ことわざにもいろいろあるけど、私は「花より団子」なんて当たり前すぎることが、なぜわざわざことわざになっているのかわかりません。(わざわざことわざ! あ、ダジャレになっちゃった。(笑))
花と団子を比較すること自体が間違っています。
犬が使われていることわざもたくさんあるけど、「犬が西向きゃ尾は東」なんて、ちょっとバカにされている気分です。
それに、私が一番腑に落ちないことわざは、「犬も歩けば棒に当たる」です。犬はそんなにドジではありません。
障害物があっても瞬時に避けられるのが犬なのです。
だから、ものすごいスピードで走っている犬のリードを引いて、必死に追いかけている人間の方が棒に当たる確率は高いです。
まさに「犬と走れば棒に当たる」です。
ちなみに私が一番好きなことわざは、「棚からぼたもち」でーす。
今日は、ことわざについて考えてみました。
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凛々しい感じでよかったです。応援してます。
あうそめさん、ありがとうございます。
顔つきは凛々しいのですが、いつもぐうたら寝ています。
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●動画:
https://youtu.be/9sIu2LF-ZU4
言葉の森は、中根が確か24、5歳のころ、東京の貸会場で始めた大学生向けの作文教室が最初のスタートでした。
生徒が、自分とほとんど年齢が違わないというところが、なかなか緊張しました(笑)。
生徒と一緒に、同じ課題で自分も一緒に作文を書くという実習中心の教室でした。
昔を懐かしむわけではありませんが、そのころ、作文教室という名前の教室はたぶんどこにもありませんでした。
だから、言葉の森が、日本でいちばん昔からある作文教室です。
ということは、どうでもよくて(笑)、その後、いろいろな紆余曲折を経て、29歳のときに作文教室一本でやっていくことを決め、その後しばらくして株式会社を立ち上げました。
という昔の話はどうでもよくて(笑)、作文教室の目的は、作文を通して個性、知性、感性を育てること、別の言葉で言うと、創造力、思考力、共感力を育てることでした。これは、今でも大体同じです。
私は当初から、この作文教室の目的のもとで、日本に作文文化を作ることを考えていました。
ところで、作文教室という名前の教室に来る人は、最初はほとんどいませんでした(笑)。
国語の教室ということでやれば、人は来たのかもしれませんが、私は、国語も含めてあらゆる勉強は、自分の力でやるもので、人に教えてもらうものではないと思っていたので、そういう学習塾のようなことをする気はありませんでした。
なんだか、昔話が長くなってきましたが(笑)。
ついでに、昔話を続けると、当時、アメリカで小論文の自動採点ソフトが高校の卒業試験で使われるようになったという記事をウェブで見ました。
私は、こういう自動採点ソフトの本質は、言語の壁を超えるとわかったので、日本でも小論文採点ソフトを作る必要性を感じました。
メイド・イン・アメリカのソフトで、日本の子供たちの作文を評価されてはたまらないと思ったからです。
そこで、ほぼ数週間で、自動採点ソフト森リン(もりりん)を作りました。早すぎ(笑)。
かかった費用は、作ったプログラミングを見直すために印刷した数百枚のプリント代だけでした。
これで、特許を取りました。
性能は、アメリカのソフトと同じかそれ以上だったと思います。
話は戻って。
その後、大学入試で小論文が出るようになり、当時高校生になっていた生徒の小論文対策もするようになりました。
最初のころに大学生の作文というか論説文を教えていたので、高校生の大学入試の小論文を教えるのは簡単でした。
その当時は、小学生も、同じ感覚で教えていたので、そのころの小学生は課題が難しくて大変だったと思います。
それから、ずっと時は過ぎましたが、作文教室は依然としてマイナーな存在でした。
日本に作文文化を育てるなどというのは、ずっと先の話のように思えました。
しかし、やがて、大学入試の小論文が広がり、高校入試でも作文的な問題が出されるようになり、中学入試でも作文の試験が出されるようになりました。
特に、公立中高一貫校の入試は、教科書に範囲で出題するという制約があるために、作文の試験がごく普通に行われるようになりました。
そして、作文は、これらの入試のおかげで、受験対策の作文になっていったのです。
私は、このコモディティ化した作文に、未来の見通しを感じませんでした。
しかし、中には、こういう作文のニーズを見て、作文講座などを始めるところも出てきました。どことは言いませんが(笑)。
私は、作文教室の当初の目的であった、創造力、思考力、共感力を育てる、という方向をこれからどのように目指したらいいかずっと考えていました。
そして、考えついたのが、オンラインを利用して、作文以外に、創造発表と自主学習を中心とした学習をする教室作りでした。
しかし、当時は、オンラインも、創造発表も、自主学習も、なかなか理解されませんでした。
そのあとの話はかなり飛ばして。
その後、コロナ休校があり、オンラインという言葉が急に広がりました。
しかし、オンラインという概念は広すぎて、言葉の森の持ち味が、ネット上のさまざまなオンラインという言葉の中に埋没してしまうようでした。
