オレンジと唾液の話の続きです。
人間は、身体と感情と言語を持った生物です。その人間の特性を生かすことが、オレンジを生かすことです。
子供に、もっと本を読んで欲しいと思う親は多いと思います。そのときに、「もっと本を読みなさい」「読書しなさい」という言い方は、「もっと唾液を出しなさい」という言い方と同じです。
子供が本を読んでいるときに、「おっ、よく本を読むねえ」とか「本が好きなんだね」と声をかける。これが、オレンジをむくことです。
子供に、親切な人間になってほしいと思ったときに、「人に親切にしなさい」という言い方をするのも、「唾液を出しなさい」という言い方と同じです。。
子供がほんの少しいいことしたときに、「○○ちゃんて、やさしいんだね」と声をかけてあげることがオレンジをむくことです。
子供の生活で中心になるのは勉強です。ところが、子供に勉強をさせることについて、親は、勉強をしたくなる気持ちとは反対のことを言ってしまいがちです。「バカだなあ」「こんなこともわからないのか」「もっとちゃんと勉強しろよ」「やってないから悪いのよ」などなど。
共通しているのは、できなかったことを否定したり批判したりする言葉です。
子供を勉強好きにするためには、できないことを否定するのではなく、できているところを褒めることです。それがほんのわずかでもあっても、褒めることによってそのできたところが大きく育っていきます。
例えば、長文を音読しているときに、90%下手な読み方で10%だけ普通に読めたところがあったとすれば、そこで、親は、「読むのがだんだん上手になってきたね」というような言い方をするということです。
ところが、多くの親は、90%上手に読んで10%下手なところがあったときに、その10%を取り上げて、「そこもっと上手に読めたらよかったのにね」というようなアドバイスをしてしまうのです。
褒め方のコツがわかれば、子供をいい子にしたり勉強好きな子にしたりすることはそれほど難しいことではありません。
しかし、人間は勉強だけしていればいいのではありません。大学生になり、社会人になれば、勉強だけが得意だということでは限界があります。
そこで、今度は自分自身が、新しい目標に対応したオレンジを見つけることが必要になってくるのです。
(この文章は、構成図をもとに音声入力した原稿をamivoiceでテキスト化したものです)
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オレンジをむいていると、唾液が出てきます。しかし、唾液を自分の意志で出そうとしてもなかなか出てきません。
笑うと免疫力が高まるそうです。しかし、免疫力を高めようと頑張っても、高まるわけではありません。そこで、病気と闘うという発想をすると、そのこと自体に笑いのない無理な気持ちがあるので、逆に免疫力高めないという結果になるそうです。
国語の得意な子は、国語の問題文を読むときに自然に気合いが入っています。つまり、国語の問題は自分には解けるはずだという確信があるからです。そういう気持ちがあるので、読み方も自然に深くなります。
勉強にも似たところがあります。子供のころに、勉強は苦しいがそれを我慢するのが大切だというような先入観を持たされると、その意識が大きくなってからも残ってきます。
逆に、勉強は、本来自分自身が成長する楽しいものだという気持ちを持つように育てられれば、大きくなって勉強が難しくなっても苦になりません。むしろ、難しい問題に直面するとそれを乗り越えることに喜びがわいてくるでしょう。
シュリーマンは語学の天才と言われましたが、その勉強法は、辞書や文法書を使わずにただひたすら外国語の文章を音読をするということでした。
国語の勉強も似ています。意味のわからない言葉を調べたり、問題を読んで答えたりするという勉強は補助的には必要ですが、中心になるのは、問題文をひたすら読むことです。読むことによって問題文の中身が自然に自分のものになっていくのが本当の勉強です。
人間には本来わかる力があります。自分にないものを身につけようと思うのでなく、自分の中にすでにあるものを明らかにするのが勉強だという気持ちを持つと勉強が楽になってきます。
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この300字暗唱を小学校低学年から続けていれば、その子の読解力、表現力は確実についていきます。
読解力がつくのはなぜかというと、ある文章をしみじみと深く味わって読む力がつくからです。国語の問題文を読む場合、同じ文章を読み同じように理解したつもりになっていても、読む人の読解力によってその深さが違ってきます。深く読む力があると、その問題文に書かれている情景や心情などの細部も読み取ることができます。深く読む力がないと、あらすじのようなところまでしか読み取れません。どちらも同じように読んで、同じように理解しているつもりになっていますが、読み方の深さが違うのです。暗唱をしていると、1回読んで理解したはずの文章なのに、繰り返し読むにつれて違う味わいを感じるようになります。これは、繰り返しによって深く読む力がついてくるためです。
