子供ががんばってやりすぎたときにどうするかというと、第一は、褒めるということです。がんばったことは、評価してあげなければなりません。
しかし第二に、その最初の頑張りを常態化させようとしないことです。
第三に、その子にとって無理のない水準をいつも示しておくということです。
例えば、作文の字数でいうと、小学校5年生の字数の目標は500字から1000字です。
いつも1000字まで書けない子には、作文試験のときに無理やりにでも1000字まで書かせるというようなことも確かに必要です。瞬間的にでもいったんできた状態を経験すると自信がつくからです。
しかし、いつも1000字が当然というような目標立てると、時には苦しい場面も出てきます。ですから、「課題が難しいときは、500字まで書ければいい。でも、できれば1000字まで書こう」というような指示の仕方をしていきます。
暗唱も同じです。1週間で300字まで暗唱できればいいのですが、子供が最初のうちにがんばって400字まで覚えたとします。それを褒めることは必要ですが、そこまで行くことをこれからの目標にしてしまうと、結局、できるかできないかということになり、困難なときに、かえってやれなくなってしまいます。
ですから、たくさん暗唱したことは褒めるのですが、それと並行して、「300字までできればいい」という無理のない水準をいつも示しておくことが必要です。
さらに、子供でも、時には忙しい期間があります。そういうときには、300字までできるかできないかというような選択の仕方ではなくて、100字まででもできればいいというような無理のない水準を示してあげることが必要です。
これらは、子供が臨機応変にできることではないので、保護者や先生が、その子の実態を見ながらアドバイスをしていかなければなりません。
大事なことは、がんばらせることではなく、細々とでも長く続けていくことなのです。
(この文章は、構成図をもとに音声入力した原稿をamivoiceでテキスト化したものです)
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体験学習の1回目の作文を書くとき、ほとんどの子はとても長い字数を書きます。このときにその字数の長さを褒めるのはいいのですが、それをその子の実力だと思わないことが大切です。
その子が最初に書いた長い字数をその子の実力だと考えると、次の週にも同じ字数を要求してしまいがちです。要求しないまでも、少なくとも字数が少ないとがっかりする気配を先生や保護者が示してしまうことがあります。
これが、やりすぎを喜んでしまうことの弊害です。つまり、喜んだあとの反動に問題あるのです。
暗唱の自習も同じです。1日10分間100字の暗唱という目標でいいのに、子供は最初のうちはもっとがんばります。
子供ががんばって長く覚えた暗唱を、保護者や先生が、その子の実力だとみなすと、それがやがてその子にとって負担になってきます。
そして、字数が減ると、「前はあんなにできたのに」というようなこと言ってしまいがちです。
経済のバブルも同じです。過熱した相場には必ず反動があります。しかも、その反動はときに過剰な反動になります。極端に上昇して、それ以上に下降するというような成長の仕方では、かえって全体でマイナスになってしまうこともあります。長続きする道を選ぶのが、長い人生の送り方です。
そこで、コントロールというものが必要になります。これは、経済政策と同じです。大事なことは単なる成長よりも安定成長を優先させることです。
大人は自分の長い人生経験経験の中から、次第にそのコツをつかんでいきます。調子に乗ったときは少し抑えようとか、元気のない時は少し景気をつけようというような対応ができます。しかし、子供はまだそのコツがわかりません。
そこで、物事の最初の取り組みで、子供がついやりすぎたときにどうするかということが大事になってきます。例えば、新しい問題集などを買ってくると、子供は1日目にたくさんのページをやろうとします。そのときに、親がまたは先生がどう対応するかということです。
(つづく)
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言葉の森の長文は、科学的な内容のものが多いので、読むだけでも面白いものですが、ここに更に対話によって、お父さんやお母さんが話を発展させていきます。
