読書作文キャンプの部屋割りを決めたところ、どのコースも、まだ5、6名参加できる余裕がありました。
今回は、那須塩原駅集合解散ですので、保護者同伴の参加が中心になります。
しかし、保護者が同伴できない場合でも、7/21、7/23、7/27の3コースについては、言葉の森講師による引率が可能になりました。
参加を希望される方は、読書作文キャンプのページからお願いいたします。
https://www.mori7.com/stg/
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東京から那須塩原まで新幹線で1時間ちょっとですが、その新幹線の中でも友達と一緒に遊びたいという希望がありました。
そこで、希望される方には、言葉の森で指定席券・乗車券を確保し、参加者に郵送することにしました。
これは、追ってご連絡します。
一緒に行きたい人には、言葉の森で新幹線の指定席券を確保することにしましたが、みんな、はしゃいで騒ぎすぎないようにね(笑)。
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1.体験学習は、当初同じ曜日で3日間としていましたが、ご都合のつかない方も多いようなので、3日間どの日を選んでもよいようにしました。変更される場合は、新しい日程を選び、古い日程は×で消去しておいてください。
2.バグにより8/10と8/24の申込みができないようになっていました。現在は直っています。
3.受講料は下記の金額で7月17日(火)までにお振込くださるようお願いいたします。
▽お振込先
三井住友銀行 港南台支店
普通 6599615 株式会社言葉の森
▽金額(手数料はお客様負担でお願いします)
図書を言葉の森に注文される方 9,180円
図書をご自宅でご用意される方 6,480円
(海外の方は、図書をご自宅でご用意ください。)
※期日までにお振込みがない場合はキャンセルとさせていただきます。
4.体験学習の資料等は、後日ウェブに掲載しご連絡いたします。
5.体験学習の質問・相談・連絡用の掲示板を作りました。ご自由にご利用ください。
https://www.mori7.com/ope/index.php?k=103
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勉強は第三でもいいぐらいです(笑)。
先日、発表学習コースのミニ保護者懇談会で、小学3年生の子の保護者の方から、次のような質問がありました。
「本当に、読書だけでいいんですか」
その子は、それまでは、家庭学習である程度難しい算数の考える問題などをする時間があったそうですが、今の家庭学習はほとんど読書だけの毎日だそうです。
もちろん、それでいいのです。
私の考えは、小学校低中学年で考える問題などやっても意味がないというものです。
なぜかというと、それは本当の意味で考える問題ではなく、パズルを解くような考える問題か、あるいは設定がややこしいだけの難問だからです。
勉強をする毎日の習慣をつけておくことは大切ですが、それは習慣を作ることが主な目的です。
毎日決まった時間に机に向かうことができていれば、短時間でもそれで十分なのです。
もちろん、今の学年で、少し難しい問題をテストで出された場合、長い時間勉強をしている子はその問題がすぐに解けるのでテストの成績がよくなります。
勉強時間が短く、読書だけをしている子は、解くのに時間がかかるので、大体点数は悪くなります。
しかし、ここで目先のテストの点数に目を奪われてはいけないのです。
その子の本当の学力がどのへんにあるかということは、小学校のテストの成績ではわかりません。
その子の学力は、親子の対話の中でおのずからわかります。
親が話したことをそれなりに理解し、自分の考えたことをそれなりに言える子であれば、学力は全く問題ありません。
そして、その学力を育てる根本が読書なのです。
ということを書いているとき、ちょうど「月刊致知」8月号が届いたので、何気なくページをめくっていたら、偶然次のような記事がありました。
今年4月に、川島隆太東北大教授が座長を務める仙台市のプロジェクトで、「読書習慣と学力」の関係を示したデータが出されたそうです。これは、小学5年生から中学3年生までを対象にした3年間分のデータをもとにしたものです。
このデータによると、読書時間が長いほど成績がよく、1日に1時間から2時間読書をする子は、読書をしない子に比べてかなり高い成績を残していることがわかりました。
そして、1日の勉強時間が30分から2時間未満であっても、1日に10分以上の読書をすれば、読書をせずに1日2時間以上勉強している子供より偏差値が高くなっていることもわかったのです。
「読み聞かせが明日の教育をひらく」(泡渕栄人)より
もちろん、読書は年齢に応じて発展させていく必要があります。
それは、先日、「
答えのない勉強としての読書――子供の読書生活をどう発展させるか(その1)」でも書きましたが、毎読、多読、難読という発展段階です。
最初は、何しろ毎日、1日も欠かさずに本を読む習慣をつけることです。これが毎読です。
次は、何しろ好きな本をたくさん読むことです。これが多読です。
中には大人から見てくだらないと思われるような本であっても、本人が熱中しているのであればそれを認めてあげることです。
