今日は、記憶力についての仮説を述べたいと思います。
現在の社会では、知識の差が学力の差を生み出しています。少なくともそのような性格の学力評価がなされています。
知識の量はもちろん、学力の一部です。しかし、大学入試問題の社会科のテストなどを見てみると、知識の差がほとんどすべての学力として評価されているような印象を受けます。
本来、入試に出てくる知識の問題は、相対評価で競争させずに、到達度評価にすべきだと思います。必要とされる知識の量は、すべての人が百%到達できることを目標にしておくということです。
ですからもちろん、入学も希望する人は百%を入学させることが目標です。
全員入学がなぜ可能かというと、ネットによる人数無制限の教育ができる体制がすでにできているからです。そして、学生どうしが相互に切磋琢磨するコミュニケーションのグループをSNSのようなもので作っていけば、学習の密度を高めていくことができます。将来の教育は、そのようなものになるでしょう。
現代は、知識の差が学力の差として評価されていることで、ある種の世襲制社会を生み出している面があります。ゆとり教育の中で、知識を身につけられない子と知識を身につけるノウハウを持っている子との差がますます広がります。そして、学歴という誰でも納得できる評価を前提にして、例えば面接試験で恣意的な評価を加味すれば、一見合理的な装いを持った世襲制社会が生まれるということです。
こういう不自由な社会をを固定化しないためにも、誰でも百%の知識が身につくような教育が行われていく必要があると思います。
では、知識のもとになる記憶力とはどういうものでしょうか。
本来人間は、あらゆるものを記憶していると考えられます。例えば、サヴァン症候群の子供たちの中には、常識では考えられない優れた記憶力を持つ子がいます。
しかし、一般の人にとって、記憶したものがすぐに思い浮かべられないのは、記憶した個々の素材に検索のためのインデックスがついていないからです。つまり、頭のどこかに記憶したものはあるはずだが、それを探し出すことができない、という仕組みになっているのです。
ここからが仮説です。記憶の仕方には、三つの方法があると思います。
第一は、ごく普通の何回も繰り返して覚えるという記憶の仕方です。ところが、英語の単語や社会科の知識を無理やり覚えても、覚えた記憶どうしの干渉作用が起こり、覚える量が多くなればなるほど、記憶の能率が低下していきます。そして結局、記憶の濃さは反復の量に比例するという形で定着します。このために、人間は限られた分野にしか専門的な知識を蓄積できないという状態になっているのです。
第二は、現在流行している記憶術による記憶の方法です。この記憶術の方法というのは、自分が熟知している分野の引き出しを、更に、熟知している仕切り板で細分化して覚えていくという方法です。この記憶術は、テストのための知識を蓄積するには極めて有効です。また、ギリシア時代の雄弁術で使われていたように、スピーチなどの技術としてもかなり有効です。しかし、記憶術は単なる技術であって、真の学力が身につくのではありません。しかし、現代のテスト形式の成績はもちろん上がります。
第三は、新しい記憶力の方法です。これは、すでに南方熊楠や塙保己一やシュリーマンや本多静六などの実践で知られている記憶法です。しかし、この記憶法の仕組みはまだ究明されていません。
(つづく)
(この文章は、構成図をもとに音声入力した原稿をamivoiceでテキスト化したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)
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英語や数学は、たとえ苦手であっても、中学生のころに本気でやれば、数ヶ月で得意になるというレベルまでの勉強ができます。
しかし、国語の差は、いったんつくと埋めがたい差になります。ところが、点数の差でいうと国語の点数の差は小さく、英語や数学の差は大きいというのが普通です。そこで、多くの人は国語の点数の差を過小評価しがちです。
国語は点数の差があると思ったときには、もうすでにかなり重症の状態になっています。国語力は、現在の日本では、小説の読み方のような教科と考えられている面がありますが、実は思考力そのものです。
