言葉の森が40年前、作文教室という名前の教室を開いたころ、作文を教える教室というのはどこにもありませんでした。
国語や漢字の勉強ではなく、純粋に作文だけを教える教室というのは、どこにもなかったのです。
その作文教室を始めた動機は、作文教育というのがおもしろそうだからという単純なものでした。
学校で行われているいろいろな勉強、例えば、国語、算数、理科、社会などは、特に誰かに教えてもらわなくても、独学でもできるものだと私は思っていました。だから、国語の勉強を教えるというような発想は全くありませんでした。
作文の教育というものが、単なる教科の勉強ではない、創造性を育てる勉強になるという予感があったので、その予感で作文教室を始めたのです。
作文の教育法というものも、確立したものはもちろんなかったので、最初は、古今の作文教育に関する本を手当たり次第に読むことから始めました。図書館に行ったり、古本屋で探したりして、作文教育に関する本を最初の1、2年間で約200冊読みました。
そして、実際に小学生の子供たちを集めて教室を開きましたが、小学生の作文指導というものがかなり難しい面があることがわかりました。
それまでは、大学生対象の作文教室を一時期開いていましたが、大学生のような大人を教えることはそれほど難しくありません。既に文章を書く力が備わっているので、書き方の方向を教えれば、誰でも書けるようになり、それを繰り返す中で上達していくからです。
しかし、小学生の中には、書く力がほとんどなく、作文が書けないからと言って騒ぐだけの子もときどきいたのです。もちろん、よく書ける優秀な子もいましたが、どの子にも共通することは、教えてすぐに上達するわけではないということでした。
それは、作文というものが、作文を書く力だけでなく、その土台にある読む力に大きく左右されていたからです。作文力は、読む力をつけなければ、根本的には上達はしないということがよくわかってきたのです。
そこで、音読の教材を作ったり、暗唱の教材を作ったり、作文に入れる表現の項目を決めたり、高学年の場合は構成の仕方を決めたりといういろいろな工夫を行いました。表現の項目や構成の仕方を決めると、子供たち目標ができたので、作文をより意欲的に書くようになりました。
これらの工夫はすべて、子供たちの作文力を何とか上達させたいという気持ちで始めたもので、そのため、教材や教え方が最初のうちは毎月のように変わりました。
一時期、山の斜面を登っている夢を見ました。行けども行けども、草木が立ちはだかり、尾根にはいつ出るかわかりません。最初のうちは、遠く離れた隣の山に同じように登っている人が見えたのですが、今はもう同じ高さを登っている人は誰もいません。ただ、自分だけが見通しのない山の斜面をひたすら登っていくのです。しかし、そのとき同時に、その苦労が楽しいという気持ちもまたあった、という夢でした。
そうこうしているうちに何年かたち、作文の指導法がだんだん固まってきました。しかし、指導はできても、作文の評価というものは、見る人の主観によってかなり異なります。
子供たちは、自分で自分の作文を評価できません。これは大人も同じですが、作文というものは自分では評価できないものなのです。だから、子供たちは、先生や親から褒められば自分は作文が得意だと思い、逆に先生や親から直されれば自分は作文が苦手だと思います。そのために、作文指導に熱心な先生に教わるほど、作文に苦手意識を持つ子が増えるという傾向もあったのです。
当時、2003年ごろだったと思いますが、アメリカでイーレイター(Erator)という、小論文の自動採点ソフトが作られたという記事をインターネットで読みました。
ちょうどそのころ、自分自身がプログラミングの勉強を始めていたので、自分でも同じようなものが作れるかと思い、それまで子供たちにパソコンで書かせていた作文を元データにして、いろいろな処理をしてみました。
すると、1ヶ月もたたないうちに、人間の評価とかなり相関の高い自動採点のソフトができたのです。そこで、このソフトに「森リン」という名前をつけ、作文指導のひとつの方法として取り入れることにしました。これは、今でも使われています。
このように、作文指導だけを追求していた結果、言葉の森のオリジナルな指導法がかなり積み上がってきました。そして、作文指導の方も、次第にはっきりとした成果を上げるようになってきたのです。
しかし、やがて、こういうオリジナルな指導法も、誰かが真似するようになるだろうと思いました。それは、言葉の森が作ったオリジナルな長文が、ほかの学校などで使われていることを保護者から聞いたことがあったからです。