言葉の森のオンライン五人クラスは、独自の新しい教育プラットフォームですが、そのことが認識されるには、まだ長い時間がかかりそうでした。
そこで、言葉の森は、「オンラインスクール言葉の森」をいったん保留し、当初の「Online作文教室言葉の森」を改めて前面に出し、その一方で教育のオンライン化をオンライン5人クラスというプラットフォームで進めていくことにしました。
長い話になりましたが、この記事の目的は、「オンラインスクール」を、設立当初の「Online作文教室」に戻すということの説明でした。
そして、これからメインにする作文指導を、より科学的なものにするために、近い将来、森リンを利用した作文検定を開始したいと思っています。
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ベランダの山椒の木が枯れてしまったという話は、私も小耳にはさんでいました。
でも、どうやらそれは間違いだったようです。
今朝、ママがよく見てみたら、山椒の木にはアゲハの幼虫が4匹もいて、葉っぱをほとんど食べてしまっていたようなのです。(その後、よく見たら、すごーく小さい幼虫がもう1匹いたそうです。)
お昼ごろにもう一度見てみたら、朝は茶色だった幼虫が緑色に変身していて、最後の1枚の葉を食べ終えようとしているところでした。
よくあるダジャレだから使いたくないけど、本当に幼虫には要注意です。
この話を聞いた社長さんは、それはかわいそうと、仕事を放り出し(一時中断し)、ミカンの木を買いに行きました。
私は、ミカンの木の葉っぱより実の方に興味があります。幼虫のおかげでミカンの木を植えることになってよかったなあとうれしくなりました。
でも、買ってきたのは、ゆずとすだちの木でした。ゆずもすだちも食べたことないけど、どんな味がするのかなあ。
幼虫たちが互いにゆずり合って葉っぱを食べて、無事に巣立ちのときを迎えるといいなあと心の中で思いました。
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●オンライン少人数クラスなら自主学習で勉強が進みます
1クラスの生徒が5人を超えると、先生が時間内に個別アドバイスをする時間が取れなくなります。
すると、どうしても全員一律の一斉指導になりがちです。
一方、マンツーマンの個別指導だと、生徒が先生に依存するようになります。
すると、自分が勉強するという姿勢が失われます。
4~5人のクラスであれば、互いの存在が刺激になり、自分のペースで学習でき、先生の個別アドバイスが受けられます。
だから、オンライン少人数クラスが、最も勉強が進みやすいのです。
●オンライン少人数クラスなら全員に発表と対話の時間があります
オンライン少人数クラスでは、全員に発表の時間があります。
発表の内容は、読書紹介であったり、勉強の内容であったり、創作の紹介であったりさまざまです。
この発表によって、普段身につける機会の少ない発表力、コミュニケーション力が育ちます。
また、一緒に勉強している友達のことがよくわかり、やがて勉強友達や読書友達ができるようになります。
発表の機会があると、勉強に主体的に参加する意識が生まれます。
発表の機会と、自分から進んで学ぶ姿勢は互いに結びついているのです。
●オンライン少人数クラスなら先生の個別指導の時間が全員にあります
勉強の基本は自学自習ですが、ひとりでやっていると、どうしてもわからないというところが出てきます。
また、わかったつもりで済ませていることで、本当はよくわかっていないというところも出てきます。
そこで、先生の個別アドバイスがあります。
この個別指導を全員に行う時間を確保するためには、5人以内のクラスであることが必要です。
オンラインクラスでは、先生が一人ひとりの個別指導を、全体のルームとは別のルームで行います。
だから、個別指導の間も、ほかの生徒は集中して学習を続けることができます。
これが、オンライン教育のひとつの大きな長所です。
●オンライン少人数クラスは未来の教育です
オンライン少人数クラスの教育は、言葉の森以外でやっているところを知りません。
それは、5人以内のクラスの運営が難しいからです。
オンラインのビデオ授業であれば、いろいろなところで行われています。
しかし、小中学生のほとんどは、単なるビデオ授業では集中して勉強を続けることができません。
オンラインのマンツーマン授業であれば、これもいろいろなところで行われています。
しかし、先生と生徒の関係だけでは、友達どうしの発表や対話の機会が作れません。
オンライン少人数クラスの教育は、自主学習と、発表と対話と、個別指導を同時に実現する、新しい未来の教育なのです。
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今日はお風呂に入りました。
まわりの人たちは口をそろえて「さっぱりして気持ちがいいでしょう?」と言いますが、私は全然気持ちよくありません。できればお風呂なんて入りたくありません。
聞いた話によると、猫はお風呂に入らないそうなのでうらやましいです。(中にはお風呂好きの変わった猫もいるみたいだけどね。)
一番イヤなのは顔にお湯がかかることです。二番目にイヤなのはドライヤーです。(ダジャレになっちゃった!)
