ひらがなばかりで漢字を書く子がいます。
男の子に多いのですが、漢字で書けないわけではなく、漢字で書くのに時間がかかり面倒だからひらがなで書くということです。
これを、「習ってる漢字は全部使って書くように」とか、「辞書を引きながら書くように」とかいう形で指導すると、書くスピードが落ちるので嫌がります。
どうしたらよいかと言うと、漢字で書けそうなところはふりがなを振るような形で小さい字でマス目の横に書いておくといいのです。
作文を一通り書き終えた段階で、その原稿をgoogleドキュメントの音声入力で読み上げます、。
すると、ほとんどのふりがなの部分は正しい漢字に直るので、それを見ながら作文を漢字の部分を書き直すのです。
このように、作文を書く作業と漢字を書く作業を分けて行えば負担はなくなります。
両方を一度にやろうとするから、面倒に思ってしまうのです。
作文だけを先に書き、漢字に直す作業をあとでまとめてやるようにすると、次第に最初から書けそうな漢字は漢字で書くようになります。
子供の勉強をしやすくするために、ITの技術をどんどん利用していくと良いと思います。
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男の子は、概して面倒くさがり屋です。
だから、作文を書くついでに、漢字を使って、ていねいに書くようにして、姿勢も正しくなどといろいろなことを要求すると、すごく嫌がります。
それは、いろいろなことを同時にやらせようとするからです。
作文を書くときは作文だけに集中させ、漢字を書く練習はそのあと別にやっていけばいいのです。
面倒なことを嫌がるというのは、物事を能率よく済ませたいという気持ちの表れです。
だから、むしろその気持を生かす工夫をしていくといいのです。
もし逆に親の力で、面倒なことを面倒なままさせようとすると、だんだんと形だけのやり方をするようになります。
長い時間をかけて、ただ書き写すような紅鏡をしている子は、そういう形だけの勉強に慣れてしまった子です。
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寺子屋オンラインで作文を書いている子供たちの上達が、かなり早いことに気が付きました。
ある週に軽く話したことが、次の週にはもうできていることが多いのです。
例えば、小学3年生の子に、
「4年生になったら、また説明するけど、段落は三文ぐらいを目安につけていくと読みやすくなるよ」
と話すと、いつの間にか、そういう段落のはっきりした作文を書いているのです。
書き出しの工夫でも、いつも、会話の書き出しで始める子が多いので、
「そのときの情景がわかるように書いていくというのが目標だから、会話でなくてもいいんだよ」
と話すと、次の週から、もう情景がわかる書き出しを工夫してくる子がいるのです。
そのほか、「『お父さん』『お母さん』でもいいけど、上級生になったら『父』『母』と書いていくようになるよ」
と話すと、上級生でない子が、「私の母は……」などと書いてきます。
そして、最初は、字数も十行ぐらいをやっと書いていた子が、いつの間にか、作文用紙に何枚も書くようになっているのです。
もちろん、内容も個性的になり、毎回お母さんやお父さんに取材し、表現も工夫し、字も丁寧になりと、その効果を挙げればきりがないほどです。
どうして、上達が早いのかを考えてみると、次のような要因が思い浮かびました
第一は、授業の内容を保護者も共有できることです。
Zoomには、レコーディングの機能があるので、子供の約1時間の勉強の様子を、保護者もあとで見ることもできます。
すると、子供のするべきことがわかるので、親も協力しやすくなるのだと思います。
第二は、やはりみんなの前で、自分の予習を発表するからだと思います。
その週の作文にどのようなことを書くか、準備してきたことを発表するので、事前にお母さんやお父さんに似た例を取材し、自分なりに似た話を考えておかなければなりません。
作文は、「準備七分に腕三分」の世界ですから、準備の段階ですでにいい作文が書ける土台ができているのです。
しかも、大事なことは、これが無理な勉強ではなく、子供たちの自主性を生かした楽しい勉強になっていることです。
読書紹介の場合でも、もしこれが、読書のグラフをつけて、読んだ冊数を互いに競い合うような形で進めていけば、それほど楽しいものにはならないと思います。
寺子屋オンラインクラスの読書紹介は、グラフなどは何もなく、そのかわり全員が発表します。それも、誰が何を発表してもいいのです。