わかりやすい想像をしてみます。例えば、イエス・キリストと釈迦と聖徳太子が、現代の中学か高校の受験生になったとします。かなり想像しにくい話ですが。準備なしに英数国理社のテストをすると、結果はどうなるでしょうか。まず英語は0点でしょう。数学もかなり0点に近い点です。理科も社会もほとんど0点です。ところが、国語の読解問題だけは満点に近い成績なのではないでしょうか。しかし、イエスと釈迦と聖徳太子がそれから本格的に1年間勉強すれば、英語数学理科社会もたぶん高得点を取れるようになるはずです。
このように、勉強で何か一ついちばん大事なものを挙げるとすればそれはやはり国語力なのです。ところが、国語力の差は、表面にはあまり大きく出てこないので、多くの人は、表面に差の出やすい教科の勉強を読書よりも優先してしまうのです。
2006年のOECDの調査で、日本の生徒は読解力表現力の得点が低く、クイズの知識番組に出るような問題の得点は低くなかったということが明らかになりました。この結果は、きわめて重要な問題を示しています。つまり、日本の子供たちの本当の学力が低下しているのではないかということです。
国語力の本質は考える力ですから、あらゆる勉強の基礎になっています。読解力、つまり読む力というものは、多様なものできるだけ早く理解し読み取る力です。表現力、つまり書く力というものは、様々に異なるものの関連性を見つけそれらを創造的に結びつける力です。
国語の力をつけるためには、書く勉強としての作文の勉強が欠かせません。現在の国語の勉強は、選択式の読解の問題が中心になっています。それは、その方が採点しやすいからという理由によるものです。子供たちの国語力を本当につけるためには、もっと書く時間を増やしていく必要があります。書く力の評価をすべて人間が行うのは時間がかかるので、文章の自動採点ソフトなどを活用しながら書く勉強を学校で増やしていく必要があると思います。
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昔テレビで、連想ゲームというものがありました。女性は、聞いてわかるというのが男性よりも得意です。男性は、書かないとわからないという傾向があります。
例えば、日常生活の場面でも、説明を聞くときに、聞くだけで理解できるのが女性です。男性は、説明書を読んだり、又は、聞いた説明を自分なりに書いてみないと理解できないということが多いと思います。
これはなぜかというと、女性は、いろいろな現象を並列的につなげて丸ごと理解するのが得意だからです。男性は、現象のつながりだけでなく、その現象が内部でどういう関連になっているかということが見えないと現象どうしを結びつけることが難しくなるようです。国語の問題でも、理詰めで解くような解き方を教えると男の子は点数が上がります。
聞いてわかるというのは、見てわかることよりも、より直感的な理解であり、印象を丸ごと実感して把握するするというような理解の仕方です。このような理解の仕方が得意なのは一般に女性です。また、物事を実感的に把握することが得意な人は、一般に国語という教科が得意です。女性と国語は、相性がいいのです。
しかしこういう女性の特徴、又は国語の得意な人の特徴は、同時に他の勉強に対する弱点にもつながっています。
女性や国語の得意な人は、自分の感覚をもとにして物事を考えるという傾向があります。ですから、何かを考える場合でも、身体的な実感を感じられるような理解の仕方をします。そこで、理数系が苦手になることが多いのです。
理数系は実感の世界ではなく、どちらかといえば操作の世界です。実感で理解しようとするとかえってわかりにくくなるというのが理数系の特徴です。例えば、「3分の2を2分の1で割る」というような問題があった場合、実感的に考える子は、3つあるうちの2つのリンゴを2分の1で割るなどと考えるので、かえって理解できなくなります。
また、二乗して負になる虚数というのも、実感として理解することはできません。これは単純に、実数の世界で説明しにくいものを説明する理屈として操作的に導入した概念だと考えればいいのです。