その長文というのは、当時の日本に子供たちが読むための説明文の本が不足していることから、言葉の森の講師が独自に作った1200字程度の文章集です。この長文の特徴は、説明文であること、明るい内容であること、美しい表現であること、そして笑いがあることでした。この「笑い」を入れるところが最も苦労したところで、一つの文章に面白いダジャレをいくつか入れるために、その文章を書く時間の何倍もの時間を使いました。そういう力作の長文が、ほかの学校で教材として利用されていたというのです。
しかし、私は当時話題になっていたオープンソースの運動というものに共鳴していたので、よいものは、自分だけのものにせず、誰でも自由に使いたい人が使ってよいとするべきだいう考えを持っていました。だから、そのことに関しては何もしませんでした。
そして、そのことから考えて、言葉の森が今オリジナルな教材や指導法として使っているものも、やがて多くの人にコピーされ使われるようになるだろうと思ったのです。
そして、それならば、最初からみんなが使える形でオープン化してしまえばよいと考えました。
そこで、言葉の森のオリジナルな教材と指導法を全部使える形にして、それを森林プロジェクトの作文講師資格講座として提供することにしたのです。
それは、ある意味で、言葉の森の競争相手を多数作ることでしたが、それならそれで、言葉の森自身がよりよい指導を開発し続ければよいと考えたのです。
この森林プロジェクトのシステムは、うまく使えば、言葉の森と同じことができるはずですから、きわめて高い価値のあるものです。そして、実際に、この教材を使ってたくさんの生徒を教えている先生も出てきました。
しかし、作文指導というものは、やはりほかの勉強と違って難しいところが多く、資格を取得して教材が使えるようになっても十分に活用できない講師もいました。
さて、話は少し変わりますが、私が作文教室を始めた動機は、作文が子供たちの創造性を育てる勉強になるという予感があったからでした。
言葉の森が作文教室を始めたころは、受験に作文が使われるということもなかったので、子供を言葉の森に通わせる保護者は、純粋に作文の勉強というものがちょっと変わっていて面白そうだからということだったと思います。
しかし、その後、大学入試で小論文試験が行われるいようになり、やがて推薦入試などで作文が使われるようになり。そのうち、公立中高一貫校の入試で作文が使われるようになりました。
そのころから、言葉の森以外の作文教室というものもあちこちで生まれてきたのです。
それらの新興の作文教室、あるいは作文講座や文章教室というものは、社会に作文というニーズがあるから始められたものです。ある意味で、作文指導というサービスが売れそうだから始めたというのが出発点です。
言葉の森も、今の社会の中で運営していくためには、売れることを考えなければなりませんが、もともとの動機は売れるかどうかとは違うところにありました。
子供たちの創造性を育てるということは、もっと大きく言えば、日本という国をよい国にしたいというところから出てきた気持ちでした。
森林プロジェクトを始めてから、しばらくして2011年3月11日に、東日本大震災がありました。
そのとき、自分が日本を守るためにどういうことができるかを真剣に考えたのです。
そこで出た結論が、作文だけでなく全教科を創造的に教える教育をすることでした。そして、その担い手として森林プロジェクトの講師の力を借りられるのではないかということでした。
日本は、政治の面では、まだ自立した国になっていません。経済の面では、量的には中国に追い越されるようになっています。そして、教育の面でも子供たちの学力や文化力が次第に劣化しているような印象を受けます。今の子供たちは、自分たちが子供だったころよりも、はるかに長時間勉強しているように見えます。しかし、学力特に思考力の面ではかえって全体に低下しているように思います。そして、戦前の教育について書かれた本などを見ると、自分たち自身もその親や祖父の世代よりも、学力的にも文化的にも低下しているように思えたのです。
日本をよりよい国にするために、自分が今の立場でできることは教育を立て直すことで、そのためには何をするべきかと考えました。そこで考えたこれからの教育の目指す方向が、次の4つでした。