例えば、ほかに似たような例は世の中にあるのだろうかとか、こういう仕組みが何に使えるだろうか、というような話です。
ここで創造性が必要になってきます。単なる知識を伝達するだけでなく、創造性を発揮できるという点で、対話は親自身も楽しめる機会になります。
大事なことは、子供に答えさせるというのではなく、親がたっぷり話をしてあげるということです。即興で創造する対話というのが大事なので、単に大人が知っている知識を子供に伝えておしまいというようなやり方ではありません。
また、子供は面白いことが好きなので、対話の中ではできるだけ面白い話をするように心がけます。茶の間にホワイトボードを置いておき、学校のようにホワイトボードで説明をしながら対話をしていくというのも子供は喜びます。
対話の結果、何か調べたいことが出てきたら、日曜日に実験をする計画を立てます。
このように、日常生活の中で知的な対話をふくらませていくと、知識だけでなく、子供の日本語力=思考力が育っていきます。
いったん知的な対話のある家庭ができれば、将来、子供が大きくなったときに、自分も親としてそういう家庭を築いていくでしょう。対話のある家庭では、テレビは主役にはなりません。テレビの話題をもとに、みんながわいわい話し合うのが茶の間の過ごし方の中心になります。テレビではなく家族一人ひとりが主役になるのが、本来の家族の過ごし方なのです。
しかし、親が子に話をするといっても、やはり何かの手助けがある方がやりやすいものです。
その一つは、生き物です。できれば、人間とコミュニケーションをとれる生き物の方がいいので、植物よりも動物です。犬や猫が難しいのであれば、手乗りの文鳥などでもいいと思います。家族の対話に文鳥も参加して、あっちの頭にとまったり、こっちの肩にとまったりして話題を盛り上げます。そして、その生き物自体が、またいろいろな研究のテーマを提供してくれます。
もう一つは、大人向けに書かれた理科や社会の本です。ナツメ社で出ている「図解雑学」シリーズは、雑学という名前がついていますが中身は大人でも十分に楽しめる本格的なものです。こういう本で科学的な土台を作って、子供に話をするのです。ただし、知識を伝えるだけの話ではなく、そこに自分の体験などを結びつけて独自なものを付け加えていきます。
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今日は対話の大切さということについてお話します。
国語力というのは、もともとは日本語力です。日本語を駆使する力は、生活の中で育ちます。これに対して勉強中で育つ国語力は、漢字の書き取りや熟語やことわざを覚えるような知識的な日本語力です。
日常生活の中で、日本語に接する機会はいくつかに分けられます。一つは、対話です。もう一つはテレビです。三つめは読書です。そして、もう一つ毎日の暗唱というのも、これからは生活の中での日本語の機会に含まれるようになると思います。
家族との対話は、手軽で効果が極めて高い日本語の学習機会です。これは幼児期から中学生高校生になるまで活用できます。なぜかというと、話をしながら相手の反応に合わせて手加減ができるからです。
学力のある子に共通している生活習慣は、親子の対話が豊富だということです。親が知的で面白い話をすることによって子供の思考力や知的好奇心が育っていきます。逆に、親が断片的なこと、例えば「○○しなさい」というようなことしか言わなかったり、あまり話をしなかったりすると、子供の考える力は育ちません。
では、親子の対話を充実させるためにはどうしたらいいのでしょうか。
対話のきっかけになるものは、親子共通の話題にできるものです。それには、親子で読む本、親子で見るテレビ、親子で取り組むイベントなどがあります。
我が家では、長文を親子の共通の話題にしていました。
(つづく)
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今日は、テスト力について説明します。
まず、テストと関係ないようですが、絵をかくときの技術について話します。上手に手をかく人は、細部までしっかり見てかきます。
例えば、人の顔を書くときに、顔とはこういうものだろうという先入観でかくのではなく、実際に細かいところを見ながらかいていきます。
小さい子供が立体図形をかくときに、見えない裏側をかいてしまうことがあります。同じように、大人でも見てかくのではなくて、こう見えるだろうという先入観でかいてしまうことが多いのです。
