言葉の森の作文指導は、親子の対話を重視しています。特に小学生のうちはそうです。
子供の語彙力、思考力は、国語の問題集によってではなく、親といろいろな話をすることによって育つからです。
語彙力と思考力のある子は、どの教科の勉強もできるようになります。
だから、わざわざバランスよく、国語、算数、理科、社会などの勉強を家庭でする必要はありません。いろいろな教科の勉強は、学校でしているだけで十分です。
家庭の学習では、国語的なこと最重点にしてやっていく必要があります。その国語的なことが、読書、作文、対話、暗唱です。
小3から小6の生徒には、作文の準備をするための予習シートを渡していますが、それは、作文のテーマについて、お父さんお母さんに取材をするためというのが大きな目的です。
この取材の中で、語彙力、思考力が育ちます。
本を読むには、目から入る読解力が必要ですが、人の話を聞くには耳から入る読解力が必要です。そして、この両者の読解力は共通しています。その共通しているところが思考力です。
小2までの生徒は、自由な題名の課題なので、予習シートで親に取材するという形は取れませんが、そのかわりに実行課題集を渡しています。
これは、季節の行事や遊びを家庭で企画することを通して、やはり親子の対話を盛んにするためです。
予習シートも、実行課題集も、作文を書くことを前提にしていますから、対話の内容も自然に知的、論理的なものになります。「楽しくてよかったね」という話で終わらずに、「どうしてだろうね」と考えるような方向に話が進むのです。
この親子の対話で大事なことは、真面目さよりも楽しさを優先させることです。
対話の目的が、作文を書くことに結びついているので、対話は自然に真面目な方向に向かいますが、ここで親があまりにきちんと勉強的な位置づけで話をすると、子供はそれを息苦しく感じるようになります。
真面目にやりすぎることのいちばんのマイナスは、親子ともにくたびれて、長続きしなくなることです。
国語的な勉強は、読書も作文も含めてすべて長期戦ですから、何しろ長続きさせることが大事です。その長続きのコツは、楽しさを優先させて、面白おかしく、力を抜いて行うことです。
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苦しいことは長続きしません。
どのような習い事でも、成果を上げるためには、長続きさせることが大事です。
その長続きさせるコツが、楽しく肩の力を抜いて続けることです。
ところが、小学1、2年生のころの子供は、親の言うことは何でも素直に聞くので、親が真面目にやりすぎても、それについていってしまうのです。
しかし、その真面目さは無理があるので、いずれ行き詰まります。
だから、子供が小さいときほど、親は楽しさを優先させて接することが大事なのです。
「親子の対話を楽しさを優先させて」と反対のことのようですが、親子の対話は知的であることが大事です。
子供が子供のレベルで感じたまま言ったことを、親は更に知的に高いレベルで、しかし楽しく話してあげる必要があります。
そのためには、親自身がものごとを知的に考える習慣を持っていることが大切です。
子供に何か聞かれたとき、「ない」とか、「わからない」とか、「自分で調べなさい」とか言わずに、必ず何か中身のあることを話してあげる必要があるのです。
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中学入試の受験作文は、当初は身近な説明文が中心でした。
今でも、帰国子女枠の作文試験では「海外生活の思い出」のような身近な課題が中心になっています。
これは、基本的な文章表現力を見るための試験という位置づけだからです。
しかし、このような身近な説明文は、ある程度準備をして臨めば誰でも一定の水準までの作文が書けるようになります。
本当はそれでいいのですが、作文試験の目的は差をつけて選抜することにあるので、点数がバラけるような問題作りをしなければならなくなります。
そのために、次第に増えてきたのが、複数の文書を、それもかなり長い文章を読んで、それに対する設問を解き、作文を書くというスタイルの試験問題です。
こういう傾向の受験作文に対しては、通常の対策以外に、速く読み取り、速く書き上げるという字数とスピードが要求されるようになります。
こういう作文試験は、邪道だとは思いますが、実際にそのような試験問題が増えているのであれば、とりあえず対策をしなければなりません。
その対策は何かと言うと、第一に作文試験の課題として出るよ文章を読み慣れることです。
中学入試の作文試験の課題は、学問の分野、生き方の分野、言葉の分野、日本文化の分野、学校生活の分野など、だいたい範囲が決まっています。
ですから、ある程度の量を読んでいくと、最初の数行を見ただけでどういう内容が書かれているか見当をつけることができるようになります。
課題文の分野に慣れて読むスピードをあげる、というのが第一の対策です。
第二の対策は、書くスピードを上げるということです。
これは、その場で考えて書いていたのでは時間的に間に合わなくなることが多いので、既に自分が書いた十数本の作文の中から当てはまりそうな実例や表現や意見を思い出し、それらを当てはめながら書くという形になります。
いずれの対策も、練習をすれば必ずできるようになりますが、やは時間がかかります。
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そろそろ受験作文の季節です。
