昔テレビで、連想ゲームというものがありました。女性は、聞いてわかるというのが男性よりも得意です。男性は、書かないとわからないという傾向があります。
例えば、日常生活の場面でも、説明を聞くときに、聞くだけで理解できるのが女性です。男性は、説明書を読んだり、又は、聞いた説明を自分なりに書いてみないと理解できないということが多いと思います。
これはなぜかというと、女性は、いろいろな現象を並列的につなげて丸ごと理解するのが得意だからです。男性は、現象のつながりだけでなく、その現象が内部でどういう関連になっているかということが見えないと現象どうしを結びつけることが難しくなるようです。国語の問題でも、理詰めで解くような解き方を教えると男の子は点数が上がります。
聞いてわかるというのは、見てわかることよりも、より直感的な理解であり、印象を丸ごと実感して把握するするというような理解の仕方です。このような理解の仕方が得意なのは一般に女性です。また、物事を実感的に把握することが得意な人は、一般に国語という教科が得意です。女性と国語は、相性がいいのです。
しかしこういう女性の特徴、又は国語の得意な人の特徴は、同時に他の勉強に対する弱点にもつながっています。
女性や国語の得意な人は、自分の感覚をもとにして物事を考えるという傾向があります。ですから、何かを考える場合でも、身体的な実感を感じられるような理解の仕方をします。そこで、理数系が苦手になることが多いのです。
理数系は実感の世界ではなく、どちらかといえば操作の世界です。実感で理解しようとするとかえってわかりにくくなるというのが理数系の特徴です。例えば、「3分の2を2分の1で割る」というような問題があった場合、実感的に考える子は、3つあるうちの2つのリンゴを2分の1で割るなどと考えるので、かえって理解できなくなります。
また、二乗して負になる虚数というのも、実感として理解することはできません。これは単純に、実数の世界で説明しにくいものを説明する理屈として操作的に導入した概念だと考えればいいのです。
4次元というのも同じです。縦・横・高さという3次元の実感の世界にもう一つ別の次元があるということを実感で考えようとすると、時間のようなものが思いつきます。しかし、3次元に加わるもう一つの次元は、別に時間でなくてもいいのです。明暗でも大小でも寒暖でも、要するに縦・横・高さ以外の別の区分が別の次元になります。もっと言えば、世の中にA的なものをB的なものがあると考えるとABが一つの次元となります。と考えると、5次元、6次元、n次元といくらでも操作的に多次元を考えることができます。しかし、実感の延長で考えると、縦・横・高さ・時間の次に来る具体的なものを思いつかなくなるので、より高い次元というものを理解しにくくなってしまうのです。
国語の得意な子が、中学生高校生になって数学や物理が苦手になるのは、二つの分野の学問の性格の違いが、実感と操作の違いであるということがよくわからないからです。ですから、勉強の内容を教える前に、本当は、教える人がそういう性格の違いを説明してあげればいいのだと思います。
今西錦司は、学生時代、文系の仲間の中でひとりだけ数学が得意でした。友人が、どうして数学が得意なのか聞いたところ、要するに数学は覚えてしまえばいいのだと答えたそうです。文系的な発想をする人は数学を実感として把握しながら解こうとしがちです。ところが操作的に割り切れる人は、実感がない世界でもそのままそういうものだと思って解いていくのです。今西錦司は、数学が操作の世界だと早めにわかっていたのです。
いったん学問の分野によって要求される発想の性格が違うことを理解したら、そのあとは、自分の得意な発想に結び付けて苦手な分野を克服していくことになります。理屈の得意な人が、実感の世界を理屈で理解しようとするとよくわからなくなります。しかし、その二つの世界の性格が違うのだということをふまえた上で、実感の世界を理屈の世界に還元(換言)して理解していくとスムーズに理解できるようになります。
例えば、「閑さや岩にしみ入る蝉の声(しずかさやいわにしみいるせみのこえ)」という句をそのまま理屈で理解しようとすると、「しずかさ」と「せみ」がうまく結びつきません。しかし、これは実感の世界の話だと割り切った上で、おしるこでも塩を少し入れるとより深く甘みが感じられるようになるのと同じことだと理屈的に理解すればすんなりと理解できます。実感をそのまま感じられる人は最初からそのように感じればいいのですが、実感が苦手な人は得意な理屈に還元して理解するということです。
