△鎌倉の朝の海
英語の勉強が、小学生の段階から本格的に始められるようになります。
しかし、これまで中学生になってから始めていた英語の勉強を、同じように小学生の頃から始めるというのでは工夫がありません。
中学生は、文法的な知識をもとにした英語の勉強をします。
小学生は、文法の知識以前にもっと身体感覚的な英語の勉強をしていく必要があります。
それが英語の暗唱です。
言葉の森では、現在、日本語の暗唱検定試験を行っています。
この暗唱検定の最初の文章は宮沢賢治の「雨ニモマケズ」ですから、誰でも多少は聞いたことがあるのですぐに暗唱できるようになります。
暗唱検定の級が進み、途中から古事記の一部が暗唱に出てくるようになると、中には初めて聞くような神様の名前が次々と出てくる文章にになります。
しかし、暗唱に慣れた生徒は、それをいとも簡単に暗唱できるようになってしまうのです。
言葉の勉強は、知識の勉強よりも前に、運動感覚的な慣れのようなものが必要です。
英語の場合も、文法的な理屈を通して理解するのは中学生から上の段階であって、小学生まではもっと感覚的に身につけていく土台が必要なのです。
英語の文章の流れに慣れるという意味で、英語の暗唱は小学生段階で最初に取り組んでいく勉強になると思います。
言葉の森では、以前アメリカの出版社の英語の教材をもとに、希望する生徒に暗唱の練習を行っていました。
ところが、最近、日本でも子供向けの優れた英語の教材とその音声ファイルがそろうようになりました。
そこで、現在日本語の暗唱検定の5級が終わった生徒は、英語の暗唱も選択できるようにしています。
この英語の暗唱の音声は、その出版社のホームページからダウンロードして聞くことができます。
「暗唱のよさはわかるが、家でやらせるのは難しい」と思われるお母さん方は多いと思います。
その場合は、寺子屋オンラインの少人数クラスに参加すれば、すぐに暗唱ができるようになります。
ただし、現在、寺子屋オンラインはクラスの再編成を行っていますので、その受け入れ体制が整いましたら、また改めて募集を行う予定です。
▽英語暗唱のページ
https://www.mori7.net/teraon/tanngenn_eiann.php
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野口悠紀雄さんは、中学生のときに英語の弁論大会に出たことをきっかけに、英文の丸暗記を始めました。
中学、高校の英語の教科書も同じように暗記すると、英語の勉強は苦労もせずに得意になったそうです。(「超英語法」P226<私は英語をどう勉強してきたか>)
「暗唱」と聞くと、難しそうと思う人が多いと思いますが、実は暗唱はとても簡単で、大人でも子供と同じようにでき、しかもやっていると楽しくなります。
寺子屋オンラインのクラスでは、親子で暗唱に取り組んでいる家庭もあります。
本当はこれが理想で、子供ひとりにさせるより、兄弟も、お母さんも、家族みんなで一緒にやっていくといいのです。
小学生時代に暗唱力をつけておけば、国語だけでなく、数学も、英語も、勉強的なことはどれも簡単にできるようになります。
それは、今の受験勉強のほとんどは、記憶力でカバーできるからです。
そして、人間は、もっと大事な創造力を発揮することに時間を費やしていくべきなのです。
よく、「思考力を問う問題」などと言われるものがありますが、その対策は、解き方のパターンを覚えることだけです。
これからの子供たちは、そういうところに力をいれるのではなく、もっと自分らしい考えを深めることに力を入れていくことです。
だから、暗唱と創造は、ひとつのセットとして取り組んでいく勉強なのです。
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先日、92歳で亡くなられた西澤潤一さんの本を読みました。
「背筋を伸ばせ日本人―『信念』と『創造力』の復活」という本で、教育の問題についてもかなりスペースがさかれていました。 西澤さんは、現在の日本の社会の問題を、大きく教育の問題として捉えていたようです。
私がこれまで関心を持って読んでいた著書のほとんどが、やはり日本の教育の問題を提起しています。
そこに共通するものは、ひとつが煩瑣な知識の詰め込み勉強の弊害、もうひとつが勉強以外の人間教育の不足です。
人間教育とは、例えば勇気とか思いやりとか向上心とかいったものに対する教育です。