表現力がつくのは、文章のリズムが身につき、語彙を自然にたくさん覚えるようになるからです。また、暗唱をしていると、その文章で使われている句読点の位置などもそのまま覚えてしまいます。小学生の作文で、文のねじれを直したり、句読点の位置を教えたりする勉強をすることがありますが、そのような勉強はしないで済ませるというのが理想的な勉強の仕方です。病気になってから治すことに力を入れるのではなく、もともと健康でいるという勉強の仕方をしていくのです。
さらに、暗唱をすることによって、物事を丸ごと把握するという理解力がついてきます。これは、国語に限らず、ほかの教科すべてを含めた理解力につながっています。勉強のできる子は、得意教科と苦手教科の差があまりありません。どの教科も同じようによくできます。逆に、勉強のできない子も、得意教科と苦手教科の差があまりありません。どの教科も同じようにあまりできないからです。ですから、教科ごとの勉強に力を入れる前に、まず勉強力そのものをつけていくことが大事です。
ある事柄を丸ごと把握するような理解の仕方ができれば、全教科の勉強も同じようにできるようになります。
国語の勉強法としては、暗唱のほかに、筆写や要約があります。また、普通に問題集を解く練習もあります。いずれも、共通しているのは、ある文章を繰り返し読み取るという点です。ですから、いずれも効果のある勉強ですが、大事なのは、楽にできて密度の濃い勉強は何かということです。
密度の濃さとは、反復のことです。深く読むとは、ゆっくり読むことではなく繰り返し読むことです。問題集を解くよりも、問題文を読むだけの方が、何倍も密度の濃い勉強ができます。同様に、暗唱は、筆写や要約よりも密度の濃い勉強ができます。しかし、問題集を解いたり筆写をしたり要約をしたりする勉強の方が、形として残るので、勉強をしたという実感がわきます。
大事なのは、勉強をした形跡ではなく勉強の実質です。国語の勉強で実質を優先するならば、読書と暗唱に取り組むことが第一です。そして、読書と暗唱をすることによって、ほかの教科の勉強力もついてくるのです。
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音読の自習はこれまでできていたが、暗唱の自習になったらできなくなったという話を聞くことがあります。
これまで毎日音読をしていた子は、その延長で暗唱もできるはずです。しかし、音読の勉強を自分の勉強部屋でやっていたとすると、実際に確実に音読ができていたかどうかはわかりません。
音読は、保護者のいるところで、例えば茶の間などでやっていくのが望ましいやり方です。なぜかというと、親が音読を聞いていると、子供の読み間違いがわかるからです。また、子供が長文を音読しているときに、その長文の話題をもとに親子の雑談ができるからです。親のいないところで子供がひとりで音読をするという形では、音読の効果はかなり薄くなります。
暗唱も同じです。子供部屋でひとりで暗唱させるよりも、親のいる前で暗唱させた方がよりよい暗唱ができます。ひとりで暗唱させると、子供はつい覚えようとしてしまいます。すると、暗唱が難しくなります。覚えようとするのではなく、ただ繰り返して読むのだということを親が教えてあげるといいのです。
暗唱がどのぐらいできるかということは、その子の国語の実力を反映しています。100字の文章をなかなか覚えられない子は、やはり日本語の読解力の基礎ができていません。そういう子供たちも練習を続けていると、必ず前よりも早く暗唱できるなります。これは実際に読む力がついてくるからです。やればできるようになるという点で、暗唱の勉強は、音読の勉強よりも達成感のある勉強になっています。
暗唱ができるようになる時間は、大体次のような感じになります。
100字の文章を繰り返し音読をする場合を考えてみます。1回音読しただけですぐに暗唱ができるということはまずありません。これが、50字程度の文章であれば、1回読んだだけでもすぐに暗唱できます。50字と100字は、人間の短期記憶にとっては、質の違う長さなのです。
しかし、100字の文章でも、15回ぐらい繰り返し音読していると自然に覚えられるようになります。この100字15回の音読は、時間にして5分間ぐらいです。さらに続けて音読し、10分間まで暗唱を続けていくと、全部で30回ぐらい繰り返して音読することになります。このぐらいになると、意識をせずに空で言えるような暗唱になります。ほかのことをしながらでも暗唱できるぐらいにしっかり身についた暗唱になってくるのです。
100字ずつの暗唱を3日間続けたあと、合計の300字を全部通して暗唱する場合は、次のようになります。最初に300字を通して読んでも、10分間ではなかなか暗唱できるようにはなりません。しかし、2日目には少しずつできるようになり、3日目には大体暗唱できるようになります。