毎回、「かいけつゾロリ」を発表する子でも、その本のどこが面白かったかを説明するときは、生き生きとしています。
それを見ていて、昔のことを思い出しました。
うちの子供2人も、小学生のころ、「スラムダンク」という漫画を、何十回も読み込み、それぞれの場面やセリフを細部まで覚えていました。
私は、当時は漫画というものを、「読んでもいいが、繰り返して読むべきなのはもっといい本」と思っていましたが、今ふりかえってみると、どういう本であっても、子供が繰り返し読みたくなる本は、その子にとって必要な本なのだと思うようになっています。
小学生の子供たちは、親や先生が言うことは大体素直に聞きます。
それは、反抗するだけの力がまだないからです。
しかし、子供時代の「いい子」は、いい子であった度合いが強いほど、あとで、「いい子」ではなくなります。
そうならないようにするためには、自主的な子にしていく必要があるのです。
自主的な子は、自分の判断で、親の言うことを聞いたり、自分の意見を主張したりします。
そういう自然な親子関係を作っていくことがこれから大事になると思います。
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先日、ふと、「そう言えば、寺子屋オンラインの子たちは、作文の上達が早いなあ」と思いました。
普通は、2回も3回も4回も5回も繰り返し言って、やっと少しずつできるということが多いのですが、寺子屋オンラインの場合は、1回でできてしまうことも多いのです。
いちばん大きいのは、お母さんが勉強の内容をすべて把握しているからだと思いました。
次に大きいのは、同じぐらいの学年の子の前で発表するので、自然に気合が入るということだと思います。
人間の意欲は、やはり人間との関わりで生まれてくるのだと思いました。
※ところで、今、寺子屋オンラインはシステムを変更しているところなので、しばらく募集は停止します。
宣伝みたいなタイトルですが(笑)、本当の話です。
人間の意欲は、他の人間との関わりの中で出てきます。
日本語脳を持つ人は、特にその傾向が強いのだと思います。
義理と人情の世界の話に近くなりますが。
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学校生活を送っているときには、国語・数学・英語・理科・社会などの主要教科の勉強が、知的な生活のほとんどを占めています。
作文や読書は、教科の勉強に比べると、おまけのような印象です。
しかし、子供たちが学校を出て社会に入り、仕事や家庭が生活の中心になってくると、学校時代にあれほど大きな割合を占めていた教科の勉強はほとんど出てこなくなります。
基礎的な学力は、もちろん生活の役に使っているはずですが、それらのレベルは基礎的なものがほとんどです。
学生時代のテストで苦労したような難しい問題を解く力や、複雑な知識を覚えた経験は、日常の生活の中ではほとんど使いません。
しかし、その代わり、その人の知的な生活の中で大きな割合を占めるようになってくるのが文章表現力や読書力なのです。
子育てを考えるときには、この勉強の大きな流れの変化を念頭に置いておく必要があります。
学校の勉強は、子供時代はもちろん大切ですが、あとまで残るのは、作文力や読書力の方なのです。
ところが、教科の勉強は、テストによる数値の目標がはっきりしています。だから、誰でも自然に関心を持ちます。
それに対して、作文や読書は本来点数のつかないものです。だから、関心が向きにくいのです。
この点数のつかない、したがって関心の持ちにくい勉強に意欲的に取り組むために必要なのが、友達の作文や読書に触れることによる知的な刺激です。
寺子屋オンラインのクラスで、子供たちが作文構想図の発表や、読んでいる本の紹介をしている様子を見ると、子供たちが互いに相手の作文や読書に大きな関心を持っていることがわかります。
ここにあるのは、テストでも競争でもなく、ただ同じぐらいの年齢の子供たちが自然に感じ合う知的な刺激なのです。
こういう交流は、学年が上がるほど貴重なものになってきます。
そして、このような交流が自然にできるようになるために、小さいころから作文や読書の交流を楽しむことに慣れていくといいのです。
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学校時代の勉強は、確かに社会に出ても役に立っています。