逆に、「分数の割り算はひっくり返してかける」という算数の世界についていけない子は、それが操作の世界だと思わずに実感の世界の出来事だと考えているから理解できなくなっています。日常生活の中で分数で割るというような経験はないからです。二つの世界が違うことを理解した上で、「分数ちゃんは『割る』のが苦手なので、すぐひっくりかえって『かける』になる」などと実感的に理解しなおせばいいのです。
論説文と物語文の得手不得手や語彙力の得意分野についても同様のことが言えます。基本になるのは勉強の量ですが、量だけではカバーできない苦手分野は、自分の得意分野に結び付けて理解するのが苦手を克服するコツです。
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一般の印象として、男脳と女脳を分けて考えた場合、男の人は、狩猟時代の昔から、獲物をとるために遠くを見るのが得意だという傾向があったようです。従って、近くのものにはあまり関心がありません。例えば何かを探すときのことを考えてみましょう。身近な例ですが、男の子がたんすの引き出しを開けて、「僕のパンツどこ?」と聞くと、横からお母さんが、「そこにあるじゃない」と男の子の目の前を指さします。男の子は身近にあるものを、見分けることがあまり得意ではないのです。
このため、身近なところにある微妙な違いに気がつかないのが男の子の特徴です。作文を書いたあと読み返しても誤字を見落としてしまうのが男の子です。男の子は近いところにある微妙な差にはあまり注意が向かないのです。
これに対して、女の人は、近くの微妙な差がよくわかります。ときに、それは、必要以上にわかるというところがあります。ですから、母親は、子供の欠点に対しても、すぐ目につくので直したがります。男の先生と女の先生とを比べると、男の先生は細かいことにはあまりこだわりません。関心もないし得意でもないからです。女の先生は細かいことにもよく気が付きます。関心があるし得意でもあるからです。
女の人は、しかし逆に、本質論や「どうあるべきか」ということにはあまり興味がないようです。むしろ、現実的にプラスになるかどうかということの方に関心があるように思います。
現在の受験勉強では、テストの性格は女の子に有利にできています。目の前にある現象面での違いに気がつく方が、点数が上がるようになっている仕組みの問題が多いからです。しかし、これは女の子の方が男の子よりも頭がよいということではなく、現代のテストは、女の子の方が向ているということです。社会に出れば、男の子女の子はそれぞれの得意の分野を生かして優劣ということではなく、それぞれに活躍していくと思います。
語彙力についても同じようなことがあります。女性は、表面的なことを長くしゃべることができます。男性は、考えないとしゃべれないという面があります。ですから一般に男の子と女の子が口げんかをした場合、勝つのは大体女の子の方です。
しかし、男女の差よりも大事なのは、やはり読む力の差で、読む力があればそれぞれの得意を生かして、読解力がついていくと思います。
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昨日の記事を読まれた方から、日本と外国での国語教育の違いが参考になったというお便りをいただきました。
お便り、アリガチョーク! ( -ω-)ノ-=≡≡≡☆−(>。<) イタイ! なんてことをやっている場合じゃなくて。
続きを少し書きます。
大岡昇平の「野火」に感銘を受けたという方も多いと思います。
それはそれでいいのですが、私は、日本の文学の弱点がある意味で典型的に表れているような気がします。
戦争中でやむをえず人の肉を食べたという話ですが、私は、食べたくなければ食べるな、食べたのだったら、もう済んだことなのだから、ああおいしかったでいいだろ、という考えです。
現実世界を生きている健康な人は、だれもこのように考えて世の中を渡っていると思います。解決のつく問題なら考えなければなりません。しかし、解決のつかない問題なら問題そのものを保留にして生きていくのが普通の人間です。解決のつかない問題を、解決する気もないままにいつまでも眺めているというのが文学であるとすれば、それは読む人を後ろ向きにする役割しか持たないでしょう。