第一は、受験のための教育から、実力のための教育へという流れです。本当に役に立つことだけを勉強するのであれば、教育はもっと簡素化でき、その分子供たちはより大事なことに時間を使えるようになります。
第二は、学校や塾の教育から、家庭と地域の教育へという流れです。これは、子供の教育を外部の機関に任せてしまうのではなく、家庭と地域もっと重要な役割を担うべきだということです。
第三は、点数の教育から、文化の教育へという流れです。これは、点数化できないことにこそ重要なものがあるという考えです。
第四は、競争の教育から、創造の教育へという流れです。今の教育は、競争に勝つことを目標としがちですが、そうではなく、競争を超越した創造力を育てる教育をしていく必要があるということです。
この教育の新しい方向というものを考えていると、教育という分野こそ、次の時代の経済の中心になるのではないかということがわかってきました。
これまでの経済の中心は、主に製造業という工業でした。工業製品を作るためには、資本や設備が必要です。だから、資本主義というのはある意味で工業時代の経済だったのです。
この資本主義の担い手として、中国などの新興国が力をつけてきました。それは、最新の設備と比較的安価な労働力で、これまでの日本のような先進国の古い工業の基盤をコストの面で上回るようになってきたためです。
世界にはまだ貧しい国や地域がたくさんあります。それからの国々や地域がこれから先進国と同じ生活を目指すとなれば、工業時代のニーズは更に広がり、新興工業国の経済は更に発展していくように見えます。
しかし、日本が工業化に成功して豊かになった時代には、工業製品の絶えざる開発と新しいニーズの創造というものがあったために、工業生産が利益を生み出していたのです。
今の新興工業国の作る工業製品は、新しい開発の余地のあまりない言わば完成されているのに近い工業製品です。需要も供給も完成に近づいているということは、利益率が低下しているということです。そして、工業のフロンティアに関しては、宇宙開発とか海洋開発のような大きなプロジェクトはあるように見えますが、それらの開発が終われば、大衆のレベルでは、これまでの自動車などに代表される大きな工業製品の開発というものは次第になくなっていくと思われます
そのとき工業製品を生産する側が、利益率の低下に対応する道は、機械化による人件費の削減です。これは、大きな企業になるほど顕著になってきます。グローバリズム自体が、工業時代の終焉が近づくことに対する対策でした。これから進む機械化やAI化も、利益率の低下に対する対策なのです。
しかし、その対策をすればするほど、今度は雇用される労働者の賃金が減り、社会全体での需要はかえって縮小していきます。
工業時代が終焉しつつあるというのは、特に先進国では、欲しいものがないという形で表れています。では、先進国でのこれからのニーズは何かと言えば、それは工業製品のような対象物としての物ではなく、自分自身の人間としての向上や経験や交流や創造のような自分を変えるというものになるのです。
それは、別の言葉で言えば、「もっとこういうことができるようになりたい」という自分自身の教育に対するニーズです。そこには、「もっと美しくなりたい」「もっと健康になりたい」「もっと賢くなりたい」なども含まれますが、より本質的には、「自分の好きな分野で自分自身が何かを創造することができるようになりたい」ということだと思います。
この教育へのニーズというものは、個性によって限りなく多様化するので、大企業が大きな需要を見込んでサービスを提供するという形にはなりません。個性的な特殊な興味関心がロングテールとしてどこまでも広がるようなニーズとして登場します。
そして、この教育ニーズの重要なところは、教育を需要する人が、その教育に習熟するにつれて、今度はその教育を供給する側に回れるということです。その際、単に自分が教えられたことをそのままほかの人に教えるようなやり方ではなく、自分なりの好みや個性を加味して新しい供給として提供することが可能です。
そして、その過程で、新しい開発と新しいニーズが生まれるたびにそこに新しい利益が生まれるようになるのです。
すると、この利益の総和は、工業社会が完成された需要と供給の中でただ循環するのとは反対に、常に新しい需要と供給が創造されることによって拡大する循環という形になるのです。
この教育、更にその成果としての文化を作り出す産業を教育文化産業と呼ぶことができます。この教育文化産業に最も適した国が日本です。それは、大衆的に教育文化に対する幅広い需要があると考えられるからです。