個人差はありますが、毎日10分の練習で、1日100字の暗唱ができるようになり、1週間で300字の暗唱ができるようになるというのは、無理のない目標です。
しかし、やらなければできるようにはなりません。やればできるが、やらなければできないということがはっきりしている点で、暗唱の自習は、通常の音読の自習よりも勉強の確実性が増すのです。
(つづく)
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現在の入学試験は、志願者を限られた定員に抑えるために、点数の差が大きく開くような問題を中心に出されています。すると、それに合わせる形で、学校の中での勉強も、差がつくところを中心に教えられるようになります。学校の勉強が差がつきやすいところの学習中心になっていくために、それに合わせる形で、さらに入試問題も差をつける方向でテストをするようになっています。
このようにして、現在の大学入試は、受験の教科数を絞る一方で、その少数の教科の中で小さな差を大きく拡大するような問題になっています。このことは、日本の高校生の学力をかなりゆがめています。
これからの社会人には、全教科の知識が万遍なくあるとともに、専門の知識があるという学力が求められてきます。なぜなら、これからの経済は、農業、工業、情報産業のあとにくる知識産業の時代になるからです。従って、大学入試のあり方も、理系文系にかかわらず、幅広い教科の基礎学力をテストするような形になっていくと思います。
また、推薦入試のような形ももちろんいいのですが、受験で合否を決めるような形を中心にすることも大事です。なぜなら、子供たちの学力は、やはり受験に取り組む中で確実についてくるからと思うからです。
将来の大学入試は、全教科の基礎学力を確かめるテストがもっと重視されるようになると思います。ある教科は得意だが、ある教科は苦手というような学力ではなく、どの教科もひととおりできるという学力が要求されてきます。そのような幅広い学力に対応するためには、物事をトータルに把握する理解力が必要になってきます。このトータルな理解力に、暗唱という形の勉強が役に立ちます。
その暗唱をどのようにやっていくかという話をします。
以前、保護者の方からこういう話を聞いたことがあります。
「これまで、音読の自習はやっていたが、今度暗唱という形の自習になって、自習を嫌がるようになった」
私は、それを聞いて、それは、これまでの音読の自習が実はできていなかったからではないかと思いました。
(つづく)
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暗唱は、早口、棒読みでもかまいません。
更に、ふざけて読んでもかまいません。
暗唱ができるようになるという目標さえはっきりしていれば、途中の過程は自由です。
なぜかというと、人間には、本来の姿に復元する力があるからです。
目標さえはっきりしていれば、
途中でふざけすぎるという脱線があったとしても、
やがて、ふざけることにも飽きてきます。
そして、目標にふさわしい自然の読み方になっていきます。
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国語の学習で音読がブームになっていますが、なぜ音読をするのかという根拠は実ははっきりしていません。ただ、昔からやっていたいい方法だからやっているという感じです。
確かに、音読によって脳が活性化するとか、Θ波が出るとかいういろいろ理由はあると思います。しかし、どうしても音読でなければだめなのだという根拠はあまり明らかになっていません。
言葉の森の音読の意義は、簡単明瞭です。ひとつは、音読をすると読み違いがわかるということです。この読み違いは意外に多く、中学生や高校生でも長文に出てくる言葉を間違えて読んでいる例がかなりあります。(中高生の保護者の方は、試しにどこかのページを読ませてみてください)
音読をするもう一つの意義は、形骸化した形だけの勉強にならないようにするためです。同じ文章をただ読むような単純な勉強していると、だんだんと斜め読みになってきます。既にわかっているつもりで読むので気持ちが入らなくなるのです。勉強の基本は反復ですが、反復の練習は退屈なので、声に出したり手で書いたりすることによって意識化した勉強にする必要があります。
さて、音読と同じように、暗唱にもやはり根拠が必要です。暗唱によって右脳が使われるようになるという説明もありますが、確かなことはまだわかっていません。
言葉の森の暗唱の意義は、簡単明瞭です。一つは、暗唱は定着度がはた目にもはっきりわかるということです。
もう一つは、暗唱は音読よりも達成感が感じられるということです。
定着度がわかる、達成感がある、という二つの目標を考えると、暗唱するときに、その目標以外のいろいろなことを要求しないということが大切になります。