作文の実力というのは、なかなか上がりません。
しかし、受験は実力の問題ではなく、勝負の問題です。
今ある実力で、いかに合格する作文を書くかというのが目標になります。
そのコツは、10種類のテーマを決めて、そのテーマごとに傑作を1本ずつ書いて、そのテーマならいつでも楽に書けるようにしておくことです。
受験作文で、予想もしなかった問題が出たらどうするかというと、そのときこそ構成を意識して書く書き方が効果を発揮するのです。
「○○は二つある。第一は……。第二は……」というような書き方をすれば、難しいテーマでもそれなりに形を整えて論じることができます。
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塩谷信男さんは、次のようなことを言っています。
宇宙は、地球の自転や公転も含めて完璧な秩序の中で動いている。だから、人生も本当は完璧であるはずで、それは人間以外のあらゆる生命も含めて、完全な平和と幸福の中に本当は生きられるはずなのだということです。
私たちはつい目先のことに追われ、暑いとか寒いとか忙しいとかいうことばかりをよく言っています。そして、とりあえず、今日か明日、もう少し長くて今年か来年うまく行けばよいという考えになりがちです。
しかし、本当は、自分以外のあらゆる人間や生物も含めて、完璧な秩序と幸福の中で生きることのできる世の中を目指すべきなのです。少なくとも、その役割を持っているのが人間だと思うことなのです。
その塩谷さんの言っていたことに、「愚痴をこぼさない」ということがありました。
私は、最初この言葉を見て、「ふうん、そうだろうなあ」と思っただけでしたが、実はここに重要な意味があるのではないかということがわかりました。
話は変わりますが、松久正さんという人がいます。松果体のことを書いている人ですが、この人が次のようなことを言っていました。
それは、自分に起きたことは、それがどんなことであっても、自分が選んだことで、それがよかったことなのだと思うということです。
また、話は変わりますが、日月神示という本に次のような一説があります。
「今の自分の環境がどんなであろうと、それは事実であるぞ。境遇に不足申すなよ。現在を足場として境遇を美化し、善化してすすめ。」
私たちは、よく失敗をしたり、間違いをしたりします。又は、ほかの人からそういうことをされることもあります。また、偶然の事故や災難に巻き込まれることもあります。うっかりつまずいて転ぶとか、水の入ったコップをひっくり返すなどということは日常茶飯事です。また、朝起きたら雨が降っていたとか、乗ろうとした電車に間に合わなかったなどということもよくあります。
しかし、そういう自分にとって嫌なことだと思うことすべてを、自分が選んだことであり、それがよかったことだと思い直すのです。
小さな理屈の世界では、嫌なことは嫌なことで、それはない方がよかったことなのですが、いったん起きてしまったことに、それがない方がよかったと言っても、ものごとは何も変わりません。
その境遇を美化し、善化して進むという姿勢が大事なのです。
大きな目で見れば、人間はひとつの大きな存在のようなものです。
自分と相手がいるのではなく、自分も相手も同じひとつの存在の一部です。
自分が得して相手が損したとか、逆に自分が損して相手が得したとかいうことはなく、同じ一つの損得を自分と相手で分かち合っているということです。
そのように思うことによって何が変わるかというと、その境遇を卒業するのです。
嫌なことを嫌なことだと思い続けていれば、それはその嫌なことを卒業できていないことですから、同じような嫌なことにまた形を変えて挑戦しなければなりません。
嫌なことをよかったことだと思うことによって、その嫌なことを卒業し、今度はもっと先にあるより大きな創造に挑戦するようになるのです。
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昔の男の子は、野良猫を見れば必ずと言っていいほど石をぶつけました。団塊の世代の男の子たちです(笑)。
今は、そんなことをする子は、誰ひとりいません。
人間の意識は、年々変化していて、最近その変化がよりよい方向に加速している気がします。
加速しているから反対回りの渦もできることがあるのですが、大きな流れで見れば、その反対回りの渦も含めてよい方向に進んでいるのだと思います。
嫌なことを人にされたときの意識の切り替えは、すべてをよかったことだと思うことです。
嫌なことを人にしてしまったときの意識の切り替えも、基本は同じです。
そして、それを卒業して、新しい創造に挑戦するのです。
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論理的に理解する力というのは、答えを見つける力です。答えのある世界で正しい答えを見つける方法が論理的な読解力です。
以前、言葉の森で、センター試験で満点を取るための講座を開いていました。しかし、満点を取ること自体は何の意味もありません。それは、既にある答えが見つかったということに過ぎないからです。
文章を理解する力があることは学力の基本です。しかし、それはゴールではありません。
文章を読んでその内容を理解するというのは、到達点ではなく、そこが出発点にならなければならないのです。
言葉の森は、昔、速読のページを作りました(今でもありますが)。
