言葉の森では、現在、寺子屋オンライン作文という、ウェブ会議システムを使った少人数の作文クラスを開いています。
5、6人までの少人数で行うクラスなので、全員が発表をしたり感想を述べたりすることができます。
学校などで少人数学級という場合、その人数は20人から30人ぐらいです。
これぐらいの人数であれば、先生の目もある程度行き渡りますが、一人ひとりが発表するようなことまではできません。
それは、発表に1人3分かかったとしても、20人なら1時間、30人なら1時間半です。質問や感想を述べる時間を確保しようとすれが、すぐに2時間や3時間はたってしまうからです。
だから、20人や30人の少人数というのは、参加型授業ではなく、従来の一斉指導をもとにした少人数なのです。
しかし、人数が少なければいいというのではありません。
最も少ない少人数は、先生1人に生徒1人という関係です。
この場合は、家庭教師のような感じになりますが、じっくり面倒を見てもらえるというプラス面もあると同時に、次のようなマイナス面もあります。
それは第一に、コストがかかりすぎることです。コストというものは、成果との関係で評価できますから、きわめて高い成果を出すのであれば、そのコストはそれに見合って高くなっても問題はありません。
しかし、1対1のコストをカバーできるような成果を上げる教育は、受験期の集中指導やきわめて高度な指導かのいずれかだけで、通常はそういう指導は成り立ちません。
1対1という少人数のマイナス面の第二は、生徒に先生に対する依存心が出ることです。
売りて市場、買い手市場という言葉がありますが、相対的に少ないものの方が多いものよりも優位に立つという関係はどの分野でも成り立ちます。
生徒の数が少ないと、生徒は先生に甘える面が出てくるのです。
例えば、
先生「宿題やってきた?」
生徒「あ、ちょっと忙しくてできなかったんです」
先生「そう。じゃあ、今度はちゃんとやってきてね」
という流れになってしまうことがあるのです。
では、生徒一人ひとりが参加できて、しかも、生徒が先生に依存しないぐらいの少人数はどのくらいかというと、これまでの経験から考えると5人前後です。
しかし、この5人前後の少人数というのは、実はきわめて作りにくい人数なのです。
たまたま5人前後になるということはあっても、意識的に5人前後を維持して授業を行うというのは、普通の学校や塾ではまずできません。
大人数の一斉指導か、1対1の個別指導か、どちらかになるのが普通です。
しかし、もしこの5人前後の少人数を維持できるのであれば、その少人数は、授業に新しい面白さを生み出します。
それは、生徒どうしが交流できるということです。
小学校1、2年生のころは、子供の関心は主に親や先生に向かっています。
友達にどう思われているかということはあまり意識にのぼりません。
ところが、小学4年生以上になると、親や先生にどう思われるかということよりも、友達にどう思われるかということが重要な関心になってきます。
これがいたずらの方向に進めば、ギャングエイジの行動となりますが、勉強の方向に進めば、切磋琢磨という方向に進みます。
言葉の森の寺子屋オンライン作文クラスは、まだ始めたばかりなので、交流を重視しすぎたり、指導を重視しすぎたりという多少試行錯誤の面がありました。
しかし、だんだんと指導と交流の配分がわかってきました。
先生がある程度教えるが、教えるばかりでは生徒は面白くない、しかし、生徒の交流ばかりでは指導が後回しになってしまう、また、生徒の交流でも、小4以上の他人を意識した交流と、小3以下の他人をあまり意識しない交流では、生徒の間でもずれがある、などいろいろな要素を考えなければならないことがわかってきました。
こういうことを一から考えなければならないのは、やはり5人前後の少人数指導で、特に作文指導というものが、まだ世の中にないからです。
この新しい少人数指導が言葉の森でできるようになったのは、第一に独自の項目指導と事前指導という方法があったからで、第二にZoomやgoogleハングアウトというウェブ会議システムの作れるクラウドサービスがあったからです。
だから、ほかの学校や塾の作文講座では、まず同じことはできないと思います。
学校や塾では、従来の一斉指導と、個別添削と、優秀作品の発表というようなある意味でどこでもできる方法で作文指導をせざるを得ません。
ところが、それで子供たちが熱心に作文の勉強に取り組むようになるかというと、それはかなり難しいのです。
作文の勉強は、○×のつく勉強と比べると、手を抜いて書こうと思えばかなり手を抜いて書くことができます。