できれば、これからはお風呂はバスしたいです。あ、違った、パスしたいです。
そう言えば、あのアフロヘアーのププもお風呂に入るのかなあ。アフロでお風呂。(笑)
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オンライン五人クラスの特徴は、気のあった五人の生徒が、共通の勉強を通して交流し、切磋琢磨をすることです。
勉強の基本は自学自習ですから、わからないことが出てきたら先生に質問しますが、今の教材はよくできているので、わからないということはあまりありません。
勉強の仕方の特徴は、ひとつはこの自学自習ですが、もうひとつはできるだけ個性や創造性を発揮する発表の機会を生かしていくことです。
これからの世の中では、その人らしさが高く評価されるようになります。
これまでの勉強が、言われたとおりに順応するということだったのは正反対です。
個性的な発表を特に生かす勉強は、作文や創造発表やプログラミングです。
国語、算数数学、英語などの教科の勉強ももちろん大切ですが、教科の勉強は誰もがみんな同じ答えになります。
作文や創造発表やプログラミングは、十人いれば、十通りの結果が出てきます。
こういう十通りの答えを生かすことが、これからの教育の主要な役割になるのです。
オンライン五人クラスは、教育の新しいプラットフォームです。
従来の三十人学級や四十人学級ではできなかった発表教育や創造教育が、オンライン五人クラスでは日常的にできるようになります。
私は、このオンライン五人クラスのプラットフォームが、これからの日本の教育を変える可能性があると思っています。
ただし、まだこちらの力不足もあって、理想的な五人クラスはなかなかできていません。
1クラスの生徒数が少なすぎたり、異なる学年の生徒で構成されていたりする場合があるからです。
その場合は、五人クラスのよさというよりも、先生の個別指導があることのよさの方が中心になります。
もちろん、それでも十分によい教育はできるのですが、理想はやはり子供たちどうしが勉強の中で切磋琢磨をすることです。
今後、オンライン五人クラスの生徒を広げ、そのクラスに参加することが毎週待ち遠しくなるような教室作りを目指していきたいと思います。
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盗み食いというと人聞きが悪いのですが、私にとっては、そこに食べ物があったから食べたというだけのことです。
でも、この前は食べ物ではない物を食べてしまいました。確かにあまりおいしくないなあと思ったのですが、後で、食べ物ではないと聞いてなるほどと思いました。
それは、石けんです。
お風呂場のドアが開いていたので、のぞいてみると、白くておいしそうな物が目に入りました。匂いも悪くなかったので、ガブリとかじってしまったのです。
私は、「お腹の中が泡だらけになっちゃうよ。」と言われて、あわてました。
お腹の中がシャボン玉でいっぱいになっちゃったらどうしようとシャボンとしました。あ、違った、ショボンとしました。
でも、何でもなかったのでよかったです。
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https://youtu.be/Sdf0OlxpB-Y
変なタイトルになりましたが(笑)、勉強の本質というものを考えてみました。
世間では、勉強というと、国語、算数数学、英語、理科、社会などの教科の勉強を考えると思います。
それは、それで正しいのです。
しかし、正確には正しかったのです。
これまでは、そういう五教科の知識を身につけていることが、その人が社会的に活躍するときに役立つ能力になっていたからです。
しかし、今はそうではありません。
今は、昔決めたその「それが役立っていた」というレールの上に乗って、ただこれまでやっていたことをそのまま踏襲するだけの教育になっています。
私が、社会人になって、プログラミングをしていたときに、ふと気がついたことは、根の公式を使うということが分かっていれば、多種多様な因数分解の問題を解く練習などはする必要がなかったのだろうということです。
それは、今なら、辞書を引くことができれば、漢字の書き取りを何度も練習する必要がなかったということと同じです。
現に、今ほとんどの大人は、漢字を書く必要があるときは、パソコンの自動変換に任せるか、ウェブでチェックするかで済ませています。
漢字の書き取りができたかどうかは、もう既に意味のない世界になっているのです。
それなのに、なぜ学校でいまだに漢字の書き取り練習をさせて子供を評価し、また、受験でもある程度の漢字の書き取り問題が出して受験生を評価するかというと、それは単に古い世代のノスタルジーなのです。