ところが、国語の選択問題は、こういう解決のつかない問題をいつまでもこねくりまわしている心理を問うようなものが多いのです。
太宰治の短編の「トカトントン」なども、インターネットで探して読んでみるとわかりますが、人間性を低めることによって成立している真実です。文学者は、高い真実を追求する仕事をするべきです。低い真実を伝えることなどは、2ちゃんねるなどでも十分にやられていることで、わざわざ文学を志す人間がやるほどのことではありません。
====参考までに「トカトントン」の一部
私は寝不足の眼を細くして、それでも何だかひどく得意な満足の気持で、労働は神聖なり、という言葉などを思い出し、ほっと溜息(ためいき)をついた時に、トカトントンとあの音が遠くから幽かに聞えたような気がして、もうそれっきり、何もかも一瞬のうちに馬鹿らしくなり、私は立って自分の部屋に行き、蒲団(ふとん)をかぶって寝てしまいました。
====
かってに寝てろ、と言いたくなります(笑)。
日本の国語の教科書には、「羅生門」とか「こころ」とか、湿っぽい話が多すぎます。小学校の国語教科書でも、アンハッピーエンドの話が多すぎます。そういう暗い話が高級だと思うのではなく、もっと明るくてレベルの高い話を国語教育の中で目指していくべきだと思います。
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国語の本質は、言葉による思考力です。ですから本来男女の差というものはありません。
ところが日本の国語には特殊な事情があり、他の国の国語に比べて、情景の描写や心情の描写が多い、という特徴があります。
この背景には、明治以降、現代日本語の文章の骨格を作った人が、一般に生活力の乏しい文学者だったということがあるようです。そのために、現代日本語の文章は、ある意味で優しくひ弱な文章が多いという特徴を持つようになりました。そして、そういう文章の好きな人が国語の先生になり、国語のテストとしてそういう問題を出します。それで女性が国語がが好きになることが多い、ということになったのだと思います。
言語の大きな役割の一つは、健全な社会人が建設的なことを述べるために読んだり書いたりするということです。ところが日本ではそういう面が、特に国語の勉強で弱くなりがちなのです。
私自身の例で言うと、中学生か高校生の時期に亀井勝一郎の評論を好きになったことがあります。その評論を読んでいるといつの間にか健全さとか建設的とかいうことが、レベルの低いことのように思えてきてしまうのです。その影響は、かなりあとまで残りました。
大学入試センター試験の物語文などにも、その日本文学の特徴がよく表れています。健康な男の子にしてみれば、どうでもいいようなことをああでもないこうでもないと書いているのが、物語文の性格のように思えてきます。そのため、理系の男の子はそういう国語の文章に魅力を感じないのです。将来は、もっと論理的な、実際の生活に役立つ文章の力が必要になってくると思います。
ところが、もちろん受験のためには、そういうひ弱な物語文を読む力も必要になってきます。愚痴のような文章を味わう力も軽視することはできないということです。なぜかというと、日本人の多くは日本社会の中で生活をしていくので、日本の文化を感じる力が必要になってくるからです。例えば、人に物を贈るときに、「つまらないものですが」というような渡し方をする文化に慣れている方が、日本での人間関係はスムーズにいきます。ですから、国語力というのは、本来は思考力が中心ですが、その一部に日本の文化力というものがあり、その日本文化が、他の国の文化よりも女性的な面を多く持っているということです。
作文の得手不得手に関していうと、小学生のときは大体において女の子の方が文章を書くことが得意です。しかし、中学生、高校生になると、どちらかというと男の子の方が文章を書くことが得意になってきます。これは文章のジャンルが事実中心の生活文から説明や意見中心の論説文に変化していくからです
事実中心の事実文物語文と、説明や意見中心の論説文の両方の力をつけるためには、すぐれた物語文とすぐれた論説文を読む必要があります。一般にいうと、入試問題に出てくる文章は質の高いものが多いので、その問題集の問題文を読書代わりに読むということを取り入れていくといいでしょう。
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面白かったです!! 来月の教室新聞に使わせていただいていいですか?
