教育のオンライン化は、世界各地で進んでいます。
それは既に止められない流れになっています。
しかし、オンライン化を便利さという観点だけから見ると、それはむしろオンラインの負の側面になるでしょう。
便利さを基準にして生き残るのは、比喩的に言えばアマゾン一社だからです。
便利であるとか、コストがかからないとか、場所や時間の制約がないとかいう利点は、無味無臭の世界です。
だから、その中身と方法は、すべてデジタルに還元され、たやすく国境を越えて広がります。
今はまだある言語の壁も、これからますます低くなっていくでしょう。
そして、最も速く広がるものは、最も資金力を動員できるものです。
では、オンライン化の流れの中で、便利ではない何を大事にしなければならないのでしょうか。
それは、言葉をただ逆にするだけなのですが、実は不便さなのです。
オンライン化を生かす道は、その不便さにあるというのは、オンラインの利点を活かしつつも、ある特定の時間と、ある特定の友人や先生と、試行錯誤を含む時間をかけて、苦労して学ぶという不便さを大事にするということです。
それが、人間味のあるオンラインです。
このデジタルに還元されない教育を、寺子屋オンラインで実現していきたいと思っています。
寺子屋オンライン作文講師育成講座を、時間に制約されないビデオ講座にし、いつでも受講できるようにしました。
また、受講を考えている方が、費用負担なく講座の中身を体験できるようにインターンシップ制を開始しました。
詳細は追ってホームページでお知らせします。
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グローバル化が進んだのは、便利さや安さが基準になっていたからです。
だから、かつてのダイエーの「よりよい品をより安く」や、松下幸之助の水道哲学の延長に、現代の経済があり、その代表が、世界の工場になっていた中国だったのです。
しかし、これから来る教育と文化の時代は、グローバリズムに還元されない面を持っています。
教育と文化は、時間と場所と人の制約があり、個人の興味や関心に基づくものであり、顔のない消費者ではなく、顔の見える創造者として参加する世界だからです。
教育のオンライン化というと、多くの人は上流を目指します。
しかし、上流はどんどん細くなり、最後は1人しか上れないような小さな川になります。
なぜ多くの人がその方向に進もうとするかというと、教育の世界を消費の世界と考えているからです。
しかし、これからの教育は消費されるものでなく、創造されるものになります。
創造の世界は、下流に行けば行くほど広がるのです。
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作文試験は、年々進化しています。
今日は、その方向と今後の対策を書きたいと思います。
なお、ここで、作文と言っているのは、小論文も含んだ文章のことです。
世間では、作文と小論文は違うなどと言う人もいますが、同じ文章ということで大した違いはありません。
強いて言えば、作文は事実中心の文章で、小論文は主題中心の文章ということです。
しかし、この中間段階がいくつもあるのです。
言葉の森で、小学1年生が書く文章は、事実中心です。
高校3年生が書く文章は、主題中心です。
しかし、その中間にある小学校高学年の生徒が書く文章は、半分が事実中心で、半分が主題中心です。
題名で言えば、「私の家族」とか、「私の宝物」とかいう題名は、普通は事実中心になります。
しかし、小学校高学年のよく書ける生徒は、こういう題名を事実中心に書くのでは、ものたりないと思うのです。
そこで、いくつかの事実をまとめる、より抽象的な主題で結びの感想を書こうとします。
その感想の書き方が、「わかったこと」や「一般化の主題」です。
こうなると、これは、もう半分小論文です。
高校生が、同じ題名で書く場合も、「私の家族」だったら、「家族とは(人間にとって)……である」という大きい視点から見たまとめ方になるのが普通です。
高校生が、「私の家族」という題名で、「私の家族はとても仲良しです。(おしまい)」となったら、その文章がどれほど上手でも、ものたりないと思うはずです。
高校生を教えている先生は、高校生しか教えたことがないから、「作文と小論文は違う」などと言えるのです。
