子供の読む本についての質問を受けることが時どきあります。
その内容は、どういう本を読んだらよいかというものです。
確かに、子供にとってよい本を見つけるというのは、大人になってしまうと分かりにくくなります。
しかし、世の中で読む本は無数にあり、子供たちの本を読む速さは、小学生で1週間平均2冊ですから、年間で約100冊です。
そう考えると、どんな本を読むかという書名を指定するよりも、どういう本を読んでいくかという方向性を決めておく方が大事だと思うのです。
その方向性を決める際に、私が考える「読まない方がよさそうな本」というものを挙げてみます。
それは、子供たちの読んでいる本を見て、時どき疑問に思ったことがあるからです。
読まない方がよさそうな本の第一は、怖い本です。
子供たちは、怖いもの見たさという人間には誰でもある心理を持っているので、怖い本というものを意外と喜びます。
大人は、子供が喜んでいるのだからと思い、そういう本をすすめてしまいがちです。
しかし、これは、岡潔さんの言う「無明(むみょう)」を子供の心に育てていることだと思うのです。
子供に限らず、大人でも、怖い話や怖いニュースはよく話題にされがちです。
それは、無明というものが、人を引きつける力があるからです。
子供が成長期に読む本は、明るく前向きな、美しい、人生を肯定するような本であるべきだと思います。
きわめて単純なことです。
こういう単純なことを、図書選びの基本方針とすることがまず第一です。
第二に、これは読まなくてもいい本とは言いませんが、それほどおすすめしないという本です。
それは、「何年生の読み物」というような、短編がいくつかまとめられて編集された本です。
こういう物語やエッセイが短くつながった本は、手軽に読めるという面があります。
しかし、それが逆に熱中して読み続けるという、読書の喜びのいちばんの要になる経験をさせにくくします。
昔、「天声人語」を集めた本を読んだことがありますが、途中ですぐに眠くなりました。
800字程度の短いエッセイが、次々と始まり、次々と終わるというような本は頭脳を疲労させるのです。
本の面白さというものは、熱中してその本の世界に没入するところにあります。
ところが、名作を短編にして、それを数多く並べた「何年生の読み物」という本は、子供が我を忘れて読むということがあまりありません。
まるで体によいと言われる薬でものむように、その本を少し読んではおしまいにし、また次の日に少し読んではおしまいにする、というような読み方になりがちなのです。
しかし、短編集であっても、熱中できる本ももちろんあります。
私が、子供のころ読んだ「世界ふしぎめぐり」という本は、読んでいるとき、声をかけられても気がつかないほど熱中して読んだ経験があります。
だから、短編集かどうかということよりも、子供が熱中して読めるかどうかということが大事なのだと思います。
▽参考「春風夏雨」(岡潔)より
====
「無明」
前に京都に行ってピカソの展覧会を見たことがある。馬と女性の二種類の図柄の絵が大部分だったが、そこでわかったことは、これはひっきょう「無明」と呼ばれているものを描いたものだなということだった。無明をこれほどうまく描いているのは全く初めてだ。
無明というのは仏教の言葉で、私の信奉している山崎弁栄上人の解釈によると、生きようとする盲目的意志のことである。盲目的であるにせよ、ともかく生きようとする意志のことなのだから、それほど恐ろしいものではないだろうし、また、少くとも六道のうちの最高の序列にある人・天の二道における無明は程度が知れていると考えていた。しかし、このピカソの絵を見て、生きんとする盲目的意志がどんなに恐ろしいものかがよくわかった。
そこに描き出されたものは全く無明そのものなのだった。だから会場でも、一つの絵の前に立ち止ってゆっくり眺めようという気がせず、また二度も見ようなどとは思わず、二十分足らずで出て来てしまったのだった。
そうして帰りがけに人の顔を見ると、どの顔にも無明が見えて仕方がない。というより、人の顔が無明そのものになっているという感じだった。
(中略)
ピカソの絵は美を描いたものとはいえない。ここには芥川龍之介のいう「悠久なものの影」は見当らない。しかし、すぐれた人の文化的な作品には違いない。彼が巨匠であることはまぎれもない事実で、その作品は巨匠の傑作というほかはない。彼は醜悪なものを絶えず見つめることによって、その本質を描けるようになったといってよい。
