低学年の作文と高学年の作文の最も大きな違いは、低学年の作文が題材中心であるのに対して、高学年の作文は主題中心であることです。
だから、よく出す例ですが、「私の友達」という題名で作文を書く場合、低学年のうちは友達とのさまざまな交流の出来事を書いていけばいいのですが、高学年になったら、「友情とは何か」ということを考えながら書いていくようになるのです。
そして、更に言えば、その主題に合わせて実例を選び直すという書き方をします。
同じ題名で書いていても、低学年と高学年では、頭の使い方が180度違うことが要求されるのです。
しかし、厳密にそういう評価をしたら、小学6年生の子でその要求に沿って書ける子はほとんどいなくなります。
だから、構成の形だけ指示して、その構成に合わせる勉強をする中で、学年が上がるにつれて次第に主題中心に書く書き方ができるようにしていくのです。
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「高学年になって作文が得意になるには、低学年のときからの作文指導が大事」
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低学年のときの作文指導は、実は簡単です。
書き方の間違いもまだかなり多いので、それを直して、直ったことを褒めていれば作文が上達するような感じがします。
だから、学校でも塾でも通信教育でも、低学年の作文指導に力を入れていることが多いのです。
しかし、この低学年のうちに、高学年の作文につながるような指導がないと、課題がだんだん難しくなるにつれて作文が書けなくなります。
そして、たぶんほとんどの作文教室がそういう結果になっているのではないかと思います。
作文の勉強を家庭で続けていると、だんだん親子喧嘩になる場面が増えてきます。
それは、子供が、難しい課題になってくると、だんだん作文が書けなくなってくるからです。
作文を書くというのは、高学年や中学生以上の生徒にとってはかなり負担の大きい勉強です。
まず1200字の作文を1本仕上げるには、時間は1時間から1時間半かかります。しかも、その間休みをとるようなことはできません。
学校の宿題などをいろいろ片付けなければならない中で、毎週作文の時間を確保して、難しい文章を読んで考えて書くということにはかなり強い意志力が必要です。
しかし、そういう苦しい勉強を続けてきた子は、大学生になるころには、必要に応じて楽に文章が書けるようになるのです。
低学年の作文の勉強で大事なのは、作文の土台となる読書と対話にも力を入れていくことです。
そのために、言葉の森では、長文音読、暗唱検定、自主学習クラス、思考発表クラブなどのオプションの勉強に力を入れています。
そして、勉強の中で続けるのは最も難しいと言われる作文の勉強を中心にして、あらゆる教科の勉強の力をつける指導を目指しているのです。
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卒業生からのメッセージ「言葉の森の思い出」
https://www.mori7.com/index.php?e=2108
今年、慶應義塾大学文学部に合格したKMさんが、「言葉の森の思い出」という話を書いてくれました。
KMさんは、小1から言葉の森で勉強し、森リン大賞にも何度も選ばれていました。
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私が言葉の森で作文の勉強を始めたのは、小学1年生の8月でした。
やっと、電話で知らない人と、なんとか話すことができるようになったのが、そのころだったのです。
初めは、本当に、聞かれたことに「はい」と返事をするのがやっとでした。「いいえ」すらも言いにくかったので、沈黙してしまったり。そうすると、先生が「じゃあこうだったのかな?」と逆の質問をしてくれて、やっと「はい」が言えるときに口を開くというような状態でした(笑)。
それでも、先生の質問に答えるかたちで、書くことを決め、電話の後に、今度は母が同じような質問をするので、その答えを作文用紙に書いていったというような記憶があります。
できあがった、確か100字程度の作文は、作文と言えるようなものでもありませんでしたが、返却された作文を見ると、先生が、作文用紙いっぱいに花丸をつけてくれていて、たくさんの「上手!」「うまい!」「すごい!」という文字が踊っているのを見て、大変満足し、「これからも続ける!」と宣言したのでした。
