植物に人間の気持ちが伝わるという実験があります。
塩谷信男さんが、切り取った葉っぱに、何もしない葉っぱ、声かけをする葉っぱ、気持ちを伝える葉っぱなどというような区別をして何日か置いてみたところ、何もしない葉っぱはすぐに枯れてしまったのに、気持ちを伝えた葉っぱは長い期間青々ととしていたというのです。
植木でも、人間が話しかけたり触れたりして、関心を持たれるような育て方をすると、虫がつきにくいということがあるようです。
植物でもそういうことがあるのですから、人間でも同じようなことがあるはずです。
特に、心が素直な子供たちは、そういう影響を最も受けやすい存在です。
だから、子供を成長させるものは、食べ物とか習い事とか、お金をかけて外側から与えるものではなく、子供にとって最も身近な存在であるお母さんが、その子を見つめて、話をして、聞いてあげ、なでてあげて、その存在をそのまま肯定して認めてあげることなのです。
今の世の中では、子供は常に社会の側から評価される圧力の中で暮らしています。
勉強ができるとか、何かの役に立つとか、社会からの評価がよければ認められるが、評価がよくなければ認められないという環境の中で暮らしています。
何かができたから褒められるということは、もしそれができなかったら自分は褒められる価値がないのだというメッセージを子供に送っていることと同じです。
だから、母親は、子供がよくできたときも、よくできないときも褒めてあげることが大事なのです。
出来の悪い子がいた場合、お母さんはそこで悩むべきではありません。
せっかくのこの人生を、出来が悪いという形で登場してきているならば、その役割を楽しんで生きるというふうに発想を切り替えるのです。
出来の悪いことも含めて、それはその子の価値ある個性だというふうに発想を転換する必要があります。
なぜなら、出来のよいい子が普通にまともな人生を送ったとしても誰も何とも思いません。
しかし、もし出来の悪かった子が、将来社会人になって、こんなに楽しく暮らしているのだということを示すことができれば、それは出来のよいい子が普通にまともに暮らしているよりも、何倍も個性的で、また多くの人に希望や与えることになるからです。
子供には、できる子、できない子、いい子、だめな子というふうに分類する圧力が、社会の側からは常に送られてきます。
小さい子供には、まだすぐにその圧力をはねかえす力はありません。
だから、お母さんが、その出来の悪いことも含めて、あなたがいちばんいい子なんだよというメッセージを常に送ってあげる必要があるのです。
人間の成長の最も大きな要因は、身近な人からの愛情のこもった眼差しであって、それさえあれば子供は正しく幸福に成長していけるのです。
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言葉の森の教室に来る子で、ときどき、「ただいまあ」と言って入ってくる子がいます。
そのあと、「あ、まちがえた」と言いますが。
また、先生を呼ぶときに、ときどき「お母さん」と呼ぶ子がいます。
そのあと、「あ、まちがえた」と言いますが。
教室の居心地がいいのは、先生が、いつも、よくできたところを褒めているからです。
できなかったところを注意して、ほかの生徒と競争をさせてがんばらせるというようなことをしていないからです。
そして、そういうのどかな勉強の仕方で、みんな上達していくのです。
親の役割は、子供にあれこれ習わせて、よくできる子に育てるというようなことではなく、「あなたはそのままでいい子なんだよ」という単純なメッセージを、どんなときにでも子供に伝えていくことです。
「勉強ができない? いいんだよ、そんなこと(笑)」
「失敗しちゃった? いいんだよ、そんなこと(笑)」
「あなたが楽しく暮らすことがいちばん大事なんだから、いろいろ困ったことがあっても、その困ったことを楽しみながら暮らしていけばいいいんだよ」
ということを子供に伝えていくことなのです。
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私が尊敬している人の一人、増田俊男さんは、2020年11月の米大統領選のあとに、株価の大暴落が始まり、ハイパーインフレになると言っています。
なぜ増田さんを尊敬しているかと言えば、日本のことを真剣に考えているからです。