ただし、ここで言う読書の定義は、字のスペースが絵のスペースよりも大きいものとしますから、マンガ、学習マンガ、絵本、図鑑、雑誌などは含みません。それらは読書ではなく娯楽として読んでいけばいいいのです。
この多読の時期に、その子の読書力よりも難しい本を読ませようとすると、かえって読書の絶対量が減ってしまいます。
多読の段階のあとは、難しい本を読むことです。これが難読です。
小中学生の場合は、説明文や意見文の本で、高校生以上の場合は古今の名著と呼ばれる古典です。
時には、易しい本を10冊読むより難しい本を1冊読む方が時間がかかることがあります。
しかし、易しい本を10冊読むよりも、難しい本を1冊読む方が本当の学力につながります。
そして、難しい本を1冊読み切ることは、易しい本をどれだけたくさん読んでも代替することのできない質的な変化をその人にもたらすことがあるのです。
話は代わりますが、今、寺オン作文コースや、発表学習コースでは、45分の授業のあとに、子供どうしの読書紹介の時間を設けています。
まだ始めたばかりですが、子供たちは、先生がいない中、お互いに上手に司会をして読書紹介を進めているようです。
こういう本の紹介という企画は、家庭でも、近所の友達数人とグループを作ってやっていくことができます。
家庭で孤独に問題集を解くような勉強をするよりも、友達と読んでいる本を紹介し合うような勉強の方が、その子の本当の実力につながっていくのです。
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読書は、なぜ勉強よりも学力がつくのでしょうか。
それは、学力とは思考力であり、思考力とは日本語力であり、日本語力を育てるものは読書だからです。
今行われている勉強のほとんどは、テスト形式の勉強です。
テスト形式の勉強で問われるものは、知識です。
算数数学の問題も、難問になればなるほど解き方の知識が必要になります。
勉強とは、知識をつけるものであり、読書とは、学力をつけるものなのです。
読書好きな子であれば、誰でも、夢中で読んでいて、近く呼ばれても気が付かなかったというような経験を持っています。
また、親に早く寝るように言われても、どうしても続きが読みたくなり、隠れて読み続けたというような経験を持っています。
こういう経験があることが、多読の目安です。
親や先生に言われて、しぶしぶ薬でも飲むかのように読んでいるときは、まだ多読に段階に達していないのです。
しかし、これをすぐに多読にさせようとするのではなく、まず毎読(毎日読書)を気長に続けていくことです。
普段、読書が好きだっただけなので、何故、読書が第一か、というテーマは大変参考になりました。毎読、多読、難読というパターンも示唆を受けました。とにかく本を読むのが好き、ワクワクする、集中する、どうすればこれが出来るか、難しいです。74歳になったいまでも電車で座って本を読みだすと乗り越しをしてしまいます。子どもの時からの習慣としか、言いようがありません。
都筑のふくちゃんさん、コメントありがとうございます。
電車で本を読んで乗り過ごすなんてうらやましいですね。
子供たちもそういう読書生活ができるといいのだと思います。
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発表学習コースは、日常生活で子供が疑問に思ったり関心を持ったりしたことをもとに学問的な研究や実験を行い、それを創造的に発展させて作品として発表するということを目標としています。
しかし、もちろん小学校低中学年の子供が、そこまでできるとは限りません。
小学校低中学年の子が子供だけの力でやろうとしたら、身近な疑問や関心や経験をそのまま取り上げて発表するところまでがせいぜいです。
しかし、家庭で準備することのできる発表学習は、お父さんやお母さんが協力することができます。
子供の関心を学問的な研究と結びつけ、その研究を創造的に発表するというやり方に、決まった道筋はありません。
その発表までに至る過程で、いろいろな試行錯誤や小さな失敗や小さな成功があり、その積み重ねの結果が発表する作品となるのです。
この試行錯誤の過程で子供が学ぶものは、お父さんやお母さんの物事に対する取り組み方の姿勢です。
学校や塾で教わることは、答えのある結果が中心です。
その結果に至る途中の過程で、教える先生が試行錯誤をしたり失敗したり脱線したりするようなことでは授業は成り立たないからです。
ところが、家庭の学習では、失敗も成功も脱線もあらゆることが可能です。
そして、そのときのお父さんやお母さんの取り組み方が、子供の学問や人生に対する姿勢を育てていくのです。
創造力は、教えられて身につくものでありません。
創造に取り組む身近な人の後ろ姿を見て、子供が自然に創造することの魅力を感じ取っていくものです。
特に、小学生のころは、子供が自分の生き方の模範となるような身近な人を求める時期です。
その時期に、お父さんやお母さんが物事に取り組む姿勢を見せることが、子供の成長で大切なものになってくるのです。
言葉の森の発表学習コースは、そういう家庭での親子の対話や協力というものを大切にしています。
これは、お父さんやお母さんにとっても、新しい形の子供との関わり方になります。
発表学習コースは、子供の思考力と創造力を育てるための、家庭における親子の関わりの機会にもなっているのです。