しかし、役に立つというレベル以上の不必要に難しいことをやっていたという印象があります。
本当は、その不必要な部分をやめて、もっと自由な遊びや読書や作文に力を入れていった方がいいのです。
勉強が面白くなるのは、世界の不思議さに対する感動があったときです。
その感動をもとに、もっといろいろなことを知りたいと思うようになってくるのです。
ところが、今のテスト教育は、感動のかわりに競争を勉強の動機にしています。
だから、勉強がつまらなくなるのです。
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家庭で勉強する教材の中には、答えを書く形のものが多いと思います。
作文力をつけるという勉強でも、文章を書き写すとか、文章を要約するといった勉強がよくあります。
なぜ、このように書く形の勉強が多いかというと、勉強している様子が外から見てもわかることと、勉強した跡が、自分にとっても他の人にとってもよく分かるからです。
しかし、書くという作業は、読むという作業に比べて、5倍から長いときには10倍近くので時間がかかります。
すると、文章を1回書き写す勉強というのは、その同じ文章を5回繰り返し読む勉強と同じ時間がかかることになるのです。
どちらが力がつくかといえば、1回だけ書くよりも、5回繰り返し読む方です。
勉強は、中身本位にやっていくことが大切で、外側の体裁は二の次です。
家庭では、できるだけ中身を優先して、読む勉強を中心に行っていくといいのです。
さて、その読む勉強にも、二通りの読み方があります。
一つは、他の人にもわかるようにしっかりと丁寧に読む朗読のような読み方です。
もう一つは、自分にだけわかればいいという読み方で、つぶやくような読み方です。
どちらの読み方が良いかというと、これは自分にだけわかる、つぶやくような読み方の方がいいのです。
なぜかと言うと、朗読のような読み方では、外に向けて読むことに気を取られて内容の理解は二の次になることが多いからです。
音読は、読んでいることが自分に分かればいいという読み方でいいのです。
もちろん、音読によって読み間違いがわかることがありますから、近くにいるお父さんやお母さんにも内容が大体分かるような読み方をすることは必要です。
しかし、近くで聞いているお父さんやお母さんは、「読み方をもっと上手に」などという注意は決してしないことです。
さて、この音読について、繰り返し読む必要はないなどと言う人がいます。
内容の理解の方が、音読の回数よりも大事だというのです。
そういう考えが出てくるのは、音読の意味をよく理解していないからです。
易しい文章であれば、回数の多い少ないはそれほど大きな差になりません。
しかし、読む文章が難しくなってくると、1回しか読まないときは、自分の理解できる部分しか理解しない読み方になっています。
2回繰り返して読めば、1回目には気がつかなかったことが理解できます。
3回、4回、5回と繰り返して読めば、繰り返せば繰り返すほど、新しい理解が付け加えられてくるのです。
これは、読書も同じです。
1回目に読んだときと、2回目、3回目と繰り返し読んだときとでは、内容の理解に大きな差が出てきます。
だから、1冊の教材は、5回以上繰り返すことが大事なのです。
また、音読よりも黙読がいいというのも、音読の意味をよく理解していない考えです。
繰り返し読む場合は、音読でなければ続けることが難しくなります。
同じ文章を、2回目、3回目と黙読で読んでいれば、途中から必ずと言っていいほど斜め読みになってしまうからです。
勉強は、読むことを中心にして、できるだけ音読で、そして1回だけでなく時間をおいて5回以上繰り返して読むというような読み方で実力をつけていくのです。
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音読や暗唱の勉強で誤解が多いのは、お父さん、お母さんだけでなく、教えている先生自身も、自分が実際に音読や暗唱をした経験がないからです。
子供が、親の前で音読をしたがらないというのは、子供の問題ではなく、親の問題です。
子供に音読や暗唱をさせる前に、親が自分でも少しやっておくといいのです。
内容をざっと理解すればよいというときは、黙読で速読でいいのです。
内容を深く理解するときは、音読の復読(繰り返し読むこと)です。
精読とは、じっくり読むことではなく、音読で繰り返し読むことなのです。