私が尊敬するもう一人の人、副島隆彦さんは、2024年の新札はデノミの布石だと言っています。
原田武夫さんや、原田さんを紹介している金の玉造さんも同じように言っています。
割合はどうなるかはわかりませんが、わかりやすい形では、今の福沢諭吉の1万円札が、新千円札の北里柴三郎になるということでしょう。
では、そのように予測される未来に対して、私たちはどう対処したらいいのでしょうか。
経済や金融の専門家は、「金(きん)を買え」と言います。
それは一理ありますが、金を食べて暮らすわけにはいきません。
金を買うほど余裕のない人は、食糧生産を自分で始めるとか、あるいは食料を備蓄するとかいうことを考えます。
それも一理ありますが、それは、未来を志向した対策ではなく後ろ向きの対策です。
金を買うよりも、もっと流通性のある仮想通貨を買うべきだという人もいます。
ペイパルの創業者であるピーター・ティールさんは、仮想通貨をデジタルゴールドを呼んでいます。
アマゾンなどのネットショップの商品も、今後仮想通貨で購入できるようになるだろうことを考えると、仮想通貨は金よりも使い勝手がよさそうです。
しかし、それももちろん後ろ向きの発想です。
なぜ後ろ向きかというと、自分だけ助かればよいという考えだからです。
では、前向きの発想とは何でしょうか。
前向きの発想とは、これまでの、古い、バブルで吹き飛ぶような、人間の真の幸福に結びつかない、GDPを引き上げるだけの、旧来の仕事にしがみつくのではなく、それらの古い価値観から脱却した新しい仕事を始めることです。
その新しい仕事の基準は、ひとことで言えば、ほかの人に喜ばれることをするということです。
喜ばれるというのは、その仕事の対象となる人の幸福、向上、創造、貢献に資することです。
しかし、これまで特に何の準備もしてこなかった人が、仕事としてできることは限られていると言う人が多いと思います。
そうではありません。
最も直接的にできることは、明日の日本の創造の担い手となる子供たちを育てることです。
子供たちの教育に、知識や技能は必要ありません。
知識や技能は、既にさまざまなところで提供されています。
そして、人間が本気になれば、必要とされる教育の知識や技能はすぐに身につくものだからです。
大事なことは、知識や技能ではなく、子供たちを一人の例外もなくその子の最もよい状態になるように育てようという志です。
そういう考えで、森林プロジェクトの寺オン講師育成講座を始めました。
展開が当初の予定よりも遅れていますが、今後、言葉の森が全教科の学習をカバーするようになることに対応して、同じような考えを持つ人と幅広く協力していきたいと思っています。
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私の中には、新しい未来の社会のイメージがあります。
だから、これから大きく見れば、世の中はよくなります。
しかも、驚くほどよい世の中になると思っています。
と思いつつも、足もとを見ると、ぬかるみの道が延々と続いているようです(笑)。
しかし、何度か道を曲がると、突然ぬかるみが終わり、新しい明るい道が山頂まで続いているようなところに出るのです。
これからの教育の主人公は、子供自身です。
先生は、脇役です(笑)。
主人公の立場で行動する人が、最も成長するからです。
子供全員が主人公になるためには、人数は少なすぎず、多すぎず、全員が対話に参加できる規模でなければなりません。
そういうクラスを寺子屋オンラインで作っていきたいと思います。
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以前、言葉の森のホームページのコメントに、「『子供』の『供』は、『お供』のように人を従わせる意味があるから、『子ども』と書くべきではないか」という投稿がありました。
私(森川林)は、そういう考えがあることは知っていますが、敢えて「子供」と書くようにしています。
それは、なぜかというと、言葉のニュアンスという主観的なもので物事の良し悪しの判断を下すことは、一種の宗教と同じだと考えるからです。
もちろん、私は、宗教とその裏付けとなっている信仰には、それなりの意味があると思っています。
鈴木大拙の「日本的霊性」には、その信仰というものの深い本質が書かれています。
それはひとことで言えば、人間には、そして人生には、理屈や理論では超えられないものがあるということです。
