作文教室というものは、始めるだけならだれでもすぐに始めることができます。難しいのは、何年も継続して指導できるシステムです。また、得意な子と苦手な子がいた場合、それぞれに対応した教え方をするノウハウです。
しかし、だれでもすぐにできるということから、インターネットにいろいろな作文教室が登場するようになり、「作文」で検索しても、言葉の森のホームページががなかなか出て来ないようになってしまいました。SEO対策が遅れていたために、今ではヤフーでは、かなり後ろのページに言葉の森が出てきます。グーグルはまだ上の方ですが、それでもコンテンツの質と量から言うと、言葉の森の位置は正しく評価されているとは言えません。
作文と小論文の指導に関しては、言葉の森は、たぶんどこよりもわかりやすくかつ高度な指導をしていると思います。
そこで、これから、SEO対策やホームページ作りをしっかり行い、言葉の森が、ヤフーやグーグルの上位に表示されるようにしていきたいと思います。
もちろん、ライバルが多いことは歓迎しますが、理論と実践で優れたところが検索の上位に表示されることが大事だと思うからです。
さて、ここからが本論です。ここまでの説明は、本論に入る前の状況と経過の話でした。
今後の作文教育がどういう方向に進むかということで考えると、二つの大きな流れがあると思います。
第一は、受験で作文の試験を課すところが増えるという方向です。しかし、この受験の作文という方向は、今のままでは、将来行き詰まってくると思います。なぜかというと、作文試験は採点が非常に大変だからです。現在でも、就職試験のエントリーシートで時間制限なしで書かれた文章は、どの人も同じようにレベルの高い文章になるので、採点はかなり難しくなっています。
受験での作文を生かしていくためには、言葉の森が開発した小論文自動採点ソフト「森リン」による作文検定など、新しい評価の仕組みを導入することが必要になると思います。
第二の方向は、本物の教育を目指す気持ちが作文教育を広げるという方向です。しかし、この本物の教育を目指す方向も、今のままでは、先細りになると思います。なぜかというと、作文は成果の見えにくい勉強だからです。考える力がついたとか、書くことが好きになったとかいうことは、比較するものがないと漠然とした成果としか感じられません。
そこで、作文の勉強を作文文化として発展させることがこれから必要になってくると思います。
文化として評価される仕組みとはどういうことかというと、例えば、日本では万葉集という文化がありました。その万葉集によって、広範な大衆が短歌を作るという文化ができ、そのすそ野に様々な派生文化が成立しました。
オリンピックでも同じです。競技を評価をする文化的な仕組みがあるので、そのすそ野にいろいろなサービスや産業が広がっています。例えば、カーリングという競技です。もしこの競技がオリンピックなどで文化として認められていなければ、人間が氷の上にタイヤを滑らせるという競技自体にそれほど夢中になるとは思えません。
作文文化をはじめ、社会のさまざまな分野で新しい文化が登場してくるというのが、将来の知識産業社会の風景になっていくと思います。
作文を書くことが作文文化として成立するためには、作文の本質が何かということが重要になってきます。これは、作文試験を評価する際も同様です。そうでないと、作文は、ただ誤字がないとか、速く長く書けるとか、表現が上手だとか、面白い内容だとかいう、評価の定義が低いか感覚的なものかになってしまうからです。
では、作文の本質は何かというと、その一つは創造と発見です。創造と発見という価値を基準にして、将来、作文のコンクールというものが行われていけば、作文教育のレベルは大きく向上します。この創造発見という核心の周辺を、表現の美しさや題材の面白さなどがカバーしていくというのが作文の評価のスタイルになると思います。
作文の本質のもう一つは思考力です。物を考える力としての作文、つまり哲学としての作文というものが作文のもう一つの方向です。この思考力を育てる作文は、他の様々な学問分野と組み合わさって、未来の教育の主要な教科の一つになっていくだろうと思います。
以上、まとめて言うと次のようになります。
第一は、思考力と創造性を育てる作文を作文の評価の中心とすることです。
第二は、その評価の土台を客観的な作文検定で支えていくということです。