しかし、言葉の森が速読をそれほど重視しているわけではないのは、速読のあとに来る「考えること」の方が大事だと思うからです。
情報処理能力というと、大量の文章を読んで理解し、それを整理して自分なりにまとめる力というように考えられていたことがあります。
しかし、それは、キュレーションと呼ばれるような処理と同じで、別の言葉で言えばコピペの能力をさらに進化させたものです。
こういう情報処理能力は、もう人間のやる仕事ではなくAIがやってくれる仕事になっているのです。
人間がすべきなのは、大量にある情報を整理することではなく、既にある情報の中から新しいものを創造することです。
この創造の根本にあるの、よりよく生きようとする意志です。
人間とAIの違いはまさにここにあります。
よりよく生きたいと思うからこそ現状の追認に満足せず、現状を克服すべき問題としてとらえ、未来にまだない理想を建てるということができるのです。
この創造に必要な材料は、確かに読書などによって与えられます。
しかし、その材料を生かすエネルギーは、読書ではなく経験や実行の中から生まれます。
そして、そこから生まれた創造が、他の人間との対話の中で発展していくのです。
文章力の自動採点は機械でできますが、その文章の内容に価値があるかどうかを判断するのは同じようによりよく生きる意志を持った人間だけです。
だからこれからの文章の評価は、形式的な評価はAIが行うとしても、内容的な評価は同じレベルにある人間の評価によるほかはないのです。
この創造的読解力を育てるためには、文章をただ理解するために読むのではなく、対話をするために読むという読み方をする必要があります。
これが、論理的読解力のあとに来るものです。
言葉の森の作文指導の中で読解力が育つのは、課題の文章を読み取り、そこに自分らしい創造を付け加えて書く勉強をしているからです。
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論理的に読む力などと言うと、いかにも優れた能力のように思われがちですが、わずかの訓練ですぐにできるようになります。
難しいのは、その論理的な読み方のあとに来る創造的な読み方です。
創造的な読み方ができているかどうかは、作文を書くことによってわかります。
読解のテストは満点を取ればそれでおしまいですが、読解のテストが満点の子の間でも、作文のテストには大きな開きがあるのです。
「論理的に読む力」というのは、テクニックであって、読む力でも何でもありません。
やれば誰でもできるようになります。ただ、それを教えてくれる人がなぜか少ないだけです。
難しいのは、創造的に読む力で、これは作文力の差として表れます。
これはテクニックではなく、本当に考える力を育てていないとできるようにはならないのです。
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話すことが普通にできても、文章が全くと言っていいほど読めない人がいます。例えば、日本に来て何年か暮らしている外国の人などです。
話をする分には、読む力がないとは感じられませんが、日本語の文章というものを全く読もうとしないのです。
一語ずつ読むことはもちろんできるのかもしれませんが、文章として理解するという読み方ができないのです。
それと同じ状態になっている小学生の子が、最近見られるようになってきました。
これはたぶんテレビやスマホやタブレットのようなビジュアルな情報機器によって、文字を読むという時間がなかったからだと思います。
こういう子供たちも、小学校の中学年までの勉強は、耳で聞いただけで分かるような内容ですから、学校の勉強にもついていくことができます。
しかし、小学校高学年から、文章として読まなければ理解しにくい抽象的な考え方の言葉が出てくると、急に勉強についていけなくなるのです。
これが、今日起きている読解力の不足の最も大きな問題です。
この子たちに、どう読む力をつけていくかというと、その方法は論理的に読む練習をするいうようなことではありません。
言葉と言葉のつながりをひとまとまりの意味のあるものとして実感できるようにする練習が必要なのです。
その方法は、繰り返し音読をすることです。
精読とは、論理的に読むことではなく、同じものを繰り返して読むことです。この繰り返し読むという学習を助ける読み方が音読です。
音読の復読(繰り返し読むこと)という単純に思えるような学習方法こそが、逐語的な読解力が育っていない子供たちがまず最初に取り組むことなのです。
さて、では次に、読む力は十分にあり、論理的に読むこともでき、読解問題は普通に高得点が取れるような子の、更にレベルの高い読み方である創造的読解力をつけるにはどうしたらよいのでしょうか。
(つづく)
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勉強の方法は単純です。一に読むこと、二に読むこと、三に読むことです。
プログラミングとか、英会話とか、速読とか、慣用句とか、漢字の書き取りとかいうのは、趣味で好きでやる分にはいいのですが、やってもやらなくても、あとで必要になればいくらでも追いつくものです。
しかし、読む力というのは、日常的な生活の中では差があることがよくわかりません。
それだけに、いったん差がつくと、その差はなかなか埋められなくなります。
そして、その読む力の土台の上に、書く力が育つのです。
読む習慣をつけるいちばんいい方法は、読む友達を作ることです。