しかし、宗教は個人の内面の問題としてとらえれば意味がありますが、それが集団で行われるようになると、そこに民主主義の対極となるものが生まれます。
集団で行われる宗教は、どちらが正しいかということではなく、どちらが好きかということが基準になります。
キリスト教とイスラム教の争いにしても、簡単に言えば、一方はイエスが好きで、一方はアラーが好きだというレベルの争いなのです。
このレベルの低い争いには、当然話し合いによる解決という余地はあまりありません。
言葉のニュアンスというのも同じです。
大事なのは、その「こども」という言葉で書き表されている内容であって、その書き方が「子供」か「子ども」ということは、個人の好き嫌いの問題です。
好き嫌いは、理性の話し合いにはなりません。
最近の日本では、よく言葉狩りのようなことが行われています。
おおまかに言えば、考える力のない人ほど、言葉のニュアンスにこだわります。
言葉狩りの広がる社会は、文化の程度の低い社会です。
大事なことは、その言葉で表現されている内容を読み取ることであって、言葉自体をチェックすることではありません。
そういう考える力のある子供たちを育てることが、これからの教育の役割になると思います。
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「子ども」でも、「子供」でも、どちらでもいいと思うのですが、そこにこだわりを持つ人もいると思うので、一応その説明を書きました。
本当にどうでもいいことですが。
わざわざ書くほどのことでもなかったのですが、一応説明しておくということで。
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言葉の森は、これまでの作文指導を中心とした教育を行ってきました。
今後は、作文以外の国語、算数数学、英語、理科、社会などの各教科も独自のやり方で指導する総合的な教室に生まれ変わります。
見方によっては、言葉の森は、学習塾のような教室になりますが、目指すのは学習塾ではなく学校です。
学習塾は、学校に合格するための教育を行う場です。
学校は、それ自体の独自の目的を持つ教育の場です。
言葉の森の目指す学校は、大きくは、人間の幸福、向上、創造、貢献を目的とし、教育的な面においては、真の学力をつけ、家庭を基盤とし、文化を重視し、創造を目標とする教育を目的とします。
なお、言葉の森での教育の結果として、上位の学校への進学率が高くなるということはありますが、それは直接的な目的ではなく教育の結果です。
言葉の森の教育の目的は、単に成績を上げることではなく、作文指導のこれまでの目的であった個性、知性、感性を育てることと同じく、総合的な人間力を育てることにあります。
■言葉の森で教える教科
言葉の森では、作文、国語、算数数学、英語、理科、社会などの教科の学習を次のような形で進めます。
▼作文の教科
日本語力の集大成となり今後の学力評価の中心となる作文感想文の学習を行います。
これは、現在の作文の電話通信、通学教室、寺子屋オンラインクラスの学習と同じものです。
作文の小1から高3までのカリキュラムは、言葉の森独自のものです。
▼理科・社会の教科
個性を生かした創造的な学習を発表し交流する「発表学習クラス」で、理科と社会の学習をします。
理科と社会のカリキュラムは、学習指導要領に沿った形で進めます。
▼国語・算数数学・英語の教科
学校で必要とされる勉強を自学自習で能率よく進める「自主学習クラス」で、国語と算数数学と英語の学習をします。
国語と算数数学と英語のカリキュラムは、学習指導要領に沿った形で進めます。
▼その他の教科
言葉の森では、今後社会の変化に対応する新しい教科も新設していきます。
例えば、コンピューター関係、工学教育関係などです。
言葉の森で作文、理社の発表学習、国数英の自主学習などに取り組めば、学校での勉強の補強のために学習塾に行く必要はなくなります。
更に、これからの社会に必要となる創造性と自主性を育て、全教科のバランスの取れた学習ができるようになります。
■教育の目的と方向
言葉の森の教育の目的は、人間の幸福、向上、創造、貢献を目指すことです。
そのための教育の大きな方針は、次の四点です。
1.受験のための教育から実力のための教育へ
2.学校中心の教育から家庭中心の教育へ