第三は、作文文化を発展させることによって質の高い永続性のある作文教育を目指していくということです。
以上が、これからの作文教育の方向になると思います。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。作文教育(134)
さて、インターネットが広がるにつれて、これまで何度か作文教室ブームというようなものが社会に現れました。これはたぶん言葉の森が作文教室という広告をときどき出していたので、それに刺激されたのではないかと思っています(笑)。そうでないかもしれませんが。
通信の作文教室以外にも、言葉の森の通学教室のある地域で、同じような作文教室ができていたこともありました。言葉の森の近くの公立小学校が、作文教育の市の重点指導校になっていたこともあります。また、通信教育の大手でも、作文指導が行われるようになりました。その何年か前、大手の一つの会社から、担当者が、言葉の森にどういう指導しているのか聞きに来ました。こちらは、全部オープンなので教材を一通り持っていってもらいました。言葉の森の近くにある、これも大手の学習塾の国語教材の責任者の子供が言葉の森に通っていたこともあります。だから、作文指導の教材というのは、どこもかなり似通っているのです。言葉の森の教材を参考にして教材を作っているところが多いのだと思います。しかし、こういうブームもあまり長続きせず、大手の通信教育でも、本格的な作文指導というのはあまり行われなくなりました。それはなぜかというと、一つには、言葉の森のような電話指導をもとにした教え方が、ほかのところでは難しかったからだと思います。もう一つの大きな理由は、ほかの教室では、作文教育を通して目指すものがやはり不明確だったからだと思います。
言葉の森では、スタートしたときから、小学生だけでなく、高校生や大学生までの全学年の展望をもって教材を作っていました。まだ生徒が数十人ぐらいのときから、既に全学年の指導が十分にできる仕組みにしていたのです。
また、自分の子供が生まれると、その子供2人を小学1年生から教室に通わせ、高校生まで作文指導をする中で、教材を洗練したものにしていきました。
その後、言葉の森が音読の自習をホームページに載せるとそれがいろいろなところで紹介されるようになり、ちょうど音読の本が出てきたブームに乗って、学校や学習塾でも音読を始めるようになりました。昔、言葉の森が音読の自習を生徒にすすめると、どうして音読をするのかという質問がよくありました。当時は音読という形の勉強自体が珍しかったのです。しかし、最近では、音読をすすめると、学校の音読の宿題と重なってできないと言われることがよくあります。
そして、今また、作文が新しいブームとなっているようです。その背景は三つあると思います。一つは、受験で記述式の問題が増えたことです。もう一つは、中高一貫校の入試で作文試験が出されるようになったということです。また、高校や大学の推薦入試でも作文の試験を取り入れるところが多くなりました。このような事情から、学習塾でも作文指導取り入れるようになり、作文教室という形で指導するところも増えてきたのです。そして三つ目の理由は、本物の教育を求める気持ちを多くの人が持つようになってきたためだと思います。OECDの学力調査によると、読解力と表現力が、日本の場合は低い点数になっています。単に知識を詰め込んで点数を上げるような勉強ではなく、もっと深く考える力を求める教育が必要だということをより多くの人が感じてきたのだと思います。
(つづく)
(この文章は、構成図をもとに音声入力した原稿をamivoiceでテキスト化したものです)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。作文教育(134)
この話は長いので、これから3、4回に分けて掲載していきます。
言葉の森は、私(森川林)が25歳のころ、つまり今から30年ぐらい前、初めて作文教室という名前で広告を出したのがその前身です。そのころは、もちろんそういう教室はどこにもなく、作文教室という名前を使って宣伝を出したのは、言葉の森がたぶん初めてだったのではないかと思います。
しかし、もちろんこんなことは自慢にならないことで(笑)、これは、今後の計画を説明するために経過として書いていることです。