更に、日本にはその教育文化をより洗練化された形に作り上げる繊細な文化的伝統があります。その文化的伝統が、文化に多様性を生み出します。また、日本には、その文化をより超越的なところにまで「道」として高める文化的伝統もあります。新しく生まれるさまざまな文化の中には、将来、茶道や華道や剣道などの「道」の文化につながるものも生まれてくるはずです。
そして、この教育が行われるところは、個人の身体です。教育は、人間が自分の身体を通して習熟するという形で需要されるので、コピーしたり、物として大量生産されたりするものではありません。だからこそ、教育においては、需要者がやがて年数とともに供給者に変わるということが起きてくるのです。
教育が個人の身体に根ざしていることは、二つの特徴を生み出します。それは、その教育を最も高いレベルで受けるためには、ある特定の人に、ある特定の場所で教わる必要があるということです。
すると、日本社会が教育文化の面でさまざまな新しい教育分野を生み出すにつれて、諸外国の人も、その教育を学びに日本を訪れる必要を感じるようになるということです。もちろん、日本が、現在、空手や合気道の道場を諸外国に輸出しているように、教育文化の分野でも、学校や教室を輸出するということは出てきます。しかし、その場合でも、最後の目的地はその教育文化の発祥の地であり、その教育文化の創始者になるのです。
そして、完成された工業製品が利益率を低下させるのとは反対に、創造的開発を続ける教育文化では、値段のつけようのないものも次々に生まれてきます。それらも供給者が増えるにつれて利益率が低下しますが、その一方で新しい創造的開発が次々に生まれてくるのです。
それは、教育文化産業の特徴として、全くの個人が生産者になれるというところから来ています。もし人口が一億人いれば、その一億人がそれぞれの創造的な文化を自分の興味と関心に応じて作りだすということも理屈の上では可能です。
これまでの工業時代には、製品を開発するのは一握りの人でした。しかし、教育文化産業の時代には全員が生産者になり開発者になれるのですから、その創造の爆発力は比較にならないほど広がるのです。
この一人ひとりが創造者になる教育文化産業時代にちょうど合わせるかのように、ブロックチェーンの仕組みも生まれてきました。どこかの大きな組織に属さなくても誰もが自分で会社のような組織を運営できるようになってきたのです。
もちろんすぐに、この教育文化産業が日本中に広がるということはありません。しかし、そのための方法はある意味で簡単です。それは、国や地方自治体のレベルで、創造文化祭典を定期的に開催するのです。その祭典の受賞者には、ちょうど今のオリンピックの金メダルや、もっと言えばノーベル賞並みの価値が与えられるようにするのです。すると、それが呼び水となって新たな教育文化を創造しようとする人が続々と生まれてきます。そして、その中のいくつかの教育文化が、新しい地球の文化として大化けする可能性があるのですから、創造祭典はすぐにもとが取れるようになります。
今の地球の生産力は、実は人類全体を養うのに十分になっていると思います。世界に貧困が残っているのは、主に政治的な問題であって、経済の問題ではないのです。
すると、国民にベーシックインカムを保障した上で、自由な創造に誰もが参加できる社会も可能になります。
ここで話は、急に現実的なところに戻りますが、このような時代が来ることを見越して、言葉の森は、森林プロジェクトの寺子屋オンライン作文講師を広げたいと思ったのです。
ところで、今、日本は他の国に比べて豊かであるかもしれませんが、若者を中心に貧困が拡大しています。それは、子供たちの教育環境の格差として表れています。
だから、寺子屋オンラインで行う教育は、受講料をできるだけ安くしたいと思ったのです。そのかわり、その受講料は、教える講師がほとんど受け取れるようにします。
すると、講師は、たとえ最初に資格を取るために講習費を出すことがあっても、それは子供を教える中で回収することができます。また、工夫次第で、生徒を増やすことも、更に自分なりの新しい教育をより高額で行うこともできるようになります。また、そうなると、今度は生徒を教えるだけでなく指導者を養成するという仕事もできるようになるかもしれません。
このように考えて、生徒の受講料はあくまでも安く、講師の資格取得費はある程度高くというビジネスモデルでやっていくことにしたのです。
