オンラインの5人以内のクラスで勉強をするというのは、理想的な教育プラットフォームで勉強するということです。
第一に、自主学習の時間が確保できる点です。
ほとんどの教育は、先生が主人公で、生徒はその授業を聞くだけという形になっています。
それが、将来は、人間の先生ではなく、もっと効率のよい機械になるという道筋しか残されていません。
人間は、自分が納得しながら学習を進めていくことが大事で、その納得の中には、その子の興味に応じた脱線も含まれています。
しかし、優れた先生、又は優れた機械は、脱線を無駄とみなします。
例えば、三角形の面積の計算の仕方を習った子が、そういう三角形の面積を求める数学が、エジプトのナイル川の氾濫のあとの測量の必要から生まれたと聞き、興味を持って、勉強の途中にエジプトの歴史を知ろうと思ったら、それはその子にとって本当の勉強です。
しかし、合理的で機械的な教育は、それを無駄な回り道とみなします。
もちろん、勉強の中における脱線は少ない方がいいのですが、もっと単純に言えば、自分が納得できないことは時間をかけて考え、すぐにわかるところは飛ばす、ということができるのが自主学習の長所だということです。
しかし、一斉学習や機械学習では、そういうメリハリのある学習のできる余地はありません。
自主学習方式で勉強している子は、短い時間で、学校よりも先に進むことがよくあります。
それは、本当の意味で、自分らしい勉強をしているからです。
第二に、勉強の中で、友達との対話や発表があることです。
発表があるから、自分なりに一生懸命いい発表をしようと準備し、対話があるから、他の人の話をよく聞き、自分の話もできるだけわかりやすく話そうとするようになります。
このような発表と対話の教育は、今の学校や塾のシステムではまずできません。
それは、ひとことで言えば、発表するには人数が多すぎるか、逆に発表するにはマンツーマンの授業のように人数が少なすぎるからです。
なぜ、人数が多すぎたり少なすぎたりするかというと、もともとの教育観の中に、子供どうしの発表と対話という軸がないからなのです。
第三は、先生の個別アドバイスがあることです。
自主学習は、もし本人のするままに任せておけば、子供は自然に、易しいところだけを作業的に熱心に行い、難しいところは適当にできたことにして先に進むようになります。
しかし、先生のチェックがあれば、できるところとできないところがはっきりわかります。
このできないところの自覚と学習のし直しが、能率のよい勉強の核になるのです。
第四は、オンラインという形態だからこそ、同じようなレベルの子でひとまとまりのクラスを作れるということです。
勉強の能率と、勉強を通しての刺激は、同じような学力の子だからこそ生まれます。
しかし、このオンラインによる同レベルのクラス作りは、オンラインクラスに参加する生徒の人数によって影響されますから、生徒数がある程度多くなるまでは、実現しにくい面もあります。
しかし、オンラインという仕組み自体が、こういう同レベルの集団作りの可能性という本質を持っているのです。
第五は、オンライン五人クラスというプラットフォームは、創造的な学力、思考的な学力、共感的な学力を育てることに最も適した形態だということです。
現在、行われている30人や40人の集団指導、又はマンツーマンに近い個別指導は、知識の詰め込みを重視した時代の教育プラットフォームです。
集団指導やマンツーマン指導は、答えのある学習を、できるだけ短時間で能率よく習得するために作られた仕組みです。
子どもたちの創造力や思考力を伸ばすということは、もともと考えられていません。
せいぜい思考力を問うために作られたという問題を知識的に能率よく解くための学習が行われるだけです。
これからの時代は、人間らしい創造力と思考力と共感力が問われる時代です。
既にある答えを早く見つける学力は、人工知能に代替されていくのです。
このような優れた面を持つオンライン五人クラスは、まだほとんどの人にその本質的な価値が認識されていません。
多くの人は、このオンライン五人クラスを、人数を5人程度に限定した学習塾というふうに考えています。
しかし、これから次第にこの教育プラットフォームが持つ可能性がわかってくると思います。
オンライン五人クラスという教育プラットフォームは、運営の仕方にもよりますが、能率はいいし、楽しく勉強できるし、創造的な教育もできるし、といういいことずくめです。
人間の教育には、人間どうしのアナログ的なつながりが必要です。
今の能率のよい教育というのは、多分にブロイラー的な教育という面があるように思います。