4次元というのも同じです。縦・横・高さという3次元の実感の世界にもう一つ別の次元があるということを実感で考えようとすると、時間のようなものが思いつきます。しかし、3次元に加わるもう一つの次元は、別に時間でなくてもいいのです。明暗でも大小でも寒暖でも、要するに縦・横・高さ以外の別の区分が別の次元になります。もっと言えば、世の中にA的なものをB的なものがあると考えるとABが一つの次元となります。と考えると、5次元、6次元、n次元といくらでも操作的に多次元を考えることができます。しかし、実感の延長で考えると、縦・横・高さ・時間の次に来る具体的なものを思いつかなくなるので、より高い次元というものを理解しにくくなってしまうのです。
国語の得意な子が、中学生高校生になって数学や物理が苦手になるのは、二つの分野の学問の性格の違いが、実感と操作の違いであるということがよくわからないからです。ですから、勉強の内容を教える前に、本当は、教える人がそういう性格の違いを説明してあげればいいのだと思います。
今西錦司は、学生時代、文系の仲間の中でひとりだけ数学が得意でした。友人が、どうして数学が得意なのか聞いたところ、要するに数学は覚えてしまえばいいのだと答えたそうです。文系的な発想をする人は数学を実感として把握しながら解こうとしがちです。ところが操作的に割り切れる人は、実感がない世界でもそのままそういうものだと思って解いていくのです。今西錦司は、数学が操作の世界だと早めにわかっていたのです。
いったん学問の分野によって要求される発想の性格が違うことを理解したら、そのあとは、自分の得意な発想に結び付けて苦手な分野を克服していくことになります。理屈の得意な人が、実感の世界を理屈で理解しようとするとよくわからなくなります。しかし、その二つの世界の性格が違うのだということをふまえた上で、実感の世界を理屈の世界に還元(換言)して理解していくとスムーズに理解できるようになります。
例えば、「閑さや岩にしみ入る蝉の声(しずかさやいわにしみいるせみのこえ)」という句をそのまま理屈で理解しようとすると、「しずかさ」と「せみ」がうまく結びつきません。しかし、これは実感の世界の話だと割り切った上で、おしるこでも塩を少し入れるとより深く甘みが感じられるようになるのと同じことだと理屈的に理解すればすんなりと理解できます。実感をそのまま感じられる人は最初からそのように感じればいいのですが、実感が苦手な人は得意な理屈に還元して理解するということです。
逆に、「分数の割り算はひっくり返してかける」という算数の世界についていけない子は、それが操作の世界だと思わずに実感の世界の出来事だと考えているから理解できなくなっています。日常生活の中で分数で割るというような経験はないからです。二つの世界が違うことを理解した上で、「分数ちゃんは『割る』のが苦手なので、すぐひっくりかえって『かける』になる」などと実感的に理解しなおせばいいのです。
論説文と物語文の得手不得手や語彙力の得意分野についても同様のことが言えます。基本になるのは勉強の量ですが、量だけではカバーできない苦手分野は、自分の得意分野に結び付けて理解するのが苦手を克服するコツです。
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一般の印象として、男脳と女脳を分けて考えた場合、男の人は、狩猟時代の昔から、獲物をとるために遠くを見るのが得意だという傾向があったようです。従って、近くのものにはあまり関心がありません。例えば何かを探すときのことを考えてみましょう。身近な例ですが、男の子がたんすの引き出しを開けて、「僕のパンツどこ?」と聞くと、横からお母さんが、「そこにあるじゃない」と男の子の目の前を指さします。男の子は身近にあるものを、見分けることがあまり得意ではないのです。
このため、身近なところにある微妙な違いに気がつかないのが男の子の特徴です。作文を書いたあと読み返しても誤字を見落としてしまうのが男の子です。男の子は近いところにある微妙な差にはあまり注意が向かないのです。
これに対して、女の人は、近くの微妙な差がよくわかります。ときに、それは、必要以上にわかるというところがあります。ですから、母親は、子供の欠点に対しても、すぐ目につくので直したがります。男の先生と女の先生とを比べると、男の先生は細かいことにはあまりこだわりません。関心もないし得意でもないからです。女の先生は細かいことにもよく気が付きます。関心があるし得意でもあるからです。