3.点数を基準とした教育から文化を基準とした教育へ
4.競争を目標とした教育から創造を目標とした教育へ
言葉の森で勉強をすれば、詰め込みの勉強や、無駄の多い宿題などをせず、個性を伸ばしながら余裕のある生活で創造的な学力をつけられるようになります。
勉強の場は、寺子屋オンラインというZoomを使ったオンライン教育が中心になります。
寺子屋オンラインは、少人数の全員対話型の教育なので、これからの時代に必要な表現力とコミュニケーション力が育ちます。
土日や夏休みの読書作文キャンプでは、自然の中での友達との交流を行います。
この読書作文キャンプが、一般の通信教育におけるスクーリングにあたります。
このように、全員対話型のオンラインクラスと、自然の中での読書作文キャンプを組み合わせることによって、総合的な人間教育を行える場を作ります。
言葉の森の目指す教育は、従来の画一的な外側からの強制による学校教育ではなく、子供たちの内面の成長を生かす新しい学校教育です。
なお、これらの教育を担う先生は、言葉の森の講師、及び森林プロジェクトの講師から募集します。
■寺子屋オンラインの仕組み
言葉の森での授業は、これから、寺子屋オンラインというウェブ会議を利用した全員対話型の少人数のクラスを中心に行っていきます。
これまでの電話通信指導や通学教室は継続していきますが、保護者懇談会や、発表交流会など、ウェブ会議を利用した企画は今後増えていきますので、言葉の森で勉強する方は、オンラインの仕組みにも慣れておいてくださるようお願いします。
オンラインの仕組みで重要なものは、Zoomとgoogleフォトの利用です。
googleハングアウトとskypeは、機能の面で不安定なところがあるので今後は利用しない方向です。
(つづく)
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言葉の森は、これから学校教育を含めた子供たちの教育全般を守備範囲にします。
当面は、小学生から中学生までが、国語、数学、英語、理科、社会の勉強を言葉の森で学べるようにします。
教科書は、市販の教科書準拠の参考書を中心に、言葉の森の独自教材と塾専用教材を使います。
Zoomを使ったオンライン教育で、全国どこからでも学べます。
先生が教える形を中心にした退屈な勉強ではなく、子供たちが自学自習で学び、互いの発表の中で刺激を受け合うような面白い勉強にします。
勉強の進度を把握するためにテストを行いますが、差をつけるためのテストではなく、全員が百点を取ることを目標にしたテストです。
先生は、全国の志のある人たちです。
既に大枠の体制はできているので、これから方向を決めて進めていきたいと思います。
今の教育の問題は、行事が多すぎることと、宿題が多すぎることにあります。
そして、テストで子供たちを追い立てるのです。
基準になっているのは、教える大人の側の都合の方で、子供たち一人ひとりではありません。
子供一人ひとりを見ることができるのは家庭です。
だから、これからの教育は、家庭と連携して進めていく必要があるのです。
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言葉の森を作文の塾と呼んでいる人もいますが、言葉の森は学習塾ではありません。
作文の教育自体を目的とした作文教室です。
入試で作文試験が課されるようになる時代のずっと前から、作文教育を目的とした教室を開いてきました。
ここが、齋藤孝さんなどがやっている受験のための作文講座とは違うところです。
しかし、生徒の中には、受験で作文を使う生徒も当然いるので、20年ほど前から受験作文小論文の指導も行ってきました。
言葉の森の受験作文指導は、わかりやすいと言われることが多く、例年、中学入試から大学入試まで受験作文コースに多くの生徒が参加しています。
公立中高一貫校入試では、作文以外の教科の試験もあるので、合否は作文だけで決まるわけではありませんが、言葉の森の受験作文コースで作文の勉強をした人は、ほかのどこで勉強するよりも作文の実力をつけているはずです。
言葉の森が学習塾でないのは、「(作文以外の)教科の勉強は自分でやる方がよい」という考えを持っていたからです。
人に教わるよりも、自分で勉強をした方が、ずっと能率よくしかも楽に勉強できるからです。