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湯川秀樹が、当初志していた数学の道から、物理の道へ転向したのは、数学の先生に、答えが合っているが解き方が教えられたものでないからという理由で×にされたということがあったからだそうです。
学校の先生としては、そういう指導はやむを得ない面もあります。
学校の仕組みは、1年生が終わったら2年生に進み、2年生が終わったら3年生に進むという形になっているからです。
しかし、家庭は違います。
子供が興味を持つものであれば、小学生でも高校生並みのことができます。
また、その逆もできます。
家庭は、学校の宿題をやるところではなく、独自に子育てをしていくところなのです。
教育は、学校と家庭が協力してやっていくものですが、それは学校が主で家庭が従という関係なのではありません。
学校と家庭はそれぞれ独自の役割があります。
知識と技能の教育が学校の役割だとすれば、家庭の役割は創造と文化の教育です。
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以前、「材料七分に腕三分」ということで書きましたが、作文の勉強で最も大事なのは事前の準備です。
小学校低学年のころは、まだ表現力だけで書けますが、課題が難しくなってくると、保護者への取材など事前の準備の有無が出来栄えを大きく左右します。
寺オン作文コースの利点は、その事前の準備そのものを発表し合う時間を設けていることです。
書いたあとの添削ではなく、書く前の準備が作文力上達のいちばんの近道です。
これは、特に、受験作文のような難しい課題に取り組む生徒にとっては必須です。
幼中から育てていたカブトムシが、突然みんな成虫になりだしました。
えさは、とりあえずバナナ。
昼間は土の中で寝て、夜だけ起きて食べています。
という写真は、記事の中身には全く関係ありませんが(笑)。
記事の内容は、作文の勉強で大事なのは事前の準備という話です。
事前の準備のための保護者とのやりとりの中で、子供たちは学力だけでなく、物の考え方や人としての生き方なども身につけているのです。
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アインシュタインは、軍隊のような学校の勉強が大嫌いでした。
しかし、家に帰ってから、ヤコブおじさんによって数学の面白さを教えてもらったのです。
また、アインシュタインは、厳しい音楽の先生が大嫌いでした。
しかし、家に帰ってバイオリンで遊んでいるうちに、音楽の楽しさに目覚めたのです。(「アインシュタイン」岡田好恵著より)
つまらないことを我慢してやるのが勉強だと思っている大人に教えられれば、その子はつまらないことを最低限のエネルギーでやろうとします。
1時間の枠で勉強しなければならないとしたら、その1時間の間、ひたすら自分ができる問題だけをやり続けたりするのです。
それは、人に見せるための勉強です。
時間をかけても、身につくものはほとんど何もありません。
勉強は、本来学ぶことが面白いと思っている大人によって教えられるべきです。
その大人は、お母さんでも先生でもいいのです。
今の勉強は、面白さをテストや賞品や競争によって演出しようとしています。
そういう外側からの人為的な面白さではなく、勉強そのものが持つ創造的な面白さを味わうようにさせることが大事なのです。
その勉強を、寺オン作文コースや発表学習コースによって広げていきたいと思っています。
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子供たちのやっている勉強が面白いものでないのは、点数のためにやっている勉強だからです。
勉強は、向上のために行うものです。
その向上の先にあるのが創造です。
創造的に勉強すれば、それは限りなく遊びに近い勉強になるのです。
子供たちが、小中学校時代につまらない勉強を詰め込まれている結果が、高校生になって、受験に関係する勉強しかやらない勉強姿勢になっています。
それは一見能率的に見えますが、人生という尺度から見れば全く非能率的なことなのです。
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ある、先生どうしの会合の中で、次のような質問がありました。
「生徒に、算数や数学の分からないところを質問されて、すぐには答えられ答えられない場合、どうしたらよいか」
このようなことを聞かれて、私はとっさに、
「先生は教えるのが仕事ではないので、子供に自分で考えさせるといい。もし、それでもどうしてもわからない場合は、お母さんに聞くようにするといい」
と言いました。
すると、ほとんどの先生は、「そんなあ」という感じで笑っていたようです。
しかし、これは、実はきわめて重要な教育の原則なのです。
それは、教えないことによって子供が真に成長するからです。
もし子供にわからないことを聞かれて、すぐその場で教えれば、そのときは理解が早まりその直後の成績はよくなるでしょう。
しかし、そこで教えられたことは確かにすぐに身につくように見えますが、その定着の仕方は浅いので、すぐに忘れてしまうことが多いのです。
そしてその代わり、教えてもらうことを繰り返して身につくのは、人に教わって学ぶという勉強姿勢の方なのです。
