小さな修正や追加が続いたために、わかりにくくなっていた「寺子屋オンライン」の案内を全面改訂しました。
内容的には大きく変わったことはありませんが、これから参加する人にもわかりやすくなるように名称を統一しました。
少人数クラスの作文は、「寺オン作文コース」としました。
少人数クラスの学習で、これまで思考発表クラブや自主学習クラスとしてやっていたところは、「寺オン学習コース」としました。
オンラインで行う個別指導の作文で、これまでオンライン作文としてやっていたところは、「ウェブ作文コース」としました。
オンラインで行う個別指導の自主学習で、これまでオンライン自主学習としてやっていたところは、「ウェブ学習コース」としました。
この変更に伴い、これまで通信作文コースと呼んでいたところは、「電話作文コース」と呼ぶことにしました。
通学作文コースは、これまでと同じ「通学作文コース」です。
| 個別電話指導 | 少人数寺オン指導 | 個別寺オン指導 | 個別通学指導 |
作文 | 電話作文コース | ■寺オン作文コース | ■ウェブ作文コース | 通学作文コース |
学習全般 | | ■寺オン学習コース | ■ウェブ学習コース | |
「寺子屋オンライン案内」の方は、わかりにくいところを修正しましたので、読みやすくなっていると思います。
https://www.mori7.com/teraon/
▽「寺子屋オンライン案内」の最後のページの記事の引用です。
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■■江戸時代の寺子屋の光景
江戸時代の寺子屋の特徴は、次のようなものでした。
1.男女貧富の差なく、誰でもが勉強に参加できた。
2.子供たちは、時にふざけたりいたずらしたりしながら、自由にのびのびと勉強した。(画像の中に、いたずらをしながら勉強している子供たちが何人も描かれています)
3.勉強の中心は、素読、書写、算盤などで、先生が講義するよりも、子供たちが自学自習で取り組むものが中心だった。
この寺子屋教育によって、日本は当時世界一の識字率を誇り、それがのちの日本の急速な近代化を可能にしました。(当時の日本の識字率70~80%、同時代のヨーロッパ先進国の識字率20~30%)
この寺子屋教育の本質はひとことで言えば、子供の自主性の尊重と、子供・家庭・地域の信頼関係に基づいたつながりでした。
言葉の森の寺子屋オンラインは、この江戸時代の寺子屋教育の本質を現代の科学技術と教育文化の中で再生しようとするものです。
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これからの教育で大事になるものは、真の学問を学ぶ力、家庭力、文化力、創造力を育てることだと思います。
ところが、今の教育は、受験力、順応力、点数力、競争力をつけることに偏っています。
そして、真面目でよくできる子ほど、その古い教育に過剰適応しているように思います。
東大の推薦入試や京大の特色入試がその理念として求めているような子を育てることが、これからの新しい教育の目標です。
(それは、合格するテクニックを身につけるという発想とは対極にあるものですが。)
これからの子育てのイメージをひとことで言うと、全教科がよくできているだけではだめなのです。そういう人は世界中にたくさんいるからです。
どれか一つの教科が飛び抜けてよくできているでもダメなのです。そういう人もたくさんいるからです。
だれもやっていないようなことに熱中していることが第一の条件です。
第二は、その上で全教科も一応はできているということです。
そして、その土台の上で、社会に出たら大きな冒険をするのです(笑)。
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現在の教育界のいちばんの問題は何かと言うと、過ぎ去りつつある過去の教育に多くの人が過剰適応していることです。
その一方、これからの世の中で要求されるようになる教育を、多くの人が夢物語のように考えていることです。
この変化は、ここ数年急速に進んだことなので、まだ実感を持って考えている人は多くありません。
教育の現場に近い人よりも、一歩離れた場所にいる人の方が未来を確実に予測しているように見えます。
落合陽一さんの「日本再興戦略」という本を読んだとき、私が普段思っていることが、より正確に、より説得力を持って書かれていると思いました。
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しかし、すぐにこの新しい教育に進もうとすることは、当事者にとってリスクが高いと思われると思います。
だから、今の教育で成果を上げつつ、未来の教育も担保するという二正面の教育を行っていく必要があります。
その未来の教育の最も重要なポイントは、創造力を育てる創造教育です。
そして、その創造教育の基盤になるのは、創造性を大切にする家庭文化です。
思考発表クラブ(寺オン発表学習クラス)の生徒たちの発表を見ていて、家庭の文化の創造性ということをしばしば感じました。
旧世代の人にとっては、「そんなことに時間をかけるよりも、もっと能率よく答えの書いてあるものを読んで覚えればいい」というような実験や観察を多くの子供たちが生き生きとやっていました。
こういう子供たちが、これから学力をつけて、世の中に新しい価値を創造していくのだと思います。
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過去の教育の目標は、人間が歩く辞書になることでした。
そういう科挙的な教育が、AIに取って代わられるようになることがわかったのは、ここ数年の話です。
その端的な例が、囲碁ソフト、音声認識、google翻訳などの急速な精度の向上です。
しかし、その歩く辞書を超えた教育の目標をまだ多くの人が持っていないように思います。
学校や塾や予備校は、答えのあることを教える機関です。
その答えが目的で、子供はその答えに近づくための手段でした。
しかし、本当は子供自身が目的です。
そういう子供自身を目的として見る見方は、家庭でしかできません。
これが、家庭教育の考え方です。
学校半分、家庭半分がこれからの教育の姿なのです。
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ゆとり教育は、過去の文脈では死語になりつつある言葉ですが、これから求められる新しい学力の本質は、「新ゆとり教育」です。
答えがあり、点数があり、比較があり、競争がある従来の教育は、すべての子供にほどほどに力をつける教育でしたが、百点を超えようとする子は生まれませんでした。
これまでの答えのある世界はわかりやすいので、多くの大人はそのほどほどで満足していましたが、ほどほどの世界の先には、AIしか待っていません。
点数や比較のない世界は、いくらでも高度になる一方、いくらでもさぼれる世界です。だから、その世界に進むためには新しい勉強観が必要になります。
そういう新しい勉強観を育てる教育を行っていきたいと思います。
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世の中の大きい流れから要求されることと、現実の教育界で要求されることとは、かなりギャップがあります。
例えば、今の算数や数学では、計算間違いのしやすい複雑な計算を問題として解かせることがありますが、計算はルールさえ知っていればいいのであって、計算の作業はもう人間がわざわざやることではないのです。
それは、明治維新が始まる前夜に、剣術や馬術の練習を一生懸命していたことと同じです。
マイナスになるわけではありませんが、今は、もっと大事なことがあるのです。
本当に学力のある子にとって、今の勉強は退屈です。
百点を取ったらおしまいで、その先を要求されることはないからです。
しかし、今ある百点を取れないような問題は、ただ難しいだけで、その難しさは意味のない難しさです。
(例えば、短い時間で大量の問題を解かせるような難問(笑))
点数を超えた勉強こそが、これから求められる勉強なのです。
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