作文試験は、年々進化しています。
今日は、その方向と今後の対策を書きたいと思います。
なお、ここで、作文と言っているのは、小論文も含んだ文章のことです。
世間では、作文と小論文は違うなどと言う人もいますが、同じ文章ということで大した違いはありません。
強いて言えば、作文は事実中心の文章で、小論文は主題中心の文章ということです。
しかし、この中間段階がいくつもあるのです。
言葉の森で、小学1年生が書く文章は、事実中心です。
高校3年生が書く文章は、主題中心です。
しかし、その中間にある小学校高学年の生徒が書く文章は、半分が事実中心で、半分が主題中心です。
題名で言えば、「私の家族」とか、「私の宝物」とかいう題名は、普通は事実中心になります。
しかし、小学校高学年のよく書ける生徒は、こういう題名を事実中心に書くのでは、ものたりないと思うのです。
そこで、いくつかの事実をまとめる、より抽象的な主題で結びの感想を書こうとします。
その感想の書き方が、「わかったこと」や「一般化の主題」です。
こうなると、これは、もう半分小論文です。
高校生が、同じ題名で書く場合も、「私の家族」だったら、「家族とは(人間にとって)……である」という大きい視点から見たまとめ方になるのが普通です。
高校生が、「私の家族」という題名で、「私の家族はとても仲良しです。(おしまい)」となったら、その文章がどれほど上手でも、ものたりないと思うはずです。
高校生を教えている先生は、高校生しか教えたことがないから、「作文と小論文は違う」などと言えるのです。
小学生を教えている先生は、小学生しか教えたことがないから、作文の評価をミニ小説のように見てしまうのです。
言葉の森は、小学生から高校生まで教えているので(正確には幼児年長から社会人までですが)、作文と小論文を一体のものとして、より作文的なものからより論文的なものへと進んでいく過程として見ています。
だから、作文と小論文を言葉の上で分けることなく、まとめて、「作文」と呼んでいるのです。
さて、その(小論文も含めた)作文試験の進化の方向です。
最初のころの作文試験は、身近な題名課題でした。
「○○学校時代の思い出」「これまででがんばったこと」などという題名です。
この題名課題のいいところは、出題が簡単なことです。
そして、受験する生徒が少なければ、こういう題名課題でも十分に作文力の評価はできるたです。
しかし、こういう題名課題は、少し練習すれば誰でも上達します。
言葉の森で勉強していれば、誰でも合格作文を書けるようになります。
そうすると、今度は採点が大変になります。
受験生のほとんどが合格レベルの作文を書くようになると、こういう題名課題ではやっていられなくなります。
そこで、作文試験は、単純な題名課題から、より複雑な条件を伴う作文試験へと流れは進化していったのです。
(つづく)
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作文試験の課題を見ると、学校ごとにさまざまな傾向があります。
よく考えた問題を作っているところもあるし、あまり考えていない問題を作っているところもあります。
よく考えた問題を作っていると思ったところは、いいことだから実名で書きますが、白鴎高校附属中の作文試験の問題でした。
あまり考えていない問題を作っていると思ったところは、実名は挙げませんが、やたらに長い文章を読ませて、国語の記述問題のようなものをたくさん入れて、時間不足で点数の差が出るような問題を作っているところでした。
条件反射力の試験のようでした(笑)。
作文試験の今後の方向は、条件を決めて書くことになると思います。
しかし、これも良し悪しで、例えば、「三段落で書きなさい」という条件などを出しているところは、場合によっては、三段落でなければ大幅に減点とするところも出てくるのではないかと思います。
試験というのは、こういう実力とはあまり関係のないところで評価されるところがあります。
だから、作文試験などは特にじっくり評価することとが必要になります。
そのためには、複数の作文を書かせて、複数の人が評価する仕組みにすることです。
しかし、それよりも現実的だと思うのは、作文試験のかわりに、その子が受験前の1年間に書いた作文を12編提出させることです。
小学6年生以上ならキーボード入力もできますから、毎月1本1200字の作文を書かかせて、それをテキストで提出させれば、きわめて正確な文章力や思考力の評価ができると思います。
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「燃えるような夕焼けが空と海を一杯にしていた。今しも水平線に沈む太陽を右に、船は南へ南へと進んでいた。」(「九つの空」(團伊玖磨著)より)
作文の長さは、600字から1200字ぐらいのことが多いので、書き出しや結びの書き方が重要になってきます。
書き出しや結びによって、全体がまとまった印象になったり、そうならなかったりします。
書き出しで大事なことは、読み手が読んでみたくなるような、すぐにクライマックスに入るような書き方をすることです。
その工夫のあとで、「いつ、どこで、何をしたか」という説明に入っていくのです。
その書き出しの工夫として、会話で始めたり、情景で始めたり、名言で始めたりという練習があります。
この中で、最も簡単なのは、会話の書き出しですが、これは誰でもすぐにできる分、かえって印象に残らない書き出しになってしまうことがあります。
もちろん、小学校中学年の最初の練習のころは、会話の書き出しに慣れていくだけでいいのです。