小学校低学年までは、親が子供の習慣を作る時期ですが、中学年からは友達関係の中でその子の習慣が作られます。
本を読むことが話題になるような関係を作るために、言葉の森の寺子屋オンラインコースでは、毎週読んだ本をで紹介する時間を作っています。
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創造的読解力とは、文章に書かれているものを、その文章の他の部分との関連の中で読み取るだけでなく、自分自身の実際の体験や自分の考え、またこれまでに読んだ他の人の考えなどと関連させながら読んでいく読み方です。
この読み方が読解力の究極の読み方で、これは文章を読むというよりもその文章を通して自分の考えを発展させていくという文章と対話するような読み方です。
国語の本質は、この考えることと、考えを創造することにあるのであって、単にその文章の中の論理の流れをたどっていく読み方ができればいいというのではありません。
子供たちの読解力が低下しているという場合、問題になるのは論理的読解力のレベルではありません。
それは、練習をすれば比較的容易にできるようになるからです。
何が問題かというと、ひとつは、論理的読解力以前の逐語的読み方さえできない子が現れてきていることと、もうひとつは、論理的読み方のあとに来る創造的な読み方に進もうとしない子がいることなのです。
この二つは、現代社会の特徴から来ているように思います。
逐語的読解力がない子の場合は、文章を読むという機会がないまま成長し、テレビやネットで映像と音声を含めた情報だけはよく知っているということがあるのだと思います。
だから、話をしている分には、普通の同じ学年の生徒と同じなのですが、いざ文章を読む段階になると、ほとんど読み取れないということが起きてくるのです。
創造的読解力がない子の場合は、やはりインターネットなどで豊富な情報に接することによって、右のものを左に移すようなコピー・アンド・ペースト的な読み方にとどまっているせいだと思います。
読むものが少なければ、そこでいろいろと考えながら読むことができるのですが、読むことがあまりに多く、しかもそれらがいずれも密度の薄い文章である場合、考えて読むよりも速読でこなすという読み方になるのです。
では、この二つの読解力の不足をどう克服していったらいいのでしょうか。
(つづく)
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子供たちの読解力が低下しているといった場合、それは論理的読解力の問題ではありません。
論理的以前の読解力と、論理的以降の読解力にこそ本当の問題があるのです。
この両者は、現代のビジュアル社会と、ネットコミュニケーション社会が生んだ新しい教育の問題だと思います。
これは、具体的には、例えば、「youtubeばかり見ていて、本を読もうとしないんです」というようなお母さんの悩み事相談に表れています。
私は、勉強というものは、誰でもいつでもどこでもできるものであるべきだと思っています。
だから、特定の教材が必要だという形の勉強はあまり賛成しないのです。
読解力をつけることについてもそうです。
特別の教材などは全く必要なく、必要なのは、普通に手に入る国語の入試問題集だけです。
そして、余分な説明のないこの問題集と解答集のセットが、最も密度の濃い教材になるのです。
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以前、「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」という本を紹介し、「読解力をつけるためにどうしたらよいか」という記事を書いたことがあります。
https://www.mori7.com/index.php?e=3218
今回は、その続きです。
「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」で主に取り上げられていた読解力は、読解力の一部である論理的な読解力です。
読解力には、実はさまざまな段階があり、論理的読解力はその一つの段階に過ぎません。
そして、論理的読解力は、ある程度の訓練で比較的容易に上達させることができるのです。
では、読解力にはどういう段階があるのでしょうか。
第一は、文字を読んで逐語的にその文字と前後のつながりを理解するという意味でのきわめて基本的な逐語的読解力です。
幼児や小学校低学年の子が声を出しながら本を読んでいるときは、この逐語的読解力が形成されている時期にあたります。
この時期をすぎると、言葉を字面の上で読むだけでなく、自分の経験や知識に結びつけて文章の内容に共感しながら読んでいくことができるようになります。
これが主に物語文の共感的読解力です。
その共感的読解力と並行してついていくのが、説明文の読み取りに必要な論理的読解力です。
これは、文章の中にある語句と他の語句が、どういうふうに結びつきながら展開されているのかを読み取る読解力です。
これが国語の読解問題などによく出される論理的読解力で、これは問題を理詰めに解く解き方を教えると、誰でもすぐに力がつくようになります。
論理的読解力をつけるための最もよい教材は、入試の選択問題です。
選択肢の合っていないところがなぜ合っていないのかということを理詰めに説明することでこの読解力がつきます。
この練習には、何も特別に論理的読解力をつけるための教材などを使う必要はありません。
