面白い動画を見ました。
フィンランドの教育がなぜ世界一になったかを、生徒や教師など当事者たちのインタビューで紹介している動画です。
この動画の中で特に印象に残ったところが六つありました。
第一は、学校のテストで選択問題がなかったという卒業生たちの証言です。テストの問題はすべて記述式だったので、その内容を自分が確実に理解していなければできない問題だったということです。
第二は、学校が宿題を出さないということでした。
国の方針として、子供は遊ぶことによって能力を育てるという考えだったのです。
第三は、学校における勉強の授業時間が少ないということでした。
小中学校の勉強の基本はほんのわずかです。テストで差をつけるための難問に時間を取られなければ、正味の時間はずっと少なくてよいのだと思いました。
第四は、学校がすべて公立で、できる子もできない子も同じように学んでいたということです。
これは子供たちが成長したときに、社会の問題を自分の身近な問題として考えることに役立っているということでした。
第五は、テストというものがほとんどなかったということです。これも第三の話と同様で、小中学校の勉強は基本をおさえるということであれば、テストをなどで評価しなくてもほとんどの子が授業の中で身につけられるということから来ているのではないかと思いました。
第六は、音楽や芸術も含めてすべての教科にバランスよく力を入れているということでした。主要教科だけに力を入れることは、かえって子供たちの人生にとってマイナスになるという考えでした。
ちょうどこの動画を見る前に、ある高校生の成績を見せてもらい、受験に関係のない科目は捨てているという話をその生徒から聞きました。
その生徒は普通に真面目な考えを持っている生徒だったので、多少照れ隠しに言っているのだろうと思いましたが、私は一応、
「高校時代の勉強は全部自分のプラスになるのだから、受験に関係なくどの教科もしっかりやっておくといいんだよ」
という話をしました。
そういう話をしたばかりでしたから、教育における文化というものが、フィンランドと日本ではすでにかなり違っているという印象を受けました。
もう一つ考えさせられたのは、選択問題がなく、すべてが記述式の問題だったということです。
日本では2020年度の入試改革に合わせて、記述式の問題をどのように客観的に評価するかということが話題になっていますが、これが問題になるのはテストの評価ということを前提にしているからです。
小中学生の本当の学力を育てるということが目的であれば、客観性云々よりもまず記述式の問題を中心にするということを考えなければいけないのではないかと思いました。
私がいつも疑問に思うのは、昔の子供たちは60人学級のような大人数の教室で勉強し、家に帰れば表で遊んでばかりいたのに、今の勉強の山に苦しんでいる子供たちよりも、頭がよかったのではないかということです。
しかも、その頭のよさは年を取れば取るほど伸びるような性格の頭のよさだったと思うのです。
それは、なぜかというと、机上の勉強だけでなく、自然や人間との関わりがある中で学んでいたからではないかと思います。
小学校低学年のときから、勉強のとてもよくできる子がいます。
それは、お母さんが勉強をよく見てあげているからです。
単に出来合いの教材を渡して勉強の時間を決めて守らせるという外側だけの勉強ではなく、勉強の内容面も把握して、子供が楽しめるように能率よく勉強を見てあげているのです。
ところが、そのときは、それで全く問題ないように見えますが、小学校低学年までの親子の勉強が、小学4年生ごろからだんだん難しくなってきます。
それは、子供に自立心が芽生えてくるからです。
どんなにいい教え方を親がしていたとしても、子供は親に教えてもらうこと自体から自立したくなってくるのです。
その結果、多くの家庭では、親がもう勉強を見ることはできないからと、子供を塾に行かせるような方向に向かいます。
その結果、親が子供の勉強を把握できなくなっていくのです。
子供の勉強の能率を考えた場合、親が勉強の内容を把握しているかどうかは、大きな差になります。
子供の勉強を点数だけで見るのではなく、どういうところがわかって、どういうところがわかっていないかという内容的なところで見る必要があるのです。
そうすれば、学年が上がっても、時間をかけない能率のいい勉強を続けることができます。
そこで、言葉の森が勧めたいのは、子供が親の言うことをよく聞く小学校低学年のころから、少人数クラスで勉強をする時間を作っておくことです。
低学年のころは、親が教えているだけで十分に見えますが、その親子関係だけのつながりは、そのときは太いように見えても学年が上がると急に細くなるときが来るからです。