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作文教室や作文講座という名前の付いている教室がいくつかあります。
これらの教室の作文指導の仕方はどこも同じようなもので、子供たちに作文を書かせて、それを先生が添削するという形です。
この事後的な添削中心のやり方の良い点は、誰でもそれなりに作文指導をすることができるという点にあります。
学校でも、学習塾でも、昔から変わらぬ赤ペン添削という指導の仕方なので、生徒も先生もそういう教え方しかないように思っています。
しかし、このやり方の良くない点は、課題が難しくなったときに、それでも頑張って書き続けようとか、より高いレベル目指そうとかいう意欲を持ちにくい点にあります。
作文を書くというのは、小学校低中学年のころはそれほど負担ではありませんが、小学校高学年、中学生、高校生になると、かなり精神的エネルギーを必要とするものになります。
作文力向上のために最も大事な時期は、この小学5年生からなのですが、肝心なときに作文の勉強を続けられなくなってしまうことも多いのです。
言葉の森では、設立当初から、子供たちが作文を書く前に、何をどう書くかという項目を指示する事前指導を行ってきました。
この事前指導は言葉の森のオリジナルで、こういう教え方をしているところはほかにはないと思います。
そのために、書くことが苦手な子もすぐに書き出すことができ、得意な子はさらに高度な書き方を目指せるという指導になっていました。
ところが、この事前指導の作文でも、長年続けていると、作文を書くのに飽きてしまう子も出てきます。
特に課題が難しくなる中学生以降になり、その日のうちに書き上げられない日が何週か続くと、作文の課題がたまってしまい、そのことを負担に感じて続けられなくなってしまうということがあったのです。
作文を書くというのは、学年が上がると、高度な集中力を必要とする勉強になるので、その日のうちに書き始めてその日のうちに書き上げなければなかなか毎週の課題を消化することはできません。
作文を書きにくくなった時期に、どう書く意欲を持たせるかということが、言葉の森でもこれまで長年の課題でした。
確かに、小学校低学年から作文の勉強を始めて、高校3年生まで続けたということも、毎年何人かいます。
しかし、途中で、いろいろな理由から作文の勉強を続けられなくなってしまう子の方がずっと多かったのです。
ところが、今回、寺子屋オンラインという仕組みで、同学年の少人数の子供たちが、あらかじめ予習してきた内容を発表し合うという教え方ができるようになりました。
ほかの生徒の発表を聞くと、自分が書く作文の参考になることもよく出てきます。
発表のあと、予習してきたメモをもとに作文を書けば、すぐに書き出すことができます。
また、作文を書き終わるまで寺子屋オンラインの会場にいることにし、終了したらチャットで報告するという形を原則とすれば、作文の提出率は、通学教室に来るのと同じ百パーセントになります。
しかも、この少人数のオンラインクラスは、電話通信指導のコースと同じ金額です。
更に、作文の勉強のほかに、読んでいる本の紹介もできるので、作文と読書の学習がいっぺんに進みます。
曜日によっては、このほかに暗唱の発表なども行っているクラスがあり、自然に全員が暗唱の勉強を続けるようになっています。
以上のことを考えると、これから、この寺子屋オンライン方式の作文教室が、作文指導のスタンダードになるだろうということがわかってきました。
通信の作文講座では、友達との交流という楽しさがありません。
通学の作文教室では、全員が発表するというのはまず無理で、先生の集団指導と個別の赤ペン添削が中心になります。
寺子屋オンラインでは、全員が予習に参加でき、友達との交流ができ、その日のうちに書き上げることができるという三拍子そろった作文の勉強ができます。
読書紹介や暗唱発表なども入れれば、四拍子も五拍子もそろった勉強になります。
この充実した作文の勉強をしていれば、小学生時代はおろか、中学生、高校生と勉強を続け、やがて言葉の森を卒業したあとも、同窓生として一緒に勉強してきた友達と読書や作文の交流を続けていけるようになると思います。
言葉の森では、現在、この寺子屋オンライン方式の作文クラスを普及させるために、作文講師の育成をはじめとした準備を進めているところです。
今、作文の勉強を始めようかと考えている方は、とりあえず言葉の森の電話通信指導を受け、寺子屋オンラインの作文クラスの曜日時間が増えてからそちらに参加していけるとよいと思います。