====
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
子供の本選びのことを考えていて、岡潔さんの「無明」の話とつながることがあると思いました。
子供は、無明の方を選んでしまうことも多いのです。
若いときは、無明の方に真実があると思いがちです。
しかし、無明を直視しようというのは、無明に負けていることです。
では、現にある無明をどうするのかというと、それは無明のない世界を創造することです。
例えば、「人間が食べるためには生き物を殺さなければならない」というのは、真実ではなく無明です。
生き物を殺さなくても食べられるものを創造すればいいだけです。
たとえ時間はかかっても、こういう方向がわかれば、無明の周囲を堂々巡りをする必要はなくなります。
これが、手塚治虫の「ジャングル大帝レオ」のひとつの主題になっているのではないかと思います。
話が飛びすぎか(笑)。
無明とは、暴飲暴食や二日酔いのことです。
たまには、そういうことがあっても人間味があっていいのです。(よくないか)
しかし、暴飲暴食や二日酔いが人間の真実ではないということです。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。読書(95)
文明堂のカステラのような題名ですが。
発表学習クラスで行う子供たちの発表は、楽しいものであることが一番です。
楽しいということは、本人が面白がってできるものであるということです。
実は、これを見つけるのがなかなか難しいのです。
子供が何を楽しいと思っているかということは、日常の子供の生活に目を向けてその子の関心を推測できるお母さんやお父さんにしかできません。
どんな子にも、自分の興味の持てる世界があるものです。
電車の好きな子は、異常に電車が好きです。
生き物の好きな子は、やはり異常に生き物が好きです。
この異常なくらい好きなものというのが、その子の勉強の出発点になるのです。
楽しくできるものを探したあと、二番目に大事なことは、それを学問にまで高めていくことです。
先日、ジェットコースターに乗った経験を、重力加速度の話に結びつけて説明してくれた中1の生徒がいました。
そういう遊びに近い経験を、学問の世界にまでつなげていくことが大事なのです。
高学年になれば、自分で学問的な話に結びつけることができますが、低中学年では子供だけではなかなかそういうところまでは考えが回りません。
そこで、お父さんやお母さんが手助けをしてあげるのです。
その手助けをしてあげるときの親子の対話が、子供の思考力と勉強観を育てていきます。
実は、子供の真の学力を育てるのは、勉強そのものよりも、勉強の準備の段階で考えたり話し合ったりするところでなのです。
学問の世界につなげたあと、三番目に心がけることは、そこに創造性を付け加えることです。
創造性とは、まだ他の人がやっていないことをしたり、他の人が考えていないことを考えたりすることです。
学問の世界の話だけであれば、例えば参考書を書き写すだけでもそれなりのことはできます。しかし、それではその子の個性というものが出てきません。
その学問の世界の話に、その子らしいもうひとつの創造を付け加えることが大事なのです。
ただし、創造といっても、もちろんノーベル賞級のものを目指すというのではありません。
最も手軽な創造は、発表の内容を言葉だけでなく絵で描いてみることです。
その絵も、資料に載っているような絵を書き写すだけではなく、自分の頭の中にあるものを描いていくようにすれば、そこにその子らしい創造が加わります。
また意外に考えられる創造としては、ダジャレや俳句などがあります。
学問的な勉強で理解したことを、ダジャレや俳句で言い表せば、そこにやはりその子らしい創造が生まれます。
つまり、大事なことは、発表する勉強の中に、いつも自分らしい創造性を盛り込んでいくということです。
その姿勢が、将来その子が社会に出たときに、言われた仕事を言われたままにするのではなく、ひと工夫もふた工夫もして取り組むという生き方につながっていくのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
今の勉強の多くは、本人が興味を持てないものを、知識として教え込み、与えられた答えになるようにテストするというつまらないものになっています。