小学生を教えている先生は、小学生しか教えたことがないから、作文の評価をミニ小説のように見てしまうのです。
言葉の森は、小学生から高校生まで教えているので(正確には幼児年長から社会人までですが)、作文と小論文を一体のものとして、より作文的なものからより論文的なものへと進んでいく過程として見ています。
だから、作文と小論文を言葉の上で分けることなく、まとめて、「作文」と呼んでいるのです。
さて、その(小論文も含めた)作文試験の進化の方向です。
最初のころの作文試験は、身近な題名課題でした。
「○○学校時代の思い出」「これまででがんばったこと」などという題名です。
この題名課題のいいところは、出題が簡単なことです。
そして、受験する生徒が少なければ、こういう題名課題でも十分に作文力の評価はできるたです。
しかし、こういう題名課題は、少し練習すれば誰でも上達します。
言葉の森で勉強していれば、誰でも合格作文を書けるようになります。
そうすると、今度は採点が大変になります。
受験生のほとんどが合格レベルの作文を書くようになると、こういう題名課題ではやっていられなくなります。
そこで、作文試験は、単純な題名課題から、より複雑な条件を伴う作文試験へと流れは進化していったのです。
(つづく)
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作文試験の課題を見ると、学校ごとにさまざまな傾向があります。
よく考えた問題を作っているところもあるし、あまり考えていない問題を作っているところもあります。
よく考えた問題を作っていると思ったところは、いいことだから実名で書きますが、白鴎高校附属中の作文試験の問題でした。
あまり考えていない問題を作っていると思ったところは、実名は挙げませんが、やたらに長い文章を読ませて、国語の記述問題のようなものをたくさん入れて、時間不足で点数の差が出るような問題を作っているところでした。
条件反射力の試験のようでした(笑)。
作文試験の今後の方向は、条件を決めて書くことになると思います。
しかし、これも良し悪しで、例えば、「三段落で書きなさい」という条件などを出しているところは、場合によっては、三段落でなければ大幅に減点とするところも出てくるのではないかと思います。
試験というのは、こういう実力とはあまり関係のないところで評価されるところがあります。
だから、作文試験などは特にじっくり評価することとが必要になります。
そのためには、複数の作文を書かせて、複数の人が評価する仕組みにすることです。
しかし、それよりも現実的だと思うのは、作文試験のかわりに、その子が受験前の1年間に書いた作文を12編提出させることです。
小学6年生以上ならキーボード入力もできますから、毎月1本1200字の作文を書かかせて、それをテキストで提出させれば、きわめて正確な文章力や思考力の評価ができると思います。
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「燃えるような夕焼けが空と海を一杯にしていた。今しも水平線に沈む太陽を右に、船は南へ南へと進んでいた。」(「九つの空」(團伊玖磨著)より)
作文の長さは、600字から1200字ぐらいのことが多いので、書き出しや結びの書き方が重要になってきます。
書き出しや結びによって、全体がまとまった印象になったり、そうならなかったりします。
書き出しで大事なことは、読み手が読んでみたくなるような、すぐにクライマックスに入るような書き方をすることです。
その工夫のあとで、「いつ、どこで、何をしたか」という説明に入っていくのです。
その書き出しの工夫として、会話で始めたり、情景で始めたり、名言で始めたりという練習があります。
この中で、最も簡単なのは、会話の書き出しですが、これは誰でもすぐにできる分、かえって印象に残らない書き出しになってしまうことがあります。
もちろん、小学校中学年の最初の練習のころは、会話の書き出しに慣れていくだけでいいのです。
しかし、学年が上がって、小学校高学年や中学生になっても、いつも同じように会話の書き出しで始めてしまうと、それはかえって工夫のない書き出しになってしまいます。
では、どうしたらよいかというと、そのときの情景で書き出しを始めるのです。
以前、同じようなことを書いたと思って、「言葉の森新聞」を調べてみるとありました。