少なくとも、作文教室という名前はどこも同じだろうと考えて、昔ながらの赤ペン添削中心の作文の勉強を始めないことです。
事後の添削中心の勉強では、上達するように見えるのは、本人が意欲的に取り組んでいる初めのうちだけです。
本格的な作文の勉強をしたいのであれば、高校3年生まで続けることのできる言葉の森の寺子屋オンラインのクラスで作文の勉強を始めるのがベストだと思います。
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作文教室や作文講座という名前の教室がいくつもありますが、作文という名前がつけば、どれも同じなのではありません。・
子供が意欲を持って取り組んでいる最初のうちは、誰が教えても上達したように見えます。
しかし、本当の上達は、長年続ける中でゆっくりと育っていくものです。
その長年続けられるかどうかということが、作文教室選びのいちばんの基準です。
そして、ここに全く新しいスタイルの作文教室が生まれてきたのです。
寺子屋オンライン方式の教室というのは、作文指導に限らずあらゆる教育の姿を変えると思います。
しかし、そのかわり、運営の仕方に難しいところがあり、そのためにまだどこもこのやり方に着手していません。
だから、言葉の森がこれから率先して取り組んでいきたいと思っています。
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google+が来年廃止されることになったので、その代わりになるコミュニティツールを探していました。
slack、chatwork、workplace、G suiteなど、いろいろ見てみましたが、どれも一長一短でした。
最初、workplaceがよいと思ったのですが、同じドメインでないと使えないので、生徒に新たなメールアドレスを渡しても煩わしいだろうと思い、やめました。
chatworkも見せてもらいましたが、記事のスレッド表示ができず、チャットがどんどん流れていくだけなので、じっくり話をするコミュニティとしては使えないと思いました。
slackもたぶん同じです。
G suiteは、無料版がないのでだめでした。G suiteは、ビジネスモードのgoogleハングアウトやgoogle+が使えるので、それなりにいいとは思いますが、生徒全員が参加するのはすぐには難しいと思いました。
そして、結局、自前で作ったオープン教育掲示板を利用することにしました。
しかし、画像や動画をオープン教育掲示板に直接アップロードするとサーバが重くなるので、今後は、自分のgoogleフォトにアップロードした画像や、youtubeにアップロードした動画のリンクを貼り付けてもらうことにしたいと思います。
長期的に考えると、そのように自分の作品は自分のgoogleフォトで管理しておいた方がいいと思います。それは、自分のgoogleフォトのページで、削除も、共有の開始停止も、すぐにできるからです。
さて、今回のgoogle+移転問題で、新たに確信したことがありました。
それは、言葉の森の生徒は、単に何年間か作文の勉強をするお客さんと考えるのではなく、今後始める同窓会のメンバーになってもらうことも含めて、
一生、教育と文化の面で付き合いを継続できる仲間にしていきたいということです。
そのために、言葉の森は、次のように方針を大きく変更することにしました。
それは、第一に、作文教育から全教育へと守備範囲を広げることです。
その全教育の目的は、これまでと同じ、子供たちの真の実力を育て、家庭と地域を基盤に、点数よりも文化を重視し、競争ではなく創造を目指す教育を行うということです。
具体的には、作文だけでなく、読書、暗唱、国語、算数数学、英語、理科実験、プログラミングなどの教育も行っていくことです。
それを例えば、今後、寺子屋オンラインの次のようなコースで実現していく予定です。
・作文コース+読書紹介
・発表学習コース+暗唱チェック+その他
・自主学習コース(作文・読書・暗唱・国語・算数・数学・英語・その他)
作文と発表学習は、発表と交流を中心としたコースで、自主学習は、自学自習と先生の個人チェックを中心としたコースです。
第二は、幼児から社会人までの全年齢の生徒を対象にすることです。
これまでは、「作文を書く」という力を本人が持てる小1あたりからスタートし、大学入試に向かう高3あたりまでを一区切りとしていました。