女の人は、しかし逆に、本質論や「どうあるべきか」ということにはあまり興味がないようです。むしろ、現実的にプラスになるかどうかということの方に関心があるように思います。
現在の受験勉強では、テストの性格は女の子に有利にできています。目の前にある現象面での違いに気がつく方が、点数が上がるようになっている仕組みの問題が多いからです。しかし、これは女の子の方が男の子よりも頭がよいということではなく、現代のテストは、女の子の方が向ているということです。社会に出れば、男の子女の子はそれぞれの得意の分野を生かして優劣ということではなく、それぞれに活躍していくと思います。
語彙力についても同じようなことがあります。女性は、表面的なことを長くしゃべることができます。男性は、考えないとしゃべれないという面があります。ですから一般に男の子と女の子が口げんかをした場合、勝つのは大体女の子の方です。
しかし、男女の差よりも大事なのは、やはり読む力の差で、読む力があればそれぞれの得意を生かして、読解力がついていくと思います。
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昨日の記事を読まれた方から、日本と外国での国語教育の違いが参考になったというお便りをいただきました。
お便り、アリガチョーク! ( -ω-)ノ-=≡≡≡☆−(>。<) イタイ! なんてことをやっている場合じゃなくて。
続きを少し書きます。
大岡昇平の「野火」に感銘を受けたという方も多いと思います。
それはそれでいいのですが、私は、日本の文学の弱点がある意味で典型的に表れているような気がします。
戦争中でやむをえず人の肉を食べたという話ですが、私は、食べたくなければ食べるな、食べたのだったら、もう済んだことなのだから、ああおいしかったでいいだろ、という考えです。
現実世界を生きている健康な人は、だれもこのように考えて世の中を渡っていると思います。解決のつく問題なら考えなければなりません。しかし、解決のつかない問題なら問題そのものを保留にして生きていくのが普通の人間です。解決のつかない問題を、解決する気もないままにいつまでも眺めているというのが文学であるとすれば、それは読む人を後ろ向きにする役割しか持たないでしょう。
ところが、国語の選択問題は、こういう解決のつかない問題をいつまでもこねくりまわしている心理を問うようなものが多いのです。
太宰治の短編の「トカトントン」なども、インターネットで探して読んでみるとわかりますが、人間性を低めることによって成立している真実です。文学者は、高い真実を追求する仕事をするべきです。低い真実を伝えることなどは、2ちゃんねるなどでも十分にやられていることで、わざわざ文学を志す人間がやるほどのことではありません。
====参考までに「トカトントン」の一部
私は寝不足の眼を細くして、それでも何だかひどく得意な満足の気持で、労働は神聖なり、という言葉などを思い出し、ほっと溜息(ためいき)をついた時に、トカトントンとあの音が遠くから幽かに聞えたような気がして、もうそれっきり、何もかも一瞬のうちに馬鹿らしくなり、私は立って自分の部屋に行き、蒲団(ふとん)をかぶって寝てしまいました。
====
かってに寝てろ、と言いたくなります(笑)。
日本の国語の教科書には、「羅生門」とか「こころ」とか、湿っぽい話が多すぎます。小学校の国語教科書でも、アンハッピーエンドの話が多すぎます。そういう暗い話が高級だと思うのではなく、もっと明るくてレベルの高い話を国語教育の中で目指していくべきだと思います。
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国語の本質は、言葉による思考力です。ですから本来男女の差というものはありません。
ところが日本の国語には特殊な事情があり、他の国の国語に比べて、情景の描写や心情の描写が多い、という特徴があります。
この背景には、明治以降、現代日本語の文章の骨格を作った人が、一般に生活力の乏しい文学者だったということがあるようです。そのために、現代日本語の文章は、ある意味で優しくひ弱な文章が多いという特徴を持つようになりました。そして、そういう文章の好きな人が国語の先生になり、国語のテストとしてそういう問題を出します。それで女性が国語がが好きになることが多い、ということになったのだと思います。