なぜ作文教室を始めたかというと、理由は二つあります。一つは、面白そうだったからで、これがいちばん大きな理由です。作文教室の向こう側に、未知の世界があるような予感がしたのです(この予感は当たったと思います)。もう一つは、自分自身のニーズがあったからです。つまり、文章のよさというものは、自分自身では評価できません。私には当時、他人に文章力を評価してほしいという気持ちが強くありました。今ならブログなどの人気度で、自分の文章を評価してもらうチャンスはたくさんありますが、30年前はそういう機会がありませんでした。そこで、同じようなニーズを持つ人がいるだろうと思ったのです。
このようにして、25歳で作文教室をスタートしましたが、最初は、マスコミ受験を目指す大学生対象の文章教室でした。その後何年かして、小学生を対象にした教室に発展させましたが、そのときの気持ちとして、作文教室を単なる国語教室のようなものにはしないという思いがありました。
なぜなら、勉強というものは本来、独学でやる方が能率がよいもので、他人に教わるものではないという考えがあったからです。作文は、他人からの評価がないと、自分自身では評価できないということでスタートしたのです。
しかし、小学生の子供たちを教えていると、国語力と作文力の相関が非常に高いことに気が付きました。国語力のない子は、同じ指導していてもやはり上達が遅いのです。
そういう試行錯誤を続けているうちに、2000年ごろからインターネットが普及して言葉の森の通信の生徒が増えてきました。
これも自慢することでありませんが、言葉の森のインターネットの取り組みはかなり早く、1996年から既にホームページを作っていました。言葉の森は、新しい技術革新を取り入れることについては柔軟です。今も、次々と新しい仕組みを取り入れています。
例えば、今、言葉の森のホームページでいちばん人気があるのは、「ふりがな」のページです。海外からも毎日のようにアクセスがあり、言葉の森の表紙の何倍もヒットします(いいのか^_^;)。このページは、茶筌という日本語形態素解析ソフトとPHPを組み合わせて、学年別のルビ振りが自動的にできるようにしています。国語的なサイトで、こういうプログラミングを自前で作っているところはあまりないと思います。
(つづく)
(この文章は、構成図をもとに音声入力した原稿をamivoiceでテキスト化したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。作文教育(134)
■国語力は作文力に表れる
国語の実力は、作文の力に表れてきます。作文が書けない子は、文章もあまりよく読めません。
もちろん中には、本をよく読んでいるのに作文が苦手という子もいます。しかし、こういう子はコツがわかれば、すぐに作文を上手に書けるようになります。
一方、あまり本を読んでいないのによく書けるという子もいます。しかし、これは、課題がやさしいからよく書けるということであって、難しい課題になるとだんだんと書けなくなります。
大多数の子は、作文も書けるし文章もよく読めるか、作文もあまり書けないし文書もよく読めないかのどちらかです。
■読書力のエッセンスが音読の勉強
では、作文力と読解力をつけるためには、どうしたらいいのでしょうか。共通の勉強法は、読む力をつけるということです。あたりまえのように思われるかもしれませんが、ここがいちばん大事なところです。読む力をつけるためには、読書をすることが最も効果があります。本をたくさん読んでいる子は、ほぼ例外なく国語が得意です。
しかし、本をあまり読まない子は、どうしたらいいのでしょうか。
読書には、いくつもの効用があります。感情が豊かになること、知識が豊かになること、読むこと自体が楽しいこと、そして、読むことによって読む力がつくことです。
この読書の様々な効用の中で、読書によって読む力をつけるという部分を取り出したものが、音読の勉強法です。
読書があまり進まない子でも、音読の勉強をすることによって読む力がついていきます。
■音読で力のつく子とつかない子
音読によって国語力をつけるということは、言葉の森が長い間提唱してきたことです。