そのかわり、熱心に書こうと思えば、その子の実力いっぱいの力作も書けます。
こういう熱心さが、作文指導の効果を左右します。
5人程度の少人数の作文指導の意義は、子供たちが互いの交流の中で、自然に熱心に作文を書くようになるというところにあります。
そして、作文の交流以外に、読んでいる本の紹介など、より幅広い交流もできるようになります。
この新しい作文指導の方法をこれから広げていきたいと思っています。
▽現在、寺子屋オンラインの体験授業ができるようになっています。
詳細は、こちらに。
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作文が楽しく書けて上達する、というのは言葉の上では簡単に言えますが、実際にはなかなかそういうことはできません。
作文はもともと苦しい勉強ですし、また、もし準備もあまりせずに楽に書いているだけだとしたら今度はなかなか上達しません。
しかし、友達との交流のある作文指導の場合は、楽しく書けて上達するということが起こりうるのです。
それは、少人数クラスでは、ほかの人にどう見られるかという意識が働き、自然によりよいものを書こうと思うようになるからです。
Zoomのウェブ会議教室は、リアルな通学教室よりも、生徒の交流度が高まります。
通学教室では、生徒は横並びですから、互いに話すときは横を向いたり後ろを向いたりして話さなければなりません。
ウェブ会議教室では、みんなが正面を向いて話せます。
だから、よけいに相手のことが身近に感じられるようなるのが早いのです。
これは、ウェブ会議システムの大きな長所です。
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まず要素還元主義的な要約の方法です。
文章全体があった場合、まず、最小単位である文に着目し、その文を主語と述語に圧縮します。
次に、一つの段落に着目し、その段落の中で最も重要だと思われる一文を抽出します。
次に、段落ごとの一文の集合である文章全体から、その文章の内容を最もよく表すいくつかの文を抜き出します。
こうして文章全体の要約が完成します。
しかし、こういう回りくどい勉強法が果たして毎日できるでしょうか。
一度だけなら我慢してできるかもしれませんが、毎日の要約の勉強としてやるには、あまりに手間がかかりすぎます。
しかし、こういう要素還元主義的な要約の説明が多いのは、要素に還元された話は、教えやすくわかりやすい気がするからです。
もちろん、わかりやすい気がすることと、本当にわかって実行できることとは違います。
言葉の森の要約法は、要素還元主義とは正反対の全体論的な要約です。
まず、文章全体を最初から最後までひととおり読みます。
とりあえず全体を読み終えることが第一です。
そして文章を読むときに、自分なりによくわかったと思うところに傍線を引いておきます。
大事なところに線を引くのではなく、自分なりによくわかったと思うところに線をひくというのがコツです。
次に、傍線を引いた箇所だけをすばやく何度も読み返します。
すると、その文章全体が何を述べているかということがわかってきます。
このときにわかる全体は、部分の総和だけではありません。
部分の総和としての全体とともに、自分なりに理解した全体というものがわかってきます。
その自分なりに理解した全体とは、生きた全体です。
この生きた全体から、その文章に対する自分の考えというものが出てきます。
言わば自分の考えを展開する出発点として、その文章を理解したということなのです。
しかし、ここで自分の考えを展開する前に、いったん戻って文章全体の要約をします。
その方法は、いくつもの傍線を引いた文から、文章全体の内容に合った文をいくつか抜き出すことです。
これを3つの文として抜き出すとすれば、それが三文抜き書きです。
この全体論的な要約が、分析主義的な要約よりも優れている点は、回りくどくないことです。
部分から取り組んでいる間は、最後に完成するまで全体が見えません。
全体から取り組む場合は、そのまま全体が見通せます。
そして、この全体論的な要約に慣れてくれば、文章を読んですぐに要約するということができるようになるのです。
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要約の練習をする場合、できるだけ簡単な方法でやることが大事です。
難しい方法は長続きしないからです。
また、要約の素材となる文章でいちばんいいのは、実際の入試問題の問題文です。
