先日、中学生の生徒の保護者から、子供が学校の勉強が忙しく作文を書く時間がなかなか取れないという相談を受けました。
そこで、音声入力の講座を開くことにしました。
音声入力というと、多くの人は、口で話すようなやり方で、作文と同じようなことを書くのは難しいのではないかと言います。
確かに、話すのと同じようなスピードで作文を書くというのは、よほどその内容をよく知っているのでなければ難しいと思います。
文章というものは、書きながら考えるという面があるので、どうしてもスピードが遅くなります。それは、話すスピードとはかなり違うのです。
だから、音声入力で作文を書くコツの第一は、考えるスピードで話すということです。
たとえて言うと、日本の政治家の中に、「えー、……、あー、……、うー」というようなきわめてゆっくり話をする人がいます。それは、考えて言葉を選びながら話しているからだと思います。
ちょうどそのような話し方で、文と文の間に間を置きながら、次の言葉を選んで話していくのです。「あー」「うー」は入れません。
そのように考えながら話すやり方だと、スピードは1分間で100字程度になります。
普通の朗読は1分間で400字ですから、朗読の4分の1の速さでゆっくり話すというのが音声入力のコツになります。
もちろん、書く内容が既にすっかり頭に入っている場合は、1分間400字でも書けます。
1分100字(10分1000字)のスピードは、パソコン入力をかなり速く打つのと同じぐらいの速さです。
パソコン入力スピード認定試験というものがあり、4級が10分200字、初段が1000字、5段が2000字だそうですから、音声入力のゆっくり読みが初段と同じぐらいで、やや速く読むのが5段ぐらいになるのだと思います。
音声入力の第二のコツは、簡単な構想図を書いて話をするということです。
手で書く文章の場合は、自分が書いたものを読みながら書き進めることができるので、文章全体の構成と、自分がこれから書こうとうする文の関係がわかります。
しかし、音声入力の場合は、それまで自分が読んだ文章の全体が見えないので、文章全体の構造がわかりにくくなります。
ただし、1200字程度の文章であれば、書こうとする内容の全体像が頭に入るので、特に構想図のようなものがなくても書くことはできます。
しかし、将来、より長い文章を音声入力で書くことを考え、音声入力の準備として簡単な構想図を書いておくといいのです。
ところで、この自分が音声入力したものの全体が見えないというのは、後戻りをしないという点で音声入力の長所と考えてもよいと思います。
作文を書くのが遅い人は、少し書いては読み返し、消しゴムで消してまた書いて、というような書き方をしていることが多いからです。
さて、音声入力をしていると、作文試験など手で書くときに困るのではないかと言う人もいると思います。
これは、作文試験の3か月ほど前から手書きに戻して練習していくということで対応できます。
音声入力の意外な利点は、どこでも作文が書けるということにあります。
例えば、家から駅まで徒歩10分だとしたら、その道を歩きながら1000字の作文が書けます。
ただし、これは書く内容があることが前提になりますから、大事なことは作文以前に、読書、対話、思考の時間を十分に取っておくことです。
そして、その準備の上に、これまで1時間かけて書いていた作文を、10分で仕上げていくようにすればいいのです。
しかし、歩き作文は、そのうち問題になりそうですから(笑)、あまり勧めません。
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音声入力のいちばんの利点は、書くことが速くなることよりも、書く際の負担が少なくなることにあります。
高学年や中高生の難しい作文課題になると、書き出すのに、気合いのようなものが必要になります。
そのために、作文の勉強を後回しにして、結局書けなくなってしまうことがあるのです。
音声入力という方法を知っていれば、とりあえず10分あれば最後まで作文が書けるので、気軽に始めることができます。
この気軽に書き出せるということが重要なのです。
大事なことは、書くという作業ではなく、それ以前の考える過程だからです。
AIによって音声認識が実用可能なものになったとすれば、次に来るのはAIによる手書き認識です。
手書きの文章とテキスト化された文章のセットが大量にあれば、すぐに実用化レベルになります。
すると、入学試験に作文小論文が本格的に取り入れられるようになるはずです。
それを、森リンのような自動採点ソフトで採点します。
実は、そういうソフトをわざわざ使わなくても、あるテーマで1時間で1200字書けるかどうかだけで評価をしても、試験として十分に使えます。