教わって学ぶことに慣れた子は、教えを乞う勉強を続けていきます。
すると、大学入試までは、教えを乞う勉強法で何とかやっていけますが、やがて途中から教えてくれる人はいなくなります。
すると、そこで成長が止まってしまうのです。
もし教えられなければ、自分で考えて理解しようとするはずです。
中学3年生までの義務教育の勉強は、どんなに難しく見える問題であっても、解法を見れば誰でも理解できるようになっています。
解法がない問題を考えるのは時間の無駄ですが、解法がありさえすれば誰でもわかるようになっているのです。
確かに、自分で理解しようとする勉強は能率が悪いので、成績はなかなか上がりません。
しかし、ここで身についているものは、単に成績ではなく、自ら学ぶという姿勢なのです。
自ら学ぶ姿勢を持った子供は、教える人がいなくなっても自分で学んでいきます。
だから、途中から勉強が加速し、それまで能率よく教わってきた生徒をやがて追い抜いてしまいます。
シュタイナー教育の例に見られるように、小学校の低学年のうちはまるで無駄な遠回りをして遊んでいるように見える教育が、途中から自力で学ぶ姿勢によって加速していくのと同じです。
この自ら学ぶ姿勢は、学校を卒業し社会に出てからも続きます。
モンテッソーリ教育を受けた子供たちが、社会に出てから創造的な仕事をすると言われるのは、やはり自ら学ぶ姿勢を身につけて成長したからでしょう。
ただし、もちろん、義務教育の勉強の中にも、子供がいくら考えても分からない問題というのはたまにあります。
その理由は、解法の説明が、その子にとっては不十分だという場合があるからです。
そのときはどうしたらよいかというと、それはお母さんが一緒に考えて教えてあげるのです。
お母さんが教えることも、確かに専門の先生が教えることよりも能率は悪いように見えますが、ここで身につくものは、親が一緒に考えるという家庭の教育文化なのです。
そして、もしそれでも分からない場合があれば、そのときは能率のために専門の先生に聞くというふうにすればよいのです。
中学3年生までは、子供の勉強のわからないところは、家庭で親が一緒bに考えるのがよいと思います。
大事なのは、勉強の内容でありません。
内容が大事になるのは、学問の先端を行く創造的な勉強をする場合だけです。
学校教育のレベルでの勉強は、内容はすでにすっかりできあがっています。その具体的な形が、解答付きの問題集です。
だから、内容を身につけることよりも、その身につけるときの方法や姿勢を身につけることの方がずっと大切なのです。
元キャノン社長の賀来龍三郎さんは、高校時代の恩師から、数学は公式から自分で考えて解けと教えられました。
その勉強法は、大学入試では時間切れという結果に終わり役に立ちませんでした。
しかし、社会に出てからはその姿勢が本当に役立ったと気がついたというのです。
子供の本当の成長を考えるのであれば、今成績を上げることよりも、将来にわたって続く勉強の姿勢を身につけることを第一に考えていくべきなのです
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農業で大事なのは、土だと思われていました。
土を耕し、肥料をやり、病害虫を防ぐという一連の作業が農業に不可欠だと思われていました。
しかし今、そうでない農業が次々に生まれています。
教育も、同じような大きな誤解の上に成り立っているように思えます。
それは、教育で大事なのはいい先生に教わることだという考えです。
確かに、いい先生又はいい大人に出会うことは大切です。
しかし、それは教わることではありません。
そして、本当にいい先生は、簡単に教えたりはしない先生なのです。
日本の伝統文化には、「教わるのではなく盗め」という教え方があります。
教わって身につければ、早く身につくが成長は教えてもらえるところまでで止まってしまうからです。
盗んで身につけたことは、初めは時間がかかっても、いつまでも成長し続けるからです。
子供の教育を考える場合、大事なことは、とりあえず大学合格がゴールだと思わないことです。
また、いい就職がゴールだと思わないことです。
これからの世の中は、これまでの世の中とは違います。
ゴールは、ごく簡単に言えば、その子が自分の個性を生かしてその分野で第一人者となることです。
算数数学に関しては、入試に出てくる問題は一種のクイズと同じなので、解法を教えてもらえればすぐにわかりますが、解法を知らない状態で解こうとすると、その場では非常に時間がかかるという性質があります。
だから、算数や数学の問題は、解法がない状態では、算数数学を日常的に教えている人でなければすぐには答えることはできないと考えておくとよいのです。
しかし、解法があれば、普通の大人が少し考えればすぐに教えることができます。
「憤せざれば啓せず」という言葉があります。
自ら発奮して学ぼうという気持ちのないうちは、教えても素通りしていくだけです。
しかし、そういう子ほど、すぐに聞きたがります。
だから、先生の仕事は、教えることではなくその子にやるぞという気持ちを起こさせることです。
しかし、相手は人間なので、賞や罰でやる気を起こさせることはできません。
それは、人間を動物のレベルに落としてやる気を起こさせることなので、長い目で見ればその子はかえって成長しなくなるからです。