新聞のコラムがいいという人もいますが、コラムでは易しすぎるからです。
言葉の森では、要約の方法を簡単に教えているので、誰でもすぐに要約ができるようになります。
しかし、要約の勉強には力を入れていません。
それは、あまり面白い勉強ではないからです。
要約の勉強が面白くない証拠に、それはパソコンのソフトなどでもとっくの昔にできるようになっています。
人間がやるのは、ソフトにはできないことです。
それが作文です。
だから、作文で最も大事な要素は、その作文の中にある創造性なのです。
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日本の経済は、ほとんどの分野で需要が縮小しています。
人口が減っているだけでなく、消費する量も減っているのです。
だから、昔のように物がたくさん売れて供給が間に合わないという状態はほとんど目にしなくなっています。
そのため、これまでの経済に合わせて効率よく組織されてきた大きな供給力が、その力を持て余しているというのが、今の日本の経済の姿です。
物を供給する側は、いかにコストを下げて競争に勝ち抜くかという方向に力を傾け、互いに相手から需要を奪い合うというレッドオーシャンの中で勝ち組になることを目指しています。
このレッドオーシャンで頑張り続けることが、今の過労死などの問題を生み出している一つの要因です。
そして、これは子供の教育についても当てはまります。
受験勉強は、合格するという目的が明確なので、その分勉強の仕方という方法も年々洗練されてきています。
かつて中国では、科挙の試験に特化した受験勉強するために古典を丸ごと暗記するというような方法がとられていました。
狭い目的のためには、最も優れた方法はひとつに絞られてくるので、あとはそのことにひたすら時間をかけたものが勝利するという仕組みになっていたのです。
今の大学入試も、多分にその傾向を持ち始めています。
そのため、近年の大学生の中には、偏差値の高い学校に合格しているのに、優れているのは受験勉強だけで人間の全体的な能力としては逆に低下しているというような人たちも見受けられるようになっています。
これは会社などの現場では実際に発生していることだと思いますが、まだ社会全体の問題にはなっていないので、いまだに旧来の受験勉強を中心にした体制が続けられているのです。
これに対して、レッドオーシャンの中で頑張ることはやめて、新しいブルーオーシャンを探すという動きも生まれています。
それはまだ大きな流れにはなっていませんが、多くの人がその必要性を感じているようです。
子供の教育において、ブルーオーシャンを探すための最初の準備となるものが、それぞれの子供の個性、興味、関心を活かすということです。
ただし、その個性の現れ方は、初めのうちは既にある既成の文化に基づいていますから、今の時点で見れば、子供の興味や関心は、優れているものよりも遊び的なものに向かっているように思われることがあります。
しかし、今は遊びに見られるものに関心を示す子供たちの、その関心の中に、未来の新しいブルーオーシャンの可能性を考えていく必要があるのです。
私は、そのための方法として、寺子屋オンラインでの勉強を考えています。
これは、少人数の生徒が、自分の勉強の発表を中心として学び合うという仕組みです。
ここで、単に受け身に、既に答えのある問題をいかに速く正確に解くかということに方向に力を入れるのではなく、いかに自分の興味や関心を知的、創造的に発展させるかということに力を入れていくのです。
もちろん、答えのある問題をできるだけ速く正確に解くという勉強が必要な時期もあります。
それは、受験の直前の半年から1年間の時期です。
中学、高校の定期テストであれば、試験前の1週間から2週間の時期です。
勝負に勝つことを目的とした時期には、勝つための勉強をしなければなりません。
しかし、そういう時期以外はすべて勝つためではなく自分の本当の実力をつけるために勉強していく必要があります。
その実力をつけるための勉強が、自分の好きなことを出発点として、それを知的、学問的な方向に進め、更に創造的に発展させていくということです。
好きなことだけで終わるのではなく、また、知的、学問的なことだけで終わるのでもなく、創造的に発展させるという目標をいつも意識して勉強を進めていくことが大切なのです。
こういう創造的な勉強をする子供たちは、通常の点数を取るための勉強も自然にできるようになります。
創造的な勉強で、伸びしろができているので、その結果、既存の勉強もできるようになるのです。