言語の大きな役割の一つは、健全な社会人が建設的なことを述べるために読んだり書いたりするということです。ところが日本ではそういう面が、特に国語の勉強で弱くなりがちなのです。
私自身の例で言うと、中学生か高校生の時期に亀井勝一郎の評論を好きになったことがあります。その評論を読んでいるといつの間にか健全さとか建設的とかいうことが、レベルの低いことのように思えてきてしまうのです。その影響は、かなりあとまで残りました。
大学入試センター試験の物語文などにも、その日本文学の特徴がよく表れています。健康な男の子にしてみれば、どうでもいいようなことをああでもないこうでもないと書いているのが、物語文の性格のように思えてきます。そのため、理系の男の子はそういう国語の文章に魅力を感じないのです。将来は、もっと論理的な、実際の生活に役立つ文章の力が必要になってくると思います。
ところが、もちろん受験のためには、そういうひ弱な物語文を読む力も必要になってきます。愚痴のような文章を味わう力も軽視することはできないということです。なぜかというと、日本人の多くは日本社会の中で生活をしていくので、日本の文化を感じる力が必要になってくるからです。例えば、人に物を贈るときに、「つまらないものですが」というような渡し方をする文化に慣れている方が、日本での人間関係はスムーズにいきます。ですから、国語力というのは、本来は思考力が中心ですが、その一部に日本の文化力というものがあり、その日本文化が、他の国の文化よりも女性的な面を多く持っているということです。
作文の得手不得手に関していうと、小学生のときは大体において女の子の方が文章を書くことが得意です。しかし、中学生、高校生になると、どちらかというと男の子の方が文章を書くことが得意になってきます。これは文章のジャンルが事実中心の生活文から説明や意見中心の論説文に変化していくからです
事実中心の事実文物語文と、説明や意見中心の論説文の両方の力をつけるためには、すぐれた物語文とすぐれた論説文を読む必要があります。一般にいうと、入試問題に出てくる文章は質の高いものが多いので、その問題集の問題文を読書代わりに読むということを取り入れていくといいでしょう。
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面白かったです!! 来月の教室新聞に使わせていただいていいですか?
コメント、ありがとうございます。アリットイカビーム(o゜ー゜)/…‥—————<コ:彡ケリ!☆)×_x)/アウッ なんてことをまたやってる場合じゃなくて。
国語教育の原点は、勇気と知性と愛だと思います。
これから、そういう新しい国語教育文化を作っていくためにがんばりたいと思っています。
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上手な作文は皆同じように上手だが、下手な作文はそれぞれに下手である、というような言い方をすることができます。
これは健康と病気の関係にも当てはまります。健康な人は皆同じように健康ですが、病気の人はそれぞれに病気です。
ところで、現代の医学や科学や教育は、欠点に対して対処療法をして直すという発想しがちです。ところが、そのような方法では、病気の種類はどんどん増えていきますが、病人は減りません。病気の原因にいろいろな名前をつけて治し方を工夫していくよりも、大切なことは、トータルな自然治癒力をつけて、身体全体を健康にするということです。
勉強についても事情は似ています。勉強の苦手なところを細かく分けて、それぞれの欠点に適した処方箋を書くというようなことをしても、欠点はなかなか直りません。健康における自然治癒力と同じものは、作文における読む力聞く力です。読む量と聞く量が増えていくと、自然に書く力と話す力がついてきます。
具体的には、読書と対話です。対話は、両親がいろいろな話を聞かせてあげるという方法で子供に話しかけ、日本語のインプットを増やしていくという形です。こういう話しかけが、作文の勉強の土台になります。
多くの人に共通する作文の問題点を四つ挙げたいと思います。