しかし、言葉の森でも、実際に音読をやって力のついた子と、なかなか力のつかない子がいました。それはなぜかというと、音読は、飽きやすい勉強だからです。読解力をつける勉強で大事なことは、同じ文章を反復して読むことです。ところが、音読の勉強は、反復の回数が少なくなりがちなのです。
次々に新しい文章を音読するような形では、読む力はつきません。対象となる文章を空で言えるぐらいに何度も繰り返し音読をすることによって読む力がつきます。
音読で力のついた子は、その文章を覚えるぐらいまで繰り返し読んだ子でした。
■音読の勉強を発展させた10分間暗唱
そこで、言葉の森では音読の勉強をさらに発展させて、10分間暗唱という勉強の仕方を行うようにしました。
暗唱の勉強というのは、今の親の世代の人たちはほとんどしていません。暗唱または暗記というと、自分は覚えるのが苦手だから難しそうだという発想する人が多いものです。
しかし、10分間暗唱は、覚えるための勉強でありません。ただ10分間100字の文章を反復して音読することによって、いつの間にかその文章を覚えてしまう、という勉強法です。
このやり方であれば、暗唱は例外なくだれでもできるようになります。また、10分間で100字の文章が暗唱できたということは、子供に大きな達成感を感じさせます。これが、達成感の感じにくい音読の勉強との大きな違いです。また、暗唱は、客観的にその達成度を評価することができます
■貝原益軒のすすめた暗唱法
暗唱の勉強の効果は、すでに貝原益軒によって次のように述べられています。
四書を、毎日百字づつ百へん熟誦して、そらによみ、そらにかくべし。字のおき所、助字のあり所、ありしにたがはず、おぼへよむべし。是ほどの事、老らくのとしといへど、つとめてなしやすし。況、少年の人をや。四書をそらんぜば、其ちからにて義理に通じ、もろもろの書をよむ事やすからん。又、文章のつづき、文字のおきやう、助字のあり処をも、よくおぼえてしれらば、文章をかくにも、又助となりなん。かくの如く、四書を習ひ覚えば、初学のつとめ、過半は既に成れりと云べし。論語は一万二千七百字、孟子は三万四千六百八十五字、大学は経伝を合せて千八百五十一字、中庸は三千五百六十八字あり。四書すべて五万二千八百四字なり。一日に百字をよんでそらに記(おぼ)ゆれば、日かず五百廿八日におはる。十七月十八日なれば、一年半にはたらずして其功おはりぬ。早く思ひ立て、かくの如くすべし。これにまされる学問の善き法なし。其れつとめやすくして、其功は甚だ大なり。わがともがら、わかき時、此良法を知らずして、むなしく過し、今八そぢになりて、年のつもりに、やうやう学びやうの道すこし心に思ひしれる故、今更悔甚し。又、尚書の内、純粋なる数篇、詩経、周易の全文、礼記九万九千字の内、其精要なる文字をゑらんで三万字、左伝の最(も)要用なる文を数万言、是も亦日課を定めて百遍熟読せば、文学におゐて、恐らくは世に類なかるべし。是学問の良法なり。
■国語力があれば入試も有利
国語力のついている子は、国語のテストの前でも、直前の勉強が不要です。国語は一夜漬けのできない勉強なので、普段の実力があれば試験の前の勉強をわざわざする必要がないからです。
言葉の森の生徒で、次のような子供がいます。小学校高学年から高校までの国語のテストは、いつもクラスでほぼ最高点でした。大学入試でも、受験したいくつかの学部の国語のテストはいずれもほぼ満点でした。国語力に余裕があるので、国語の勉強をする必要がないのはもちろんですが、英語の勉強も受験の後半になるほどぐんぐん成績が上がっていきました。
国語力のある子は、文章を読んで理解する力があるので、新しい勉強を始めることが苦になりません。国語力は、社会に出てからも更に役立つ学力なのです。
■暗唱の勉強を支える電話指導と速聴ページ
ところで、暗唱の勉強を通信教育で行うということは、通常はできません。言葉の森の通信教育で暗唱の指導ができるのは、毎週講師からの電話指導があるからです。
また、言葉の森では、暗唱しにくいという子供たちのために、速聴のページを作り、速聴を10分間聴くだけでも暗唱に近い勉強ができるようにしています。このため、中学生高校生では、速聴のページをiPodなどにダウンロードして通学途中に聴くというような形の勉強もできます。
暗唱の力をつければ国語力読解力がつくのはもちろんですが、作文力もつき、勉強力そのものもまたついていくのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。