低学年の間は、基本的に毎週そのような調子で気分よく書いていたのですが、字数ランキングに燃えて、ひたすら長く(内容の薄い作文を)書いていたこともありました。かなり時間もかかりましたが、「すごく長くかけたねえ!」と、先生に褒めてもらえるのが嬉しくて、とにかく長く、1000字、2000字と書いていたのです。今思うと、先生にご迷惑だったような。思い出してみると、母もいつも先生に謝っていたような記憶が蘇りました(笑)。
中学年になると、題名が決まっていたので、最初は書きにくく感じましたが、このころは、課題について、父や母や祖母に取材をするのを楽しんでいた時期でもありました。感想文課題は、内容も難しいし、書くのが大変でしたが、先生もいつもヒントを与えてくれたし、両親も、協力してくれました。
5年生になると、長文の内容はさらに難易度が上がり、そのときの私にとって、「難しい」というより「分からない」文章になってしまいました。しかし、たとえ長文全体をよく理解できなくても、感想文を書くことができるように説明してもらえたし(実際、それでなんとか形になっていたと思います)、また、何度も音読をしているうちに、最初は全く分からなかった文章が何となく理解できるようになる、という経験もできました。おかげで、難しい文章に取り組むのが怖くなくなったというか、落ち着いてくり返し読めば分かる、と信じて読めるようになりました。この経験は、その後の中学受験でも、大学受験でも役に立ったと思います。
また、私は、低学年のころから自分でパソコンで作文を書いていたのですが、「今読んでいる本」の欄を利用して、担当の先生と雑談をしたこともいい思い出です。例えば、当時流行っていたドラマの原作小説を読み、それを読書欄に書くついでに、お気に入りの主演俳優の話を書くと、先生も講評の中で返事をくれて、翌週の電話でまた好きなアイドルの話をしたり……といった具合に盛り上がったのも、とても嬉しかったです。言葉の森では、学校の先生よりも長く一人の先生に習うこともあるので、そのような交流が深まるのも楽しいことだと思います。
中学受験を挟み、言葉の森をお休みした時期がありましたが、再開後に取り組んだ勉強は、より具体的に受験小論文に役立ちました。小論文の構成を教えてもらって、どんな形で、どんな順番で書いていけばいいのか、という枠を決められるようになり、中学3年間で勉強した書き方で、ほぼどんなテーマにも対応できる自信がつきました。
実際の第一志望校の小論文課題は、制限字数が短かったのですが、基本的には、言葉の森で教わった「構成」「題材」「表現」「主題」を意識することで、対応できました。そのおかげで、他の教科の勉強に多くの時間を割くことができ、また、例えば、英語の長文を読む際にも、言葉の森の勉強で身につけた日本語読解力に助けられたと思うので、やはり、作文の勉強は、多くのアドバンテージを与えてくれたと思います。
本当に感謝しています。ありがとうございました。
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算数や英語の勉強は先取りができますが、作文の勉強は先取りができません。
それは、算数や英語が、知識や方法を身につければできるようになるのに対して、作文は精神年齢の成長が伴わなければできないものが多いからです。
その一つが、物事を構造的に考えることと、より大きな主題で一般化して考えることです。
友達に関する話で、友情というような抽象的な概念が使えるようになるのほ、小学6年生ごろからです。
これは、学力の問題ではなく、その子の成長の問題なのです。
子供の作文にあれこれ注文をつける人は、自分がその子と同じ年齢のころに書いた作文がもしあれば、それを見てみるといいと思います。
私もそうですが、作文の先生をやっているような人でも、子供のころに書いた作文はみんな幼稚で、今自分が見たら直したくなるところばかりなのです。
だから、人間は成長するという観点で子供たちを見ていく必要があります。
評価の対象として見るのではなく、成長するものとして見るということが大事です。
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幼児のころから、勉強も、スポーツも、音楽もといろいろなことをやって、どれも優秀な成績を収めている子がいました。
しかし、その子が、高学年になったころ、どれもほどほどにやるようになっていたのです。
どれも、一応合格点ぎりぎりのところまでやるが、決してそれ以上はやろうとしない、つまり熱中するような取り組みなどはなく、言われたことを言われた範囲できちんとこなすというやり方になっていたのです。
こういう子と反対の子もいました
大人が見て、いかにも無駄で無意味だと思われるようなことに熱中する子です。
しかし、その子が学年が上がり、入試に取り組むようになると、その集中力であっという間に実力をつけていきました。