小学校高学年以上の生徒のみなさんは、また、小学校中学年でも表現をもっと工夫したいと思うみなさんは、情景の書き出しの練習をしてみてください。
▽言葉の森新聞 第922号より
■書き出しの工夫
先日、高校生の生徒から、「会話の書き出しってよくないんですか」と質問されました。
朝日新聞の「炎の作文塾」というコラムで、「会話文から始めないで」という記事があったそうです。その記事では、「文章講座の講師の中に、『文章は会話文から始めなさい』と教える人がいるらしい。そういう講師を信用してはいけない。」「会話文で始めると、独りよがりの文章になりがちだ。文章によほど習熟してくれば別だが、会話文で始めるのは、やめた方がいい。」「○○さんはヘンな講師に習ったのだろうか。」などと書いてあったそうです。思わず、
本多勝一氏の「中学生の作文技術」を連想してしまいました。(笑)こういう記事を書く人の視野の狭さは、読み手にも伝染するようで、このようなコラムを読んでいるとつい、「○○をしてはいけない」「○○しかない」という発想をしてしまいがちです。
文章でいちばん大事なものは中身です。表現は、中身をスムーズに伝えるためにあります。
私がこれまでに読んだ本で最も難しかったものは、ヘーゲルの「精神現象学」と「大論理学」でした。それは、訳者の訳し方にもよりますが、すべて文末が「である。」で終わっていました。しかも、それぞれの一文が長く、「……である。……である。……である。」という感じで延々と最後まで書かれていました。しかし、中身があるので、その文末の単調さは決して欠点のようには見えませんでした。表現よりも中身が大事という考え方の見本がここにあります。
ですから、本当は、書き出しの工夫は二次的なことなのです。しかし、もし同じ中身の文章があった場合、読みやすい面白い表現と単調で堅苦しい表現とでは、もちろん読みやすく面白い方に価値があります。特に、現代のように、多くの人が文章を書く時代では、表現の工夫は文章の重要な要素となります。
表現の工夫の一つとして、書き出しの工夫があります。
私が、書き出しの工夫として参考としたいと思っているものに、團伊玖磨(だんいくま)氏のエッセイがあります。「九つの空」(朝日新聞社)からいくつか引用してみると、こういう書き出しです。
「燃えるような夕焼けが空と海を一杯にしていた。今しも水平線に沈む太陽を右に、船は南へ南へと進んでいた。」
「黄昏(たそがれ)の銀座通りには、一日の勤めを終った人の波が流れていた。夏の残照が、僅かに暮れ残っている天頂近くの数片の鰯雲を紅に染めていて……」
「夏だと言うのに何処迄も続く鉛色の空を、十五世紀に出来た古い大学の塔が黒い針のように突き刺していて、その針の先だけが……」
エッセイなのでこういう工夫がしやすいとも言えますが、実は小論文でもこのような書き出しをすることができるのです。
高校生に書き出しの工夫を説明すると、実力のある生徒は、内容もあり書き出しの表現も工夫した文章を書いてきます。中身と表現を兼ね備えた文章を書くことが小論文指導の一つの目標です。
しかし、書き出しの工夫には、書きにくいものと書きやすいものとがあります。情景の書き出しなどは、比較的書きにくい書き出しです。情景の書き出しがしにくい場合は、会話の書き出しなどで書きやすく工夫することがあります。
ところが、表現の工夫には両刃の剣の面があり、ありきたりの工夫では、かえってしない方がいい場合も出てきます。会話の書き出しなどは、特にありきたりになりやすいので、かえって工夫が逆効果になることもあります。
そこで、その工夫を批判するのは批評家です。教育の観点からは、不充分な工夫であってもその将来の可能性を生かす方向に指導していくのが正しいやり方です。
今、小中学生で会話の書き出しを練習している人は、この工夫が終点ではなく、今後の工夫の準備であると考えて練習していってください。
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作文で大事なのは、内容の創造性です。
しかし、作文の評価をする人の多くは、内容よりも表現の見た目を重視します。
例えば、「字がへただ」「漢字を使っていない」「字の間違いがある」などなど。
同じような批評に、「会話の書き出しがパターン化している」というのもあります。
会話の書き出しは、書きやすい分だけ、かえってありきたりの表現になりがちなのです。