私の子供(小5)はそもそも考えません。算数でも「答えを教えてくれ」と言ってきます。答えを教えないとそこから一歩も進みません。
かほさん、こんにちは。
それは、子供の問題ではありません。
もっと大きな勉強のさせ方の問題なのです。
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小5から高2までの生徒の、5月の森リン大賞の作品を紹介します。
小1から小4のの作文にも森リン点はついていますが、小5になるまでは作品を表示しないことにしています。
その理由は、優秀作品を掲載すると、ほとんどのお母さんが自分の子供にその作文を見せて、「こんなふうに書けたらいいね」というようなことを言うからです(笑)。
上手な作文を見せられて、すぐにそれと同じように書ける子は一人もいません。
上手な作文を見せることは、ただ子供の自信を失わせるだけです。
小4までは、ほかの人とは比較せずに、その子の作文のいいところをしっかり評価してあげればそれで十分なのです。
ところが、5年生になると、子供の中に向上心が出てきます。
子供自身が、ほかの人の上手な作文というものを見たいという気持ちになるのです。
さて、小5から高2までの作文を並べると、1年の違いで子供たちの考え方や表現力が大きく変化していることがわかると思います。
作文の評価は、主観的なものになりがちですが、この森リン点の評価というものをひとつの参考にするとある程度客観的に見ることができ、作文の勉強のひとつの目標になると思います。
■小5の部
いけ!満塁ホームラン
スライム
「カン、カン、カン。カンカンカン。」
まるでたいこをたたいているかのような音がドームにひびきわたる。
二〇一八年五月三日。私は、父、母、おばと野球観戦のため札幌ドームに訪れた。野球観戦をしたのは、これで四回目だ。対戦チームは、北海道日本ハムファイターズと東北楽天ゴールデンイーグルスだった。私は、日本ハムを応援した。
この日は、子ども限定来場五〇〇〇名様にスカイブルーのぼうしがプレゼントされる。そして、通常の代金より上乗せすると、スカイブルーの新ユニホームもゲットできる。
それでは、このユニホームのしょうかいをしていくとしよう。日本ハムは今年、球団が北海道の地に誕生して一五周年を迎える。一五周年プロジェクトの一環として、今シーズン、ホーム・ビジターと並ぶスカイブルーの新ユニフォームを着用するようになった。
私が野球観戦をした時の先発投手、日本ハムは、高梨選手だった。いっぽう楽天の方は、辛島選手だ。試合は、四回の表。私と母、おばがお手洗いへ席を外した時の事だ。楽天のペゲーロ選手に六号ソロホームランを打たれた。楽天に一点の先制点を取られてしまった。ペゲーロ選手の打率は、一割七分六厘だ。
四回の裏から七回の表までは、日本ハムになかなか点が入らなくて正直たいくつだった。母が
「あーぁ。ぜんぜん点が入らないね。ひまだからおかし食べよう。」
とつぶやいた。
試合は、七回の裏。ついに奇跡が起きた。五番指名打者で出場していた清宮選手がヒットを打った。その後の渡邉選手に代わり、杉谷選手にもヒットが、石井選手が鶴岡選手に交代し、またもやヒットが生まれた。続いては清水選手だ。清水選手の打率は、一割八分五厘だ。現在は一アウト満塁。
「カン。」
打球は、観客席の方へと運ばれた。満塁ホームランだ。ついに来たのだ。私は、満塁ホームランを見たことがなかった。だから、今日見られたのがとてもうれしくてうれしくて、まるで天にも昇るかのような気持ちを覚えた。
観客席に腰を下ろしていた人は、こうふんのあまり、両手を挙げて立ち上がっていた。そして、大声をだしてさけんでいた。快哉をさけぶような楽しい戦いだった。人間は、何かうれしいことがあると、無意識のうちにさけんでしまう。このような傾向にあるということをこの経験を通じて分かった。
■小6の部
集める楽しさ
あいつつ
「10シールゲット!、1冊目制覇だ!」僕はおもわず叫んでしまった。目標を達成して、とても嬉しかったのだ。
僕は塾でシールというものを集めている。1回の授業につき10枚のシールをもらえ、授業のテストで満点だと4枚もらえたり、週に一度のテストで成績優秀者として掲示されると一気に50枚ももらえることができたりなどと、いろいろなところでシールをもらうことができる。集めたシールは、シールを貼る台紙に貼っていき、台紙1冊につき1080枚貼ることができる。シールの枚数によって、もらえるものが違い、20枚で鉛筆、100枚でノート、250枚でシャープペンシル、……などというものがもらえる。僕は、ついに1000枚を集めてホワイトボードをもらえるようになったのだ。ずっとホワイトボードが目当てでシールを集めていた。なぜなら、いつも塾ではホワイトボードを使って授業をしていて、憧れていたからだ。僕もいつか弟にホワイトボードで何かを教えてあげようと思っていて、集まった時はまるで天にも昇るような心地だった。このように、ものを集めることによって、頑張った分だけシールがもらえ、それをものと交換をするという実際の社会にもあるようなシステムを体感できる。楽しみながら、実際の社会に入るためのシュミレーションができるのだ。