コメント、ありがとうございます。アリットイカビーム(o゜ー゜)/…‥—————<コ:彡ケリ!☆)×_x)/アウッ なんてことをまたやってる場合じゃなくて。
国語教育の原点は、勇気と知性と愛だと思います。
これから、そういう新しい国語教育文化を作っていくためにがんばりたいと思っています。
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上手な作文は皆同じように上手だが、下手な作文はそれぞれに下手である、というような言い方をすることができます。
これは健康と病気の関係にも当てはまります。健康な人は皆同じように健康ですが、病気の人はそれぞれに病気です。
ところで、現代の医学や科学や教育は、欠点に対して対処療法をして直すという発想しがちです。ところが、そのような方法では、病気の種類はどんどん増えていきますが、病人は減りません。病気の原因にいろいろな名前をつけて治し方を工夫していくよりも、大切なことは、トータルな自然治癒力をつけて、身体全体を健康にするということです。
勉強についても事情は似ています。勉強の苦手なところを細かく分けて、それぞれの欠点に適した処方箋を書くというようなことをしても、欠点はなかなか直りません。健康における自然治癒力と同じものは、作文における読む力聞く力です。読む量と聞く量が増えていくと、自然に書く力と話す力がついてきます。
具体的には、読書と対話です。対話は、両親がいろいろな話を聞かせてあげるという方法で子供に話しかけ、日本語のインプットを増やしていくという形です。こういう話しかけが、作文の勉強の土台になります。
多くの人に共通する作文の問題点を四つ挙げたいと思います。
第一は、書くことがない、書く気がしないという場合です。これは、小学生でも中高生でも同じです。本を読んでいないと問題意識がわかないので、書く意欲がわいてきません。特に、中学生や高校生で書くことがないという場合は、本を読んでいないというのが原因になっていることが多いものです。
第二は、長く書けないという場合です。長く書けないのは、実例がないからです。実例を増やすためにもやはり読書が必要です。本を読んでいると、それが物語の本であっても自然にそこから自分の体験実例を連想できるようになります。長く書くための、手っ取り早い方法は、目標の字数を決めて何が何でもそこまで書くという練習をすることです。両親や先生など周りの人が手伝ってもいいですし、会話をたくさん入れて芝居の台本のようになってもかまいません。何しろ目標の字数までむりやりにでも書くようにすると、そこで、その字数が自分の実力になり、次回からはその字数までは比較的楽に書けるという力がついてきます。
第三は、速く書けないということです。これは、読書をする場合、前に戻って読んでしまうために速く読めないというようなことと共通しています。書きながら前に戻ってときどき読み返しながら書くという書き方をすると、書くスピードは遅くなります。速く書くための練習方法は、一言でいうと根性です。なるべく速く書こうと思って書くことによって速く書く力がついてきます。
第四に、意外に多いのが、漢字の間違いです。特に高校生ぐらいで学力は十分にあるのに、小学校中高学年のころの漢字を間違えて覚えているというケースがよくあります。これは大人でも同じです。小学校中高学年のころは勉強に対する自覚がないので、その時期に覚えた漢字は、勘違いして覚えていることがかなりあります。間違ったまま覚えている漢字をずっと正しいと思って大人になるまで使っているのです。この解決方法は、他の人に自分の書いた文書を見てもらうか、又は、自分の書いた文章に出てくる漢字を正しいと思うものも含めて逐一辞書で調べ直してみるかどちらかです。
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男の子の書く作文と女の子の書く作文では、どのような違いがあるのでしょうか。
男の子は、名前や数字を書くのが得意です。旅行に出かけた時のことを書く場合、場所の名前、駅の名前、電車のついた時刻、そのときの人数など、名前や数字を正確に書くというのが男の子の関心のある事柄です。
それに対して、女の子が得意な表現は会話です。旅行に出かけたときでも、女の子は、どこに何時ごろ行ったかということよりも、だれとどんな話をしたかということに関心を持ちます。
小学校の作文では、女の子的な作文の方が高く評価されがちです。生活作文は、会話が生き生きとはいっている方が面白く思えるからです。
しかし、男の子の、名前や数字などのデータを正確に書くという書き方もたくさん褒めておく必要があります。
また、男の子女の子両方に共通する表現の項目は、小学校低中学年の場合、たとえになります。たとえ、つまり比喩を使うことによって表現が面白くなるというのが小学生の作文の特徴です。