字数と実力の相関はかなり高いからです。
特に、異なるテーマで作文試験を2回か3回行えば、実力ははっきり出ます。
3種類の異なるテーマの作文を、いずれも1200字書くというのは、作文の実力がなければできないからです。
そして、入学試験は、辞書でもスマホでも、何を持ち込んでも可となりますから、漢字の問題や計算の問題はなくなります。
(本当は入学試験そのものもなくなるのですが、それはもう少し先の話です。)
こういうことをまだずっと先の話だと思っている人が多いと思いますが、私は早ければ来年あたりからでもできることだと思っています。
子供の勉強を考える場合、こういう先の見通しを持っておくことが大事です。
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言葉の森は、作文の勉強をする日本で最も長い伝統を持つ教室ですが、単に作文を書く力をつけるだけではありません。
作文力とともに、次のような力もつけられるのです。
◆暗唱力がつき、覚える勉強が楽にできるようになる――暗唱検定と暗唱チェック
◆読書力がつき、よりレベルの高い本を読むようになる――オンラインの読書紹介
◆親子の対話が盛んになり、話す力、聞く力がつき、語彙が増える――作文の予習シート、構想図発表
◆受験作文力がつき、中学入試、高校入試、大学入試、就活で役立つ――受験作文コース
◆読解力がつき、国語の勉強だけでなく、あらゆる勉強の基礎ができる――問題集読書の練習
◆国語、算数数学の勉強の仕方がわかり、毎日の自学自習の習慣がつく――自主学習コース
◆子供の勉強や生活に関する相談がいつでもでき安心できる――電話面談、オンライン保護者懇談会
◆友達との交流の中で、毎週楽しく作文が書けるようになる――寺オン作文コース
◆国語、算数数学、理科の創造的な学習に取り組めるようになる――発表学習コース
大学入試がゴールではなく、その先にある創造的な仕事をするための実力をつけるのが言葉の森の勉強の目標です。
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普段の学校や塾でのテストは、出題範囲の知識を覚えるなどの準備が成績を左右しますから、本当の実力というわけではありません。
入試の場合は、そういう準備よりも、本来の実力の差が出てきます。
その実力のもとが読解力です。
受験期に成績の上がる生徒は、読解力のある生徒なのです。
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これまでの学力と言われるものは、覚えた知識を再現する力でした。
考える問題のように言われている算数数学の分野でも、解法を覚える勉強によって高得点を取るというパターンができたので、ほとんどの勉強が時間をかけて詰め込めば成績が上がるようになったのです。
その結果、優秀な成績で大学に入ったはずの学生が、意外に考える力がないということがわかってきました。
それが今、世界の大学ランキングで東大や京大がかろうじて後ろの方に入っているという状況を生み出しています。
このことに対する危機感から、日本の大学も、生徒の真の実力を見るためのテストとして手間のかかるAO入試を取り入れるようになりました。
このAO入試についても、合格することを受験テクニックのように教えるところがありますが、言葉の森の教育の目的はそうではありません。
東大の推薦入試に合格することが目的なのではなく、東大の推薦入試が目指しているのと同じような新しい学力をつけることが目的なのです。
それは別の言葉で言えば、考える勉強、発表する勉強、創造する勉強を目的とするということです。
そういう思考力、表現力、創造力を伸ばすような学習ができるようになったのは、オンラインのウェブ会議システムが誰にも利用できるようになったというインフラの力によるところがかなりあります。
しかし、それ以上に大事なことは、言葉の森の教育理念が、もともとそのような学力を育てることを目的としていたということなのです。
この教育には、家庭の協力が重要な要素となります。
従来の教育のように、学校や塾に任せるという勉強ではなく、家庭で親子の対話や協働を通して、学力だけでなく文化も育てていくというような勉強なのです。
教育は、単に成績だけを上げるものではなく、その子供のトータルな人間力を育てることを目的としているものです。
成績が上がるとか志望校に合格するとかいうことは、勉強の結果であって目的ではありません。
もちろんそういう理想だけでは受験期の最後の1年間は乗り切れないので、受験直前の時期には必要悪と割り切って詰め込む勉強もしていく必要があります。