しかし、全教育ということを考えれば、読書と対話を中心とした教育や、親子作文の教育などに力を入れることができます。
また、子供が本当に書く力と考える力をつけるのは、高3から20代前半にかけてですから、その時期に読書、特に難読を中心とした交流を進めていけば、ほかではできない価値ある教育になります。
そして、社会人になっても、同窓会に参加して知的な交流を深めていくことができます。
そのような一生続けられる教育を提供する教室にしていきたいと思います。
第三は、全教育、全年齢と語呂合わせ的になりますが、講師も全生涯を言葉の森の指導に充てることができるようにすることです。
言葉の森の講師は、定年はありませんが、それでも90歳や100歳になれば、子供を教えるのが難しくなる時期が来ます。
しかし、そのときまでに、自分の後を継ぐ講師を育てておけば、親講師と子講師の関係で、間接的に子供の教育に携わることができます。
それが、同時に私設年金制度のような形になるのです。(森林プロジェクトの植林システムという名前をつけています。)
これからの世の中であてになるものは、資産でも、資格でも、投資でもなく、日々人に喜ばれる仕事ができることです。
そして、自分が仕事ができなくなっても、それまでに仕事のできる人を育てておけば、その人を通して仕事をしていることになるのです。
以上が、おおまかな言葉の森の今後の方針です。
この方針の前提となる考え方は、この世界で根本的に価値あるものは「創造」だということです。
例えば、人類が最初に火の利用を考えついたとき、そこで創造が生まれました。
その後の火の利用の普及は、便利さの普及であって創造ではありません。
最初の発見又は発明のときに創造があったのです。
同じように、人類が最初に車輪を発明したとき、そこに価値ある創造が生まれました。
その後の車輪の利用の普及は、便利さの普及であって創造ではありません。
最初の発明のときにだけ創造があり、したがって価値が生まれたのです。
現代の社会でも同じです。
今は、お金の流通が、創造ではないところで大きく動いているので、何が本当に価値あるものかが見えにくくなっています。
宝くじが当たったなどということは、お金の移動を生み出しはしますが、何も価値あるものを生み出していません。
真に価値あるものは、この世の中にまだないものを創造したときに生まれます。
短期間の狭い範囲に限って言えば、宝くじに当たることは富を生み出したように見えます。
しかし、長期間の人間社会全体に関して言えば、創造が行われたときだけ富が生み出されるのです。
だとすれば、これからの日本の社会が目指す道は、多くの人が、自分の今いるところで小さな創造を積み重ねることです。
その中には、火の発見や車輪の発明のような大きな創造もあるかもしれません。
しかし、それも、小さな創造の幅広い裾野によって生み出されるはずです。
このように考えれば、価値ある創造を生み出すもとになる、子供たちの創造教育こそが社会の中心的な関心になる時代が来るのだと思います。
今の世の中は、子供たちの教育が中心になっているのではなく、もっと別の大人の都合が中心になって回っています。
これを、すべての社会人が子供の教育に関心を持ち、子供の教育中心に社会の運営を考えるような社会にしていく必要があります。
言葉の森が、今後の方針として、全教育、全年齢、全生涯を考えているのも、こういう教育に対する考えがあるからです。
さて、このような大きな方針の変更を考えて数日してから、突然引越しの機会がやってきました。
今の通学教室は、特に不便はないのですが、3階でエレベーターがないので、荷物運びの人がいつも大変な思いをしていました。
そして、1、2階の飲食店の入ったビルの上にあるので、教育の場とは少し雰囲気の違う感じがありました。
たまたま、今の教室から距離として600メートルぐらい離れたところで、駅から徒歩4分ほどのところに、小さな4部屋が取れるフロアがありました。
全体のスペースは今よりも狭くなりますが、今はほとんど使っていない空間もかなりあるので、毎日の授業や仕事には差し支えありません。
そこで、この10月から11月にかけて引越しすることになります。
さて、それとはまた別の話ですが、たぶん来年早々、新しい本がもう1冊出る予定です。できれば、今年中に出るといいのですが、それは今後の進み具合によってです。
今度の本の内容は、国語の読解、記述、作文に関する参考書です。