その考えはこれからも変わりませんから、言葉の森は、学習塾のような勉強をする場にはなりません。
しかし、今の学校教育を見ると、学校の教育自体が時代遅れになり、多くの子供たちが、無意味に近い詰め込み教育で勉強に対する意欲をなくしているように見えます。
そこで、言葉の森は、これまでの作文教育を発展させ、子供たちの教育全般をカバーするより広い教育を目指すことにしました。
作文以外に、国語、算数数学、英語、理科、社会などの教科の学習も選択できるようにするので、学習塾のような形態になりますが、本質は学習塾ではなく学校の教育です。
言葉の森が作文教室を始めたとき、作文教育に関する本を約200冊読みました。
そのころから、将来は教育全般をカバーする教室を作ろうと考えていたので、これまでに教育に関する本は数多く集めています。
その中には、天外伺朗さんの教育論のような根本的な内容のものから、和田秀樹さんの具体的な教育法のものまで幅広くあります。
それらをすべて統合して、具体的な教育として組み立てていきたいと思っています。
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日本では教育は進学実績との関連で語られることが多いので、どの塾も実績を上げるために工夫をしています。
そのいちばん手軽な方法は、大量の宿題を出すことです。
受験で点数を上げるためには、詰め込みが最も効果があるからです。
それと同じことが、学校教育でも行われています。
ある時期に集中して詰め込み勉強をすることは決して悪いことではありません。
しかし、教育の方法がそれしかないのは問題です。
近年増えている不登校は、そういう量で強制する学校教育にも一因があると思います。
今の中学生が通う塾は、学校の定期テストの過去問対策までやってくれます。
それで実力がつくかというと、そういうことはもちろんありません。
成績はよくなるが、実力は低下するのです。
そういう現象が、日本の教育のいたるところにあります。
日本は、これから子供たちの教育を根本から変える必要があるのです。
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小学生の作文は、学年ごとに重点が異なります。
学年による違いを理解しないまま作文を教えると、上達しないばかりか、作文を書くことが苦手になることがあります。
また、そのときはよいように見えても、あとになるとそのよいことがかえってマイナスになることもあります。
例えば、小学3、4年生でよい書き方だと言われていたものが、小学5、6年生の受験作文ではかえってよくない書き方になることもあるのです。
作文を教える先生は、その学年による違いを理解して指導することが大切です。
■小学1、2年生は、暗唱と親子の対話のある作文で、その後の学力のもとになる日本語力を育てる
小学校低学年の時期は、上手な作文を書かせるのではなく、親子の対話を楽しみながら文章を書くことを自然な習慣にする時期です。
そのことによって、その後の学力の最も重要な土台になる日本語力を育てるのです。
小学1、2年生に上手な作文を書かせるようとすると、大人の考えた表現を教えることが多くなります。
子供は、そのときは素直に従いますが、達成感がないので本当の自信はつきません。
また、学年が上がると、そういう外からの押しつけにかえって反発するようになり、作文を書かなくなることがあります。
低学年のころは表記ミスが多いのが普通ですが、正しい表記に直すことを重点にすると、書いた作文を直すことが勉強の中心になってしまいます。
作文は楽しく勉強することが大事ですから、この時期は、よい文章を読ませることと、書いた作文のいいところをいつも褒めるようにしていくことが大切です。
■小学3、4年生は、作文検定で定期的に自分の作文力を把握し、目標を持って作文を書く
小学校中学年の時期は、ただ書くだけでなく、表現の工夫をしながら書くことによって作文力を上達させる時期です。
自分の経験したことをただそのとおりに書くだけでなく、書く前の準備として、似た例を探したり表現の工夫を考えたりすることが大切です。
特に、小学3年生からは、感想文を書く力もある程度ついてくるので、文章を読み取って内容を理解し、そこから自分の似た例や感想を書く方法を身につけていく必要があります。
一方、感想文でない事実中心の作文の場合は、小学3、4年生が最も作文力が伸びる時期にあたります。