これからは、点数を取るための勉強を目的とするのではなく、創造的な勉強をすることを第一の目的とし、点数を取ることはその副産物としてやっていくような時代になっていくと思います。
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親はつい、「とりあえず今の苦手なところを直しておこう」と考えがちですが、苦手対策を中心にすると勉強が苦しいだけのものいなります。(受験期はそれでもいいのですが)
まず最初に、「今の得意なところを伸ばしておこう」と考え、苦手対策はそのあとにするのです。
その方が、勉強が楽しいものになるだけでなく、将来の子供の成長にも結びつくからです。
今はまだ日本の社会全体に余力があります。
だから、とりあえず今の状態で少しずつ改善していこうと考えがちです。
しかし、本当は今のうちに新しい可能性を見つけておかなければならないのです。
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小学1年生のころの子供の能力はぐんぐん伸びます。
だから、なにか習い事をさせれば、すぐにそれができるようになります。それは、勉強でも運動でも同じです。
しかし、勉強面での先取りは実はあまり意味がありません。それは、学年が上がれば、誰でも同じようにできるようになることだからです。
知識的なことは、先に学んでも、後から学んでも、行き着くところは同じです。
それよりもむしろ、後から学べば短期間でわかることを、先取りするためにわざわざ時間をかけなければならないということも多いのです。
早めにやることに意味があるのは、主に運動面と音楽面です。
これは、運動と音楽の感覚は、知識ではなく身体の一部として身につくからです。
運動と音楽以外に大事なことは、日本語の運用能力です。
これは、日常生活の中でどの子もそれなりに行っていることなので、運動や音楽のようにははっきりとした差があることがわかりません。
また、勉強面ではできたかできないかということがすぐにわかりますが、日本語の運用能力がどの程度あるかということは、表面にはなかなか出てきません。
しかし、この日本語運用能力の差は、表面にはあまり出ない分、実はかなり大きなもので、その差は学年が上がるにつれて広がります。
では、この日本語運用能力はどのようにして身につけたらいいのでしょうか。
それは、国語の問題集を解くようなやり方では決して身につきません。
日常生活の中での読書、対話、暗唱、作文という知的な日本語を使う機会を増やす中で自然に身についていくものなのです。
この日本語運用能力が育っている子は、国語の勉強など全くしなくても国語の成績はよくなります。(国語力のある子は、一般に国語の勉強などはしていません。)
また、国語以外の他の教科の勉強も、学校の授業を聞いているだけですべて理解できます。
わざわざ勉強らしいことをしなくても、勉強はごく普通にできるようになるのです。
この日本語運用能力を育てる方法として、言葉の森がおすすめするのは、親子作文という勉強法です。
これは、勉強というよりも、親子で共通の体験や実験をし、親子で楽しく対話をし、親子で一緒に作文を書くという半分遊びのような勉強です。
この勉強法のいいところは、単に知的なことを学ぶだけでなく、親の生き方やものの考え方も自然に学べるというところです。
親子で実際に共通の体験をするのですから、予定どおりうまく行くことはむしろ少なく、予定外のことが起こったり、失敗したり、成功をしたり、発見をしたり、発明をしたりということが普通に起こります。
そのときの親の対処の仕方から、子供は人生のさまざまな知恵を学んでいくのです。
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学力の基本は日本語力です。
その日本語力の基本は読書です。
しかし、読書を中心としてやっていけるのは、子供の年齢がある程度上がってからです。
子供が小さいころの日本語力は、読書よりもむしろ親子の対話と作文で日本語力を育てていくのです。
子供が小さいころは、親はなるべく手間をかけたくないと思いがちです。
しかし、手間がかかるのは過ぎ去ってみれば、ほんのわずかの期間です。
そのわずかな期間の手間が、子供のその後の学力やものの考え方や生き方の土台になっていくのです。
だから、むしろ楽しく手間をかける方法を見つけていくことです。
そのひとつが日曜日などに親子で取り組む親子作文です。
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物事には良いも悪いもなく、ただ事実が淡々と生起するだけです。