これまで、生徒の保護者から、よく読解問題の解き方や、記述問題の書き方の質問を受けていましたが、この本を読めばすぐにわかると思います。
読解については、この本のとおりに勉強すれば、必ず成績が上がります。
小学生を対象に書いていますが、中学生でも、高校生でも同じように役立ちます。
センター試験の国語の成績を上げたい人は、ぜひ読んでみるといいと思います。
小学生の場合は、子供が読むには少し難しいので、保護者が読んで理解し、子供の国語のテストに当てはめて考えるようにしてください。
このように、いろいろなことが重なる10月、11月になりますが、最近読んだショートスリーパーの堀さんの本を参考にしながらがんばってやっていきたいと思っています。
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真に価値あるものは、創造です。
これから世の中が大きく変化すると思いますが、資産も、資格も、資源も、本当の意味ではあてになりません。
世の中で、人に喜ばれることをすることと、何かを創造することが、最後に残る価値あるものです。
その根本に立ち返れば、子供の教育の方向も自ずから決まってきます。
そういう原点をときどき振り返りながらやっていきたいと思います。
今月は、寺子屋オンラインのやり方を変えるので忙しくなりそうだと思っていたら、それに輪をかけて忙しくなる話が出てきました(笑)。
突然引越しが決まったのです。(ほぼ決まったということですが。)
これから世の中の変化が速くなるから、それに追いつけということなのだと思います。
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普通、勉強というと、答えが一律に決まっているもののことを言います。
だから、一斉指導の形の授業が有効で、それが能率のよい勉強の仕方になっています。
しかし、答えが決まっている勉強でも、学年が上がるにつれて内容が難しくなると、それに応じて習熟度によるクラス分けが必要になってきます。
特に、今のように家庭環境の差が大きくなると、低学年のうちから、読書習慣などによって勉強以前の差が生まれてきます。
その習熟度の差に対応した教え方が、個別指導です。
しかし、答えのある勉強の世界で最も能率のよいのは、一斉指導でも個別指導でもなく自学自習です。
子供がまだ自分で勉強を進められない年齢のときは、親が協力して親子で進める自学自習が最も能率のよい勉強法になります。
ただし、この家庭での自学自習の難点は、一般に親が性急に成果を求めすぎるところにあります。
読書習慣などは、子供本人の好きな本を、短いページ数でよいので、毎日休まずに気長に続けていくことが大切なのですが、多くの親は、子供にとって難しすぎる本を、週に1回か2回、集中して読ませて、その読んだ結果についてテストをするような濃い勉強的な読書をさせがちです。
そのために、力がつく前に、親子喧嘩になってしまうことが多いのです。
この家庭での自学自習をやりやすくするために、言葉の森では寺子屋オンラインの自主学習クラスを開いています。
ただし、今の自主学習クラスのやり方はまだ子供たちの交流がなく、定期的な評価などもないので、今後はこの面を改善していく予定です。
さて、答えのある勉強は、今後寺子屋オンラインを利用した自学自習でカバーしていけるようになりますが、これからの学力の中心は、答えのない勉強になります。
AI化が進む時代には、この答えのない勉強の実力をいかにつけていくかということが大事になってきます。
その答えのない勉強では、子供たちが、個性的で創造的な研究をし、それを友達の中で共有し、互いに交流する形の勉強が中心になります。
そういう勉強の代表が、読書と作文とプログラミングです。
これらの勉強は、初心者のころは一斉指導でもできますが、学年が上がりレベルが上がってくると、同じレベルの子どうしの発表や交流が勉強の意欲につながるようになります。
そして、これらの勉強は、高校3年生になったから卒業というものではなく、更に長期間、自分の力を向上させていけるものです。
実は、子供たちの学力が深いレベルで成長するのは、高校3年生の18歳から20代前半にかけてです。
もし大学生になったあとも、年に何回か、小学1年生時代から一緒に寺子屋オンライン勉強してきた友達と、読書や作文やプログラミングやさらには将来の仕事などについての交流ができれば、これはかけがえのない学習の機会になると思います。
今行っている、寺子屋オンラインの作文クラスと発表学習クラスは、このような長期的な勉強として進めていきたいと思っています。