しかし、それも、それまでの真の学力である思考力が備わっていれば、短期間で成果を上げることができるのです。
言葉の森では、この新しい教育を発表教育という名称で呼び、現在ウェブ会議システムを使った発表学習コースの少人数クラスを開いています。
まだ、このコンセプトがわかりにくいためか、参加する生徒は多くありませんが、私の子供がまだ小さかったらぜひやらせてみたかった勉強です。
将来は、こういう家庭と結びついた考える力を育てる勉強がもっと広がっていくと思います。
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「寺子屋オンラインの発表学習コース」
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考える力のある子にとって、受け身で聞くだけの勉強は、それがどれほど優れた授業であっても物足りないものです。
実力のある子は、自分も参加できる勉強をしたいのです。
しかし、そういう機会は、今の教育ではあまりありませんし、そういうことを一緒にする友達というものもいません。
だから、言葉の森がそういう枠組みを作ることにしたのです。
それが、言葉の森の作文教育の出発点です。
そして今、それを発表教育という教科全体の勉強として取り組むことにしたのです。
寺子屋オンラインの発表学習コースの料金は、本当は、世間の普通の水準の料金よりも高いぐらいでいいととは思っています。
それは、やる気のある子にとっては、かなり密度の高い授業になっているからです。
そしてまた、料金というものは、高いほど誰でも一生懸命に取り組むものなのです。
しかし、こういう真に役立つ教育を広げるためには、今の日本の社会にある教育格差を克服しなければなりません。
だから、敢えて、常識ではあり得ない料金設定にしたのです。
それを、ひとつのビジネスモデルとしてやろうとしているところが、この寺子屋オンライン教育のもうひとつの挑戦です。
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「学力の経済学」(中室牧子著)の重要なポイントは、幼児期の教育が、その後の子どもたちが社会人になってからの学力や生活や年収に深く結びついているということです。
そこで、幼児期の教育の経済的効果が極めて高いということが言われているのです。
その裏づけとなっているものは、アメリカにおける教育実験とその後の長年にわたる調査という客観性のあるデータによるものです。
ところで、私はこれを見て、子供たちに影響を与えたものは、幼少期における優れた先生による教育だけではなかったのではないかと思いました。
それよりも、その先生が定期的に家庭に赴き保護者に子供たちの教育についてさまざまなアドバイスをしたことによる影響の方が大きいのではないかと思ったのです。
定期的な家庭訪問によって、母親の子供に対するものの見方や接し方が変わったはずです。
その点こそが、子供のその後の生き方や学力を決定したと思うのです。
これは、教室に来ている子供たちの様子を見てもよく感じることです。
学力も意欲もあり性格も明るく安定した子供たちに共通するのは、やは知的で謙虚でそして寛容な母親のように思います。
父親の影響も、もちろんあります。その特徴は、やはり同じように知的で子供と話をするのが好きで、しかし躾については筋を通すような父親像です。
だから、言葉の森が今おこなっている寺子屋オンラインの作文コースや発表学習コースも、その家庭の教育力というものを第一に考えた運営にしているのです。
先生がよい授業を行うとか、よい教材で教えているとかいうことよりも、どんな先生がどんな教材を使っていても、それに取り組むときの家庭における両親の姿勢が子供たちの知性や人間性や創造性を育てていると思うからです。
しかし、両親と子供だけの関係で、そういう知的な家庭文化を作るのは難しい面もあります。
それは、親と子の間だけでは、創造的な勉強を続けるという緊張感を保つのが難しいことがあるからです。
そこで、寺子屋オンラインに参加することによって、他の生徒の取り組みに刺激を受けながら、その子の興味と関心をもとにした創造的な勉強を親の協力によって行っていけるようにしたいと考えたのです。
「学力の経済学」の経済は、幼児期の教育の効果というよりも、その手前にある家庭の教育力によるものだと思うからです。
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子供の学力を決定するものは、勉強よりもその手前にあるものです。
例えば、小さいころから本を読む習慣をつけるとか、テレビを見る時間を決めておくとか、毎日の生活時間を決めておくとか、親のペースで勉強させすぎないとか、そういう些細に見えることを日常生活で続けていることが、その後の学力のもとになっているのです。