ただ市販の問題集を使って解答と見比べながら、なぜ正解となっていないところが正解でないのかという理由を考えるという練習をしていけばよいのです。
言葉の森が、以前、センター試験国語満点講座を行っていたときの練習法がこのやり方で、この練習によってどの高校生も短期間で例外なく国語の点数を大幅にアップさせたのです。(この講座は、いつか小学校高学年、中学生、高校生を対象にまた企画したいと思います。)
さてしかし、読解力は、これで終わりではありません。
共感的読解力、論理的読解力のあとにくるものが、最も本質的な創造的読解力なのです。
(つづく)
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国語の読解力とは、単に論理的に読み取る力だけではありません。
今問題となっているのは、それ以前のもっと基本的な読解力です。
論理的に読み取る以前の段階で読み取れない子が増えているのです。
また、もうひとつの問題は、論理的に読み取ったあとにつけるより高度な創造的読解力です。
実は、この読解力が本質的な読解力なのです。
https://www.mori7.com/index.php?e=3380
論理的な読解力をつけるのに、特別の教材などは必要ありません。
ただ入試問題集と解答さえあればよいのです。
なぜ入試問題集かというと、入試問題は厳密に作られているからです。
厳密に作られているからこそ、理詰めに論理的に解くことができるのです。
入試問題以外の国語の問題は、問題作成者の主観が入っている場合がかなりあります。
だから、問題作成者と相性のいい子は、得点が高くなることがあるのです。
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言葉の森が40年前、作文教室という名前の教室を開いたころ、作文を教える教室というのはどこにもありませんでした。
国語や漢字の勉強ではなく、純粋に作文だけを教える教室というのは、どこにもなかったのです。
その作文教室を始めた動機は、作文教育というのがおもしろそうだからという単純なものでした。
学校で行われているいろいろな勉強、例えば、国語、算数、理科、社会などは、特に誰かに教えてもらわなくても、独学でもできるものだと私は思っていました。だから、国語の勉強を教えるというような発想は全くありませんでした。
作文の教育というものが、単なる教科の勉強ではない、創造性を育てる勉強になるという予感があったので、その予感で作文教室を始めたのです。
作文の教育法というものも、確立したものはもちろんなかったので、最初は、古今の作文教育に関する本を手当たり次第に読むことから始めました。図書館に行ったり、古本屋で探したりして、作文教育に関する本を最初の1、2年間で約200冊読みました。
そして、実際に小学生の子供たちを集めて教室を開きましたが、小学生の作文指導というものがかなり難しい面があることがわかりました。
それまでは、大学生対象の作文教室を一時期開いていましたが、大学生のような大人を教えることはそれほど難しくありません。既に文章を書く力が備わっているので、書き方の方向を教えれば、誰でも書けるようになり、それを繰り返す中で上達していくからです。
しかし、小学生の中には、書く力がほとんどなく、作文が書けないからと言って騒ぐだけの子もときどきいたのです。もちろん、よく書ける優秀な子もいましたが、どの子にも共通することは、教えてすぐに上達するわけではないということでした。
それは、作文というものが、作文を書く力だけでなく、その土台にある読む力に大きく左右されていたからです。作文力は、読む力をつけなければ、根本的には上達はしないということがよくわかってきたのです。
そこで、音読の教材を作ったり、暗唱の教材を作ったり、作文に入れる表現の項目を決めたり、高学年の場合は構成の仕方を決めたりといういろいろな工夫を行いました。表現の項目や構成の仕方を決めると、子供たち目標ができたので、作文をより意欲的に書くようになりました。
これらの工夫はすべて、子供たちの作文力を何とか上達させたいという気持ちで始めたもので、そのため、教材や教え方が最初のうちは毎月のように変わりました。
一時期、山の斜面を登っている夢を見ました。行けども行けども、草木が立ちはだかり、尾根にはいつ出るかわかりません。最初のうちは、遠く離れた隣の山に同じように登っている人が見えたのですが、今はもう同じ高さを登っている人は誰もいません。ただ、自分だけが見通しのない山の斜面をひたすら登っていくのです。しかし、そのとき同時に、その苦労が楽しいという気持ちもまたあった、という夢でした。
そうこうしているうちに何年かたち、作文の指導法がだんだん固まってきました。しかし、指導はできても、作文の評価というものは、見る人の主観によってかなり異なります。
子供たちは、自分で自分の作文を評価できません。これは大人も同じですが、作文というものは自分では評価できないものなのです。だから、子供たちは、先生や親から褒められば自分は作文が得意だと思い、逆に先生や親から直されれば自分は作文が苦手だと思います。そのために、作文指導に熱心な先生に教わるほど、作文に苦手意識を持つ子が増えるという傾向もあったのです。
当時、2003年ごろだったと思いますが、アメリカでイーレイター(Erator)という、小論文の自動採点ソフトが作られたという記事をインターネットで読みました。