表現の項目などで、作文を書く目標をはっきりさせて書くことで力がついていきます。
■小学5、6年生は、受験作文に対応した作文力に切り換え、読解検定で国語力を伸ばす
小学5、6年生の時期は、受験を視野に入れた作文を書く時期で、出来事を中心とした文章から主題を中心にした文章に切り替える時期です。
そのためには、抽象的な語彙を使う力をつけることが大切で、国語力、読解力を伸ばしながら作文力も伸ばしていく必要があります。
国語力、読解力を伸ばす方法は、説明や意見の書かれている難しい文章を読み取る練習をすることに尽きます。
そういう文章を読み、自分なりに短い感想を書くことによって、説明文、意見文を書く語彙力がついてきます。
また、それまで題材中心に書いていた作文を、主題中心に切り替えるためには、構成を意識して書くことが大切です。
この構成を意識して書く練習が、その後の中学生、高校生の作文の書き方にもつながっていきます。
■暗唱検定、読解検定、作文検定を活用し、長期的な見通しを持って日本語力を育てる
学年による発達段階の違いを理解して作文を教えてくれる先生が身近にいない場合は、どうしたらいいでしょうか。
言葉の森では、そのような人のために、小学1年生から高校3年生まで定期的に受けることのできる読解検定、作文検定を公開しています。
読解検定、作文検定を定期的に受けることによって、自分の読解力、作文力を把握しながら正しい方向で勉強を進めていくことができます。
また、暗唱検定は、幼児から社会人まで随時受けることができます。
暗唱検定のもとになる暗唱文集は、ウェブから自由にプリントアウトできます。
暗唱検定は、一つの級を合格するために約3か月かかりますから、長期間の家庭学習をひとりでは続けにくいという人は、毎週の暗唱を発表をする場としてオンラインの発表学習クラスを利用することができます。
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小学生の作文力の発達について、ここに書いたほど(簡潔ですが)系統的に書かれたものはないと思います。
作文教育を専門にしているという人でも、自分の教えているある狭い範囲の学年や、狭い範囲のレベルの生徒を対象にした指導しかしていないからです。
1、2年前、小学校の感想文指導の方法が話題になったことがあります。
その方法というのは、実は言葉の森が昔開発していたものでした。
それまでは、学校に、感想文の指導法というのはなかったのです。
また、昔、作文の通信講座の宣伝文句を見て、なかなかいいことを書いているなあと思ったあと、これまで自分が書いていたことと同じだと気がつきました(笑)。
よいものが真似されるのは、別にかまいません。
しかし、本質を抜きにした表面的なことだけの真似では困るので、それで森林プロジェクトを立ち上げたのです。
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国語の成績はいいのに、作文がなぜかものたりない、これでは、受験の作文に対応できないのではないか、と思われているお母さんは多いと思います。
これは、実はきわめてよくあることです。
国語の成績がよいのは、読む力があるからです。
本などもよく読んでいるので、読むための語彙はしっかり身につけているのです。
しかし、読むための語彙と書くための語彙は違います。
難しい文章はそれなりに読めても、自分がそのような難しい文章をそれなりに書けるかというと、そういうことはありません。
書く力の土台は読む力ですから、読む力をつけていれば自然に書く力はついてきます。
しかし、それはすぐにつくわけではありません。
自然につくのを待っていては、小6の受験には間に合わないという子の方がずっと多いのです。
これは、能力の問題ではなく、精神年齢の発達の問題なので、受験に間に合わせるためには工夫が必要です。
受験作文にも対応できる書く力をつけるための方法は、四つあります。
第一は、問題集読書です。
入試問題の問題文を読書がわりに読み、そこに書かれている語彙や表現に慣れておくことです。
第二は、長文の音読です。
言葉の森の課題フォルダの長文は説明文が中心です。
受験作文で要求される文章も説明文、意見文です。
小学生は、それまで事実文中心の文章を読み、事実文中心の作文を書いていたことが多いので、説明文、意見文のための語彙にはなじみがありません。