学年が上がり、中学生、高校生になると、作文のジャンルも事実中心の生活作文から説明文や意見文になっていきます。
説明文意見文になると、男の子は、社会実例を書くという書き方が得意になってきます。女の子は体験実例を中心に書く、という書き方に更に磨きがかかってきます。そして、男の子、女の子に共通する表現の工夫は、光る表現(言葉の森の指導上の言葉として自作名言)を書いていくということになります。
作文以外の読書についても、一般的に女の子は本を読むのが好きです。男の子は、本よりもゲームのようなものが好きになる傾向があります。従って、兄弟で上の子が女の子、下の子が男の子という場合、上の女の子は自然に本を読みます。親がそのつもりで、下の男の子も自然に本を読むものだと思っていると男の子の読書が遅れるということがあります。
しかし、男の子女の子とも、作文も読書も、苦手なところを直そうという発想ではなく、得意なところをほめて伸ばしていくという発想をする方が勉強が楽しくできます。兄弟に読書をすすめる場合でも、好みのジャンルの違いを生かして、それぞれの得意なジャンルを評価するという読書のすすめ方をしていくと、兄弟そろって読書好きになります。
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小学生の作文をチェックする場合、大切なことはチェックつまり評価と、指導を対応させることです。作文指導では多くの場合、事前にどのように作文を書いたらいいかという指導がなく、書かれたものを事後的に評価する形になっています。事前指導なしの事後評価だけでは、褒められても子供はなぜ褒められたのかはわからないので進歩しません。また、直すところを指摘されても、自分がいいと思って書いたことを注意されるのですから、がっかりしてしまうだけです。事前の指導があることによって、褒めることと注意することが生きてくるのです。
では、どういうところをポイントに事前の指導していたらいいのでしょうか。
まずいちばんわかりやすいのは、字数です。大体1時間から1時間半を目安にします。小学生は、学年の100倍から200倍の字数を書く力があります。例えば、1年生は100字から200字、2年生は200字から400字、そして6年生は600字から1200字です。中学生、高校生も600字から1200字を1時間から1時間半かけて書くこと目標にするといいでしょう。
小学校1、2年生の作文の目標は、書く習慣をつけること正しい表記を身につけることです。この時期は作文の指導として、わかりやすい項目を指示していくといいでしょう。例えば、会話を思い出して書く、名前や数字を思い出して書く、自分の思ったことを書く、というような項目です。
小学校3、4年生は、表現を工夫して面白い作文を書くことを目標にしていきます。この時期は、「まるで……のよう」というたとえの表現を工夫させると子供は喜んで取り組みます。さらに、書き出しを会話や景色の様子で工夫したり、似た話を家族に取材して書いたりするというような書き方もしていきます。
小学校5、6年生は、構成を考えて書く力のついていく時期です。作文の大まかな構成として、最初の段落に説明、2番目の段落に出来事、3番目の段落に似た話や取材した話の出来事を書いて立体的にし、最後の4番目の段落で感想を書く、というような大きな流れを指示していくといいでしょう。またこの時期は感想をできるだけ自分らしく書く、または人間や社会の問題に視野を広げて書く、などということも目標にしていきます。似た話や取材した話は、身近な人に聞くだけでなく、資料を調べて書くというようなことも工夫していける時期です。
しかし、作文の指導をする場合、大事なことは、書く指導するだけで上手になるのではないということです。文章表現力は、読む力によって伸びます。従って、読書や暗唱に力を入れていくということが勉強の基本になります。
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本日から何回かに分けて、作文と国語に対する質問に答えていきます。
今回は、作文の苦手な子の共通点についてです。
作文の苦手の子といった場合、二つのケースが考えられます。一つは、本人が苦手と思っているケースです。もう一つは本当に苦手なケースです。自分が苦手と思っていることと実際に苦手なこととは、作文では実は一致しないことの方が多いのです。
まず、本人が苦手と思っているケースです。
体験学習で教室に来た生徒に、最初、先生が聞きます。「作文は好き?」。すると、子供又は親の答えは、三通りに分かれます。