言葉の森では、この寺子屋オンライン「作文講師」実践育成講習会を9月から合宿形式で行います。これは、資格を取得するだけでなく、実際の技能を教え、言葉の森のウェブページで担当クラスを募集することができるという即実戦的な内容です。
そして、森林プロジェクトの講師の協力で、日本の教育をより創造的なものにしていき、日本を教育文化産業立国にしていきたいと思います。
言葉の森のこの展望に共鳴される方は、ぜひ森林プロジェクトご参加ください。そして、一緒に日本の教育と日本の社をよりよいものに変えていきましょう。
森林プロジェクト「寺子屋オンライン作文講師」実践育成講習会(2018年9月分)
寺子屋オンラインも森林プロジェクトも、大きな可能性を秘めています。しかし、まだその力は不十分にしか発揮できていません。その原因の第一は、自分がいろいろなことに手を広げすぎているからだと思います(笑)。
しかし、最近、短眠法の練習をして、短眠にすると時間の余裕が結構できることがわかってきました。この8月中旬から余裕のできた時間を生かして仕事を加速させていきたいと思っています。
親子作文とは、親子で話をしながら書く作文のことです。まだ字が書けないような低年齢の子から、ある程度文章が書ける年齢の小学1、2年生の子までが対象です。
親子作文のやり方の大きな流れは、次のようになります。
まず第一に、親子で共通の出来事を体験します。言葉の森では、小学1、2年生向けに「実行課題集」とういものを作成して、季節ごとの行事や遊びを家庭で行う際の参考にしてもらっています。
日本の行事は、海外などで暮らしていると、忘れてしまうことが多いものです。また、日本で暮らしていても、今の核家族化の環境では、日常生活の中にまぎれて季節の行事などは省略してしまうこともよくあります。そして、その代わりに、マスメディアなどで流される、半分コマーシャリズムに基づいた季節のイベントに巻き込まれてしまうこともよくあるのです。
日本人の共通項は、時代は変わっても昔から続いてきた行事ですから、家庭では日本の行事を意識的に行っていく必要があります。そのときに、実行課題集を利用するのです。
実行課題集をもとに、家庭で小さなイベントを行います。行事とは違いますが、先日、「夏休み朝の作文体験」で提案した小学1、2年生向けの課題は、「セミの幼虫を探して羽化の様子を観察しよう」でした。
日本では、セミの幼虫は、夕方になるとかなりの確率で見つけることができます。それを家に持って帰り、カーテンなどに止まらせて羽化の様子を観察するのです。しかし、羽化する直前の蝉の幼虫はとてもデリケートなので、そっと持ち帰る必要があります。
こういう体験を通して、親子で自然にいろいろな対話が生まれます。この対話が、子供の思考力を育てる最も重要な要素になるのです。
世の中では、子供の学力をつけるのに、問題集を解かせるような勉強をさせることが多いと思います。子供が問題を解いている姿を見ると、一見いかにも勉強をしているように見えますが、それは単に、解き方の手続きに慣れているだけです。
計算の練習や漢字の書き取りは、計算をしたり漢字を書いたりする作業に過ぎず、その作業に慣れているだけですから、その作業中は特に何も思考力は使っていません。もちろん、計算や漢字は勉強の基礎ですから、そういう勉強をするのはいいのですが、本当に考える力をつける大事な勉強は、考える過程の中にあります。
この考える過程というのが、読書と作文と対話です。つまり、考えるというのは、言葉を使って考えることなのです。
しかも、その言葉は母語である日本語です。それは、考えるための言葉というのは、自分の身体の一部のように自由に使えるものでなければならないからです。いろいろな国の言語を多数使える人であっても、ほとんどの場合、母語はひとつだけです。それ以外の言語は、ツールとして使えるのであって、自分の身体の一部として使えるわけではありません。だから、母語である日本語を使って考えることが大事なのです。
もちろん、言語以外にも考える方法はあります。そのひとつが図形で考えることです。図形で考えるというと、数学の図形問題を連想する人が多いと思いますが、図形には、構想図やマインドマップのような図も、理科の天体の動きなどの図も含みます。しかし、世の中にあるほとんどの分野の思考は、言葉を使って行われています。だから、言葉の習得が最も大事なのです。
図形に似ていて異なるものに映像があります。図形で考えるというのは、自分が主体となって図形をいろいろ操作して考えることですが、最近の教育でよく行われている映像による授業というのは、これは自分で考えることとは全く異なるものです。