この絵をかくときと、テストで答えを書くときの人間の心理に共通性があります。
中学生高校生のテスト問題の取り組み方を見ていると、絵をかくときと同じように、厳密に細部まで見る子と、そうでない子との差があることがわかります。
この厳密に細部まで見る力がテスト力です。したがって、テスト力は実力そのものではなく、実力を100%発揮するための力です。しかし、このテスト力があるかないかで、テストの成績は大きく上下します。
生徒の多くは、だいたいこっちの方があっていそうだということで答えを書きます。8割ぐらいの確信で答えを書いてしまうのです。すると、その答えが合っていたら、「ああ、よかった」でおしまいになり、その後の蓄積に結びつきません。
大事なのは、絵をかくときと同じように、細部まで厳密に見て判断するということです。そして、その判断の過程を記録に残しておくことです。記録に残さないと、何日かあとにテストが返ってきたときに、自分がなぜその答えを書いたのかを忘れているので、やはり蓄積にならないからです。また厳密性を高めるためには、理詰めで判断できないものは空欄にして、×にしてもらうというようなことも必要です。
テスト力をつけるためには、ある程度マンツーマンのチェックが必要です。つまり、その子供がどこで厳密性を放棄しているかを見る必要があるからです。ですから、テスト力をつける勉強は、家庭で親がやっていくのがいちばんです。
そのためにもちろん、親の姿勢も大事になります。一つはテストの点数だけで一喜一憂せずに、必ずその内容を見ていくということです。もう一つは、100%理詰めに説明するように心がけることです。そして、大人が理詰めに説明できない問題はできなくてもよい問題だと割り切るぐらいの厳密性が必要になります。
数学や理科や社会の問題は、もともとそれらの分野にあいまいさが少ないので、実力とテスト力の間の差は大きくありません。しかし、国語の問題と、国語力が必要とされる大学入試の英語の問題は、テスト力と実力の差が大きく出てきます。
(この文章は、構成図をもとに音声入力した原稿をamivoiceでテキスト化したものです)
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本日は、大記憶力というものについて述べたいと思います。
記憶力については、右脳による記憶左脳による記憶など、脳の構造に関連させた理論があります。しかし、本当のところは、脳の構造と記憶にどういう関係があるのかまだわかっていません。
記憶力に関しては、私はもっと単純に考えています。
記憶力の基本になる短期記憶は、七つぐらいの事柄であればすぐに覚えられるという記憶です。これを、わかりやすくいうと、記憶を入れるためのコップが七つあるということです。つまり人間はそのぐらいの数ならランダムな事柄でもその場ですぐに覚えられるということです。
この七つのコップそれぞれに仕切り板を入れて一つのコップを細分化し、あたかもコップの数が増えたかのように操作する技術、これが記憶術です。
大記憶力というのは、コップの数は変えずに、仕切り板による細分化もせずに、コップ自体の大きさを大きくして、コップではなくバケツで運ぶというような記憶力です。
通常の生活では、人間はすべての人に生まれつき等しく備わっている七つの短期記憶で生活しています。
限られた数のコップを真面目にコツコツ勤勉に使うのが勉強です。ですからよく勉強ができる人は、よく努力した人とみなされています。
では、コップをバケツにするとはどういうことでしょうか。
人間の体にはもともと外界からの必要に応じて適応するという力があります。私は記憶力も、この適応力ではないかと思います。
例えば、夏の暑いところで運動をしていると最初は汗をたくさんかきます。しかし、運動を続けていると、だんだん汗をかかない体になってきます。
アフリカなどの熱帯地方で暮らしている人たちは、暑い時でも流れるような汗をかくのではなく、皮膚の表面にうっすらと汗をかくのだそうです。これは、効率から言えばいちばんいい汗のかき方です。
汗をかく目的は、水分を蒸発させることによって体を冷やすことにあります。流れるような汗のほとんどは無駄な汗で、むしろすぐに蒸発するぐらいのわずかな汗が皮膚の表面を覆っているのが能率のいい汗のかき方です。