公立中高一貫校の入試で、なぜ作文試験が行われているのでしょうか。その理由は、公立なので、受験勉強をあおるような入試はできないというところにあります。そこで、知識を問うような普通のテストのほかに、作文試験が課されているのです。
話は脱線しますが、現在の公立小中学校の勉強の範囲は、やさしすぎるところがあります。基本をしっかり身につけることは大切ですが、教科書の中にレベルの高い問題がないと、賢い子は物足りなさを感じるようになります。公立中高一貫校では、そのような教科書をもとに入試の選抜試験をしなければならないため、作文試験という形をとるところが増えているのです。
大学入試では、一足先に小論文試験を導入していました。これは、センター試験などマークシート方式の試験を補完する形で登場しました。
当初の小論文試験は、ありふれた課題ででした。極端にいうと、「私の家族」「私の友達」のような誰でもが思いつきそうな身近な題名課題で出されていました。しかし、それで入試の選抜ができたのは最初のうちだけです。すぐに受験生が対策を研究して、だれもが同じ水準で上手に書けるようになりました。そこで、身近な題名課題ではなく、文章を読んで感想を書く形の感想小論文のスタイルに次第に変わっていったのです。
その後、さらに小論文入試に力を入れるところでは、複数の文章を読ませて感想文を書かせるような、より深く考えさせる問題に進化していきました。私の考えでは、受験生に一日に複数の小論文を書かせるような形でないと、本当の小論文の実力はわからないのではないかと思います。
しかし、小論文の入試が工夫されればされるほど、採点者の負担が大きくなります。また、採点者による評価の個人差が大きいという問題もあります。そこで、現在の小論文入試では、教科の点数でかなりの部分の合否を決め、合格の人だけ小論文をみるという形になっているのではないかと思います。
中学入試の作文試験も、これから大学入試と同じような経過をたどると思います。作文を読むと、たしかに本人の知的な実力がよくわかります。それが難しい課題であればあるほどそういう傾向が強くなります。逆に、「私の○○」などというやさしい題名では実力差はあまりつきません。しかし、難しい課題で作文を書かせて採点するとなると、採点に時間がかかりすぎます。選抜のために採点に差をつけるというのは、さらに大変な仕事になります。
そこで、今後の予想です。公立中高一貫校の作文試験では当面、身近な課題がまだ少しは残ると思います。しかし、やがて文章読んで作文を書かせるような形が主流になっていきます。しばらくは、その文章も学校や家庭によくある身近な話でしょう。しかし、だんだんと思考力を要求するような難しい文章になっていきます。採点する側の事情から言うと、文章の上手さを評価するのは難しいので、思考力があるかないかを評価するような形の採点になっていくと思います。
では、受験生は今後どういう対策を立てたらいいのでしょうか。対策は、三つあります。
まず第一に、やさしい身近な課題をざっと練習しておくということです。題名としては「私の○○」「私と○○」というような課題です。これで、1時間以内に600字から800字書く練習していきます。作文試験の時間はだんだん短くなる傾向にありますから、慣れてきたら45分以内に600字から800字書く練習をしていくといいでしょう。身近な題名課題を何本か書いておくと、感想文の課題にもそこで書いた実例を応用することができます。
第二に、1000字から2000字ほどの説明文・意見文の文章を読み、その文章をもとに感想文を書く練習をします。これが今後の勉強の中心になります。これも1時間で600字から800字を書けるようにしておきます。慣れてきたら45分以内で書けるようにしておきましょう。(しかし、これは、小学生だからできるのであって、大人が45分で600字から800字の文章を書くというのは、まずできません)
第三に、複数の文章読んでの感想文を書く練習もしておきます。こういう形の作文試験を出すところはあまりないので、数回やっておけばいいでしょう。
作文の勉強でいちばん大事なのは、本人のそれまでの読書力と、これからの家庭の対応になります。家庭の対応というのは具体的にいうと、身近な課題や時事問題について、両親が子供に、両親の実例や感想をたっぷり話してあげるということです。