それを、音読の繰り返しによって、自分でも使えるようにしていくのです。
第三は、作文の準備のときに、子供がお母さんに似た話を取材することがあったら、似た話という題材部分の話とともに、その作文の感想となる主題部分の話もしてあげるのです。
子供は特に、主題の部分で使う語彙をあまり持っていません。
だから、小学校低学年は、「とてもたのしかったです」「まったやってみたいです」「こんどはがんばりたいです」などの、どこでも使えるような語彙で結びをまとめてしまうことが多いのです。
高学年の場合は、一般化の主題という大きい感想になりますが、それも、「人源にとってとても大切だということがわかった」などという、やはりどこでも通用するような結びにしてしまうことが多いのです。
子供は、まだ難しい感想を書く力はありませんが、読む力はあります。
だから、お母さんが言った感想の部分の言葉は十分に理解できます。
それを参考にして書くことによって、次第に自分の主題部分の語彙力を身につけていくのです。
受験作文コースの段階に入ったら、この親子の対話は、お父さんとお母さんの協力で更に強化していく必要がありますが、それはまたその時点で説明します。
第四は、これは最近できるようになったことですが、寺オン作文クラスで、ほかの小学6年生の作文の準備を聞くことです。
寺オン作文クラスは、よく書ける生徒が多いので、ほかの人が準備してきた似た例や感想を聞くと、そのときの発想が自分の今後の勉強の参考になります。
そして、自分も同じようによりよい作文を書く準備をしようという気持ちになるのです。
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私は昔、自分が小学6年生のころに書いた作文を読みましたが、すごく幼稚なことを書いていました。
それなりに自分で考えている片鱗はあるのですが、語彙が伴っていないのです。
これは、今の小学6年生の子供たちも、ほぼ同じだと思います。
ただ、みんな、課題に合わせて背伸びをして書いているので、次第にその背伸びが実力になっていくのです。
小学6年生は、優れた感想を書く力はまだありませんが、読む力は十分にあります。
だから、自分の感想がものたりないことはわかっていて、できればもっと格好いいことを書きたいと思っています。
だから、そこで、お母さんに相談するといいのです。「この作文の感想、どう書いたらいいかなあ」と。
そのときに、お母さんは、「そんなの、自分で考えなさい」と言うのではなく、「こういうことも書けるし、こういうことも書けるし」といくつかの案を示してあげるといいのです。
すると、子供は、読む力はありますから、その中で自分にいちばんしっくり来るものを採用して、自分の感想を書きます。
すると、それがその子の語彙力になっていくのです。
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昔は、「生き字引」とか「歩く辞書」とかいう言葉は、人を褒める言葉でした。
しかし、今は、「辞書のような人間にはなるな」と、全く逆のことが言われます。
これからは、従来の勉強のように記憶した知識を再現するような勉強は必要なくなってきます。
スマホを使ってインターネットで調べればすぐにわかることを、テストのために一夜漬けで記憶するということの空しさを、多くの中高生は感じています。
知識を詰め込むようなことは、今後ますます必要なくなってくるのです。
しかし、ここで考えなければならないことがあります。
例えば、交通機関が発達したから、もう歩く必要もなくなると言って、足を退化させてしまったとしたら、それは足の退化だけにとどまるのではなく、人間の全体的な生きる力もそこで退化していくはずです。
記憶力も同様です。
知識を記憶する必要がなくなってきたからと言って、記憶力を使わなくなっていくと、それは記憶力の退化にとどまらず、人間の総合的な学力もまた退化していくのです。
典型的な似た例が、論文を自分で書かずに、コピペで済ませてしまう学生です。
手軽にコピーできる時代になったから、自分で考えて書く力はもう必要なくなったのだとは言えません。
たとえ下手でも、自分で書く力をつけておくことが、その人の学力になるのであり、それを成長させることが人間の向上になるからです。