映像は、目で見たり耳で聴いたりことですから、直感的にわかりやすく、それが知識を習得させるのに役立つからという理由で多用されるようになっています。
しかし、視聴覚で直感的に理解したものは、考える過程というものをほとんど必要としません。映像は、わかりにくい知識を分るようにさせるだけであって、それは知識を増やすことには役立ちますが、考える力をつけることにはほとんど役に立ちません。
言葉と通して理解したことは、自分自身もその言葉を使って、ほかの人に伝えることができます。映像を通して理解したことは、ほかの人にも同じ映像を使って伝えることしかできません。しかし、人間には映像を身体の一部として使うような機能はありません。だから、映像はものを理解する手段ではあっても、考える手段とはならないのです。映像が考える手段となるのは、自分でそれを手書きで図示して考えるような場合です。
さて、親子で共通のイベントを企画して、体験するというのは、どのように些細なことでもかまいません。よく、子供に何かを経験させるというと、どこかに出かけるような大きなイベントを考える人もいますが、大事なことはその経験を通して対話をすることですから、経験は身近なことでかまいません。リンゴの皮をむく練習をしたり、卵焼きを作る練習をしたりするような日常的なことであっても、そこで親子の対話を工夫すれば子供にとっては十分に思考力を育てる経験になっているのです。
親子で共通を経験をしたあと、今度は親子作文の実際の練習に入ります。まず、子供がそのときの様子を絵でかきます。子供が絵をかき終えたら、お母さん又はお父さんが、その絵をもとにしながら、そのときの経験をいろいろ思い出して話をするのです。
絵をかくというのは、子供も親子作文に参加しているという感覚を持つためですから、絵そのものは、下手でも、意味不明でもかまいません。
親子で話すときに、親が子供と話しながら、そのときどきの言葉を構想図として書いていきます。構想図に書くのは、子供の言ったことが中心になりますが、親が言ったことを入れてもかまいません。大事なことは、親子で自然に話をしながら、構想図を書き進めていくことです。親子でおしゃべりを楽しむjという雰囲気でやっていくのです。
構想図を書く時間は、10分から15分です。長く時間を書けたり、じっくり書いたり、子供に次々と質問するような形で書くのではなく、親子で話を楽しみながら書くということが大事です。
その構想図を書きおえたあと、親はその構想図をもとに、子供のかわりに作文を書きます。その作文には、大人が書くのと同じような漢字を使ってかまいません。そのかわり、子供がその作文を読めるようにふりがなを振っておきます。
ここで大事なことは、作文を書くときにも、親があまり力を入れすぎないということです。親が熱心にやりすぎると、子供はそれを負担に感じるようになります。また、親も自分ががんばったことは、その見返りを求める気持ちになりやすいですから、子供に必要以上のものを期待するようになるのです。
親の姿勢の基本は、楽しみながらやるということです。それは、なぜかというと、親子の関わりの中で、子供に最も影響を与えるものは、親が意識的に話すようなことよりも、親が無意識のうちに見せる後ろ姿だからです。子供は、親の後ろ姿を見て、それを模倣する形で成長していきます。
だから、親が読書好きで、いつも本を楽しそうに読んでいれば、子供は自然に本が好きになります。親が楽しそうに文章を書いていれば、子供もいつか自分もああいうふうに文章を書いてみたいと思うようになります。これが後ろ姿の教育です。
これは、逆に言葉にしないことが大事ですから、親が、「本を読むことって楽しいんだよ」とか、「作文を書くというのは面白いんだよ」などと言うと、子供はその言葉の意味を理解するだけで、自分の模倣の対象とするようなこととは逆に一歩離れた概念として理解してしまうのです。
親子の対話で作文を書いたあと、その作文の活用の仕方はいろいろありますが、基本jは、親がその作文を子供に読み聞かせしてあげることです。ちょうど、本の読み聞かせをするような感じで、親子で行ったイベントの作文を読んで聞かせてあげるのです。
本と同じように読むのですから、作文はノートなどを使って書き、そこに子供の絵もかいてあり、そのイベントを行ったときの写真なども貼ってあり、更に関連した資料などもつけてあるというふうになれば、作品としての完成度が高まります。