しかし、学年が上がって、小学校高学年や中学生になっても、いつも同じように会話の書き出しで始めてしまうと、それはかえって工夫のない書き出しになってしまいます。
では、どうしたらよいかというと、そのときの情景で書き出しを始めるのです。
以前、同じようなことを書いたと思って、「言葉の森新聞」を調べてみるとありました。
小学校高学年以上の生徒のみなさんは、また、小学校中学年でも表現をもっと工夫したいと思うみなさんは、情景の書き出しの練習をしてみてください。
▽言葉の森新聞 第922号より
■書き出しの工夫
先日、高校生の生徒から、「会話の書き出しってよくないんですか」と質問されました。
朝日新聞の「炎の作文塾」というコラムで、「会話文から始めないで」という記事があったそうです。その記事では、「文章講座の講師の中に、『文章は会話文から始めなさい』と教える人がいるらしい。そういう講師を信用してはいけない。」「会話文で始めると、独りよがりの文章になりがちだ。文章によほど習熟してくれば別だが、会話文で始めるのは、やめた方がいい。」「○○さんはヘンな講師に習ったのだろうか。」などと書いてあったそうです。思わず、
本多勝一氏の「中学生の作文技術」を連想してしまいました。(笑)こういう記事を書く人の視野の狭さは、読み手にも伝染するようで、このようなコラムを読んでいるとつい、「○○をしてはいけない」「○○しかない」という発想をしてしまいがちです。
文章でいちばん大事なものは中身です。表現は、中身をスムーズに伝えるためにあります。
私がこれまでに読んだ本で最も難しかったものは、ヘーゲルの「精神現象学」と「大論理学」でした。それは、訳者の訳し方にもよりますが、すべて文末が「である。」で終わっていました。しかも、それぞれの一文が長く、「……である。……である。……である。」という感じで延々と最後まで書かれていました。しかし、中身があるので、その文末の単調さは決して欠点のようには見えませんでした。表現よりも中身が大事という考え方の見本がここにあります。
ですから、本当は、書き出しの工夫は二次的なことなのです。しかし、もし同じ中身の文章があった場合、読みやすい面白い表現と単調で堅苦しい表現とでは、もちろん読みやすく面白い方に価値があります。特に、現代のように、多くの人が文章を書く時代では、表現の工夫は文章の重要な要素となります。
表現の工夫の一つとして、書き出しの工夫があります。
私が、書き出しの工夫として参考としたいと思っているものに、團伊玖磨(だんいくま)氏のエッセイがあります。「九つの空」(朝日新聞社)からいくつか引用してみると、こういう書き出しです。
「燃えるような夕焼けが空と海を一杯にしていた。今しも水平線に沈む太陽を右に、船は南へ南へと進んでいた。」
「黄昏(たそがれ)の銀座通りには、一日の勤めを終った人の波が流れていた。夏の残照が、僅かに暮れ残っている天頂近くの数片の鰯雲を紅に染めていて……」
「夏だと言うのに何処迄も続く鉛色の空を、十五世紀に出来た古い大学の塔が黒い針のように突き刺していて、その針の先だけが……」
エッセイなのでこういう工夫がしやすいとも言えますが、実は小論文でもこのような書き出しをすることができるのです。
高校生に書き出しの工夫を説明すると、実力のある生徒は、内容もあり書き出しの表現も工夫した文章を書いてきます。中身と表現を兼ね備えた文章を書くことが小論文指導の一つの目標です。
しかし、書き出しの工夫には、書きにくいものと書きやすいものとがあります。情景の書き出しなどは、比較的書きにくい書き出しです。情景の書き出しがしにくい場合は、会話の書き出しなどで書きやすく工夫することがあります。
ところが、表現の工夫には両刃の剣の面があり、ありきたりの工夫では、かえってしない方がいい場合も出てきます。会話の書き出しなどは、特にありきたりになりやすいので、かえって工夫が逆効果になることもあります。
そこで、その工夫を批判するのは批評家です。教育の観点からは、不充分な工夫であってもその将来の可能性を生かす方向に指導していくのが正しいやり方です。
今、小中学生で会話の書き出しを練習している人は、この工夫が終点ではなく、今後の工夫の準備であると考えて練習していってください。
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作文で大事なのは、内容の創造性です。
しかし、作文の評価をする人の多くは、内容よりも表現の見た目を重視します。
例えば、「字がへただ」「漢字を使っていない」「字の間違いがある」などなど。
同じような批評に、「会話の書き出しがパターン化している」というのもあります。
会話の書き出しは、書きやすい分だけ、かえってありきたりの表現になりがちなのです。
では、書き出しの工夫をどうしたらいいかというと、そのひとつが情景の書き出しです。
しかし、本当は、書き出しよりも中身の方が大事なのです。
小学校低学年の子が会話の書き出しを使えば、それは書き出しの工夫です。
しかし、高学年の子がいつまでも同じ会話の書き出しをしていたらそれは工夫の不足です。
同じように、高学年の子がことわざの引用をしたら、それは工夫です。
しかし、高校生の子が、あいかわらずことわざの引用だけで済ませていたらそれは工夫の不足です。
高校生は、ことわざを加工して引用するところまで要求されるのです。
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