長文暗唱で、意味のある人まとまりの文章を覚える場合、通常一度ですぐに覚えられる文字数は、30文字程度です。
これが100文字ぐらいの文章になると、10回から15回反復しないと覚えられなくなります。逆に言えば、反復すればだれでも覚えられます。
この100字ぐらいの文章を何十回も反復していると、100字の文章をひとまとまりのものだとみなす力がついてきます。これが、例えば貝原益軒が「100字の文章を100回暗唱する」と述べた勉強法の背景にある理論です。
シュリーマンも塙保己一も本多静六も同じように、通常の量よりも多い分量の記憶を反復することによって、ひとまとまりの記憶の要領を広げていったのです。
中村天風は、道ですれ違った人の服装の細部まであとで思いを起こすことができたそうです。これを、左脳ではなく右脳で見ていたからだと言う人もいます。しかし、ここで右脳や左脳という言葉を使って説明をすると、記憶の仕組みがかえってわかりにくくなってしまいます。中村天風の記憶力も、適応力の一つの表れで、通常の人が個々別々に見ている複数のものごとをひとまとまりの大きい単位で見ていたということではないかと思います。
速聴や速度も、同じです。大量のものを通常の量とみなすぐらいに記憶の容量が増えていくという適応力が、これらの能力の背景にあります。
記憶力というものは三つに分けて考えることができます。
第一は、単語帳で単語を一つずつ覚えるような努力型の記憶です。これは、時間をかけてがんばるしかありません。
第二は、単語をイメージ化したり、ストーリー化したり、場所に結びつけたりして覚える技術型の記憶です。これが記憶術です。
そして第三は、単語帳の単語を一つずつ覚えるのではなく、単語帳を1ページずつ覚えるというような拡大型の記憶です。これが大記憶力です。
現在学校で行われている勉強の基本的な能力は記憶力にあります。大記憶力を身につければ、すべての教科が得意分野になるということも夢ではありません。
そして、だれもがこのような大記憶力を持つようになったとき、選抜のためのテストはもはや無意味なものになるでしょう。
(この文章は、構成図をもとに音声入力した原稿をamivoiceでテキスト化したものです)
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一般に、人間は短期記憶で同時に7つぐらいの記憶しかできないと言われています。例えば、10桁の電話番号を言われたら、メモでもしないかぎりしばらくたつと忘れてしまいます。
ところが、複数の記憶をチャンク化(まとめること)することによって、短期記憶の容量を広げていくことができます。例えば、0120−22−3987を「まるいにわ、ふたつさくはな」と覚えるような具合です。語呂合わせやイメージ化によって、個々ばらばらの数字をいくつかのまとまったイメージとして覚えるということです。このように本来記憶しきれない多数の素材であっても、それらをまとめると、たくさんの事柄が一度に覚えられます。
この、ひとまとまりの記憶単位を拡大するというのが、記憶力をふやす基本なのではないかと思います。
例えば、英語の単語を単語帳で覚える場合です。日本語と英語を一つずつ対応させる形で単語を覚えていくと、始めに覚えた単語と、次に覚えた単語との間で干渉作用が起こり、最初に覚えた単語は忘れていきます。ところが、単語を一つずつを覚えるのではなく、1ページまるごと覚えるような覚え方をしていくと干渉作用は起こりにくくなります。このため、単語は単語帳でばらばらに覚えるよりも、文章を読む中で覚えた方がよいと言われるのです。
記憶術は、こういうやり方ではありません。日本語と英語の一つずつの対応を、ほかの単語との干渉作用が起こらないような狭い引き出しに入れて覚えるという覚え方になります。その狭い引き出しになるのが、その単語に割り振られた独特のイメージや語呂合わせになるのです。
塙保己一は、16歳のころ、300字以上ある般若心経を毎日100回暗唱することを自分に課したそうです。そして、盲目でありながら、多数の書物を暗記し、全530巻の「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」を編纂しました。
似たような例が、シュリーマン、本多静六、貝原益軒などにも見られます。
