私が、自分の子供がまだ小学生だったら、絶対にやらせたいと思っているのが発表学習クラスの勉強です。
勉強というよりも、発表ですから、その勉強をしているのは子供自身で、そこに親の協力や対話があるという形の勉強です。
何度も同じことを書くようですが、私のうちの子2人がやった習い事は言葉の森だけで、その言葉の森で小1から高3まで毎週作文を書いたことが、今ではとてもよかったことだと思っています。
ただし、私は、子供には苦しい思いをさせない方針だったので、祝日などで授業が休みになった場合は、休みに徹して、ふりかえの授業などはさせませんでした。
自分が子供だったら、そういう方がうれしいと思うと思っていたからです。
だから、我が家は皆勤賞のようなものとは無縁でしたから、今でも、何かに皆勤賞を取ったというような子の話を聞くと、ひそかに尊敬します。
そういう、何かに一つ筋を通す生き方というのはとても大事です。
ただ、我が家は、皆勤賞で筋を通すという発想がもとからなく、たぶんほかのところで筋を通すような生活をしていたのだと思います。例えば、朝起きたら挨拶をするとか、靴はそろえて脱いでおくとか、悪い言葉は使わないとか、読書は毎日するとか、そういう程度のことですが。
さて、最初に書いた発表学習クラスというものですが、この勉強のコンセプト(概念)は、まだ少しわかりにくいところがあると思います。
発表学習とは、子供たちが、1週間の中で自分なりに興味を持ったものを研究し、それを5、6人の少人数のクラスの中で発表するという勉強です。
子供が興味を持つ分野は、主に自然科学の世界であることが多いので、理科の実験や観察や研究をする子が多いのですが、社会の出来事に関心を持ったり、国語や算数数学の自分なりの問題を作ったりする子もいます。
また、もっと気軽に、どこかに出かけてこんな経験をしたという発表をする子もいます。例えば、どこかの山に登ったとか、魚を釣りに行ったとか、おばあちゃんの家に遊びに行ったとか、そういう発表です。
発表には、写真や絵や文章が動画を使えるので、見ごたえのあるものが多く、どの子も、ほかの生徒の発表を見るのが楽しみで参加している面があります。
だから、欠席するときは、そのときの授業を録画するという家庭もかなりあります。それぐらい面白い発表が多いのです。
私も、ときどき発表学習クラスの授業を見学しますが、驚くほどレベルが高く、かつ個性的で面白い発表が多いので、こういう発表を少人数クラスのわずか数人の子が見ているだけではもったいないと思うことがよくあります。
発表学習クラスの運営の原則は、全員が毎週発表し、その発表に対して全員が質問や感想を言うことですから、人数は5、6人が最適です。
受け身で、ただ聞くだけの参加というものはありません。これが、学校や学習塾での勉強と大きく違うところです。
私が目指している発表学習の基本は次のようなものです。
第一に、子供が自分の関心に基づいて、行動したり経験したり実験したりという手足を動かすことです。
頭の中だけで考えたことや、本を読んで調べただけのことでは、新しい発見はなかなか生まれません。
本を読んで調べたことであっても、それを自分なりに現実の生活にあてはめてみるような実践的な姿勢が大事です。
第二に、経験したことを、学問の世界に結びつけ発展させることです。
どこかに出かけたとか、新しい経験をしたとかいうことだけでなく、その経験を学問の面から見直してみることが大事です。
例えば、旅行に出かけたら、その旅行先の地理や人口や特産物や歴史などを調べてみるというようなことです。
遊園地に行ったら、その遊園地の年間入場者数とか沿革とかイベントの種類とかを調べてみるということもできます。
自分が楽しい経験をしたものであれば、それにまつわる調査や研究は、それなりに興味のあるものになります。
自分にとって興味のないものを、カリキュラムに沿って調べさせられるのとは違います。
カリキュラムに沿って調べたことは、学校のテストには役立ちます。
自分の経験や興味をもとに調べたことは、学校のテストには役立ちません。ディズニーランドの年間入場者数など、どこのテストにも出ないからです。
しかし、自分の関心や経験をもとに調べたことは、その子供の中に生きた知識として残ります。
そしてまた、一般のテストには出ないようなその子独自の知識だからこそ、みんなの前で発表する意義があり、その発表を聞く子も興味を持って聞くことができるのです。
発表学習クラスの基本の第三は、経験し、学問的に発展させたことを、更に創造的に発展させることです。
それは、単に調べたり実験したり観察したりして終わりにするのではなく、自分なりに工夫したことを付け加えるということです。
そこには、自分だったらこういうことをしたいとか、未来の予測としてどう変わるかということや、それをほかの分野にあてはめてみるとどうなるかということや、自分なりに考えた別の原因や理由があるかというようなことも含みます。
つまり、ただ、今わかっているや今あることで終わりにするのではなく、その先のまだないものを自分なりに創造してみることです。
これは、もちろん簡単なことではないし、それほどうまくできることでもありません。
しかし、そういう自分なりの創造の気持ちを持って取り組むという姿勢が大事なのです。