(この文章は、構成図をもとに音声入力した原稿をamivoiceでテキスト化したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。公立中高一貫校(63)
高校生の現代文と小論文の勉強について説明します。
まず、現代文です。現代文の力は、土台の力とテストの力に分けられます。
土台の力をつけるためには、全国の大学の過去問1年間分の問題集を読んでおくことです。読んでいてどうしても内容がつかめない意味不明のところだけ、国語の先生などに聞いておきましょう
テストの力をつけるためには、三つのことが大事です。
第一は、問題文の全文を、一息で、味わいながら、ところどころに線を引きながら、読んでいくことです(複雑そうに聞こえるかもしれませんが、そうでもありません)。物語文などでは、特にこの味わって読むことが大切です。問題文の世界に没入して味わって読んでおくと、そのあとの選択問題を答えるときにも、改めて問題文を読む必要がなくなります。
第二に、選択問題の解き方です。選択肢のどこがなぜ違うのかということを記録に残しながら解いていきます。記録を残さないで解いた場合、うまく合っていても力がつきません。間違っていた場合でも、なぜ間違えたのかということが反省できなくなります。
第三に、志望校の過去問の性格を知ることです。性格というのは傾向とは少し違います。傾向は、どういう問題が出ることが多いかということです。この傾向を知ることによって、どの参考書や問題集をやるのかを決めていきます。性格とは、わかりやすい性格、ひねっている性格など、問題自体の性格のことです。志望校の過去問の性格を知っていると、選択に迷ったときに、役に立ちます。
次に、小論文です。小論文も土台の力とテストの力にわかれます。
まず、土台の力です。土台の力は三つあります。
第一は、時間内に書き上げることです。
第二は、字数ぎりぎりまで書くことです。
時間と字数の力をつけるためには、慣れと根性によるしかありません。1週間に1本、時間と字数を決めて書く練習していきましょう。そのために例えば、喫茶店などに入り、書き上げるまで出てこないというようなことを自分に課すのも有効です。
第三は、漢字の表記です。漢字の間違いは意外に多いものです。特に、高校生の場合は、小学校の中高学年でうっかり間違えたまま覚えている誤字がかなりあります。直し方は、身近な他人に見てもらうことです。例えば、家族や兄弟に見てもらうといいでしょう。自分で直す場合は、書いた文字すべてについて、自分で合っていると思ったものも含めて全部辞書を引き直すことです。誤字を完璧に直すには、1年ぐらいかかります。また、小論文が上手になるのもやはり1年ぐらいが目安です。
次に、テストの力です。テストの力は三つあります。
第一は、いい表現を蓄積しておくことです。これは、いい主題(意見や感想)につながります。
第二は、いい実例を蓄積しておくことです。この実例には、体験実例と社会実例があります。
第三は、わかりやすい構成で書くことです。わかりやすい構成で大切なことは、一つには見やすいレイアウトで書くということです。それぞれの段落がだいたい同じぐらいの長さで展開されていると、文章全体が見やすくなります。段落の平均的な長さは150字ぐらいですので、そのぐらいの長さを目安にしておくとよいでしょう。
もう一つは、構成を予測させる言葉を使ってわかりやすく書くということです。例えば、「○○は三つある。それは」というような書き方をすると、読む人は先の見通しがわかるので読みやすいという感じを受けます。
現代文の場合も、小論文の場合も、共通する力は難読力です。
高校生の小論文は、高校3年生になると、どの子も上手になります。これは普段の勉強の量が増えてくるからで、難しい文章を読むようになると、小論文も上手になるということです。
(この文章は、構成図をもとに音声入力した原稿をamivoiceでテキスト化したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。
子供たちの学力にとって最も大切な読書と対話と愛情について説明します。
第一は、読書です。読書は、毎日50ページ以上読んでいくことを目標とします。もちろん、小学校低学年では、もう少し少ないページ数になります。
