これまでの受験は、覚えた知識をいかに正確に再現できるかという能力の評価が中心になっていました。
それは、考える勉強と思われている入試の算数数学の世界でも同じです。
算数数学も、入試問題のレベルで言えば解法の記憶と組み合わせと再現にすぎません。
もちろん、その習得には時間がかかりますし、物事を数学的に処理する土台として重要ではあるのですが、基本は記憶と再現なのです。
さて、今後の入試は、人工知能に代替される記憶の再現を中心にしたものではなく、人工知能に代替されない人間の能力を見るものが中心になってきます。
世界の大学の入試の主流は、ペーパーテストから人物評価のようなものに移りつつあります。
東大・京大が、推薦入試・特色入試の枠を作ったのは、日本だけが記憶力中心の入試を行っていたのでは、世界の水準から立ち遅れることが分かったためです。
では、人工知能に代替されない人間の能力とは何でしょうか。
それは、学力の面に関しては創造性です。
その創造性の根底にあるものは、自分の好きなことを追求したいという意欲です。
好きなことがあり、その好きなことに費やした時間のあることが、その人物の個性とほぼ同じものだと言えるのです。
個性が、社会に役立つ創造性となるための前提として必要な学力は、センター試験の8割が取れていれば十分で、あとは必要に応じていくらでも身につけていけるという考えが、これからの入試の基本的な考えになっていきます。
ところで、人物評価をどのようにするかと言うと、それはその人物の未来の夢や理想ではなく過去の実績です。
受験作文コースの生徒の志望理由書を見ていると、その志望理由書の内容だけで合格間違いなしと思われるような子もいます。
それは、過去の実績がしっかり書かれているということです。
その反対に、志望の理由として自分の憧れや希望や理想を書いただけのものは、結局誰も同じような内容になってしまいます。
つまり、その人が未来に何をしたいかではなく、過去にどのようなことをしてきたかという蓄積が、その人物そのものと見なされるのです。
今、思考発表クラスに参加している生徒の中に、毎回、個性的な作文構造図や独自の理科実験をアップロードしてくる子供たちがいます。
こういう、今の世間の概念では勉強と言えないような勉強を毎週している子は、逆に将来は、その蓄積を見せるだけで特色入試は合格圏内に入るようになるのではないかと思います。
これからの世の中は大きく変わります。
廃(すた)れつつある過去の社会を基準にして子育てを考えるのではなく、来たるべき未来の社会を基準にして子育てを考えていくことです。
その子育てにおける勉強の仕方の基本は、これまでのような苦しいことに耐えて無理に頑張らせる勉強ではなく、つまり人工知能と競い合うような勉強ではなく、本人の個性を生かした伸び伸びとした楽しい勉強になるはずなのです。
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今、大学で半ば実験的に行われている特色入試が、今後は入試のあらゆる場面で行われるようになってきます。
すると、今のような画一的な受験勉強は次第になくなり、代わりにその子の個性と実力を伸ばしていくことが勉強の基本になっていきます。
そして、その方が、子供たちはもっと楽に学力を伸ばせるようになるのです。
今の大人の多くは、自分の本当に好きなことがよくわかりません。
それは、過去の教育の中で、好きなことをやるのではなく、義務的なことをきちんとこなすことばかりを教えられてきたためです。
しかし、本当は、好きなことがいちばんの目的で、義務的なことはその目的を実現するための条件にすぎなかったのです。
これからの子供たちの教育は、この本来の順序で行われるようになると思います。
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二つの文章の引用から初めます。
「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」より
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小学生のうちからデジタルドリルに励んで、「勉強した気分」になり、テストでいい点数を取ってしまうと、それが成功体験となってしまって、読解力が不足していることに気づきにくくなります。中学校に入ってもデジタルドリルを繰り返せば、1次方程式のテストで満点が取れて、英単語や漢字は身につきますから、そこそこの成績が取れるはずです。ところが受験勉強に向かい始める中学3年生になると、なぜか成績が下がってしまう。(中略)
東ロボくんに散々「ドリル」をさせた私は自信を持って言います。読解力を身につけない限り、そこから先の成績は伸びません。読解力のある生徒が受験勉強に精を出し始めると、読解力のない子の相対的な成績はむしろ下がる一方になります。東ロボくんも、いくら憶える英文の数を増やしても、英語の偏差値は50前後で伸び悩みました。
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東ロボくん(とうろぼくん)とは、「ロボットは東大に入れるか」プロジェクトで使われた人工知能の名称です。