この発表学習クラスの勉強の中で、何が育つかと言えば、主なものは題名にも書いたように、思考力、創造力、表現力ですが、それ以外に、自分から進んで学問に取り組む姿勢、他の生徒とのやりとりの中で育つコミュニケーション力、研究の準備の段階で交わされる親子の対話、他の生徒の発表を見て刺激を受けることによる新しい分野に対する関心、自分の研究を図や文章や話し方によってわかりやすく説明する力など、多様なものがあります。
それらの学力や関心が育つのは、この発表学習クラスが少人数で構成され、毎回全員が発表する機会を持つ形で運営されているからです。
人間は、受け身のときは、いくら時間をかけてもあまり成長しません。
ただおとなしく聞くだけの勉強では、知識は入ってきても、すぐに出ていってしまいます。
だから、そういう知識は、苦労して何度も反復して頭に入れて、テストに間に合わせなければならないのですが、しかし、テストが終わると、またすぐに忘れてしまうのです。
これに対して、自分が主体的に参加したときに生まれた知識や経験は、忘れようとしても忘れるものにはなりません。
自分の生きた経験として残るからです。
そして、その子が将来何か新しいことを研究したり実践したりしようとしたときに思い出すのは、自分の主体的に参加した経験や知識なのです。
こういう知識や経験が、これも同じことを何度も書きますが、東大の推薦入試や京大の特色入試で求められているものと同じものです。
現在、世の中の先端で活躍している人は、誰も、今の詰め込み勉強の知識でいくら高得点を取っても、それが役に立つ社会はもう過去のものになったと思っています。
それを端的に表す言葉が、「辞書のような人間になるのではなく、辞書を使う人間になれ」です。
しかし、今の世の中は更に進歩しているので、「辞書のような人間になるのではなく、新しい分野の辞書を作る人間になれ」というところまで行っていると思います。
こういう世の中の情勢に最も遅れているのが、誰もが想像するように学校と学習塾です。
だから、子供の将来を真剣に考える親は、今の教育で求められていることに適応するだけでなく、その先にある新しい教育に着手しておく必要があります。
新しい教育とは、プログラミング教育や、英語教育ではありません。
もちろん、それらの教育も、また今すでに行われている従来の教育もいいのですが、大事なことは子供が自主的、主体的、創造的に学ぶ教育と姿勢です。
その教育を実現するプラットフォーム(基盤)が、ウェブ会議システムを利用し、少人数の創造的な学習を目的とした発表学習クラスです(寺子屋オンライン作文も同じコンセプトです)。
発表学習クラスは、現在、平日の夕方の6時と7時ごろを中心に、小学2年生から小学6年生の生徒の参加で行われています。
時間帯は、希望者があれば、平日の別の時間や土日にも増やせます。
また、学年は、中学生や高校生でも参加できますが、今はまだ中高生のクラスはありません。
小学1年生は、作文クラスの親子作文のように、将来は発表学習クラスの親子発表もできるようにする予定ですが、まだ新小1で参加している子はいません。
発表学習クラスの受講料は、週1回45分の授業で、月額2,160円です(今後、3,240円に改定する予定です)。
ただし、発表学習クラスは、言葉の森の作文の勉強をしている生徒が対象です。
将来は、発表学習クラスだけを単独で受講できる仕組みにする予定です。
なぜ発表学習クラスのような密度の濃い勉強が、上記のような低料金の受講料で行われているかというと、言葉の森では発表学習クラスをある程度採算を度外視して考えているからです。
つまり、こういう価値ある未来の勉強をより多くの子供たちが経験する必要があると思っているからです。
そのため、今後、発表学習クラスの生徒がいくら増えてもいいように、森林プロジェクトの寺オン講師が、寺子屋オンラインの作文クラスや発表学習クラスを担当できるようにしています。
今はまだ発表学習クラスに参加している生徒は30名ほどですが、今後このクラスはもっと増え、新しい勉強を世の中に提供していくようになると思います。
▽発表学習クラス無料体験フォーム
https://www.mori7.net/teraon/teraform_hg.php
ある大手の進学塾の国語科の責任者という方が教えている「記述力アップ講座」というものを見ましたが、方法論らしいものは何もありませんでした。
ただ、何しろたくさん書くことに尽きるという説明でした。
これは、どこの学習塾でも同じだと思います。
このことを見てもわかるように、学習塾の記述力対策というのは、あってもないようなものです。
それは、なぜかというと、入試問題の記述問題の評価の基準自体が、あってもないようなものだからです。
前にも書きましたが、ある東京都の都立中高一貫校を受検する小学6年生の生徒が、電話で相談してきたことがありました。
それは、その子の書いた記述問題の解答が、その学校で出されている模範解答とかなり違うので、どうしたらよいかという質問でした。
そこで、その子の書いた解答と、その学校で出されている模範解答とを見てみると、その子の書いた解答の方が、ずっと内容的にも表現的にもレベルの高いものだったのです。
学校で出している模範解答ですから、その学校の国語の先生が、しかも責任ある立場の人が書いたのだと思います。
それが、小学6年生の国語力のある生徒の解答よりも、一段下のレベルだったのです。