子供が少人数クラスの中で勉強をしていると、親子の関係だけでなく、子供どうしの友達関係ができます。
すると、子供の勉強に関して、親と子、子供と友達、子供と先生という3つのつながりができるのです。
これが、少人数クラスで勉強することの一つの利点です。
つまり、子供の勉強面でのつながりが何重にもできるので、親子の勉強も、そのつながりの一つとして続いていくのです。
言葉の森の少人数クラスの場合は、もう一つ利点があります。
それは、言葉の森の勉強の方針が、知識を詰め込み、それを評価し、互いに競争させるという勉強法ではなく、それぞれの生徒が自分で問題を作り、それをみんなの前で発表し、互いの創造を認め合うという形で進めることを基本にしているからです。
この創造する勉強は、実力のある子ほど熱心に取り組みます。
単に問題を解くだけの勉強ではすぐに飽きる子が、問題を作る勉強では何時間もかけて仕上げることがあります。
問題を解くだけの勉強は、訓練をすれば誰でもできるようになります。
できることがわかっていて、誰でも同じ答えになる勉強をするのは、実力のある子ほど退屈なことです。
問題を作り発表する勉強はそうではありません。自分の持てる力を全部出して取り組めるからです。
しかし、問題を創造する勉強は、やってみると意外に難しく、子供ひとりではなかなか完成しません。
実力のある子は、特に自分の力以上のことをやろうとするので、発想だけはよくても最後まで仕上げられないことが多くなります。
そこで、登場するのが、お母さんやお父さんです。
問題を解いて答えを出すだけの勉強であれば、親が関わる必要はあまりありません。
せいぜい、子供がわからないところを教えてあげるだけです。
そのわからないところも、学年が上がり子供が自分で解法を見て理解できるようになると、親がすることはほとんどなくなります。
しかし、問題を創造する勉強はそうではありません。
子供がうまく行かないときは、親も一緒に考えてあげないと、形として仕上がるところまで行かないことが多いのです。
少人数クラスの勉強では、親、友達、先生とい3つのつながりができると書きましたが、更に、創造する勉強では、親と子のつながりが深くなるのです。
しかも、その創造する勉強の発表で何が大事かというと、少人数クラスの場合、それは面白さなのです。
コンクールに出品する作品とか、宿題として提出する作品とかいうものであれば、同じ創造する勉強であっても、きちんと完成していることが条件になります。
正しいもの、完成したものを出そうとすれば、無理が出てきます。
まして、入賞をねらうような高度な完成度を求めるようになると、子供の興味関心よりも、親の意図の方が強く出てきます。
創造する勉強であっても、親が子供を引っ張るうような勉強では、子供にとって面白い勉強ではなくなります。
ところが、少人数クラスであれば、発表する勉強は、失敗も含めて面白いことがいちばんの条件になります。
それは、その発表を友達が見てくれているからです。
もちろん、完成度を高めてすばらしい発表をすることもできます。
しかし、たとえ失敗しても、面白い発表であれば、それも同じようにみんなに評価されるのです。
こういう勉強で何が身につくかというと、創造することの面白さを感じる心、つまり創造性です。
今の学校や塾の勉強では、創造性が評価されることは滅多にありません。
創造性を発揮して間違ったことをするよりも、先生に言われたとおりにやって正しい答えに到達することが求められるからです。
だから、勉強のよくできる子ほど、創造性を失っていきます。
勉強などは、本人がやる気になったときに、正しい方法で時間をかけて取り組めば、誰でも必要なところまではすぐにできるようになります。
その準備としては、家庭で毎日の自主学習をしていればいいだけです。
つまり、その学年で習う勉強が普通にできていれば、勉強はそれで十分なのです。
勉強ができることよりもずっと大事なのは、あらゆることに創造性を発揮して取り組む姿勢です。
それが社会に出てから、最も必要になるからです。
社会では、言われたとおりにすることよりも、言われた以上のことをすることが重要になります。
その言われた以上のことをするのが、創造性という姿勢です。
実は、子供はみんな、生まれつきそういう創造性を持っています。
いたずらっ子というのは、その創造性をよく発揮する子です。
ところが、今の教育体制の中では、創造性を発揮することを我慢しないといけないような空気があり、よくできる子ほどそういう空気に適応してしまうのです。
言葉の森のオンライン少人数クラスは、そうではありません。
ただし答えを出すことよりも、面白い問題や作文や発明や発見や実験や経験を発表するクラスなのです。
盛りだくさんすぎますが(笑)。