3月21日(木祝)に読解検定を行います。
https://www.mori7.net/jform_pre.php?f=dks201903
その学年別問題文のページができました。
https://www.mori7.net/dokken/
問題文の量が多いので、あらかじめ読んでおいていただくように問題文は別途郵送します。
海外から受検される方は、申し訳ありませんが、ウェブからプリントしてくださるようお願いいたします。
問題は、試験日当日に公開します。
その問題を見て45分間で解き、ウェブから解答を送信していただくという形になります。
ウェブからの送信ができない方は、お電話で解答番号を言っていただく形でも結構です。
▽高校3年生の問題文のサンプル
(こういう問題文が4つあります)
ウェーバーは 読解検定長文 高3 冬 1番
ウェーバーは、十九世紀ロシアの
文豪、トルストイに非常に注目していて、合理化の問題を考えるときにトルストイにたびたび
言及しています。
そのトルストイの『人生論』の中にこんなエピソードが
紹介されています。
あるところに水車小屋で粉ひきをしている男がいました。
彼は自然の
恵みの中で朝から晩まで
一生懸命働いていたのですが、あるとき水車のメカニズムに興味を持ちます。そして、水車が引きこまれてきた川の水によって動いていると理解すると、今度は川の研究に熱中してしまい、気がついてみれば、本来の仕事である粉をひくことを忘れてしまっていた――というものです。
トルストイのテーゼは
徹底的に「反科学」です。科学はわれわれが何をなすべきかということについて何も教えてくれないし、教えてくれないばかりか、人間の
行為がもともと持っていた大切な意味をどんどん
奪っていくと考えました。
漱石も
彼らとまったく同じことを言っています。
「
野蛮時代で人のお世話には全くならず、自分で身に
纏うものを
捜し出し、自分で
井戸を
掘って水を飲み、
又自分で木の実か何かを拾って食って、不自由なく、不足なく、不足があるにしても苦しい顔もせずに
我慢をして居れば、……生活上の知識を一切自分に備えたる点に
於て完全な人間と
云わなければなりますまい」(講演『道楽と職業』)
だからと言って、
漱石もウェーバーも、進んでいく時代の流れには
抗えないと考えていました。ウェーバーの言葉を借りれば、「認識の木の実を食べた者は、もう後には
戻れない」のです。
このような中で、私たちはどのような知性のあり方を信じ、あるいは選びとっていったらいいのでしょうか。
人類学者の
レヴィ=ストロースが言う「ブリコラージュ」的な知の可能性を探ってみることです。ブリコラージュとは「器用仕事」とも訳されますが、目前にあるありあわせのもので、必要な何かを生み出す作業のことです。私はそれを拡大
解釈して、中世で言うクラフト的な熟練、あるいは身体感覚を通した知のあり方にまで∵
押し広げてはどうかと考えています。
科学万能の流れの中で、迷信や宗教などは
駆逐されていきましたが、それらは完全に消えたわけではなく、ニーチェ的に言うと「背面世界」となってこの世の
片隅にちりばめられて残りました。その中に「土発的」な知(自然の移ろいの中に生きて、そこから発するような知)の伝統がささやかに息づいていました。
それらは一時
絶滅寸前までいったのですが、いままた少しずつ見直されているような気がしています。
じつは、このことを考えるたびに、私は自分の母のことを思い出すのです。母は、言わば前近代的な宗教の伝統や習慣を守って生きていた人でした。四季の行事、
歳時記的なこと、人の生き死に、成長、
衰退への考え方など、そのありようはまるで
旧暦の世界のようでしたが、
驚くべきことに、それは
循環を
繰り返している自然の
摂理とぴったり
一致していました。ですから、人間が本当に知るべきことは何なのかを考えるとき、そこにもヒントがあるような気がしています。
(
姜尚中『
悩む力』による)
3月11日が人生の転機になった人は多いと思います。
日下公人さんは、終戦で戦前派と戦後派の区別ができたように、3.11で震災前派と震災後派の区別ができると述べていましたが、それほど、日本人にとっては歴史的に時代を画する出来事だったのです。
そして、多くの人が日本を守るために何ができるかを考えました。
私がよく本を読んでいるすべての著者が、ひとりの例外もなく、日本を守るための提言を数ヶ月もたたずに書いていました。
私も、自分に何ができるかを考え、言葉の森を作文教育という狭い範囲の教育に留めるのではなく、もっと広く日本の教育全体をよくするような仕事をしなければならないと思いました。
そして、当時広がりつつ会ったウェブ会議システムを使って、子供たちの創造性を育てる教育を、これまでの作文教育を発展させる形で広げていこうと思ったのです。
そのときに考えたのが、日本の教育をどう変えるかということで、それが、「受験から実力へ」「学校から家庭へ」「点数から文化へ」「競争から創造へ」という四つの大きな方向でした。
そして、ウェブ会議を利用した自主学習コースや、読書実験クラブや、思考発表クラブを立ち上げ、それが今、発表学習クラスや寺オン作文クラスやオンラインの親子作文コースという形に発展しています。(自主学習コースの改良は、このあと行う予定です。)
Zoomというウェブ会議システムを利用した全員参加型の少人数オンライン教育は、大きな可能性を秘めています。
それは、これまでの教育以上に子供たちの実力をつけ、家庭での親子の関わりを深め、共感と思いやりの文化を育て、子供たちの創造性を伸ばしていると思うからです。
ただ、はっきりした数値上の成果が出る性格の教育ではないことと、ウェブ会議というものが敷居が高く感じられるだろうことから、まだ大きく広がるにはいたっていません。
この寺子屋オンライン教育のネットワークを全国に広げ、自然合宿と結びつけた新しい教育を作り、日本をよくしていくことが言葉の森のこれからの目標です。
しかし、3.11のあと、日本の社会はよくなっているようには見えません。
少子化が進み、多くの人が物事を後ろ向きに考え、古い利権体質が今も存続し、日本をいい国にしようという思いを共有する場があまりにも少ないように思います。
そして、教育という身近な分野に限ると、本を読めない子、文章を書けない子の割合が、以前よりも増しているように感じられるのです。
もちろん、読書が好きで、優れた個性的な文章を書き、学力もあり、思いやりもある子というのは、いつも一定の割合でいます。
しかし、普通の家庭で、親も普通のきちんとした人でありながら、子供が極端に読書も作文も苦手だという子が増えているように思います。
新井紀子さんの「AI vs. 教科書が読めない子どもたち 」を読むと、それが単に自分の感覚的なことではなく、実際に日本の子供たちに起きている読解力、思考力の低下の反映らしいということが推測できます。
今の日本の社会がよくなっていないどころか、これらの子供たちがそのまま成長すれば、日本はこれまでよりも更に経済も文化も停滞した国になるということなのです。
しかし、これらの問題を解決する展望は、私なりにはっきりしています。
それは、寺子屋オンライン形式の少人数の全員参加型のオンライン教育を、森林プロジェクトの講師によって全国に広げていくことです。
少人数の全員が発表できるオンラインの教育であれば、読書力がつき、作文力がつき、コミュニケーション力がつき、共感力が育ち、家庭での親子の関わりが増え、単なる点数を競う教育ではなく、それぞれの子供の個性と創造性を生かす新しい教育ができると思います。
これが、3.11から始まった私と言葉の森の原点です。
たとえ歩みは遅くても、この道を貫いていきたいと思います。