この親子作文には、ふりがなが振ってありますから、子供は本を読むかわりにその作文を読むことがあるかもしれません。すると、自分の言ったことやしたことがどういう形で文章になるかということが自然にわかります。こうして、作文の表記の基本を身につけていくのです。
小学校低学年で作文が苦手になる子がいるのは、まだ文章を書くという表記の仕方を知らないうちに、つまり文字だけが書ける状態で作文を書かせて、句読点や会話の改行や「わとはの区別」というような自分が習っていないルールで書いたものを直されることがあるからです。
読書量のある子の場合は、そういう表記のルールも教えられればすぐに身につきますが、読書量がまだ伴っていない幼児や低学年の子の場合は、作文を書くたびに何度も同じことを注意されることになります。
そして、多くの場合、教える側は、上手な子の作文を見せることによって、うまく書けない子に書き方を教えようとしますから、苦手な子はますます作文が苦手になっていくのです。
これに対して、親子作文で、親が書いた作文は、子供には全く負担になりません。その作文を楽しく読んでいるうちに、自然に正しい表記の仕方や文章の書き方を身につけます。
そして、子供が自分でも書きたいというようになった場合は、親だけでなく親子の合作で作文を書いていくこともできます。また、子供が先に書いたあと、親が追加の話を書くということになる場合もあります。ここでまた、文章を通して親子の対話が生まれるのです。
親子作文の活用の仕方として、もうひとつ大事なことは、作文を書いた人以外の家族も、その作文にコメントを書けるようにすることです。そのコメントは、もちろん文章に対する批評のようなものではありません。基本的には、その作文に書かれている内容と似た経験をしたことがあるというような話が中心になります。あとは、明るく励ますような内容のコメントです。
こうして、親子作文は、家族作文のようなものになっていくのです。
さて、幼児期の教育というと、幼児にも取り組みやすいドリルのようなものを考えがちです。もちろん、それも指先の練習や基本的な知識や技能を身につけるにはいいのです。しかし、本当に大事なことは、親子の人間どうしの関わりの中で生まれる愛情と対話の教育です。
この愛情と対話を意識的に行う場が親子作文です。ドリルをこなす勉強は単なる作業ですが、親子作文を通して交わす対話は、もっと文化的なものです。そのときの親の接し方や話し方という親の姿勢が、子供の生き方に結びつきます。知的な学習だけでなく、より文化的な学習が親子の作文を通した交流の中で生まれてくるのです。
子供の勉強の習慣がつくのは、小学1年生という時期が最もきりのよい時期です。このときについた習慣は、その子のその後の学習習慣の土台となります。
しかし、1年生で学習できる範囲といものは限られています。国語は文字を読み書きするところから、算数は数字を読み書きするところから始まりますから、小学1年生の子が作文を書く練習をするというのは、多くの子にとってはまだ無理です。まして、幼児年長あたりでは、作文を書くということ以前に文字を書くこともまだできない子の方が多いはずです。
しかし、思考力を育てる基本は、読書と対話と作文ですから、本当は子供の学習習慣がつき始める幼児期から、読み聞かせだけでなく、作文の前段階の練習もしていけるといいのです。
その作文の前段階の練習というのが親子作文で、この親子作文には、単に作文だけでなく、親子で協力して行うイベントや、親子で交わす知的な対話というものが伴います。更に、親子作文は、親子の枠を超えて、他の家族との言葉と通しての関わりも生み出します。
言葉の森が、この9月から日曜日朝の体験学習として行う親子作文は、この親子作文に取り組む機会を提供するものです。この日曜日朝の親子作文体験は、Zoomというウェブ会議システムを使い、保護者と先生とが質問や相談のやりとりもできるようになっています。
また、子供たちが慣れてくれば、子供どうしの本の紹介や作文の紹介などもできるようになります。少人数で勉強の交流をする楽しさを身につけた子供たちは、学年が上がっても同じように読書や作文の交流を続けていけるようになります。
これからの学習は、受け身で知識を身につけるようなものでなく、自分から進んで発表し創造するものが重視されるようになります。親子作文の交流は、そういう新しい学習観の土台ともなっていくののです。
日曜日朝の「親子作文」体験学習参加フォーム(2018年9月分)