しかし、漢字の学習には、本当は別の意味があります。
それは、漢字によって、ものごとの概念を把握しやすくなることです。
幼児に、蜂とか蝶と雀とかの漢字を見せると、その表意文字の漢字の概念をすぐに把握します。
それは、ひらがなの文字よりも、音声の言葉よりも、表意文字としての漢字は強力な概念形成力を持っているからです。
これは、幼児期の漢字に限りません。
子供は成長するにつれて、抽象的な言葉を身につけます。
その抽象的な漢語、例えば、空虚とか親睦とか高揚とか勇断とかいう言葉によって、その言葉の背後にある複雑な概念をひとことで把握できるようになるのです。
話は多少脱線しますが、漢字の勉強で、部首の名前を覚えるというような勉強はほとんど何の意味もありません。
悪くはありませんが、特にいいこともないのです。
また、漢字の書き取りもあまり意味がありません。
これからの時代は、漢字の読みこそが大事で、その読みは、難読漢字の抽象的な概念も使えるようになるという意味の読みなのです。
それを、将来、難語検定ということでやっていきたいと思っています。
話は更に脱線して(笑)、難語検定に対応する読書力というものもあり、それは難読検定です。
その難読検定も将来やっていきたいと思っています。
話は戻って、勉強の本質は、自分の身体である頭や手足を拡張させるツールを身につけることでした。
だから、足し算しか知らない子よりも、掛け算も知っている子の方が、ずっと能率のよい生き方ができます。
それは、掛け算の能力によって、自分の身体能力が拡張したからです。
実は、足し算と掛け算に本質的な違いはありません。
足し算を何度も繰り返せば、掛け算と同じ結果は得られます。
しかし、人間はこの現実世界の中では、限られた時間と空間の中で生きています。
だから、掛け算を使えることは、足し算しか使えないこととは、決定的な差があるのです。
このように考えれば、今の教育の内容を大幅に見直す方向がわかります。
今、世の中で活躍している人に取材して、何が自分の能力を拡張することに役立ったかを聞いて、それを参考に学ぶことを方向づけていくのです。
私の個人的な感想では、今の教育でまだ見落とされているもののひとつは、プログラミング教育です。
その中でも、特に私はデータベースを操作するプログラミング教育が大事なもののひとつになると思います。
また、健康に生きるコツとか、友達と協力するコツなども、教育の重要な柱になると思います。
歴史の動きなども、その歴史の知識自体が教育になる教え方があると思います。
勉強する必要がないのは、単子葉植物と双子葉植物の維管束の違いなどです(笑)。
私は、生物が好きだったので、こういう話は興味を持って聞いていましたが、このような知識は趣味の分野の知識です。
中間テストや期末テストやまして受験などに出して子供の学力を評価する性質のものではありません。
しかし、こういう無意味が勉強が、あまりに多くの時間を費やして学校教育として行われているのです。
ところで、話は少し変わりますが、人間の身体を拡張するのが勉強だとすると、これまでの世の中では、高学歴を持つことは自分の身体を拡張する大きなツールだったのです。
今後、学歴は、それほど重視されなくなると思いますが、いい学歴を目指し、いい学校に入ることは、教育のひとつの目的としては十分に価値あることです。
問題は、バランスで、子供がトータルに成長する中のひとつとして、受験もあるという位置づけを持っていることです。
ところで、学歴よりも重要なツールというものもあります。
今の世の中で、人間の身体を拡張する最も大きなものは何かというと、話はどんどん脱線していきますが(笑)、それは実はお金なのです。
お金によって、自分の頭も拡張できるし、手足も拡張できます。
だから、お金を得る力を持つことは、教育の最も大きな目的と言ってもいいものです。
しかし、今日は話が脱線することが多いですが(笑)、お金が身体を拡張するツールであるのは、周囲にお金を持っていない人が多いから成り立っっているひとつの虚構です。
その虚構が崩れる日は、かなり先になるでしょうが、やがてお金が人生の制約条件ではなくなる時代がきます。
すると、これまで最も価値のあったお金を得るためのツールは、意味がなくなります。
当面は、そのような先のことを考える必要はありませんが(笑)、子供の教育を考える場合、大人はその子がトータルに人間的に成長することを目的として考えていく必要があります。
今は、多くの人が成績のよしあしで子供の教育を考えていますが、成績はツールのひとつにしか過ぎないということと、これからの世の中では多様なツールがあるということを考えて、大きな視野で子供と育てていく必要があります。
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