本当は、勉強はもっと生き生きとした楽しいものなのです。
そして、楽しい勉強をやっているうちに、つまらない必要な勉強も乗り越える力がついてくるのです。
遊びを勉強にまで高め、勉強を創造にまで高めるというのが、未来の理想の勉強の姿になると思います。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。寺子屋オンライン(101)
作文の勉強で、いちばん困るのが時間がかかることです。
特に、考える力の要求される作文になる、小5以上、中学生、高校生になると、本人が納得のいく1200字の文章を仕上げるには、1時間半ほどかかります。
そのために、多忙な高学年の生徒は、つい作文の勉強を後回しにしてしまうことがあるのです。
そこで、言葉の森がおすすめするのが、音声入力作文です。
音声入力と言っても、普通と同じ速度で話すのでは、いい文章になりません。表現を考えながら話すと、普通の速度の3倍から4倍の時間がかかります。
しかし、それでも、10分も話せば、約1000字の作文が仕上がります。
できあがった文章は、もちろん音声認識ミスがあるので、修正する必要がありますが、全く修正しないままアップロードしても、先生が読むのには差し支えありません。
それぐらい、今のAI音声認識は精度が高くなっています。
そして、いったん作文が仕上がると、それを修正するのには、あまり苦労を感じません。
最初から全部手書き、又はパソコン書きで書こうとすると、1時間半かかる高い山をひたすら登るというイメージですが、音声入力を利用すると、頂上近くまで10分間でケーブルカーで行き、そこで帰ってきてもよいが、一応頂上まで徒歩でもう少し行ってみようという気になるのです。
この音声入力の方法をマスターすれば、夏休みの読書感想文の宿題やレポート提出の宿題も簡単に手がけられます。締め切りぎりぎりになるまで後回しにするということがなくなるのです。
この音声入力講座をオンラインで行います。
■日時
5月26日(土)11:00から30分程度
■準備しておくもの
ICレコーダー
オーディオケーブル(ICレコーダーとパソコンをつなぐもの。35mmオスオスが多いと思います。)
googleドキュメントが開けるブラウザ
テラパッドやワードのように全文置換できる機能のあるエディタ又はワープロソフト
■費用(講座受講料)
言葉の森の生徒及び兄弟、保護者は無料
言葉の森の生徒以外の方は2,000円
▽講座受講料は5月20日まで下記の口座にお振り込みください。
三井住友銀行 港南台支店 普通 6599615 株式会社言葉の森
■参加お申し込みは、下記のページからお願いします。
https://www.mori7.com/kform_pre.php?k=osm201805
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
中3の生徒の保護者から、「先生からの電話では楽しく話しているが、その後、忙しいなどと言って作文を書かない」という相談がありました。
同じ悩みを持っている中学生の生徒の保護者も多いと思い、音声入力講座を開くことにしました。
音声入力ができるようになれば、これまで1時間以上かかっていた1200字の作文が、10分ほどで仕上がります。
作文の本質は、書くことではなく考えることなので、忙しいときはこれでいいのです。
では、考えるのはどこでやるかというと、それは構想図を書くところなのです。
音声入力は、日本語ではまだ句読点には対応していません。
本当は、時間があれば、句読点を自撮的につけるソフトを作りたいのですが、いずれそれはgoogleがやるだろうと思うので、今のところその仕事は後回しです。
しかし、ワードやテラパッドの全文置換機能を使えば、敬体の文章の場合かなり簡単に句点がつけられます。
中高生がみんな音声入力ができるようになれば、作文を書くのはもっと楽になると思います。
拝見しました。
面白い試みを教えてくれてありがとうございます。
これからは、作文の書く要素よりも、内容の方が重視されるようになりますね。
いずれ、読書感想文の宿題や、会社のエントリーシートなどもなくなります。
最後に残るのは、対話をすることですから、試験で言えば、口頭試問ということになると思います。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。音声入力(10)