だから、学校の成績などまだあまり関係ないように思える幼児期や小学校低学年のころからの家庭生活が、最も大事な基礎になっているのです。
例えば、テレビを見る時間を決めるとか、食事のときはテレビを消すとか、あるいはテレビそのものを置かないとかいうことも子供が小学1年生のころなら、ひとことで簡単に実行できます。しかし子供が小学3、4年生になったあとでは、もうそういうことはほとんどできなくなります。だから、幼少期の家庭の文化作りが最も大切なのです。
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子供の読む本についての質問を受けることが時どきあります。
その内容は、どういう本を読んだらよいかというものです。
確かに、子供にとってよい本を見つけるというのは、大人になってしまうと分かりにくくなります。
しかし、世の中で読む本は無数にあり、子供たちの本を読む速さは、小学生で1週間平均2冊ですから、年間で約100冊です。
そう考えると、どんな本を読むかという書名を指定するよりも、どういう本を読んでいくかという方向性を決めておく方が大事だと思うのです。
その方向性を決める際に、私が考える「読まない方がよさそうな本」というものを挙げてみます。
それは、子供たちの読んでいる本を見て、時どき疑問に思ったことがあるからです。
読まない方がよさそうな本の第一は、怖い本です。
子供たちは、怖いもの見たさという人間には誰でもある心理を持っているので、怖い本というものを意外と喜びます。
大人は、子供が喜んでいるのだからと思い、そういう本をすすめてしまいがちです。
しかし、これは、岡潔さんの言う「無明(むみょう)」を子供の心に育てていることだと思うのです。
子供に限らず、大人でも、怖い話や怖いニュースはよく話題にされがちです。
それは、無明というものが、人を引きつける力があるからです。
子供が成長期に読む本は、明るく前向きな、美しい、人生を肯定するような本であるべきだと思います。
きわめて単純なことです。
こういう単純なことを、図書選びの基本方針とすることがまず第一です。
第二に、これは読まなくてもいい本とは言いませんが、それほどおすすめしないという本です。
それは、「何年生の読み物」というような、短編がいくつかまとめられて編集された本です。
こういう物語やエッセイが短くつながった本は、手軽に読めるという面があります。
しかし、それが逆に熱中して読み続けるという、読書の喜びのいちばんの要になる経験をさせにくくします。
昔、「天声人語」を集めた本を読んだことがありますが、途中ですぐに眠くなりました。
800字程度の短いエッセイが、次々と始まり、次々と終わるというような本は頭脳を疲労させるのです。
本の面白さというものは、熱中してその本の世界に没入するところにあります。
ところが、名作を短編にして、それを数多く並べた「何年生の読み物」という本は、子供が我を忘れて読むということがあまりありません。
まるで体によいと言われる薬でものむように、その本を少し読んではおしまいにし、また次の日に少し読んではおしまいにする、というような読み方になりがちなのです。
しかし、短編集であっても、熱中できる本ももちろんあります。
私が、子供のころ読んだ「世界ふしぎめぐり」という本は、読んでいるとき、声をかけられても気がつかないほど熱中して読んだ経験があります。
だから、短編集かどうかということよりも、子供が熱中して読めるかどうかということが大事なのだと思います。
▽参考「春風夏雨」(岡潔)より
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「無明」
前に京都に行ってピカソの展覧会を見たことがある。馬と女性の二種類の図柄の絵が大部分だったが、そこでわかったことは、これはひっきょう「無明」と呼ばれているものを描いたものだなということだった。無明をこれほどうまく描いているのは全く初めてだ。
無明というのは仏教の言葉で、私の信奉している山崎弁栄上人の解釈によると、生きようとする盲目的意志のことである。盲目的であるにせよ、ともかく生きようとする意志のことなのだから、それほど恐ろしいものではないだろうし、また、少くとも六道のうちの最高の序列にある人・天の二道における無明は程度が知れていると考えていた。しかし、このピカソの絵を見て、生きんとする盲目的意志がどんなに恐ろしいものかがよくわかった。
そこに描き出されたものは全く無明そのものなのだった。だから会場でも、一つの絵の前に立ち止ってゆっくり眺めようという気がせず、また二度も見ようなどとは思わず、二十分足らずで出て来てしまったのだった。