これらの例から考えられることは、数百字の文章を暗唱し、暗唱できるようになったあとも更に反復して暗唱することによって、人間の脳にその数百字の文章がひとまとまりの記憶単位として定着するのではないか、ということです。
これは例えば、社会科などの教科書で何かの知識を覚える場合でも、その知識を覚えるだけではなく、いつのまにか、その知識がどのぐらいのページのどのぐらいの位置に書いてあったのかをうっすらと覚えているのと似ています。
記憶術を使わずに記憶力を伸ばすとどういう利点があるかというと、その記憶が思考力に生かせるということです。言葉の森の暗唱の勉強も、このような記憶力の土台となる暗唱力をつけるという方向で発展させて行きたいと思ってます。
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今日は、記憶力についての仮説を述べたいと思います。
現在の社会では、知識の差が学力の差を生み出しています。少なくともそのような性格の学力評価がなされています。
知識の量はもちろん、学力の一部です。しかし、大学入試問題の社会科のテストなどを見てみると、知識の差がほとんどすべての学力として評価されているような印象を受けます。
本来、入試に出てくる知識の問題は、相対評価で競争させずに、到達度評価にすべきだと思います。必要とされる知識の量は、すべての人が百%到達できることを目標にしておくということです。
ですからもちろん、入学も希望する人は百%を入学させることが目標です。
全員入学がなぜ可能かというと、ネットによる人数無制限の教育ができる体制がすでにできているからです。そして、学生どうしが相互に切磋琢磨するコミュニケーションのグループをSNSのようなもので作っていけば、学習の密度を高めていくことができます。将来の教育は、そのようなものになるでしょう。
現代は、知識の差が学力の差として評価されていることで、ある種の世襲制社会を生み出している面があります。ゆとり教育の中で、知識を身につけられない子と知識を身につけるノウハウを持っている子との差がますます広がります。そして、学歴という誰でも納得できる評価を前提にして、例えば面接試験で恣意的な評価を加味すれば、一見合理的な装いを持った世襲制社会が生まれるということです。
こういう不自由な社会をを固定化しないためにも、誰でも百%の知識が身につくような教育が行われていく必要があると思います。
では、知識のもとになる記憶力とはどういうものでしょうか。
本来人間は、あらゆるものを記憶していると考えられます。例えば、サヴァン症候群の子供たちの中には、常識では考えられない優れた記憶力を持つ子がいます。
しかし、一般の人にとって、記憶したものがすぐに思い浮かべられないのは、記憶した個々の素材に検索のためのインデックスがついていないからです。つまり、頭のどこかに記憶したものはあるはずだが、それを探し出すことができない、という仕組みになっているのです。
ここからが仮説です。記憶の仕方には、三つの方法があると思います。
第一は、ごく普通の何回も繰り返して覚えるという記憶の仕方です。ところが、英語の単語や社会科の知識を無理やり覚えても、覚えた記憶どうしの干渉作用が起こり、覚える量が多くなればなるほど、記憶の能率が低下していきます。そして結局、記憶の濃さは反復の量に比例するという形で定着します。このために、人間は限られた分野にしか専門的な知識を蓄積できないという状態になっているのです。
第二は、現在流行している記憶術による記憶の方法です。この記憶術の方法というのは、自分が熟知している分野の引き出しを、更に、熟知している仕切り板で細分化して覚えていくという方法です。この記憶術は、テストのための知識を蓄積するには極めて有効です。また、ギリシア時代の雄弁術で使われていたように、スピーチなどの技術としてもかなり有効です。しかし、記憶術は単なる技術であって、真の学力が身につくのではありません。しかし、現代のテスト形式の成績はもちろん上がります。
第三は、新しい記憶力の方法です。これは、すでに南方熊楠や塙保己一やシュリーマンや本多静六などの実践で知られている記憶法です。しかし、この記憶法の仕組みはまだ究明されていません。
(つづく)
(この文章は、構成図をもとに音声入力した原稿をamivoiceでテキスト化したものです)
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