私(森川林)はいつも、頭さえよくしておけば、成績は特によくする必要はないと思っています。別に成績をよくしてもいいのですが、95点を100点にするような努力は必要ないと思っています。
それは、これまで多くの子供たちを見ていて、成績のよかった子が受験期には意外に伸び悩み、成績はそれほどでもなかった子が、受験期にぐんぐん伸びるという例をしばしば見てきたからです。
伸びるか伸びないかの差は、頭のよさと言ってしまうと漠然としすぎますが、要するに読解力、語彙力、表現力があるかどうかということです。
その読解力のもとになる最初のものは、読書です。小学生時代に、楽しい本をたっぷり読んでおくこと、つまり多読が読解力の第一歩なのです。
しかし、多読は最初の一歩に過ぎません。二歩目以降は、単なる多読ではなく難読(難しい文章を読むことという意味の造語)なのです。
国語力のある子は、読書好きです。しかし、いくら読書が好きであっても、高校生になってからも読むのは小説だけという子は、国語力はなかなか伸びません。高校生は、小説以外に、論説文の本も楽しく読めるようになっていないといけないのです。
そこで、もう一つの引用です。
「池田信夫 blog」より
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/52010699.html
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ウェーバーの『プロ倫』などの実証研究は、今では陳腐化しているが、彼の思想には価値がある。彼の著作は膨大だが、その思想を要約したのが本書に収められている「中間考察」である。ここでは彼が晩年の心境を語り、意味や救済について論じている。ここにはニーチェの影響が明らかだ。
―-――
「合理的・経験的認識が世界を呪術から解放して、因果的メカニズムへの世界の変容を徹底的になしとげてしまうと、宗教的要請との緊張関係はいよいよ決定的となる。なぜなら経験的でかつ数学による方向づけが与えられているような世界の見方は、原理的におよそ現世内における事象の「意味」を問うというようなものの見方をすべて拒否する、といった態度を生み出してくるからである。」
―-――
近代科学はキリスト教を否定して出てきたのではなく、キリスト教神学の延長上に生まれた。それは世界を合理化して大きな富を生み出したが、人々を原子的な個人に分解して世界を「脱意味化」した――という物語は、ほとんどニーチェの「ヨーロッパのニヒリズム」である。
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―-――と―-――で区切られている部分は、ウェーバーの「中間考察」からの引用です。
私は、最初はこの文章を普通に読んでいましたが、途中でふと意味が取れていないことに気がつきました。
「合理的・経験的認識が世界を呪術から解放して、因果的メカニズムへの世界の変容を……」という文章は、地の文と同じスピードで読むのではなく、途中で頭を切り換えて、少しスピードを落として読まないと理解できないのです。
そして、これが高校生以降に必要とされる読解力だと思ったのです。
読解力とは、難しい文章を読み取る力です。それは、言い方を変えれば、抽象的に思考する力です。
この抽象力の基礎になるものは語彙力です。
では、その語彙力を育てるためにはどうしたらいいかというと、それは決して「術語集」とか「故事ことわざ辞典」を読んで、いろいろな言葉を覚えるということではないと思います。
難しい語彙を、生きた言葉として使わなければ、その言葉は自分のものになりません。
それができるのが、一つは、自分の興味のある分野の説明文の本を楽しく読むことで、もう一つがお父さんやお母さんと少し難しい話題を楽しく話すことなのです。
ここで大事なのは、「楽しく」ということです。
苦しい勉強は、長続きしません。日常的にいつでも楽しくできるようなものだからこそ、そこで使われている難しい語彙や、抽象的な思考が身につくのです。
だから、小学生時代に大事なことは、第一に勉強の時間を取りすぎないこと、第二にそのかわりに親子で対話をする習慣を作ること、そして第三に本人の興味のある分野で説明文の本を読む機会を作ること、になると思います。
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読解力調査でわかったことは、「読解能力値と進学できる高校の偏差値との相関は極めて高い」ということでした。
しかし、読解力を高めることと相関の高い勉強法や生活習慣は見つからなかったそうです。
ところで、この新井さんは、活字を読むのは好きだが、それほど早くは読めないのだそうです。
そのかわり、デカルトの「方法序説」が好きで大学生時代から20回は読んだそうです。
私はこれを見て、昔、高校生4人ほどに「方法序説」を渡し、その一つの章を読んで感想文を書くという練習をしたところ、いつの間にかみんな寝てしまったことを思い出しました(笑)。
「方法序説」は、哲学書としてはわかりやすいとてもいい本なのです。それでも、当時の高校生は、初めて見る語彙にくたびれて寝てしまったのだと思います。
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