第一は、書くことがない、書く気がしないという場合です。これは、小学生でも中高生でも同じです。本を読んでいないと問題意識がわかないので、書く意欲がわいてきません。特に、中学生や高校生で書くことがないという場合は、本を読んでいないというのが原因になっていることが多いものです。
第二は、長く書けないという場合です。長く書けないのは、実例がないからです。実例を増やすためにもやはり読書が必要です。本を読んでいると、それが物語の本であっても自然にそこから自分の体験実例を連想できるようになります。長く書くための、手っ取り早い方法は、目標の字数を決めて何が何でもそこまで書くという練習をすることです。両親や先生など周りの人が手伝ってもいいですし、会話をたくさん入れて芝居の台本のようになってもかまいません。何しろ目標の字数までむりやりにでも書くようにすると、そこで、その字数が自分の実力になり、次回からはその字数までは比較的楽に書けるという力がついてきます。
第三は、速く書けないということです。これは、読書をする場合、前に戻って読んでしまうために速く読めないというようなことと共通しています。書きながら前に戻ってときどき読み返しながら書くという書き方をすると、書くスピードは遅くなります。速く書くための練習方法は、一言でいうと根性です。なるべく速く書こうと思って書くことによって速く書く力がついてきます。
第四に、意外に多いのが、漢字の間違いです。特に高校生ぐらいで学力は十分にあるのに、小学校中高学年のころの漢字を間違えて覚えているというケースがよくあります。これは大人でも同じです。小学校中高学年のころは勉強に対する自覚がないので、その時期に覚えた漢字は、勘違いして覚えていることがかなりあります。間違ったまま覚えている漢字をずっと正しいと思って大人になるまで使っているのです。この解決方法は、他の人に自分の書いた文書を見てもらうか、又は、自分の書いた文章に出てくる漢字を正しいと思うものも含めて逐一辞書で調べ直してみるかどちらかです。
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男の子の書く作文と女の子の書く作文では、どのような違いがあるのでしょうか。
男の子は、名前や数字を書くのが得意です。旅行に出かけた時のことを書く場合、場所の名前、駅の名前、電車のついた時刻、そのときの人数など、名前や数字を正確に書くというのが男の子の関心のある事柄です。
それに対して、女の子が得意な表現は会話です。旅行に出かけたときでも、女の子は、どこに何時ごろ行ったかということよりも、だれとどんな話をしたかということに関心を持ちます。
小学校の作文では、女の子的な作文の方が高く評価されがちです。生活作文は、会話が生き生きとはいっている方が面白く思えるからです。
しかし、男の子の、名前や数字などのデータを正確に書くという書き方もたくさん褒めておく必要があります。
また、男の子女の子両方に共通する表現の項目は、小学校低中学年の場合、たとえになります。たとえ、つまり比喩を使うことによって表現が面白くなるというのが小学生の作文の特徴です。
学年が上がり、中学生、高校生になると、作文のジャンルも事実中心の生活作文から説明文や意見文になっていきます。
説明文意見文になると、男の子は、社会実例を書くという書き方が得意になってきます。女の子は体験実例を中心に書く、という書き方に更に磨きがかかってきます。そして、男の子、女の子に共通する表現の工夫は、光る表現(言葉の森の指導上の言葉として自作名言)を書いていくということになります。
作文以外の読書についても、一般的に女の子は本を読むのが好きです。男の子は、本よりもゲームのようなものが好きになる傾向があります。従って、兄弟で上の子が女の子、下の子が男の子という場合、上の女の子は自然に本を読みます。親がそのつもりで、下の男の子も自然に本を読むものだと思っていると男の子の読書が遅れるということがあります。
しかし、男の子女の子とも、作文も読書も、苦手なところを直そうという発想ではなく、得意なところをほめて伸ばしていくという発想をする方が勉強が楽しくできます。兄弟に読書をすすめる場合でも、好みのジャンルの違いを生かして、それぞれの得意なジャンルを評価するという読書のすすめ方をしていくと、兄弟そろって読書好きになります。
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