生活の中で、何か機会があれば読書をするという形にしていきます。例えば日曜日、子供が暇になってすることがない、子供としてはゲームをしたい、というようなとき、読書を50ページしたらゲームを15分するというような提案を親が子供にします。読書好きになるのは、読む量が増えるからです。このように生活の隅々に読書組み入れていくと、子供は必ず読書好きになっていきます。
勉強は、よく学びよく遊べという形で進めていく必要があります。ゲームもさせない、インターネットもさせない、勉強だけだらだらさせる、というようなやり方では、学力はつきません。そして何よりも、そのような生活が楽しい生活であるとはいえません。子供が小学生の間に、親子で、よく学びよく遊べの習慣を家庭生活の中に作っていくことが大切です。
第二は、対話のある生活です。
言葉の森の長文音読を話題にしたり、作文の題名を話題にしたりして、親子の対話を進めていきます。
例えば、食事のときに、今度の作文は何の題名かを聞き、その題名に合わせて、例えばお父さんが、「お父さんが子供のころは、……」というような話をしていきます
この時にもちろん、母親の協力も大切です。母親が「なるほど」と関心を示したり、「私もそういうことがある」という似た話をしたりすれば話がはずみます。逆に、子供と両親が一つの話題で話をはずませるという勉強ができれば、子供の頭は必ずよくなっていきます。
第三は、愛情です。
叱られながら100点を取るような勉強させられた場合、半年後にその知識は50点ぐらいにまで下がっていると思います。逆に、笑いながら80点取るまでの勉強した子は、半年後もその80点の知識が生きています。幼稚園や小学校低学年のころの記憶がたくさんある子は、そのころに愛情のある楽しい生活をしていた子です。このような愛情のある生活も、親子で小学校低中学年の時期に習慣として作ってことが大切です。
次は、暗唱の話です。
暗唱のような勉強の習慣がつくのは、小学校低学年のころまでです。小学校3年生以降になると単純な勉強はなかなか定着させにくくなります。
しかし、これは子供のせいではなく、親の子育ての習慣が固定化していくためです。
例えば、暗唱などの短時間の毎日やる勉強は、朝ご飯の前にする方が続けやすくなります。食事の前は、頭の回転がいいからです。逆に、食後の作文は、なかなか進みません。
ところが、朝食前に暗唱の勉強するとか、食後は読書のような軽い勉強するとかいう習慣は、親がそのような子育てを低学年の間にしていなかった場合、途中から変えていくのがなかなか難しいのです。
読書は、くたびれていても、食後でも、いつでもできるものです。そして読書は、いつまでも続けやすくなるという特徴があります。ですから、勉強の前や勉強の途中に読書入れるというのは、いいやり方ではありません。勉強の最後に読書の時間をあて、その読書50ページ以上が終わればあとは自由に何でもしてよいとします。
よくだらだら勉強して長い時間をかける子がいます。この原因の一つは、早く終わると次の勉強させられるということがあります。親が、勉強を内容ではなく時間で決めているために、集中して勉強するメリットが子供には感じられないのです。勉強のさせ方というような親の習慣も、子供が小学校低中学年のころに作られます。ですから、小学校3年生以上になると、親自身が勉強のさせ方という習慣を直せなくなるために、暗唱の自習などが定着させにくくなるということです。
(この文章は、構成図をもとに音声入力した原稿をamivoiceでテキスト化したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。
国語力の大切さが見直されています。京都大学の工学部では、二次試験に国語を必須としました。ある大学の数学の教授の話で、「国語力のある生徒を採用したい」とを言っていたのを思い出します。また、企業に勤める社員の国語力テストを行ったところ、役職順に成績が並んだという調査がありました。
新聞のコラムの中に、いろいろな人が順番に書くというスタイルのものがあります。読んでいて面白くかつうまいと思わせるものに、なぜか科学者や経営者の文章が多いように思います。国語的な仕事に就いている人だけが、国語力があるのではありません。国語力のある人は、様々な専門の仕事の分野でその国語力を生かして活躍しているのだと思います。