では、書き出しの工夫をどうしたらいいかというと、そのひとつが情景の書き出しです。
しかし、本当は、書き出しよりも中身の方が大事なのです。
小学校低学年の子が会話の書き出しを使えば、それは書き出しの工夫です。
しかし、高学年の子がいつまでも同じ会話の書き出しをしていたらそれは工夫の不足です。
同じように、高学年の子がことわざの引用をしたら、それは工夫です。
しかし、高校生の子が、あいかわらずことわざの引用だけで済ませていたらそれは工夫の不足です。
高校生は、ことわざを加工して引用するところまで要求されるのです。
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●創造する教育
言葉の森の2019年のテーマは、「創造する教育」です。
点数や順位に還元されない個人の創造性を生かす教育を目指していきます。
これまで、創造性という曖昧なものを育てる方法論はないと思われていました。
しかし、オンラインの少人数クラスを運営する中で、その可能性が見えてきました。
人間には、もともと誰にも創造性があります。
しかし、それが発揮できないのは、答えが次々に与えられるからです。
答えのある世界から一歩離れて、答えのない世界を進む時間を確保する必要があります。
そのときに、同じように創造する仲間がいれば、創造の中身は違ってもその楽しさを共有できます。
この「創造を楽しむ教育」を、小学1年生から始めて、高校生、大学生になるまで続けられるようにしたいと思っています。
●寺子屋オンラインの作文クラス・発表クラス・自習クラス
「創造する教育」の進め方は、具体的には、寺子屋オンラインのクラス数を増やし、学年別の少人数制の作文学習、発表学習、自習学習を広げていくことです。
このオンラインの少人数制の学習によって、生徒の学習意欲は今以上に高まると思います。
点数のつかない教育では、この学習意欲が学力向上の重要な条件になるからです。
●森林プロジェクトの作文講師資格講座・寺オン講師育成講座
そのために、森林プロジェクトの作文講師資格講座と寺オン講師育成講座で、作文指導のできる講師を増やしていく予定です。
なお、初めての方でも、この寺オン講師育成講座に参加しやすいように、インターンシップ制を取り入れていきます。
●作文検定、作文発表会などの企画の定例化
また、言葉の森は、民間団体としては日本で最も古くから作文教育を行ってきた教室です。
したがって、作文指導に関連する学習分野のさまざまな指導の蓄積があります。
この蓄積を生かして、今年は、作文検や作文発表会などの企画を定例化し内部の充実を図っていきます(年間予定後掲)。
●「読解力・作文力の本」の出版、国語読解指導
2月5日に、かんき出版から、「小学生のための読解・作文力がしっかり身につく本」という本が出版されます。
これは、大学入試を目指す高校生にも役立つ内容で、多くの人は読んですぐに国語読解の成績が上がるはずです。
しかし、小学生がひとりで読むのは難しいので、保護者の方も一緒に読み、内容理解の手助けをしてくださるといいと思います。
言葉の森は、これまでは、作文指導に加えて読解指導も行うと生徒の負担が大きいと考え、読解問題などの教材は一部だけを配布してきました。
しかし、今後希望する人には、この本をテキストにして、読解指導をすることを考えています。
以上、盛りだくさんの内容になりますが、すべて前向きに進めていきたいと思います。
●言葉の森の企画の年間予定
| 作文テスト | 作文検定 | 保護者懇談会 | 作文発表大会 | 寺オン発表会 | 学力テスト | 読書作文合宿 | |
---|
1月 | | | | | 4週寺オン発表会 | | | 1月 |
2月 | | 4週作文検定本試験 | 1週保護者懇談会 | | 4週寺オン発表会 | | | 2月 |
3月 | 1週作文実力テスト | | 1週保護者懇談会 | 4週作文発表大会 | | | 春合宿/30.31横浜 | 3月 |
4月 | | | | | 4週寺オン発表会 | | | 4月 |
5月 | | 4週作文検定追試 | | | 4週寺オン発表会 | | | 5月 |
6月 | 1週作文実力テスト | | 1週保護者懇談会 | | 4週寺オン発表会 | 4週学力テスト/育伸社 | | 6月 |