それをとらえる人間の側に、その事実を良いものの流れとして見るか、悪いものの流れとして見るかの違いがあるのです。
人生は明るい昼で、時とき暗い夜があるが、それは明日の明るい昼のための準備に過ぎないと考える人もいれば、人生は夜で、時どき明るい昼が来るが、またすぐ夜になってしまうと考える人もいます。
これを単なるものの考え方としてだけとらえることはできません。
量子の世界では、人間の意識が事実に影響するということが明らかになっています。
それはもちろんごく微小な存在のレベルでそうだということですが、世の中の動きのほんの一瞬のことに関して言えば、その一瞬の時間の向きを変えるのも人間の意識だと思います。
物事には良い面も悪い面もありますが、良い面の方に目を向ければ良い面が次第に主要なリズムになり、悪い面に目を向ければ悪い面が主要なリズムになります。
よく子供たちでじゃんけんをすると、「じゃんけん弱いんだよなあ」と言う子もいれば、「じゃんけんなら勝てそうだ」と言う子もいます。
そういう考え方のちょっとした差が、次第にその子の人生のトーンを決めていくのです。
ただし、人間は本来生きていること自体が、たくましく生きているということですから、どんなに弱気な子でも成長の過程でさまざまな困難に出会いそれを乗り越えていくと、次第に自分の力というものに自信がついてきます。
しかし、そういう苦労をする前の準備段階として、親は子供にはできるだけ物事の明るい面を着目していくといいと教えておくといいのです。
現在のニュースメディアは、暗い話を好んで流します。
先日、キャンプに行ったときの子供たちの車中での会話を聞いていると、そういうマイナスのニュースの影響がきわめて大きいと感じました。
事故とか犯罪とか災害とか、そういう話題がひっきりなしに出てくるのです。
親は、くだらないニュースなどは子供に見せずに(笑)、親子で知的で前向きな話をするような時間を大切にしていくといいと思います。
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人間には誰でも欠点がありますが、その欠点を直そうとすると、欠点がますます重要なものに思えてきます。欠点を直せばすべてうまくいくような気がしてくるのです。
ところが、もし万一その欠点を直せたとしても、次の欠点が出てくるのが普通です。
それよりも、今ある長所を伸ばしていけば、ほとんどの欠点はかえって人間味のあるエピソードぐらいになってくるのです。
こういう肯定的な人生観を教えてくれるのが、いちばん身近にいる両親です。
動物たちはみんな前向きです。
飼っている犬や鳥たちを見ていると、彼らは、過去をふりかえったり、未来に恐れをいだいたり、自分の欠点を直そうとしたり、本当にしたいことがわからないなどと言ったりは、決してしません。みんな現在を充実して生きています。
人間ももともとはそうなのです。ただそれだけでは際限なくだらしなくなる可能性があるから、少しだけ考える必要があるというだけなのです。
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言葉の森の作文指導は、親子の対話を重視しています。特に小学生のうちはそうです。
子供の語彙力、思考力は、国語の問題集によってではなく、親といろいろな話をすることによって育つからです。
語彙力と思考力のある子は、どの教科の勉強もできるようになります。
だから、わざわざバランスよく、国語、算数、理科、社会などの勉強を家庭でする必要はありません。いろいろな教科の勉強は、学校でしているだけで十分です。
家庭の学習では、国語的なこと最重点にしてやっていく必要があります。その国語的なことが、読書、作文、対話、暗唱です。
小3から小6の生徒には、作文の準備をするための予習シートを渡していますが、それは、作文のテーマについて、お父さんお母さんに取材をするためというのが大きな目的です。
この取材の中で、語彙力、思考力が育ちます。
本を読むには、目から入る読解力が必要ですが、人の話を聞くには耳から入る読解力が必要です。そして、この両者の読解力は共通しています。その共通しているところが思考力です。
小2までの生徒は、自由な題名の課題なので、予習シートで親に取材するという形は取れませんが、そのかわりに実行課題集を渡しています。
これは、季節の行事や遊びを家庭で企画することを通して、やはり親子の対話を盛んにするためです。