昔、お母さんはペナントというものを集めていたらしい。旅行に行った時にその記念品として買い、家に飾って旅行の思い出にしていたらしい。三角形の旗で、飾りやすく、その土地の特徴が書いてあるらしい。部屋に飾っていると、たくさん集めた時に達成感があって、また集めたくなるらしい。ペナントは写真のようなものだと言っていたので、家族でかざってあるペナントを見て「こんなところに行ったよね」などという会話をしているのかな…などと考えていたが、実際にはそうでもないらしい。しかし、ペナントを見るだけで楽しく、集めれば集めるだけ楽しめるのだ。集めるものは、たくさん集まってきてからが楽しい。
人間にとって集めるとは、自分の楽しみを増やす行為なのだ。集めるものには、その人らしさが出ると思う。なので、成長するにつれて集めるものも変わると思うのだ。「塵も積もれば山となる」という諺がある。何かものを集める時は、少しずつ集めていけば、いつの間にかたくさん集まっていて、達成感を得られるのだ。僕はこれからも、何かものを集める習慣をつけて、自分の楽しみを増やしていきたい。
■中1の部
大切なものとは
サーサ
「ちょっと古びたけれど、まだ使える。」
人は、お金に換算できない価値を大切にすることが多くある。商品としては売れなくても、心がこもった贈り物というものはよくある。僕は、お金に換算できない価値を大切にすることはよいと思う。
その理由は第一に、お金に換算せずに物の価値を考えると、その物の本当の良さが見つかるからである。例えば僕も、自分の机や人からもらった鉛筆や小学校入学と同時に買った筆箱など、大事にしているものは山ほどある。今もっと新しいものが買えるが、しかし、これらの物は手放せないと僕は、思う。それは、もしかすると、小学校時代を共に過ごしたものだからかもしれない。そういうものが、誰にも一つはある。現代は、お金の単位で表せるものが世の中を動かしている。しかし、自然を切り拓いて工場やダムをつくることは、短期的には経済を豊かにすることはあっても、長い目で見ると、お金で表せない価値を失っていることになるのかもしれない。騒がれているものの代表的な例を挙げるとしたら、自然破壊だろう。さらに具体的に場所を挙げるとしたら、釧路湿原もその一つだと思う。釧路湿原には、干潟のような場所が開発されてしまった東京湾よりも多くの鳥がいる。しかし、今ではそのほとんどがレッドリストや絶滅危惧種に指定されている。このように、自然という大きな遺産が失われていくのも、「金に目がくらんだ」という言葉のように、人間がお金に換算するということしか考えていないからではないだろうかと僕は、感じる。道端に咲いている可憐な花に値段をつける人はいない。そのものをお金に換算することが資本主義社会において重要であることは分かり切っている。しかし、それは経済でしかないのであり、心は経済ではない。二宮尊徳も、「道徳なき経済は罪悪であり、経済なき道徳は寝言である」と言っているように、刹那主義の経済でなんでもお金に換算するのではなく、経済的な価値から離れて考えるとその物の持つ本当の良さが見えてくるのだ。
第二の理由として、お金に換算して物の価値を考えると、その物の価値が見えなくなることがあるからだ。前述したように、お金に換算して考えるとほとんど価値のないようなものでも自分にとっては大事なものが必ずある筈だ。お金に換算して考えるとその物の持つ本当の良さを見失ってしまう場合がある。株や会社を売り買いして、巨額の資産をもうけていたアメリカの資本家、ジェシー・リバモアは、一躍有名となった。彼が全盛期だった頃は、皆その勢いがずっと続くのではないかと思っていた。なぜなら彼は、世界恐慌を逆手に取り、更にお金を儲けたからだ。しかし、その後調子に乗った彼は株で大失敗し、ついに自殺の道を辿った。僕は、ジェシー・リバモアはお金だけが人生だと思っていたのかもしれないと思った。そこが間違いだったのだろう。暗い例だけではなく、明るい例も勿論ある。荘川桜という桜の話だ。この桜は村の中心にあり、村の人々は、この桜を大切にしていた。しかし、村にダムが作られることになり、村は沈むことになった。そのとき、村の人々は桜もつれていきたいと思ったが、予算的にも無理難題だった。しかし、ダムを造る電力会社の社長が動いて専門家を呼び、移植することにした。桜は、一本でも枝が折れると駄目になってしまう。そこで、なんと人工の防腐剤であるタールを塗り、奇跡的に移植に成功したのだった。しかし、この事業には巨額の資産をつぎ込んだので、一時大損だと囁かれた。それでも、いまでは奇跡の桜として観光名所となっている。一時のお金より、皆を幸せにする方が大切だという考え方だったのだろう。自分の価値観を重視したからこそ、実現できたことだろうと、僕は感じる。
確かに、物の価値をお金に換算するとわかりやすいという意見もある。しかし、「自分の心のうちにもっていないものは何一つ自分の財産ではない」という名言があるように、お金には換算できないものの価値というものも大事にするべきだ。だから僕は、お金に換算できない価値を大切にすることは良いと思う。これから僕は、周囲の意思に関係なく、自分の価値観を持ちたい。
■中2の部
機械化の必要さ
ぜろくん
