのは、担当の講師が急に休むような場合に対応することが難しかったからです。
だから、少人数クラスのオンライン学習が行えるのは、小回りの利く比較的規模の小さい個人塾のようなところだけだったと思います。
ほとんどのオンライン学習は、大規模なビデオ学習のようなものか、又は一対一のマンツーマン指導によるものかになってしまうのです。
しかし、言葉の森は、これからこの少人数クラス型のオンライン学習に力を入れていこうと思っています。
言葉の森がオンラインクラス学習に力を入れるのは、人間の成長にとって他の人との直接的な交流が欠かせないと思うからです。
その交流とは、先生と生徒だけの単調になりがちな交流ではなく、他の生徒や家族との多様な対応できる交流です。
子供たちは、ロボットが知識を吸収するような仕方で学ぶのではなく、人と人との触れ合いの中で生きた知識を学びます。
そこに学び方の個性があり、その個性が、学ぶこと以上に大事になってきます。
このオンライン少人数クラスは、現在の思考発表クラブだけでなく、今後は作文指導の分野と、自主学習の分野でも行っていく予定です。
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このオンラインの少人数クラスによる作文指導と自主学習指導は、かなりユニークなものになります。
それは、単にオンラインという形になるだけでなく、新しい勉強観のようなものが必要になるからです。
しかし、いちばんの違いは、やはり勉強が面白いものになることだと思います。
オンライン少人数クラスの作文指導は、生徒は手書きの作文をアップロードするだけですから今とそれほど変わりませんが、講師は結構変わります。
その作文に、ペンタブレットで印をつけ、口頭で講評を伝える形が中心になるからです。
これで、講師の負担はかなり軽くなります。
講師には、森林プロジェクトのメンバーの協力を得たいと思っています。
かねてから思考クラブにも興味がありましたが、在米で時差のため参加が困難な状況です。
東海岸は13-14時間の時差なので、日本時間の土日朝7時―11時か土日夜9時などで枠を作ることが可能であればぜひお願いしたいです(六年生の息子)。海外からの希望者は少ないでしょうか?
るうくさん、ありがとうございます。
思考発表クラブは面白いので、海外の方も参加できるようにしたいと思っています。
そこで、今考えているのは、海外の人で森林プロジェクトの講師資格を受講した人を講師としてお願いすることです。
今後、その募集を行っていく予定です。
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中学生や高校生がスマホを持つと、年中YouTubeを見ていたり、Lineで友達とやりとりをしたりするようになると思います。
イギリスの中学生がfacebookをやりだしてから、途端に読書量が減った調査結果も出ています。
この問題に対して、多くのお母さん方はスマホを禁止するということを考えるようです。
しかし、その「禁止する」という方法では、問題は何も解決しません。
むしろ、親の管理がなくなったときに、子供が自分でコントロールできなくなるというマイナスの方が大きいのです。
では、どうしたらいいかというと、一つは本人がいろいろな誘惑に負ける経験を通して、その誘惑とうまく折り合いをつけてコントロールする方法を自分自身で身につけていくことです。
だから、親には、多少の脱線を大目に見てあげるような余裕が必要です。
しかし、もう一つのもっと根本的な対策は、スマホとインターネットによる受け身の娯楽ではない、より主体的な娯楽を作っていくことです。
その主体的な娯楽が勉強です。
と言っても、学校や塾で先生の授業を聞くような勉強ではなく、勉強の成果を他の人に発表したり新しい勉強を考え出したりするような創造的な勉強なのです。
例えば、思考発表クラブで子供たちが取り組んでいるような勉強は、スマホとインターネットによる娯楽よりもずっと面白いはずです。
そういう子供たちは、スマホとインターネットによる娯楽を楽しみながらも、それらとうまく折り合いをつけて自分の勉強を進めていくことができます。
似た例として、読書と漫画の関係を考えるとわかりやすいと思います。
漫画ばかり読んでいて本を読まない子がいた場合、漫画を禁止すれば本を読むようになるかというと、そういうことはありません。
読書の好きな子は、漫画も好きです。
どちらもたっぷり読むことが大事なのです。
遊びと勉強の関係も同じです。
遊んでばかりいて勉強しない子がいた場合、遊びを禁止すれば勉強するようになるかというとそういうことはありません。
勉強のできる子は、遊びも好きです。
よく遊び、よく学べが、最も健康的な過ごし方なのです。
大事なことは、子供が主体的に取り組みたいと思うものを見つけることです。
大人の役割は、マイナスを禁止することではなく、プラスを用意してあげることなのです。
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勉強もするが、遊びもする。普段は真面目だが、脱線も好き。
親の言うことをよく聞くが、全く聞かないこともある。
というような子が、本当はいい子です。
親の言うとおりにやっているだけだったら、それはかえって親の枠組みの中までしか成長しない子です。
子供は、いつか親をおぶってあげるのですから、親より強く大きくならなければならないのです。
私は基本的に真面目な子だったが、途中からどんどん脱線していったのは、親が何でも認めてくれたということが大きかったと思う。
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ここで思い出すのは、日本のロケット開発の生みの親である糸川英夫氏の子供時代の話です。
糸川氏は昔の中学5年生で志望校を選ぶ際に、上野の音楽学校(今の芸大)の作曲科にするか、東京高校(今の東大)の理科にするか、入学願書を出すまぎわまで決心がつかずに悩み、母親に相談したそうです。
すると、母親は一瞬顔色をかえたものの、即座に次のように返答しました。
「自分のやりたいものを選べ。ただし入試の難易によって決めるな」
https://www.mori7.com/index.php?e=2774
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親の判断の基準は、損得に傾きがちだが、子育ての目標は損得で考えてはいけないのだと思う。
いつも記事で勉強させていただいています。
「やるべき勉強は必ずやる、それがどん
なに多くてもやる、読書も必ずやる、だ
からゲーム(パズドラ)や動画をやるの
は自分で好きにさせて」と聞きません。
「ゲームの時間は一日これくらい」と
時間で決められるのが嫌だそうです。
やることをやったら、好きなだけ熱中し
てやりたいという息子です。やるべき勉
強量を増やしても、それを短縮して、
ゲームの時間をなんとかしても作り出す
と思います。こういう場合って、本人の
自由に任せるべきなのでしょうか。
塾には行っていません。
書かれている内容から判断する限り、それは子供の言うとおりにやらせた方がいいです。
自分でそれだけ言えるということは、本人が自分の人生を自分でコントロールするつもりでいるということですから、その自己決定をすることが大きく成長するきっかけになります。
とは言っても、やると言ったとおりには必ずしもできないのが普通ですから、たとえちゃんとできなくても親は長い目で子供の成長を見守っていく必要があります。
そういう自分で自分のことをきめられる子が、将来いちばん頼りになる子になるのです。
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