読解力がつく作文・感想文というのは、ただ作文を書くから読解力がつくのではありません。
自分なりに長文を読み、自分なりに考えて、自分なりの力作文を書くから読解力がつくのです。
作文の勉強をしている人は、作文を書くことが目的のように思っていますが、作文を書くというのは結果です。
目的は、書く前に、書くことを決めてくることであり、感想文の場合は事前に長文を読んでくることであり、お父さんやお母さんに取材したり自分でデータを調べたりしてくることであるのです。
小学校高学年や中学生になると、要領のいい子は、長文をあまり読まずに、ヒントを参考にしてそれなりにまとまった作文・感想文を書いてしまうことがあります。
作文だけを見ると、作文の勉強をしたように見えますが、それでは本当の力はつきません。
一方、事前に長文を読み、自分なりに考えたことを一生懸命に書く子もいます。
そういう子は必ず実力がついてきます。
書かれた作文という結果だけ見ると、違いはあまりないように見えても、その前の書く過程よって、将来の実力の伸びは大きく変わってくるのです。
ところで、通信教育の弱点は、作文を書く前の過程があまり見えないところにあります。
これが、寺子屋オンラインという少人数クラスだと、事前の準備がよくわかります。
それは、みんなの前で、自分の書くことを発表する機会があるからです。
作文を書くとぃうのは、小学校高学年以上の生徒にとっては、かなり精神的負担の大きい勉強です。
だから、小学校低中学年のころまでは、自分ひとりで作文の勉強ができたとしても、高学年からはある程度の枠組みがないと勉強ができません。
その枠組みのひとつとして有効なのが、オンラインの少人数のクラスです。
自宅ではなかなか作文が書けないという人は、寺子屋オンラインの作文クラスの体験をしてみるといいと思います。
発表学習の2.2週の授業の教材を作るのが遅れてしまいました。
この教材作りは、いずれ言葉の森の講師や、森林プロジェクトの講師や、寺オンの講師や、あるいは参加している保護者の方にも手伝って作ってもらおうと思っています。
さて、その教材の中で、理科の授業を作るために、小6の「電気と音」というところ見ていました。
電気は、光にも熱にも動きにもなるが、音になるのはどうしてかということは、実は私はよく知りませんでした。
たぶん、電気による動きを振動として音に変換しているのだろうと思いましたが、それがどういう仕組みで作られているかということは知らなかったのです。
そこで、スピーカーの仕組みというのを調べてみると、磁石の周りにコイルを巻いて、そのコイルに電気が流れるようになっています。
電流と磁石で、フレミングの左手の法則(というのが、いつも、どっちがどうだったか忘れてしまいますが)によって運動が生じるということです。
これを見て、なるほどと思うと同時に、こういう仕組みを子供たちが自分で調べて発表するとしたら面白いだろうと思いました。
たぶん、そういう発表があると思いますが。
ところで、もしこれが、先生が一斉授業として教えるのであれば、言葉の説明だけではほとんどの子がぼんやり聞いているだけだと思います。
実際に実験をするのは、時間がかかるのでなかなかやれないと思いますが、たとえ実験をしたとしても、生徒は多少喜ぶぐらいで、やがてすぐに忘れてしまうのではないかと思います。
ごく一部に、そういう自然の仕組みに感動して科学者を志す子がいるかもしれませんが、大多数の子は、試験に出る範囲の勉強だけして済ませてしまいます。
ところが、もしこれを自分の実験・研究としてみんなの前で発表する機会があったら、その勉強は、単なる勉強とは言えない面白いものとしてその子の心の中に残るでしょう。
今、発表学習で勉強している子供たちの発表の中には、毎回とても優れたものがあります。
わずか数人でその発表を聞いているのがもったいないようなものもかなりあります。
これをもっと広げることができれば、子供たちにとって、勉強は、もっとわくわくするものになると思いました。
学校や塾で行われるテストに間に合わせるためには、こういう勉強のわくわく感は必要ありません。
テストに出そうなところを詰め込んでしまえばいいからです。
しかし、その子の長い人生を考えると、勉強に感動した経験というのは必ずあとで生きてきます。
糸川英夫(日本の宇宙工学の父)が科学者を志した動機は、高校のときの理科の授業に感動したからだったそうです。
価値ある仕事の背後には、こういう感動があります。
感動があれば、必要な知識の詰め込みはいつでもできますが、詰め込みだけがいくらあってもそこから感動は生まれません。
だから、小学校時代は特に、勉強の面白さに感動する機会を持つことが大切なのです。
算数の勉強にも、感動はあります。
小学3、4年生までの算数は、計算技能の習熟のような勉強が中心ですから、あまり面白いとは言えません。
しかし、考える要素が出てくる小学5年生以降になると、算数の問題の中に、難しいパズルを解くようなものが出てきます。
これももし、他人から与えられたテストとして難しい問題をやらされるとすれば、面白いどころか苦痛になることが多いと思います。
人間は、難しいこと自体が嫌いなのでありません。人からやらされる難しいことが嫌いなのです。
その反対に、自分から進んでやることであれば、一般に易しいことよりも難しいことの方を選びます。それは、人間にはもともと向上心があるので、難しいことの方が楽しくできるからです。
だから、算数の勉強も、自分で問題を作ってみんなの前で発表するような形であれば、時間はかかりますが、難しいほど楽しい勉強になります。
大事なことは、子供たちが自分から進んでやることなのです。
発表学習クラスに参加している子供たちの中には、暗唱の練習をしている子もよくいます。
この暗唱も、みんなの前で発表するから、面白く続けられる面があります。
ただし、、作文クラスの場合は、いろいろな発表が多すぎると作文を書く時間が遅くなってしまうので、暗唱については、今後、作文クラスでは行わず、発表学習クラス中心に行おうと思っています。
さて、暗唱には、、日本文化の伝統になじみ、語彙が豊富になり、表現がなめらかになり、考えが深くなり、ものの見方が豊かになるというそれ自体の効果がありますが、それとともに当然ですが、記憶することが苦にならなくなるとい効果があります。
暗唱に慣れている子は、試験前の必要に応じての詰め込み勉強も楽にできるようになります。
理科や社会の知識的な勉強は、教科書や参考書を、寝っ転がりながら何度か読むだけでほとんど頭に入ってしまいます。別に寝っ転がらなくてもいいのですが、それぐらい簡単だということです。
小学生の場合は、ドリルをやらせるようなあまり面白くない勉強ではなく、自分から発表するつもりで行う楽しい勉強に時間を割き、その一方で暗唱を行い、テスト用の勉強としては、教科書の出題範囲を読書がわりに4、5回読むという形の勉強をしていくといいのです。
ところで、小学校時代は比較的面白かった理科の勉強が、中学に入ると急につまらなくなる気がします。
それは、どうでもいいと思われる理科的な知識が次々とテスト用に出されるようになるからだと思います。
この中学の理科も、もっと感動のある勉強にする工夫ができると思います。
そのポイントはやはり、子供たちが自分で取り組む勉強にするということです。