身の回りにある物の中で機械化すべき物と機械化すべきではない物に分かれる。例えば、エアコンや扇風機は、夏などの暑い日に使うとすごく便利な機械である。現在は昔と比べて地球温暖化が進み、今まで以上に暑い日が多くある。そうなると、エアコンや扇風機はあった方が快適な生活を送ることができる。しかし、エアコンや扇風機がなくとも生きてはいける。機械化は人間が本来持っている能力の消費へとつながってしまう。時には、機械に頼らず我慢したり、ちょっとした工夫をしたりすることも大切になってくるのではないかと思う。自動車など二酸化炭素を排出してしまい、大きな環境問題の地球温暖化や空気汚染にもつながってしまうが、今では、二酸化炭素の排出を抑えるために電気自動車やハイブリット車など環境にやさしいバイオ燃料といったものが開発されている。そういった環境問題を重視しつつそれにあった物を開発していくことはすごく良いことであると思う。
便利で快適な生活はよいと思う。科学の技術は日を重ねるたびに発達していく。そうなると人間の生活は便利で快適な生活へと変わっていく。エアコンや携帯などがあることで、スイッチ一つ押すだけで涼しくなったり、暖かくなったりする。また、メッセージを打ち込み送信するだけで、遠くにいる人と会話をすることができる。そういう科学の発達で人間の生活はより快適ものへと変わっていく。どんな人間でも自分自身で工夫したり考えたりしないといけない生活とスイッチ一つで快適になる生活なら快適な生活を選ぶだろう。だからこそ、便利で快適な生活はよいと思う。また、機械化されるということは、快適な生活を送れるだけでなく自分自身の癒しや趣味などにもつながる場合があり、楽しく生活を送ることができるのだ。
しかし、機械化されていないシンプルな生活もいい。実際のところ機械を使う必要性がないというものもあるだろう。自動車やエアコンなどすごく便利な機械があり、誰もが利用しているものであるが、地球環境問題につながる、二酸化炭素を排出している。他にも空気汚染などにもかかわってくる。機械はすごく便利だが、その反面マイナスな部分あるのだ。機械を使わないと生活が厳しいということももちろんある。本当に必用な機械だけを身の回りにおいて自然や環境を大事にシンプルな生活をしていくことによって見えてくるものがあるかもしれない。また、機械に頼りすぎない生活を送ることで我慢する力や自分の力で考え実行する力が発達すると思う。
確かに機械化された便利で快適な生活にも素朴でシンプルな生活にもそれぞれの良さがある。しかし、一番大切なことは、「私たちの人生は、私たちが費やしただけの価値がある。」という名言があるように、自分の満足のいく生き方を常に模索しながら生きていくことである。また、自分の好きなように行動するにあたってしっかりと考えてから行動するということを大切に生きていくこともこれもまた重要なことである。
■中3の部
ニーズとウォント
られし
日本語の「必要」という表現は、英語では二つある。「need」と「want」だ。ニーズは理性による判断で、ウォントは欲望だ。同じ意味の二つの言葉でも、僕はウォントを大切にしたいと思う。「しなければならない」よりも「したい」の方が楽しいだろう。僕は小学校の頃学校のバスケットボールクラブに入っていた。それは、友達に誘われて断れきれずに入ったもので、あまり上手くなれず三年間やったが、初心者の人をなんとか抜けることくらいしかできるようになれなっかた。また、そこまで楽しくなく、朝練がきついなと思うくらいだった。しかし、中学校に入り部活を決める時、僕は自分の意志(ウォント)でバドミントン部に入った。そこでは練習もはかどりとても楽しかった。また、かなり、入る前より上達したと思う。部活内でのランクは、同学年男子5人中、2位まで上がることが出来た。当然、練習や試合はきついこともあるが、高校へ入っても、部活ではなく、クラブに入りたいなと思っている。初心者と試合をしても絶対に負けない。同じ約三年間でも、自分の意思でやれば、楽しいし上達する。だから、僕は、ニーズよりもウォントを大切にしたい。
そのための方法として第一に、目標を定め、その目標を達成するという強い信念を持つことだ。将来の夢を実現させたいという強い意志があれば、自然とやる気が出て、ニーズからウォントに変わるはずだ。僕は、中学校三先生の小テストは、全て満点、定期テストは全て9割以上取りたいと思っている。二年生の頃は、小テストは半分以上満点だが、9割や8割しか取れないものもあった。。また、定期テストにも8割が半分以上で、7割も少しあった。9割のものもあったが、多くなかった。三年生こそは、中学校最後だから、絶対に達成したいと思った。そうすれば、自然と成績を今より伸びると思う。はじめのうちは、そのことを達成するためにやるしかないという「ニーズ」という気持ちでやっていた。しかし、改めて考え直すと、それができたらそれはとてもすごいことで達成したいと思って目標を掲げ直してやった。すると、自然と「今からやれば、きっと達成できるからやりたい」と思うと、「ウォント」になった。映画「ビリギャル」のモデルになった塾の先生、坪田先生が実際に書いた本を持っているが、そこには、新しい生徒と志望校を決める時には必ず「東大にする?」と聞くと書いてあった。それは、目標が高ければ、それに近づくのがうれしくなり、勉強が楽しくなるからだそうだ。