7月 | | | 1週保護者懇談会 | | 4週寺オン発表会 | | 夏合宿/21-27那須 | 7月 |
8月 | | | | | 4週寺オン発表会 | | | 8月 |
9月 | 1週作文実力テスト | | | 4週作文発表大会 | | | | 9月 |
10月 | | 4週作文検定追試 | 1週保護者懇談会 | | 4週寺オン発表会 | 4週学力テスト/育伸社 | 秋合宿/12.13横浜 | 10月 |
11月 | | | 1週保護者懇談会 | | 4週寺オン発表会 | | | 11月 |
12月 | 1週作文実力テスト | | 1週保護者懇談会 | | 4週寺オン発表会 | | | 12月 |
●保護者懇談会の主なテーマは、2月新学年、3月家庭学習、5月低学年、6月オンライン学習、7月全般、10月受験、11月家庭学習、12月オンライン学習です。
●寺子屋オンラインクラスの発表会は、毎月4週に行います。この発表会には、言葉の森の生徒は誰でも参加できます。
●担当講師による父母面談は、原則として毎月4週に行います。
●春と秋の合宿は横浜港南台教室(JR根岸線港南台駅徒歩4分。一泊二日)、夏の合宿は那須合宿所(新幹線那須塩原駅から車30分。東京駅集合解散。三泊四日)の予定です。
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やや時間が空いてしまったので、前回の話の引用から。
【前回の話】
習い事が多くて時間がとれない、という子がいます。
インターネットの情報過多と同じで、自然に任せれば、見なければならないと思うものが次第に多くなってくるのです。
そこで、断捨離が必要になります。
そのときの基準は、今の役に立つだけでなく、生涯役に立つものかどうかということです。
もちろん、それは、あとになってみないとわからないことです。
しかし、どの子にも基本的に大事なものは、読書と作文と対話と自由な時間です。
要するに、理解力と思考力と表現力と創造力を育てることが基盤となって、ほかのものも生きてくるのです
そして、そのほかに、自分がすごく好きなものがあれば、それを大事にしていくことです。
始めてから3か月で成果が出て、次に移るという忙しいやり方ではなく、小学1年生から始めて、高校3年生まで、更には大学生、社会人になってからも続けられるものを第一の基準としていくのです。
また、今の社会では、人工的な環境で一日を過ごしてしまうことも多いので、生き物を飼ったり、自然に触れたり、友達と遊んだりする時間も意識的に大事にしていくことです。
学校の今の勉強に役立つかどうかということよりも、その子の将来の生き方にプラスになるかどうかということを第一に考えていくのです。
以前、小学校低学年で、学校の宿題が多くて勉強が忙しいからと、読書は家でしないで行き帰りの電車の中だけで済ますという子がいました。
低学年のころは成績がよかったのですが、高学年になるとどんどん成績が低下していきました。
読書のような根を育てることを後回しにして、そのときのテストや宿題という表面に出る花や葉を育てることを優先していたからです。
しかし、もちろん人間はいつでも変化できます。
その子もたぶん、すぐには表面に出ないものの大切さに気づいて、いつか本格的に何かに取り組むだろうと思います。
しかし、そういう遠回りをしなくて済むように長期的な目でものを見ることができるのが、人生経験のある親の役割だと思います。
(つづく)
(ここからつづきです。)
習い事のことで、もうひとつ思い出すのは、昔、おじいさんと若いお母さんが一緒に言葉の森に訪ねてきたことです。
おじいさんの話では、その若いお母さんが子供に勉強させすぎているので、それが子供にとってどういう(マイナスの)影響があるのか説明してやってほしいということでした。
私はもちろん、いつもの持論で、子供時代は勉強よりももっと大切なものがあるという話をしましたが、そのお母さんはあまり納得していないようでした。
おじいさんの方は、自分の長い経験から、勉強などは普通にできていればよくて、それよりも子供時代はもっと自由に遊ばせた方がいいという考えだったのだと思います。
ところで、私のうちの子二人は、勉強は必要最低限のことしかしていませんでした(自慢にも何もなりませんが)。
塾にも予備校にも行かず、二人とも自分の好きなことばかりしていました。