岡潔さんが、「一葉舟」という本の中で、次のように書いていました。
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いまの教育で一番欠けているものとして、目につきますものは、むしろ意志教育です。
意志の教育が欠けるということは、意志を使わさない、ということです。たとえば、以前は習ったものは覚えようというのが原則でした。このごろは記憶しなくてもよいということになっている。ところが記憶しようと思いますと、非常に意志的努力がいるのです。あの意志的努力は重ねていますとある時期──だいたい中学二、三年になれば、精神統一力になるのです。精神統一というのは意志力の現われなのです。
記憶には、二種類ありまして、小学校へはいる一年前から小学校一、二年ごろは非常にある意味で記憶がよい。このころの記憶力は、無努力の記憶です。だから意志的努力はしないのです。その後また小学校五、六年ごろから、第二の記憶力が伸びてきます。この記憶は意志的努力を欠いては覚えられないのです。
クリエーションの働きは、前頭葉で精神統一下において行なわれるので、心を散らしたままするんじゃありません。だから意志教育が欠けておれば、それができんわけです。」
(『一葉舟 (角川ソフィア文庫)』(岡 潔 著)より)
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言葉の森で行っている暗唱も、小学一、二年生の子は、どんなに難しい文章でもすぐに暗唱できるようになります。
だから、この時期は、暗唱の勉強を家庭学習の中に組み入れていくのに最適な時期です。
暗唱の習慣がつくと、語彙力が増え、読む力もつき、将来の書く力も育ちます。
そして、何よりも覚えることが苦にならなくなり、それどころか逆に覚えることが楽しくなってくるのです。
しかし、小学校三、四年生から暗唱を始めると、暗唱を難しく感じる子が多くなります。
それは、覚える力が減退したからではなく、理屈で理解する力が増してきたために、覚えることも理解を媒介にして覚えようとするからです。
その方法のひとつが、語呂合わせです。
語呂合わせは、もちろん元素記号を覚えるような少量の記憶を確実に定着させることにはきわめて有効です。
しかし、長い文章を丸ごと暗唱するには、繰り返し音読して暗唱力を付ける方法しかないのです。
この暗唱力をつけることは、ただの暗唱力にとどまらず、意志力を育て、それが精神統一力と創造力に結びつくことは、岡潔さんの言うとおりだと思います。
今はまだ、教育に携わる人の多くが、この暗唱力の大切さに気づいていません。
入試も含めて、暗唱を評価するような仕組みは、ほとんどどこにもありません。
せいぜい、学校で百人一首大会をするぐらいです。
その百人一首も、カルタ競技のようなわけのわからない方向に進みがちです。
だから、言葉の森が、日本語で書かれた内容的にも表現的にも優れた文章を選んで暗唱文集を作り、暗唱検定を行うようにしたのです。
いつかまた、齋藤孝さんあたりが真似をして、暗唱の本を書くようになると思いますが、大事なことは表面的な暗唱の形ではなく、人間の内面における暗唱の教育的な意味なのです。
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スマホで何でも調べられる時代には、もう覚えることは必要なくなっていきます。
しかし、それは覚える力が必要なくなるということではありません。
覚えることと、覚える力は、別のものです。
覚えることは、生活の分野の話です。それは必要なくなっていいのです。
覚える力は、教育の分野の話です。それは、子供を成長させるためにますます必要になってくるのです。
暗唱は、やったことのある人は、それがとてもいいことだとわかっています。
しかし、やったことのない人は、いくら説明されてもそれがそれほどいいことだとは思いません。
ちょうど、かけ算の九九を、日本人ならほとんどの人がいいことだと思っていても、アメリカ人はいくら説明されてもそれがそれほどいいことだとは思えないのと同じです。
だから、大事なことは、小学1年生の子にまず暗唱をさせてみることです(幼長から小2でもいいです)。
しかし、役に立つものを暗唱させようと思わないことです。
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