ちょうどそのころ、自分自身がプログラミングの勉強を始めていたので、自分でも同じようなものが作れるかと思い、それまで子供たちにパソコンで書かせていた作文を元データにして、いろいろな処理をしてみました。
すると、1ヶ月もたたないうちに、人間の評価とかなり相関の高い自動採点のソフトができたのです。そこで、このソフトに「森リン」という名前をつけ、作文指導のひとつの方法として取り入れることにしました。これは、今でも使われています。
このように、作文指導だけを追求していた結果、言葉の森のオリジナルな指導法がかなり積み上がってきました。そして、作文指導の方も、次第にはっきりとした成果を上げるようになってきたのです。
しかし、やがて、こういうオリジナルな指導法も、誰かが真似するようになるだろうと思いました。それは、言葉の森が作ったオリジナルな長文が、ほかの学校などで使われていることを保護者から聞いたことがあったからです。
その長文というのは、当時の日本に子供たちが読むための説明文の本が不足していることから、言葉の森の講師が独自に作った1200字程度の文章集です。この長文の特徴は、説明文であること、明るい内容であること、美しい表現であること、そして笑いがあることでした。この「笑い」を入れるところが最も苦労したところで、一つの文章に面白いダジャレをいくつか入れるために、その文章を書く時間の何倍もの時間を使いました。そういう力作の長文が、ほかの学校で教材として利用されていたというのです。
しかし、私は当時話題になっていたオープンソースの運動というものに共鳴していたので、よいものは、自分だけのものにせず、誰でも自由に使いたい人が使ってよいとするべきだいう考えを持っていました。だから、そのことに関しては何もしませんでした。
そして、そのことから考えて、言葉の森が今オリジナルな教材や指導法として使っているものも、やがて多くの人にコピーされ使われるようになるだろうと思ったのです。
そして、それならば、最初からみんなが使える形でオープン化してしまえばよいと考えました。
そこで、言葉の森のオリジナルな教材と指導法を全部使える形にして、それを森林プロジェクトの作文講師資格講座として提供することにしたのです。
それは、ある意味で、言葉の森の競争相手を多数作ることでしたが、それならそれで、言葉の森自身がよりよい指導を開発し続ければよいと考えたのです。
この森林プロジェクトのシステムは、うまく使えば、言葉の森と同じことができるはずですから、きわめて高い価値のあるものです。そして、実際に、この教材を使ってたくさんの生徒を教えている先生も出てきました。
しかし、作文指導というものは、やはりほかの勉強と違って難しいところが多く、資格を取得して教材が使えるようになっても十分に活用できない講師もいました。
さて、話は少し変わりますが、私が作文教室を始めた動機は、作文が子供たちの創造性を育てる勉強になるという予感があったからでした。
言葉の森が作文教室を始めたころは、受験に作文が使われるということもなかったので、子供を言葉の森に通わせる保護者は、純粋に作文の勉強というものがちょっと変わっていて面白そうだからということだったと思います。
しかし、その後、大学入試で小論文試験が行われるいようになり、やがて推薦入試などで作文が使われるようになり。そのうち、公立中高一貫校の入試で作文が使われるようになりました。
そのころから、言葉の森以外の作文教室というものもあちこちで生まれてきたのです。
それらの新興の作文教室、あるいは作文講座や文章教室というものは、社会に作文というニーズがあるから始められたものです。ある意味で、作文指導というサービスが売れそうだから始めたというのが出発点です。
言葉の森も、今の社会の中で運営していくためには、売れることを考えなければなりませんが、もともとの動機は売れるかどうかとは違うところにありました。
子供たちの創造性を育てるということは、もっと大きく言えば、日本という国をよい国にしたいというところから出てきた気持ちでした。
森林プロジェクトを始めてから、しばらくして2011年3月11日に、東日本大震災がありました。
そのとき、自分が日本を守るためにどういうことができるかを真剣に考えたのです。
そこで出た結論が、作文だけでなく全教科を創造的に教える教育をすることでした。そして、その担い手として森林プロジェクトの講師の力を借りられるのではないかということでした。
日本は、政治の面では、まだ自立した国になっていません。経済の面では、量的には中国に追い越されるようになっています。そして、教育の面でも子供たちの学力や文化力が次第に劣化しているような印象を受けます。今の子供たちは、自分たちが子供だったころよりも、はるかに長時間勉強しているように見えます。しかし、学力特に思考力の面ではかえって全体に低下しているように思います。そして、戦前の教育について書かれた本などを見ると、自分たち自身もその親や祖父の世代よりも、学力的にも文化的にも低下しているように思えたのです。
日本をよりよい国にするために、自分が今の立場でできることは教育を立て直すことで、そのためには何をするべきかと考えました。そこで考えたこれからの教育の目指す方向が、次の4つでした。
第一は、受験のための教育から、実力のための教育へという流れです。本当に役に立つことだけを勉強するのであれば、教育はもっと簡素化でき、その分子供たちはより大事なことに時間を使えるようになります。