小学校時代の子供の生活で大事なことは、今の成績を上げることではありません。
能率は悪くてもいいから、自分の意志でやることと、何かに熱中できる生活をすることです。
親は、子供の生活をコントロールする前に、まず自分が子供のころ、どういうことがうれしかったかを考えてみることです。
そして、自分にないものを子供に求めるのではなく、自分の今につなかっていることと同じことを子供にも認めてあげることです。
今の自分を形成しているものの中には、当時は無駄だと思われていたようなこともたくさんあったはずです。
そうすれば、さまざまな勉強や習い事で子供の時間を埋めるのではなく、もっと役に立たないように見える時間を大切にすることができるのではないかと思います。
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「勉強をコントールする力をつける――そのための親の勉強観」
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今、子供たちの身の回りには、さまざまなやらなければならないことが押し寄せています。
それは、大人も同様です。
最近、時間が不足するという人が増えているのは、生活の本質に関係のないような雑事があまりにも増えてきたためです。
大人の場合は、それでも自分で計画を立てて自分の生活をコントロールすることができます。
しかし、子供はこれからそういうことを学ぶ時期にいるのですから、自分で生活をコントロールすることはまだできません。
だから、親が子供に、大事なことで継続することと、大事でないことで適度に抑制することを教えてあげる必要があります。
それは食べ物の好みのコントロールと同じで、子供が好きな甘いものばかり食べさせるのではなく、野菜などもきちんととることをすすめることと共通しています。
子供の時間のコントールを考えるときに、大事になってくるのが、親の勉強観です。
学校や塾で言われたとおりにやっていると、子供の勉強時間はどんどん長くなります。
どの先生も、自分の教えていることが大事だと思っているからです。
その結果、誰からも何も言われない読書の時間が削られてしまう子も多いのです。
小学生のころは、長い目で見れば、勉強よりも読書の方が大事です。
今の成績をよくすることに追われて、読書を後回しにしている子は、かえってあとで伸びなくなります。
例えば、漢字の書き取りテストなどをすれば、出来不出来の結果がすぐに出ます。
結果が出るものは、誰でもつい優先してしまいます。
しかし、読書はしてもしなくても、結果として出てくるものはありません。
だから、読書は置いておいて、まず漢字の勉強をということになってしまいがちなのです。
両方できるのがもちろんいいのですが、どちらが大事かと言えば、明日の漢字のテストより今日の読書の方です。
これは、異論のある方も多いと思いますが、これまでいろいろな子供たちを見ているとそういうことがわかるのです。
だから、親は、できるだけ長期的な視野で子供の成長を考え、子供の生活時間を考えていく必要があります。
思考発表クラブでは、毎週、子供たちに今読んでいる本を紹介してもらいます。
互いの本の紹介が刺激になるのか、どの子もいい本を選んできます。
こういう読書を柱とする勉強をしていくことが、将来の子供たちの大きな力になっていくと思います。
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うちの子供がまだ小学校低学年だったころ、子供たちがほしいとも何とも言っていないのに、私は子供たちを連れて近所のゲームショップに行き、端末とソフトを買ってきました。それから、みんなで熱中してやりました。「ゼルダの伝説」と「ファイナルファンタジー4」でした。自分が子供だったら、そういうことをしたいだろうと思ったからです。
それから、いかにも面倒で退屈そうな学校の宿題が出たときは、代わりにやってやるからやらなくていいよと言いました。自分が子供だったらやりたくないだろうと思ったからです。小1で、足し算の同じ答えのところに同じ色を塗るという宿題でした。面倒でした(笑)。
そういう育て方をして、好きなことしかやらない怠け者になったかというとそんなことはありませんでした。
子供は子供らしく成長するのがいちばんいいのだと思います。
人間には誰にも向上心があり、知的好奇心があります。
自然に成長すれば、誰もがそういう能力を発揮していきます。
今は少子化で、子供はいろいろなところから管理されて育っています。
無駄に熱中できる時間をもっと大切にしてもいいのではないかと思います。
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