第一は、大好きという子です。こういう子は、実は苦手なことが多いのです。なぜ好きだと思っているかというと、学校などでこれまで作文を書く機会があまりなかったので、漠然と作文が好きで得意だと思っている、ということです。
第二は、普通と答える子です。この「普通」と答える生徒は、かなり得意なことが多いのです。つまり、自分の実力がよく分かっているということで、それぐらい書く力があるということだからです。
第三は、苦手という子です。この苦手という子は、大体が普通か得意な子で、実際に苦手なことは、あまりありません。
なぜ普通や苦手と思っている子が得意なことが多いかというと、学校で熱心に作文を教える先生にあたると、苦手な子が増えるという事情があるからです。
これは他の教科でも同じです。これまで教えてきた生徒の作文の中で実際にあったケースです。社会科の熱心な先生に教わって、社会が大嫌いになったという話がありました。同じように、算数が好きで算数の熱心な先生に教わっている子が、算数が嫌いで苦手になるということがありました。
これはどういうことかというと、先生がその教科が好きで熱心であると、つい生徒の欠点が目につくので、その欠点を直してしまおうと思うからです。そのために、子供はその教科が苦手だと思うようになるということです。
作文はこの度合いがほかの教科よりも強く出やすい分野です。ですから、作文を教える場合は、欠点をなるべく指摘しないことが大事です。少なくとも先生と生徒の間に信頼関係ができるまでは、一言も注意をしないというぐらいの決心が必要です。また、先生と生徒の間に信頼関係ができたとしても、二つ褒めて、一つたまたま注意するところが見つかったというような注意の仕方をすることが大切です。
作文はメンタルなもので、子供は自分の全人格をかけて文章書いているというような感じがあります。これは、計算問題や漢字書き取りの勉強とは質が違います。子供は自分の全精神を集中して作文を書きます。先生は、その作文の欠点が目についた場合、その欠点を軽い気持ちで直そうとします。ここに大きなギャップが出てきます。
例えば、こういう例がありました。小学校1年生のよくできる子が体験学習に来ました。先生の説明のとおり作文を書き上げました。とても上手にかけているので、褒めるところばかりで、直すところがほとんどありません。そこで、先生がたくさん褒めたあと、ついでに一言、「実は数字は、縦書きのときは漢字で書く方がいいよ」と言うと、その子は突然泣き出しました。それぐらい作文の指導というのは微妙だということです。
また、次のような例もありました。高校3年生を卒業して浪人になったばかりの生徒が体験学習にきました。大学入試までの1年間の時間があるので、苦手な作文を勉強しようと思って来たということです。普通の教科はよくできますが、作文は、「超」がつくほど苦手で、小学校高学年から中学生高校生まで、学校から作文の宿題が出たときは、実は親が代わりに書いてあげざるを得ないほど苦手だったということです。これは、結局、小学校低学年のころ、作文の欠点を指摘されたというトラウマが残っていたのだと思います。
言葉の森は、「事前の指導」プラス「事後は褒めること中心の評価」という勉強の仕方ですから、1週目からすぐ書けるようになり、親子とも驚いていました。その後、その子はぐんぐん上達して、翌年大学に合格したので卒業しました。
これらの例でもわかるように、小学校低中学年のころの作文の指導というのは、褒めることが非常に大事だということです。
次に、実際に苦手な子の場合です。
苦手な子の原因は、一言でいうと読む量が不足していることです。なぜ読む量が不足しているかというと、生活の時間帯の中で、本を読む時間が取れていないということです。
この理由はいくつかありますが、一つは、スポーツが好きで表で遊んでばかりいるので、家に帰ると食事をしてあとは寝るだけという形で生活している子です。もう一つはテレビやゲームが好きなので、本を読まないという子です。
本を読まない子は、活字が苦手なので、漫画すらも読まないということがあります。こういう子供に対しては、その子のレベルに応じて、つまりどんなにやさしい本でもいいから、一日50ページ以上好きな本を読むという時間を確保していくことが大切です。読む時間を毎日確保できれば、本にはもともと子供を引きつける力がありますから、必ず読書好きなっていきます。これはすべて子供の問題ではなく親の問題で、親が、読書時間を確保してあげられるかどうかということにかかっています。
(この文章は、構成図をもとに音声入力した原稿をamivoiceでテキスト化したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)
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