第二は、学校や塾の教育から、家庭と地域の教育へという流れです。これは、子供の教育を外部の機関に任せてしまうのではなく、家庭と地域もっと重要な役割を担うべきだということです。
第三は、点数の教育から、文化の教育へという流れです。これは、点数化できないことにこそ重要なものがあるという考えです。
第四は、競争の教育から、創造の教育へという流れです。今の教育は、競争に勝つことを目標としがちですが、そうではなく、競争を超越した創造力を育てる教育をしていく必要があるということです。
この教育の新しい方向というものを考えていると、教育という分野こそ、次の時代の経済の中心になるのではないかということがわかってきました。
これまでの経済の中心は、主に製造業という工業でした。工業製品を作るためには、資本や設備が必要です。だから、資本主義というのはある意味で工業時代の経済だったのです。
この資本主義の担い手として、中国などの新興国が力をつけてきました。それは、最新の設備と比較的安価な労働力で、これまでの日本のような先進国の古い工業の基盤をコストの面で上回るようになってきたためです。
世界にはまだ貧しい国や地域がたくさんあります。それからの国々や地域がこれから先進国と同じ生活を目指すとなれば、工業時代のニーズは更に広がり、新興工業国の経済は更に発展していくように見えます。
しかし、日本が工業化に成功して豊かになった時代には、工業製品の絶えざる開発と新しいニーズの創造というものがあったために、工業生産が利益を生み出していたのです。
今の新興工業国の作る工業製品は、新しい開発の余地のあまりない言わば完成されているのに近い工業製品です。需要も供給も完成に近づいているということは、利益率が低下しているということです。そして、工業のフロンティアに関しては、宇宙開発とか海洋開発のような大きなプロジェクトはあるように見えますが、それらの開発が終われば、大衆のレベルでは、これまでの自動車などに代表される大きな工業製品の開発というものは次第になくなっていくと思われます
そのとき工業製品を生産する側が、利益率の低下に対応する道は、機械化による人件費の削減です。これは、大きな企業になるほど顕著になってきます。グローバリズム自体が、工業時代の終焉が近づくことに対する対策でした。これから進む機械化やAI化も、利益率の低下に対する対策なのです。
しかし、その対策をすればするほど、今度は雇用される労働者の賃金が減り、社会全体での需要はかえって縮小していきます。
工業時代が終焉しつつあるというのは、特に先進国では、欲しいものがないという形で表れています。では、先進国でのこれからのニーズは何かと言えば、それは工業製品のような対象物としての物ではなく、自分自身の人間としての向上や経験や交流や創造のような自分を変えるというものになるのです。
それは、別の言葉で言えば、「もっとこういうことができるようになりたい」という自分自身の教育に対するニーズです。そこには、「もっと美しくなりたい」「もっと健康になりたい」「もっと賢くなりたい」なども含まれますが、より本質的には、「自分の好きな分野で自分自身が何かを創造することができるようになりたい」ということだと思います。
この教育へのニーズというものは、個性によって限りなく多様化するので、大企業が大きな需要を見込んでサービスを提供するという形にはなりません。個性的な特殊な興味関心がロングテールとしてどこまでも広がるようなニーズとして登場します。
そして、この教育ニーズの重要なところは、教育を需要する人が、その教育に習熟するにつれて、今度はその教育を供給する側に回れるということです。その際、単に自分が教えられたことをそのままほかの人に教えるようなやり方ではなく、自分なりの好みや個性を加味して新しい供給として提供することが可能です。
そして、その過程で、新しい開発と新しいニーズが生まれるたびにそこに新しい利益が生まれるようになるのです。
すると、この利益の総和は、工業社会が完成された需要と供給の中でただ循環するのとは反対に、常に新しい需要と供給が創造されることによって拡大する循環という形になるのです。
この教育、更にその成果としての文化を作り出す産業を教育文化産業と呼ぶことができます。この教育文化産業に最も適した国が日本です。それは、大衆的に教育文化に対する幅広い需要があると考えられるからです。
更に、日本にはその教育文化をより洗練化された形に作り上げる繊細な文化的伝統があります。その文化的伝統が、文化に多様性を生み出します。また、日本には、その文化をより超越的なところにまで「道」として高める文化的伝統もあります。新しく生まれるさまざまな文化の中には、将来、茶道や華道や剣道などの「道」の文化につながるものも生まれてくるはずです。
そして、この教育が行われるところは、個人の身体です。教育は、人間が自分の身体を通して習熟するという形で需要されるので、コピーしたり、物として大量生産されたりするものではありません。だからこそ、教育においては、需要者がやがて年数とともに供給者に変わるということが起きてくるのです。
教育が個人の身体に根ざしていることは、二つの特徴を生み出します。それは、その教育を最も高いレベルで受けるためには、ある特定の人に、ある特定の場所で教わる必要があるということです。
すると、日本社会が教育文化の面でさまざまな新しい教育分野を生み出すにつれて、諸外国の人も、その教育を学びに日本を訪れる必要を感じるようになるということです。もちろん、日本が、現在、空手や合気道の道場を諸外国に輸出しているように、教育文化の分野でも、学校や教室を輸出するということは出てきます。しかし、その場合でも、最後の目的地はその教育文化の発祥の地であり、その教育文化の創始者になるのです。