予習シートも、実行課題集も、作文を書くことを前提にしていますから、対話の内容も自然に知的、論理的なものになります。「楽しくてよかったね」という話で終わらずに、「どうしてだろうね」と考えるような方向に話が進むのです。
この親子の対話で大事なことは、真面目さよりも楽しさを優先させることです。
対話の目的が、作文を書くことに結びついているので、対話は自然に真面目な方向に向かいますが、ここで親があまりにきちんと勉強的な位置づけで話をすると、子供はそれを息苦しく感じるようになります。
真面目にやりすぎることのいちばんのマイナスは、親子ともにくたびれて、長続きしなくなることです。
国語的な勉強は、読書も作文も含めてすべて長期戦ですから、何しろ長続きさせることが大事です。その長続きのコツは、楽しさを優先させて、面白おかしく、力を抜いて行うことです。
▼親子の対話を生かす日曜朝の「親子作文」体験学習はこちらから
https://www.mori7.com/kform_pre.php?f=tkg201809
▼通常の電話通信の体験学習はこちらから
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苦しいことは長続きしません。
どのような習い事でも、成果を上げるためには、長続きさせることが大事です。
その長続きさせるコツが、楽しく肩の力を抜いて続けることです。
ところが、小学1、2年生のころの子供は、親の言うことは何でも素直に聞くので、親が真面目にやりすぎても、それについていってしまうのです。
しかし、その真面目さは無理があるので、いずれ行き詰まります。
だから、子供が小さいときほど、親は楽しさを優先させて接することが大事なのです。
「親子の対話を楽しさを優先させて」と反対のことのようですが、親子の対話は知的であることが大事です。
子供が子供のレベルで感じたまま言ったことを、親は更に知的に高いレベルで、しかし楽しく話してあげる必要があります。
そのためには、親自身がものごとを知的に考える習慣を持っていることが大切です。
子供に何か聞かれたとき、「ない」とか、「わからない」とか、「自分で調べなさい」とか言わずに、必ず何か中身のあることを話してあげる必要があるのです。
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中学入試の受験作文は、当初は身近な説明文が中心でした。
今でも、帰国子女枠の作文試験では「海外生活の思い出」のような身近な課題が中心になっています。
これは、基本的な文章表現力を見るための試験という位置づけだからです。
しかし、このような身近な説明文は、ある程度準備をして臨めば誰でも一定の水準までの作文が書けるようになります。
本当はそれでいいのですが、作文試験の目的は差をつけて選抜することにあるので、点数がバラけるような問題作りをしなければならなくなります。
そのために、次第に増えてきたのが、複数の文書を、それもかなり長い文章を読んで、それに対する設問を解き、作文を書くというスタイルの試験問題です。
こういう傾向の受験作文に対しては、通常の対策以外に、速く読み取り、速く書き上げるという字数とスピードが要求されるようになります。
こういう作文試験は、邪道だとは思いますが、実際にそのような試験問題が増えているのであれば、とりあえず対策をしなければなりません。
その対策は何かと言うと、第一に作文試験の課題として出るよ文章を読み慣れることです。
中学入試の作文試験の課題は、学問の分野、生き方の分野、言葉の分野、日本文化の分野、学校生活の分野など、だいたい範囲が決まっています。
ですから、ある程度の量を読んでいくと、最初の数行を見ただけでどういう内容が書かれているか見当をつけることができるようになります。
課題文の分野に慣れて読むスピードをあげる、というのが第一の対策です。
第二の対策は、書くスピードを上げるということです。
これは、その場で考えて書いていたのでは時間的に間に合わなくなることが多いので、既に自分が書いた十数本の作文の中から当てはまりそうな実例や表現や意見を思い出し、それらを当てはめながら書くという形になります。
いずれの対策も、練習をすれば必ずできるようになりますが、やは時間がかかります。
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そろそろ受験作文の季節です。
作文の実力というのは、なかなか上がりません。
しかし、受験は実力の問題ではなく、勝負の問題です。
今ある実力で、いかに合格する作文を書くかというのが目標になります。