また、第二の方法として、社会の固定観念に惑わされないことだ。「一流大学卒」、「エリート街道まっしぐら」、「大手企業社長」と聞くと僕は、「この人は、目標を達成して、よい人生をこれから送るんだな」と思う。しかし、それは、狭い考え方である。例えば、歌が下手な人が「俺、歌手になるために上京する。」と、言ったら全員やめた方が良いと思うだろう。しかし、それはそれで良いと思う。人に迷惑をかけずにいればウォントの状態で楽しいだろう。例え、一流大学卒でも、「楽しい」ということを知らなくては悲しい。例え、エリート街道まっしぐらでも、人とのコミュニケーションが全くできなければつまらない。例え、大手企業社長でも、会社が潰れたら借金まみれになる。だから、仮に周りが羨んでも、自分にとって、「ニーズ」だったら誰も羨まないだろう。そればら、周りが何と言おうと、自分の「ウォント」を大切にしたいと思う。僕のクラスに「欅坂46」が大好きな人がいる。男なのに、欅坂のピンクのファイルを使ったり、それを見て、一人で笑っていたり、そのことについて、別の人に言われると切れたり…とても気持ち悪い。当然、友達もいない。しあかし、自分が好きでやっているから、良いと思う。このように、周りにどう思われても、自分のい「ウォント」を大切にしていくべきだと思う。
確かに、自分が嫌な事でも、やらなくてはならないこともある。しかし、「知識がはしごを作ったのではなく、二階に上がりたいという熱意がはしごを作ったのだ。」という名言もあるように、僕は、自分の中にある「ウォント」を大切にしていきたい。
■高校生・社会人の部
思いやりを取り戻す
りすっぴ(高2)
ロボットが生きているかどうかと問われれば、たいていの人は生きていないと答えるだろう。何故なら、ロボットに心臓はないし、血も流れていない。人間と同じ機能を持っているとは言いがたい。しかし、それは「ロボット」という大まかなくくりでの話だ。ある特定の物体が、分類上の名詞ではなく固有名詞を得たとき、それは確かに「生きている」ものになるのである。例えば、ネット上には、ボーカロイドというものが存在する。「初音ミク」という名前を聞いたことがある人もいるのではないだろうか。ボーカロイドはその名前から想像されるとおり、機械音声である。実在の人物の音声をベースにしているとはいえ、生きているとは言えない。ところが、「ボーカロイド」は機械でも、「初音ミク」は生きている人物なのである。初音ミクのためだけにライブが開かれ、グッズが飛ぶように売れ、何十万何百万という人が初音ミクの動画に熱狂する様は、何も知らない人にとっては滑稽でしかないだろう。それは、初音ミクのファンはミクが「生きている」ととらえ、ファンでない人は「生きていない」ととらえている認識の違いだ。ファンにとって、初音ミクは実在のアイドルや歌手と何ら変わりが無いのである。このことは、個人個人が自分以外の物といかに関わるかによって、物に心があるようにもないようにも変化していくという良い例だ。相手の心に対する想像力に欠け、人と人とが傷つけ合う今の社会には問題がある。
第一に考えられる原因としては、仮想体験が増え、リアルに体験する機会が少なくなっていることだ。いくら電子世界で経験値を積んだところで、実際の生活には役に立たない。今の子供達はそれが理解できないほど、現実と仮想の境目があいまいになり、人の心を思いやることがなくなった。例えば、社会科の実習で戦争に関する博物館に行ったことがある。ほとんどの生徒は静かに展示を見ていたが、一部の生徒が大声で喋りながら展示を見ていた。考えていることをそのまま口に出しながらである。この行為は他の客の迷惑になるばかりか、戦争を実際に体験した方への侮辱であると感じた。最近の子供には他人を思いやるという動作が存在しない人がいると実感した出来事だった。
第二の原因としては、物が豊富な使い捨て社会にあって、日本古来のアニミズムを継承できなくなったことだ。日本人は全てのものに神が宿り、それらは生きていて心を持つと考える文化を持っていた。それ故に、物を大切にし、愛着を覚えるのだ。例えば、古事記には様々な神が登場する。太陽であるとされる天照大神は有名だ。他にも月や農業の神などたくさんの神がいる。八百万の神と称されるように、神の多さは他の文化と比べても随一である。しかし、古代の日本人はこれらの神々を全て信仰していたのだから驚きだ。神が宿ると思えば、自然と物に対しても敬う気持ちを覚える。神の存在を忘れた今となっては、物を消費される存在としてしか見られないのも納得できる。
確かに、他人の心や無機物に心があると想像するのは時間がかかり、非効率的だ。時間の無い現代人には難しいかもしれない。しかし、心とは個々が他人には理解し得ないものとして持っているのではなく、根底では同じものを持っているはずだ。だとすれば、想像するのも難しくはないだろう。他人の心を想像することを大変な重労働としてとらえ、想像することを諦めている現代社会こそ問題である。
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作文教育の弱点は、評価が客観的でないことです。
だから、生徒は、褒められてもなぜ褒められたのかわからない、低い評価がされてもなぜ低い評価になったのかわからない、ということがありました。
人間は、目標が明確になれば意欲が出ます。
だから、少しでも客観的な評価にしたいと思い森リンを作りました。
今後は、これをAI化していく予定です。
森リン点で評価しているのは、作文そのものではなく、作文に表れたその生徒の作文力です。
作文力とは、作文に表れた学力です。
目安として言えば、90点以上が東大レベルです。
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