そして、完成された工業製品が利益率を低下させるのとは反対に、創造的開発を続ける教育文化では、値段のつけようのないものも次々に生まれてきます。それらも供給者が増えるにつれて利益率が低下しますが、その一方で新しい創造的開発が次々に生まれてくるのです。
それは、教育文化産業の特徴として、全くの個人が生産者になれるというところから来ています。もし人口が一億人いれば、その一億人がそれぞれの創造的な文化を自分の興味と関心に応じて作りだすということも理屈の上では可能です。
これまでの工業時代には、製品を開発するのは一握りの人でした。しかし、教育文化産業の時代には全員が生産者になり開発者になれるのですから、その創造の爆発力は比較にならないほど広がるのです。
この一人ひとりが創造者になる教育文化産業時代にちょうど合わせるかのように、ブロックチェーンの仕組みも生まれてきました。どこかの大きな組織に属さなくても誰もが自分で会社のような組織を運営できるようになってきたのです。
もちろんすぐに、この教育文化産業が日本中に広がるということはありません。しかし、そのための方法はある意味で簡単です。それは、国や地方自治体のレベルで、創造文化祭典を定期的に開催するのです。その祭典の受賞者には、ちょうど今のオリンピックの金メダルや、もっと言えばノーベル賞並みの価値が与えられるようにするのです。すると、それが呼び水となって新たな教育文化を創造しようとする人が続々と生まれてきます。そして、その中のいくつかの教育文化が、新しい地球の文化として大化けする可能性があるのですから、創造祭典はすぐにもとが取れるようになります。
今の地球の生産力は、実は人類全体を養うのに十分になっていると思います。世界に貧困が残っているのは、主に政治的な問題であって、経済の問題ではないのです。
すると、国民にベーシックインカムを保障した上で、自由な創造に誰もが参加できる社会も可能になります。
ここで話は、急に現実的なところに戻りますが、このような時代が来ることを見越して、言葉の森は、森林プロジェクトの寺子屋オンライン作文講師を広げたいと思ったのです。
ところで、今、日本は他の国に比べて豊かであるかもしれませんが、若者を中心に貧困が拡大しています。それは、子供たちの教育環境の格差として表れています。
だから、寺子屋オンラインで行う教育は、受講料をできるだけ安くしたいと思ったのです。そのかわり、その受講料は、教える講師がほとんど受け取れるようにします。
すると、講師は、たとえ最初に資格を取るために講習費を出すことがあっても、それは子供を教える中で回収することができます。また、工夫次第で、生徒を増やすことも、更に自分なりの新しい教育をより高額で行うこともできるようになります。また、そうなると、今度は生徒を教えるだけでなく指導者を養成するという仕事もできるようになるかもしれません。
このように考えて、生徒の受講料はあくまでも安く、講師の資格取得費はある程度高くというビジネスモデルでやっていくことにしたのです。
言葉の森では、この寺子屋オンライン「作文講師」実践育成講習会を9月から合宿形式で行います。これは、資格を取得するだけでなく、実際の技能を教え、言葉の森のウェブページで担当クラスを募集することができるという即実戦的な内容です。
そして、森林プロジェクトの講師の協力で、日本の教育をより創造的なものにしていき、日本を教育文化産業立国にしていきたいと思います。
言葉の森のこの展望に共鳴される方は、ぜひ森林プロジェクトご参加ください。そして、一緒に日本の教育と日本の社をよりよいものに変えていきましょう。
森林プロジェクト「寺子屋オンライン作文講師」実践育成講習会(2018年9月分)
この記事に関するコメント
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私(森川林)は自分の力では大したことはできません。仕事は遅いし、ミスは多いし、子供に作文を教えることについても、ほかの講師の方がずっと上手です。
しかし、言葉の森と日本の未来のビジョンを考えることについては、何年も考えた結果、確信に近いものがあります。だから、このビジョンにひとりでも共鳴してくれる人がいればよいと考えて、長い記事を書きました。
今日の世界は、よい方向にも悪い方向にも同時にあらゆるものが急速に進展している気がします。たぶんマスメディアのタブーがなくなれば、この動きはよい方向に一気に進むのではないかと思います。
だから、今することは、新しいよりよい未来の社会が来ることを前提に、その社会でどう生きていくかを考えることです。それが、言葉の森の場合は、作文教育を広げ、寺子屋オンラインを広げ、森林プロジェクトを広げることなのです。
寺子屋オンラインも森林プロジェクトも、大きな可能性を秘めています。しかし、まだその力は不十分にしか発揮できていません。その原因の第一は、自分がいろいろなことに手を広げすぎているからだと思います(笑)。
しかし、最近、短眠法の練習をして、短眠にすると時間の余裕が結構できることがわかってきました。この8月中旬から余裕のできた時間を生かして仕事を加速させていきたいと思っています。
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