勉強の方も、時間がないときは、読書だけでいいという方針でした。
二人とも、言葉の森を小1の途中から始めましたが、習い事はそれだけで、その言葉の森も、たまたま用事があって休んだときはふりかえの授業などは受けずに、そのまま休みでいいとしておきました。
もちろん、休まずに皆勤賞を目指すというのも、それはそれで一つの生き方で、その子にとってプラスになることだと思います
しかし、私は、自分が子供だったら嫌だろうと思うことは、なるべく子供にさせないようにしていたのです。
そのかわり、躾はやや厳しくて、玄関で靴をそろえていないときや言葉遣いが悪いときは、しっかり叱りました。
言葉遣いと言っても大したことではなく、当時流行っていた「ムカつく」などという言葉は使わないようにしていたぐらいですが。
そういう、全体的には子供に甘い生活をしていましたが、二人とも、受験などで勉強が必要になったときは、自分から進んで勉強するようになりました。(それは、普通、誰でもそうですが。)
そして、普通に大学に入り、普通に卒業して、今は普通の社会人です。
まだ人生の途上ですが、ときどき会って話をすると、年齢相応に自分なりによく考えていることがわかります。
これは、私のうちの子だけの特殊な話ではなく、どの子も、子供時代、特に小学校時代は、勉強がどのような状態にあろうともみんなまともに成長していくのです。
小学校時代までは、詰め込みの勉強をしようがしまいが、その後になれば、みんな同じようなところに落ち着きます。
むしろ大事なのは、本人が自覚する年齢になってからの勉強です(中3以降だと思いますが)。
それなら、小さいころはできるだけ楽しい子供時代を送った方が、本人にとっていい思い出になるのではないかと思います。
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受験真っ最中のときは、こんなのんびりしたことは言っていられません。
それはもちろん当然で、勝負のときは全力で勝負する必要があります。
しかし、親はそういうときでも、いつも長い展望をもって子供を見ていく必要があると思います。
子供時代にいちばん大事なことは何かと言えば、幸福な子供時代を過ごすことです。
それは、勉強を取るか、遊びを取るかということではありません。
勉強でも、遊びでも、幸福な気持ちで取り組んでいればいいのです。
ただし、子供は、親を喜ばせるために、無理をしてがんばることがあります。
親は、それを察してあげることです。
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昔、数学でベン図というものを習いました。
そのときは、あたりまえのことを言っているだけような気がしていました。
しかし、ある高校入試の問題を見て、それなりに役に立つのだと思いました。(一種の頭の体操に過ぎないのかもしれませんが)
問題は、こういうものです。(都立新宿高校の小論文の問題の一部)
https://www.mori7.net/izumi/gazou/2018/12300617270.jpg
これは、言葉の上で考えても頭が混乱するだけです。
しかし、ベン図を書くと、図形的にわかるのです。
それがこれ。
https://www.mori7.net/izumi/gazou/2018/12300617271.jpg
やはり、教科書に載っているようなことは、それなりに先人の知識の積み重ねとして意味があるのだと思いました。
ただし、今の教科書の難点は、独学ができないことです。
先生が教えることを前提に作られているので、説明が少なすぎるのです。
塾の教材でも、そういうものが多いと思います。
いちばんよくないのは、問題だけが載っていて答えは先生が持っているという問題集です(笑)。
そして、授業に出てから答え合わせをするのです。
ひとりで答え合わせをして先に進む勉強の仕方に比べると、何倍も能率の悪いやり方だと思います。
ところで、私が、仕事の上で数学が役に立つと思ったのは、ホームページでいろいろな図形を作っているときでした。
図形で円グラフを作るときや、あるデータから傾向線を引くときに、昔の高校の数学の教科書を取り出して、円の方程式や最小二乗法の考え方を復習したのです。
そんなものは、習ったことさえすっかり忘れていたので(笑)。
文系に進む人でも、数学の確率の素養はこれから必要になります。