そうして帰りがけに人の顔を見ると、どの顔にも無明が見えて仕方がない。というより、人の顔が無明そのものになっているという感じだった。
(中略)
ピカソの絵は美を描いたものとはいえない。ここには芥川龍之介のいう「悠久なものの影」は見当らない。しかし、すぐれた人の文化的な作品には違いない。彼が巨匠であることはまぎれもない事実で、その作品は巨匠の傑作というほかはない。彼は醜悪なものを絶えず見つめることによって、その本質を描けるようになったといってよい。
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子供の本選びのことを考えていて、岡潔さんの「無明」の話とつながることがあると思いました。
子供は、無明の方を選んでしまうことも多いのです。
若いときは、無明の方に真実があると思いがちです。
しかし、無明を直視しようというのは、無明に負けていることです。
では、現にある無明をどうするのかというと、それは無明のない世界を創造することです。
例えば、「人間が食べるためには生き物を殺さなければならない」というのは、真実ではなく無明です。
生き物を殺さなくても食べられるものを創造すればいいだけです。
たとえ時間はかかっても、こういう方向がわかれば、無明の周囲を堂々巡りをする必要はなくなります。
これが、手塚治虫の「ジャングル大帝レオ」のひとつの主題になっているのではないかと思います。
話が飛びすぎか(笑)。
無明とは、暴飲暴食や二日酔いのことです。
たまには、そういうことがあっても人間味があっていいのです。(よくないか)
しかし、暴飲暴食や二日酔いが人間の真実ではないということです。
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文明堂のカステラのような題名ですが。
発表学習クラスで行う子供たちの発表は、楽しいものであることが一番です。
楽しいということは、本人が面白がってできるものであるということです。
実は、これを見つけるのがなかなか難しいのです。
子供が何を楽しいと思っているかということは、日常の子供の生活に目を向けてその子の関心を推測できるお母さんやお父さんにしかできません。
どんな子にも、自分の興味の持てる世界があるものです。
電車の好きな子は、異常に電車が好きです。
生き物の好きな子は、やはり異常に生き物が好きです。
この異常なくらい好きなものというのが、その子の勉強の出発点になるのです。
楽しくできるものを探したあと、二番目に大事なことは、それを学問にまで高めていくことです。
先日、ジェットコースターに乗った経験を、重力加速度の話に結びつけて説明してくれた中1の生徒がいました。
そういう遊びに近い経験を、学問の世界にまでつなげていくことが大事なのです。
高学年になれば、自分で学問的な話に結びつけることができますが、低中学年では子供だけではなかなかそういうところまでは考えが回りません。
そこで、お父さんやお母さんが手助けをしてあげるのです。
その手助けをしてあげるときの親子の対話が、子供の思考力と勉強観を育てていきます。
実は、子供の真の学力を育てるのは、勉強そのものよりも、勉強の準備の段階で考えたり話し合ったりするところでなのです。
学問の世界につなげたあと、三番目に心がけることは、そこに創造性を付け加えることです。
創造性とは、まだ他の人がやっていないことをしたり、他の人が考えていないことを考えたりすることです。
学問の世界の話だけであれば、例えば参考書を書き写すだけでもそれなりのことはできます。しかし、それではその子の個性というものが出てきません。
その学問の世界の話に、その子らしいもうひとつの創造を付け加えることが大事なのです。
ただし、創造といっても、もちろんノーベル賞級のものを目指すというのではありません。
最も手軽な創造は、発表の内容を言葉だけでなく絵で描いてみることです。
その絵も、資料に載っているような絵を書き写すだけではなく、自分の頭の中にあるものを描いていくようにすれば、そこにその子らしい創造が加わります。
また意外に考えられる創造としては、ダジャレや俳句などがあります。
学問的な勉強で理解したことを、ダジャレや俳句で言い表せば、そこにやはりその子らしい創造が生まれます。
つまり、大事なことは、発表する勉強の中に、いつも自分らしい創造性を盛り込んでいくということです。
その姿勢が、将来その子が社会に出たときに、言われた仕事を言われたままにするのではなく、ひと工夫もふた工夫もして取り組むという生き方につながっていくのです。