数学力の低下などは、よく目立ちます。また、または目立つ分だけ、すぐに回復できます。そこで、多くの人は、目立つ数学や英語などの勉強を優先しがちです
これに対して、国語力の低下はなかなか気がつきません。気がついたときには既に重症になっているということが多いものです。同じ国語力でも、漢字の書き取りなどは目立つので、国語の勉強というと、つい漢字の書き取りなどを連想する人がいます。しかし、それは国語力とは少し違います。
では、国語力とは何でしょうか。
その前に、世間一般に言われている国語力についての誤解を挙げたいと思います。
まず第一に、古文や漢文は、国語力と似ている面と重なる面がありますが、国語力の本質とはあまり関係がありません。
第二に、漢字の書きや読みも同じです。どちらかと言えば、書きの力よりも、読みの力の方が国語力と結びついています。読む力は、読む経験の量と質に比例しているからです。それに対して書き取りは、勉強としてやらなければできません。従って勉強量と真面目さに比例しているのが書き取りで、国語力に比例しているのが読み取りです。
ですから例えば、読みがよくできるが書きはだめという子は、むしろ将来性のある子です。つまり磨かれざる玉だということです。
入試では、テストの成績によって合格者が決められます。私は、合格者の一部に関しては、読みと書きのギャップのある生徒を合格させてもいいのではないかと思います。漢字の読み取りがその学年で習わない漢字までよくできているが、書き取りがあまりができていないという生徒は、将来伸びる可能性があります。ただし、伸びるのは、本人がやる気になったときの話ですが。
第三に、語彙力も国語力とはあまり関係がありません。もちろん、準備なしの語彙力は読む経験に比例しているので、読む力に結びついています。しかし現在は、語彙力の参考書で準備することができるので、語彙力は多くの場合、単にクイズの知識のような勉強になっています。例えば、熟語やことわざをたくさん知っているから、国語力があるとは言えないということです。もちろん、知っていることはとてもよいことですが、それが国語の勉強の本質ではありません。
第四に、小説や物語本を読む力は、国語力と結びついていますが、日本の国語の勉強の中では、やや行き過ぎた形で過大評価されています。国語の問題に出てくる物語分の内容は、登場人物の「ああでもないこうでもない」という心情の動きを拡大しすぎています。これが志ある若者の国語嫌いの一つの原因になっていると思います。
確かに、悩みは人間を深める面があります。しかし、健康な発想は、悩んでいる暇があったら行動せよ、ということです。日本の文学は、行動せずに悩むことが多すぎるのです。
自分自身の経験で言っても、中学3年生のころに亀井勝一郎を読みました。これは、評論文ですが、日本文学の長所と短所をあわせ持った評論です。亀井勝一郎を読むことによって、若い時期に、行動するよりも迷うことの方が尊いというような感覚を持った経験があります。行動力のあることを軽薄だと見なすような面が、日本の文学にはあるのです。似たような例は、国語の教科書にもよく出てくると思います。
では、真の国語力とは何でしょうか。それは、思考力だと思います。言い方を変えれば物事を構造的に見る力です。哲学力と言ってもいいでしょう。ただし、哲学の知識の有無とは関係がありません。
哲学は、かつてギリシャで「知を愛すること」と言われていました。ヨーロッパでは今も哲学は、学問の母と言われています。同じように、日本において国語が、あらゆる学問の母になっているのだと思います。
言語による認識の構造化が国語力だとすると、国語力を高める方法は、次のようなことになると思います。くわしくはまたいつか述べますが、第一は、難しい文章を繰り返し読む難読の復読です。第二は、自分の好きな本をたくさん読む多読の速読です。第三は、関心のあるテーマについて家族や友人と行う知的な対話です。第四は、すぐれた内容の文章の音読と暗唱です。第五は、構成を意識した作文です。
(この文章は、構成図をもとに音声入力した原稿をamivoiceでテキスト化したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。