そのために、今後は寺子屋オンラインクラスの生徒募集に力を入れ、その生徒増とクラス増に対応するため、森林プロジェクトの講師育成に力を入れていこうと思っています。
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答えのある勉強は、個性のない勉強です。
個性のない勉強が最も得意なのはAI(人工知能Z)です。
漢字や計算の勉強で人間とAIが競争したら、絶対に人間が負けます。
そして、そういう分野は年々広がっています。
だから、人間は、漢字や計算などの学力は8割押さえておけばそれで十分で、あとの余力は個性のある学力づくりに向けていくことです
そして、もし、試験などで漢字や計算も10割近くにする必要があるときは、試験直前に集中学習をして間に合わせればいいのです。
狭い日本の、さらに狭い学校や塾の先生の評価に合わせるのではなく、将来の世界という大きな枠で考えていくことです。
個性が大事な時代と言っても、基礎学力は必要です。
その基礎学力とは、昔ながらの読み書き算盤です。
その中でも、最も大事なものは暗唱です。
暗唱力があれば、読解力、思考力、表現力も伸びるからです。
そして、暗唱は小1以前からでも、誰にでもできて、しかも慣れると楽しくなってくるからです。
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東大の2020年からの大学入試入試における英語の方針が発表されました。
それは、民間試験利用の英語の成績が、国際的な尺度であるCEFR(セファール)でA2以上だということです。
そして、これは出願の要件であって、得点としては加算しないということです。
CEFRでA2のレベルというのを英検で見てみると、準2級から2級の実力で、高校卒業時に生徒の半分が達成すべき基準だとされている水準です。
以前、東大の推薦入試で、「学力は、センター試験で8割取れればよい」とされていましたが、それと同じ発想です。
つまり、学力はある程度あればそれでよしとして、あとは思考力とか、創造力とか、個性的な関心や意欲のようなものを優先するということなのでしょう。
これは、これまで東大の入試に合格してきた成績優秀な子供たちの中に、優秀なのは成績だけで、論文もまともに書けないとか、学問に対する意欲もないとかいう子が目立ってきたためではないかと思います。
この入試の成績と真の学力との乖離は、予備校の入試対策が充実してきたことと比例しているはずです。
言い換えれば、大学入試の対策が充実すればするほど、入試が科挙化していったのです。
そして、これは、大学入試に限らず、高校入試でも、中学入試でも起きつつある現象です。
成毛眞(なるけまこと)さんは、最近の著書の中で、面白いことを述べています。
それは、今活躍している若者たちの多くは「ゆとり世代」で、勉強漬けにならなかった中高生時代を過ごしていたというのです。
AI時代に、学力の基準は大きく変わってきます。
これまで優秀とされてきた学力の中には、AIでカバーできるものがかなりあるのです。
では今後、子供たちの真の学力を伸ばすという場合、何を伸ばしていったらいいのでしょうか。
私は、それは広義な意味での国語力だと思います。
その国語力とは、漢字書き取り力とか、選択式の読解力とか、文学の読み取り力とかいうものではなく、もっと根本的な哲学に近い思考力なのです。
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今、ゆとり教育が見直されつつあります。
確かに、一部では低学力の子供たち生み出し、その負の側面が大きく取り上げられましたが、その一方で、勉強漬けにならない子供時代を送り、個性と能力を開花させていった子供たちもいたのです。
このゆとり教育のプラスの面をどう伸ばすかということが、これからの教育の課題です。
勉強はどの教科も一応できた方がいいのです。
しかし、どれもオール5を目指すような勉強の仕方は、かえって害があります。
ところが、小学校低学年で普通にできる子の場合は、親がつい全部できるようにさせてしまうことが多いのです。
本当は、それよりももっとその子の自由な時間を作ってあげる方がいいのです。
これが、「8割できたらいい」という考え方です。
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