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今の勉強の多くは、本人が興味を持てないものを、知識として教え込み、与えられた答えになるようにテストするというつまらないものになっています。
本当は、勉強はもっと生き生きとした楽しいものなのです。
そして、楽しい勉強をやっているうちに、つまらない必要な勉強も乗り越える力がついてくるのです。
遊びを勉強にまで高め、勉強を創造にまで高めるというのが、未来の理想の勉強の姿になると思います。
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作文の勉強で、いちばん困るのが時間がかかることです。
特に、考える力の要求される作文になる、小5以上、中学生、高校生になると、本人が納得のいく1200字の文章を仕上げるには、1時間半ほどかかります。
そのために、多忙な高学年の生徒は、つい作文の勉強を後回しにしてしまうことがあるのです。
そこで、言葉の森がおすすめするのが、音声入力作文です。
音声入力と言っても、普通と同じ速度で話すのでは、いい文章になりません。表現を考えながら話すと、普通の速度の3倍から4倍の時間がかかります。
しかし、それでも、10分も話せば、約1000字の作文が仕上がります。
できあがった文章は、もちろん音声認識ミスがあるので、修正する必要がありますが、全く修正しないままアップロードしても、先生が読むのには差し支えありません。
それぐらい、今のAI音声認識は精度が高くなっています。
そして、いったん作文が仕上がると、それを修正するのには、あまり苦労を感じません。
最初から全部手書き、又はパソコン書きで書こうとすると、1時間半かかる高い山をひたすら登るというイメージですが、音声入力を利用すると、頂上近くまで10分間でケーブルカーで行き、そこで帰ってきてもよいが、一応頂上まで徒歩でもう少し行ってみようという気になるのです。
この音声入力の方法をマスターすれば、夏休みの読書感想文の宿題やレポート提出の宿題も簡単に手がけられます。締め切りぎりぎりになるまで後回しにするということがなくなるのです。
この音声入力講座をオンラインで行います。
■日時
5月26日(土)11:00から30分程度
■準備しておくもの
ICレコーダー
オーディオケーブル(ICレコーダーとパソコンをつなぐもの。35mmオスオスが多いと思います。)
googleドキュメントが開けるブラウザ
テラパッドやワードのように全文置換できる機能のあるエディタ又はワープロソフト
■費用(講座受講料)
言葉の森の生徒及び兄弟、保護者は無料
言葉の森の生徒以外の方は2,000円
▽講座受講料は5月20日まで下記の口座にお振り込みください。
三井住友銀行 港南台支店 普通 6599615 株式会社言葉の森
■参加お申し込みは、下記のページからお願いします。
https://www.mori7.com/kform_pre.php?k=osm201805
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中3の生徒の保護者から、「先生からの電話では楽しく話しているが、その後、忙しいなどと言って作文を書かない」という相談がありました。
同じ悩みを持っている中学生の生徒の保護者も多いと思い、音声入力講座を開くことにしました。
音声入力ができるようになれば、これまで1時間以上かかっていた1200字の作文が、10分ほどで仕上がります。
作文の本質は、書くことではなく考えることなので、忙しいときはこれでいいのです。
では、考えるのはどこでやるかというと、それは構想図を書くところなのです。
音声入力は、日本語ではまだ句読点には対応していません。
本当は、時間があれば、句読点を自撮的につけるソフトを作りたいのですが、いずれそれはgoogleがやるだろうと思うので、今のところその仕事は後回しです。
しかし、ワードやテラパッドの全文置換機能を使えば、敬体の文章の場合かなり簡単に句点がつけられます。
中高生がみんな音声入力ができるようになれば、作文を書くのはもっと楽になると思います。
拝見しました。
面白い試みを教えてくれてありがとうございます。
これからは、作文の書く要素よりも、内容の方が重視されるようになりますね。
いずれ、読書感想文の宿題や、会社のエントリーシートなどもなくなります。
最後に残るのは、対話をすることですから、試験で言えば、口頭試問ということになると思います。
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小学1年生から中学1年生の国語と算数と理科の問題集を見ていてふと思いました。