例えば、子供が暗唱をしているときに、上手に読むことを要求しないということです。暗唱はむしろ、上手に読むのとは反対の読み方です。できるだけ早口で、息継ぎを少なくし、棒読みでもよいという読み方をします。100字の文章でしたら、一息で読めるぐらいにしてもいいと思います。
なぜかというと、暗唱で大事なことは回数を多く読むということだからです。時間がたっぷりあれば、上手に読む暗唱をしてもいいのでしょうが、限られた時間で回数を多く読むためには、ある程度早口で読むことが必要になります。
少なくとも、暗唱している子供に対して、「もっとちゃんと読みなさい」というような注意はなるべくしないようにしてください。大事なことは、上手に読むことではなく、暗唱ができることです。ですから、ふざけて読んだり、棒読みで読んだり、逆に抑揚つけて読んだりしても、むしろそれをにこにこと見守っているぐらいの余裕が親や先生には必要になります。
このような暗唱のコツを理解するために、ぜひ保護者の方も、300字の暗唱に1週間挑戦してくださるといいと思います。
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人間の知的な能力を三角形の面積と考えると、底辺が知識の量で、高さが思考力になると考えられます。
思考力は、人間にはもともと備わっている能力なので、身長や体重の差がそれほど大きくないように、どの人もあまり変わらないと思います。
未来の社会は、だれもが同じような知的能力を持ち、だれもがそれぞれの持ち場で創造的な仕事をする社会になるでしょう。
しかし、そのときに問題になるのは、思考力よりもむしろ知識の量です。
知識の量は、正しい情報と理解力によって決まります。正しい情報は、外の環境に依存するものですから、問題は理解力です。
大量の知識を高速に理解する能力を育てることが、未来の教育の最初の課題になります。
さて、動物には適応力があります。環境の一時的な変化に対する適応が、より長期間の永続的な変化に対応するようになったものが進化です。
カンブリア期の進化の大爆発の原因は、光と眼の登場によるものだとの説があります。環境が変化した以上に、生物が、その環境の変化を眼で認識できるようになったことが、爆発的な進化の原因だったのです。
人間は、この環境の変化を人為的に作り出すことができます。自分が作り出した環境の変化に適応すること、これが練習とか訓練とかいうものです。
反復によって小さい環境の変化を作り出し、それをまた反復によって適応するという形で、人間は自分を成長させることができます。これが、練習をする人間と、練習をしない動物との違いです。
こう考えると、練習のポイントがわかってきます。
一つは、なるべく小さい時期から練習することです。湯川秀樹は5、6歳のころから論語の素読をしましたが、この時期は練習がすぐに環境となる時期なので、それだけ効果も高かったのです。
もう一つは、反復することです。反復のためには、今日も、明日も、明後日も、毎日続けることが大切です。毎日続けることによって、その練習が環境となるのです。
また、毎日の反復だけでなく、1日のうちでも反復する仕組みを作ればなお効果があります。長い文章を1回だけ音読するよりも、短い文章を何十回も暗唱する方が、練習が環境になりやすいのです。
動物の進化は、小さいものを大きくする、既にあるものを別の用途に使う、という形で進みました。
小さいものを大きくする例としては、馬の蹄(ひづめ)があります。馬の蹄は、中指が大きくなったものです。
既にあるものを別の用途に使う例としては、クジラのヒレがあります。クジラのヒレは、もちろん手足が変化したものです。
同じようなことが人間の理解力にも言えると思います。
ここからは、仮説です。
まず、小さいものを大きくするということで考えてみます。
理解力の重要な要素を記憶力と考えると、短期記憶の単位を大きくするという形で記憶力が大きくすることができそうです。すると、数十字の文章を一つの単語のように覚えることができるのではないかと思います。
次に、既にあるものを別の用途に使うということで考えてみると、手続き記憶を短期記憶に使うということができそうです。記憶術は、本来ばらばらにある物事をイメージ化してストーリーにあてはめて覚える技術です。これを技術としてではなく能力として身につけることができるのではないかと思います。
日本の子供は、小学校低学年のときに九九を苦労して覚えますが、桃太郎のあらすじを苦労して覚えることはありません。しかし、物語のあらすじは、覚えるつもりがなくても自然に覚えています。
同様に、英語の単語は、個々ばらばらの単語として覚えるよりも、文章の中で覚えた方が覚えやすいと言われています。これを更に発展させて、単語帳の1ページを丸ごと物語のあらすじのように覚えることもできるのではないかと思います。
現在は、記憶力や理解力の差が学力の大きな差となって表れています。
しかし、未来の社会では、だれもが同じように優れた記憶力、理解力を持つようになると思います。
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