このことは、つまり記述問題には、明確な解答の基準がないということです。
解答の基準がないから、対策の方法論も生まれてこないのです。
言葉の森で記述問題の指導をするようになったのは、ある年、東大を受ける生徒が、記述対策をしてほしいと言ってきたことがきっかけでした。
東大の国語の現代文には、選択問題はほとんどありません。すべて短い記述式の問題です。
これは、国語の問題に限らず、理科も社会も同様で、○×で答えられるような問題ではなくほとんどが記述中心の問題構成になっているのです。
したがって、東大の進学を目指す中高一貫校の国語の試験問題も、記述問題が中心です。
そこで、記述対策の方法論として、「対比して書く」ということを指導したのです。
これは、「
小学生のための読解・作文力がしっかり身につく本」(かんき出版)にも10編ほど例を載せています。
「対比して書く」とは、どういうことかというと、記述問題の答えを、「○○は、Aである」と書くだけでなく、文中に隠れているBという対比される概念と結びつけて、「○○は、BではなくAである」と書いていくことです。
この対比には、さまざまなパターンがあります。「BではなくAである」「「確かにBもわかるが、しかしAである」「BでありながらAである」「BだったものがAになる」「Bだと思っていたものがAだった」など。
記述問題で問われるような部分は、話が屈折しているところです。
物語文で言えば、「うれしかったが、普通の顔をしていた」とか、反対に、「悲しかったが、笑顔を見せた」というような場面です。
だから、対比して考えるという方法論で書くと、記述の文章の輪郭がはっきりして、表現の焦点が絞られてくるのです。
これは、説明文の問題の場合も同様です。
しかし、これは主に大学入試に関して言える話で、中学入試の場合は、別の要素が加わります。
中学入試の場合は、抽象的な語彙を使って書く力があるかどうかが大きな差になります。
それは、小学6年生では、抽象的な語彙を自由に使えるかどうかが国語力の最も大きい差になっているからです。
では、その抽象的な語彙力の対策はどうしたらよいかというと、抽象的な語彙や考え方が書かれている難しい本を読むことです。
小学校高学年で難しい本を楽しく読めるようになるためには、小学校低中学年でやさしい面白い本をたくさん読んで読む力をつけておく必要があります。
だから、国語力の本当の対策は、国語の問題集を解くことではなく、小さいころから読書に親しんでおくことなのです。
さて、記述問題が国語の試験で取り上げられるようになったのは、○×式の入試に対する反省からです。
2020年の入試改革でも、現代文の記述試験をどうするかということが話題になっていましたが、私はこの記述問題の採用はうまくいかないと思います。
それは、記述問題ということ自体が、中途半端な位置にあるものだからです。
○×式の選択問題の対極にあるのは、記述問題ではなく、作文小論文問題です。
○か×かで答えるよりも、数百字の文章で答える方がずっと考える力を使います。
数百字というのは、600字から1200字、つまり人が普通に1時間で書けるような量の文章です。
しかし、数百字の文章を書かせる問題を出せば、採点する側が対応できません。
また、作文試験を課している学校のほとんどは、その数百字の文章を評価する基準を持っていません。
それは、記述問題の評価の基準がないのと同じです。
○×式の問題では考える力が育たない、しかし600字から1200字の作文試験では評価しきれない。
そこで、妥協の案として、中途半端な50字とか100字の記述問題が出てきたのです。
中途半端なものは、最終的にはどちらかに吸収されます。
だから、記述問題というものは、将来なくなっていきます。
その記述問題をコンピュータで採点するというのも、また間違った方向です。
50字や100字の記述問題の採点では、生徒の学力と記述の点数との誤差はかなり大きくなります。
採点基準を明確にすればするほど、コンピュータ採点の対策がしやすくなり、考える力よりもうまく答えるコツを身につけた方が有利になります。
だから、せっかくコンピュータを採点に利用するならば、機械的なアルゴリズムではなく、深層学習を使った採点にする必要があります。
その深層学習を使った評価に最も適しているのは、短い記述問題ではなく、長い作文問題なのです。
ある意味で、長い作文であればあるほど、その生徒の真の学力は正しく評価されます。
一日に長い作文を書かせるのが難しいのであれば、日を置いて複数の作文を書かせる形でもいいのです。
近い将来、この深層学習を使った作文評価ができるようになります。
すると、中途半端な記述問題というものはなくなります。
○×式の問題は、基礎学力をチェックするために残りますが、記憶力に頼るような瑣末な問題はなくなります。
だから、今の小学生は、記述問題の対策を考えるよりも、まず本を読むことと、作文を書く力をつけておくことです。
記述力よりも現実的な作文力というのは、評価の面でも、勉強の面でも言えることなのです。
ただし、言葉の森の自主学習コースでは、国語の問題集読書のあとに、50字から60字の記述練習をしています。
それは、今の時点では、まだ自分の考えを50字から100字で簡潔にしかもすばやく書く力は必要とされているからです。