ここで勉強したことの多くは、忘れてしまっても、生涯困ることのないようなものだろうということです。
ただテストがあるから覚えなければならない、といった類の勉強が問題集のかなりの部分を占めているのです。。
例えば、国語の勉強で、どの言葉がどこにかかるかというようなことは、小学生が覚える必要はないことだと思います。
文章を読んで内容を理解することさえできれば、主語がどうしたとか述語がどうしたとかいうことは二の次、三の次のの問題です。
また小カッコや大カッコや分数や小数を使った複雑な計算も、計算する順序さえ理解していればいいことであって、それを間違えずに早く計算する能力は、電卓の時代にはほとんど必要ありません。
中学生の理科で、左心房、左心室、右心房、右心室という区別をする勉強がありますが、それもそういう区別があるということを分かっていればいいのであって、どこからどこに血液が移動するかというようなところまでは覚えておく必要はありません。それらの知識は人間が覚えていなくても教科書を見ればすぐにわかることだからです。
というようなことを考えると、現在の教育を改善するには、テストで、辞書持ち込み可、電卓持ち込み可、教科書持ち込み可、インターネット検索可を原則にするのが、いちばん手っ取り早い方法になるではないかと思います。
そういう、すべて持ち込み可のテストで残るのは何かと言えば、やはり作文と口頭試問です。
その作文と口頭試問の実力をつけるのは、読書と対話と文章を書く練習です。
特に重要なのは、高度な読書です。
しかし、なぜそういうテストが行なわれないかというと、採点する手間がかかりすぎるからです。
教わる側のことを考えるよりも、教える側の都合で教育が行なわれていることにいちばんの問題があるのです。
これが、心に残らない勉強です。
では、心に残る勉強とはどういう勉強でしょうか。
それは、逆説的に聞こえるかもしれませんが、今挙げた細かい知識の勉強でもあるのです。
ほとんどの人にとって生涯不要になる煩瑣な知識であっても、それが人類の学問からも不要になるのかというとそうではありません。
心臓の細かい働きに強い興味を持っている子は、その知識を学校のテストで求められる以上に深めたいと思うかもしれません。
言葉と言葉の関わりに興味を持った子は、主語や述語や修飾語という区分を超えて、更に深く文法の研究をするようになるかもしれません。
大事なことは、興味を持った人がその興味の範囲で高度な研究をしていくことであって、そのための基礎学力は今のように高く設定しておく必要はないということなのです。
今の学校の勉強のほとんどは、興味の持てない知識をテストという評価によって子供たちに強制しています。
だから、そこで得た知識は、テストが終わればほとんど忘れてしまう心に残らない勉強になっているのです。
心に残る勉強とは、自分が興味を持ったものを研究し、その研究成果を発表する勉強です。
受け身の勉強は心に残りませんが、主体的な勉強は心に残る勉強になるのです。
これからの教育を考えた場合、本当の学力をつけるのは、そのような心に残る勉強の時間をできるだけ多く取ることです。
言葉の森が今取り組んでいる
寺オン作文コースや
発表学習コースについても、その目的は、自分から進んで興味のあることを学ぶという心に残る勉強の時間を大事にしたいということです。
これまでの終身雇用時代の価値観で考えると、人に教わるとか、テストで強制されるとか、間違いを直されるとかいう勉強が、勉強らしい勉強だと思えると思います。
しかし、そのような勉強は、その子のその後の人生にほとんど何ももたらしません。
本人が興味を持って取り組んだことが、あとまで生きる心に残る勉強になるのです。
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小中学校時代、長い時間勉強したはずですが、何を勉強したかはほとんど思い出せません。
それでも、四則計算や、何県がどの辺にあるかということはわかるので、勉強に意味がなかったわけではありませんが、その程度の知識や技能であれば、あれほど長い時間をかける必要はなかったと思うのです。
それよりも、自分の好きな本を読んだり、自分の好きなことを研究したりする時間があった方が、ずっとその後の人生に役立っていたと思います。
今、子供たちがやっている勉強が、本当に意味あるものだと思っている親はあまりいないと思います。
とりあえず人並みにやっておかないと心配だからとか、受験に間に合わせるためにはやむを得ないからと思っている人がほとんどだと思います。
しかし、本当は、子供たちが自分の好きな勉強を、好きなだけやるのがいちばんいいのです。
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