理系に進む人でも、日本史や世界史の知識は役に立ちます。
就職試験の一般教養問題は、中学の教科書があればほとんど対応できます。
中学、高校の教科書は、特に高校の教科書は、卒業してからも捨てずに残しておくと、いつか役に立つときがあると思います。
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昔の作文小論文試験はのどかでした。
「○○時代にいちばんがんばったこと」のような課題が与えられて、それで作文を書いていればよかったからです。
こういう課題でしたら、少し練習すれば、すぐに合格作文が書けました。
しかし、今はそうではありません。
まず、問題文の量が膨大です。そして、時間が限られています。
しかも、複数の文章を読ませるスタイルが増えてきました。
そこに、資料を読み取る要素や、数学的な考え方をする要素が盛り込まれて、どんどん複雑化していったのです。
たぶん今は、出題している人自身が、合格レベルの作文を書けないのではないかと思います(笑)。
では、どこで合否を決めているかというと、みんなが同じようにできない中で、比較的できのよかったものが合格になるということなのです。
本当は、こういう難しすぎる作文試験の課題を1題だけ出すのではなく、普通に書けるやや難しいぐらいの課題を2題か3題出した方が、実力は正しく評価できます。
しかし、それでは時間がかかりすぎるのと、それ以上に採点に手間がかかりすぎるので、今のような難しすぎる課題になっているのです。
ゴルフでは、プロとアマの差は、うまく行っているときはあまりないのだそうです。
うまく行かないときに、プロとアマの差が出るのです。
作文試験も似ています。
書きやすい課題のときは、実力の差はあまり出てきません。
書きにくい課題になったときに、実力のある子は根性で書き上げてくるのです。……根性って(笑)
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けん玉の動画、理科実験の話、古典の暗唱、読んでいる本の紹介など、一見脈絡のない流れのように見えますが、共通しているのは、みんな自分なりに決めたことを自由に発表していることです。
こういう勉強は、遊びに似ています。
先生に褒められるからとか、いい点数がつくからとかいう動機ではなく、友達が面白いことをやっているから、自分も負けずに面白いことをやろうという動機で勉強をしているのです。
論語にもあります。
「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」
真面目な子は、義務感で勉強できます。
だから、真面目な子は最初から成績がいいのです。
しかし、義務感でやっていることは、義務がなくなれば自然にやらなくなります。
一方、楽しみでやっている子は、それが楽しいと思う限り続けることができます。
その差は、先に進むほど大きくなり、いつの間にか、楽しみでやっていた子の方がずっと先に行っているということが多いのです。
だから、子供時代は、楽しさを味わうことが第一で、義務感で我慢することは第二です。
そして、その楽しさを、学問の楽しさや創造の楽しさへ発展させるのが社会の役割なのです。
▼けん玉、暗唱、読んでいる本の紹介
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カリキュラムがあって、覚えることが決まっていて、それをテストでチェックしてできるまでやらせる、という勉強の仕方であれば、誰でも安心できます。
しかし、そういう勉強ばかりであったら、子供は勉強というものはつまらないものだと思うでしょう。
今の教育は、そのつまらない勉強に砂糖をまぶして面白く見せようとしているように思えます。
勉強は、工夫をすれば、その勉強の中身そのものが面白くなる可能性を秘めているのです。
発表学習で大事なことは、全員が発表することです。
そのためには、それぞれの子が事前に準備をすることが必要になってきます。
準備なしに、ただ授業を聞きにきて、問題を解いて帰るという勉強に慣れている子は、最初は戸惑います。
発表を楽しめるようになるためには、低学年のうちから発表に慣れておくといいのです。
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