そのコツは、10種類のテーマを決めて、そのテーマごとに傑作を1本ずつ書いて、そのテーマならいつでも楽に書けるようにしておくことです。
受験作文で、予想もしなかった問題が出たらどうするかというと、そのときこそ構成を意識して書く書き方が効果を発揮するのです。
「○○は二つある。第一は……。第二は……」というような書き方をすれば、難しいテーマでもそれなりに形を整えて論じることができます。
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塩谷信男さんは、次のようなことを言っています。
宇宙は、地球の自転や公転も含めて完璧な秩序の中で動いている。だから、人生も本当は完璧であるはずで、それは人間以外のあらゆる生命も含めて、完全な平和と幸福の中に本当は生きられるはずなのだということです。
私たちはつい目先のことに追われ、暑いとか寒いとか忙しいとかいうことばかりをよく言っています。そして、とりあえず、今日か明日、もう少し長くて今年か来年うまく行けばよいという考えになりがちです。
しかし、本当は、自分以外のあらゆる人間や生物も含めて、完璧な秩序と幸福の中で生きることのできる世の中を目指すべきなのです。少なくとも、その役割を持っているのが人間だと思うことなのです。
その塩谷さんの言っていたことに、「愚痴をこぼさない」ということがありました。
私は、最初この言葉を見て、「ふうん、そうだろうなあ」と思っただけでしたが、実はここに重要な意味があるのではないかということがわかりました。
話は変わりますが、松久正さんという人がいます。松果体のことを書いている人ですが、この人が次のようなことを言っていました。
それは、自分に起きたことは、それがどんなことであっても、自分が選んだことで、それがよかったことなのだと思うということです。
また、話は変わりますが、日月神示という本に次のような一説があります。
「今の自分の環境がどんなであろうと、それは事実であるぞ。境遇に不足申すなよ。現在を足場として境遇を美化し、善化してすすめ。」
私たちは、よく失敗をしたり、間違いをしたりします。又は、ほかの人からそういうことをされることもあります。また、偶然の事故や災難に巻き込まれることもあります。うっかりつまずいて転ぶとか、水の入ったコップをひっくり返すなどということは日常茶飯事です。また、朝起きたら雨が降っていたとか、乗ろうとした電車に間に合わなかったなどということもよくあります。
しかし、そういう自分にとって嫌なことだと思うことすべてを、自分が選んだことであり、それがよかったことだと思い直すのです。
小さな理屈の世界では、嫌なことは嫌なことで、それはない方がよかったことなのですが、いったん起きてしまったことに、それがない方がよかったと言っても、ものごとは何も変わりません。
その境遇を美化し、善化して進むという姿勢が大事なのです。
大きな目で見れば、人間はひとつの大きな存在のようなものです。
自分と相手がいるのではなく、自分も相手も同じひとつの存在の一部です。
自分が得して相手が損したとか、逆に自分が損して相手が得したとかいうことはなく、同じ一つの損得を自分と相手で分かち合っているということです。
そのように思うことによって何が変わるかというと、その境遇を卒業するのです。
嫌なことを嫌なことだと思い続けていれば、それはその嫌なことを卒業できていないことですから、同じような嫌なことにまた形を変えて挑戦しなければなりません。
嫌なことをよかったことだと思うことによって、その嫌なことを卒業し、今度はもっと先にあるより大きな創造に挑戦するようになるのです。
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昔の男の子は、野良猫を見れば必ずと言っていいほど石をぶつけました。団塊の世代の男の子たちです(笑)。
今は、そんなことをする子は、誰ひとりいません。
人間の意識は、年々変化していて、最近その変化がよりよい方向に加速している気がします。
加速しているから反対回りの渦もできることがあるのですが、大きな流れで見れば、その反対回りの渦も含めてよい方向に進んでいるのだと思います。
嫌なことを人にされたときの意識の切り替えは、すべてをよかったことだと思うことです。
嫌なことを人にしてしまったときの意識の切り替えも、基本は同じです。
そして、それを卒業して、新しい創造に挑戦するのです。
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