つまり、今の教育では、成績として表れる勉強ばかりが優先され、成績に関係しない部分が忘れ去られているというのです。
成績に関係しないものは、例えば、勇気です。
いくら成績がよくても、戦う必要があったときにが戦う力がなければ、その成績は価値あるものにはなりません。
特に男の子は、いじめられたらやり返す力が必要です。
それが社会人として生きるために必要なことだからです。
またいくら成績がよくても、弱い者に対する思いやりがなければ、やはりその成績は価値あるものにはなりません。
思いやりは人間として当然のことで、社会はその思いやりで回っているからです。
またいくら成績がよくても、成績に表れる以外のことに対する向上心がなければなりません。
テストが終わったら、又は志望校に合格したら、あとは遊び呆けるというような姿勢ではなく、テストが終わったら、又は合格したら、本当に自分でやりたかったことに取り組むというような子でなければならないのです。
私はこれまでいろいろな子供たちを教えてきて、成績だけの一面的な教育というものの弊害をいくつも見ています。
成績が悪くてもそれが問題になることはほとんどありませんが、成績だけがよくて他の人間力が不足している場合、つまり成績がよすぎる場合は、かえって大きな問題になってしまうことがあるのです。
今の子供たちの父母や祖父母の世代は、いい学校に入ることが、いい社会生活を送る前提になっていた世代ですから、いい学校に入ることだけが目的のようになっています。
しかし本当の目的は、いい社会生活を送ることで、学校生活はそのひとつの通り道にすぎません。
理屈ではこういうことがわかっているはずなのに、実際に子供がテストの結果を持ってくると、それに目を奪われて成績だけを考えてしまう親が多いのです。
それが例えば、成績さえよければ勇気などはなくてもどうにかなるとか、成績さえよければ思いやりなどなくてもなんとかなるとか、成績さえよければ成績以外のことに対する向上心などは特に必要ないとかいう考え方になるのです。
ところが、社会人になって仕事をするときに最も大事になるものは、勇気や思いやりや向上心の方であって、決して学校生活で獲得した成績ではありません。
成績はその子の全体の向上心のひとつですから、本人に向上心があれば、成績は必要になったときすぐに上げることができます。
成績がなかなか上がらないというのは、成績が上がらないのではなく、その子の向上心が不足しているからか、向上心が成績以外方に向いているからかだけなのです。
だから、言葉の森は、現在、成績も含めた向上心、勇気や思いやりという文化力、そして創造力というものを総合的に育てる教育を目指しています。
それが、作文を中心として子供たちの発表と交流と自学自習位を生かす、森林プロジェクトの寺子屋オンライン教育です。
森林プロジェクトで、日本のこれからの教育についていろいろなことを話し合い、日本によりよい教育を作っていきたいと思います。
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勉強さえできれば、とりあえずほかのことには目をつぶるというお母さんが多いように思います。
昔は、「人様に迷惑さえかけなければ、とりあえずほかのことには」ということだったのです。
この大きな価値観の転換は、主に教育とマスコミによって作られたものですが、そういうものを受け入れる素地が私たち自身にあったのです。
それは、やはり戦争によって、多くの家庭で文化が断絶したからだと思います。
私の父と母も、自分たちはしっかりした戦前からの日本文化の中に生きてきたのに、私たち子供には躾らしいことをほとんどしませんでした。
当時は、みんな生きることに精一杯だったからです。
そして、文化のなくなった荒れ果てた日本に、アメリカ文化という雑草が生い茂ったのです。
これからの教育は、新しい日本文化を育てる教育にしていく必要があると思います。
これからの教育は、学力をつけるだけでなく、文化を取り戻す教育にしていく必要があります。
そして、もうひとつ大事なのは、創造する教育です。
この思考力、創造力、文化力を育てる教育の基盤は家庭になります。
それを寺子屋オンラインの教育で実現していきたいと思っています。
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