授業の時間に子供がいなかったなどの理由で、講師の自宅に直接電話をされる方がいます。
普段の先生に話を聞きたいという気持ちはわかりますが、電話の説明には準備が必要なので、生徒のみなさんの都合で電話をされると講師にとっては負担が大きくなります。
電話に出られなかった場合の授業のふりかえは、事務局に電話をする形でお願いします。電話0120−22−3987(平日9:00−19:50)
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現在の教育は、テスト中心の教育です。そのテストに対応する形で勉強の努力が行われます。しかし、みんなができるようになると、その努力を上回るようなテストの問題が作られるようになります。なぜなら、テストの目的は、差をつけることにあるからです。もちろんこれは選抜テストの場合です。世の中には到達度を評価するという目的のテストもありますから、そういうテストの場合は、全員ができるようになることが目的になります。
選抜を目的としたテストの場合、努力に応じて難しくなったテストの問題に対応するために、勉強の技術が生まれます。しかしその技術が普及すると、やがてその技術をいかにこなしたという努力の差がテストの差になってきます。この場合の努力とは、勉強にかけた時間に換算される努力です。つまり、テスト、技術、努力の三つの要素がお互いに影響し合いながら、らせん状に学力を高めていくという仕組みが現代の教育を特徴的な姿です。現代社会に生きていると、教育のスタイルはこういう形でしか考えられませんが、歴史的には教育はさまざまな形で行われていました。明治維新前の若者たちの勉強は、テストのためというよりも、純粋な向上心によるものだったと思います。長い歴史で見ると、テストのための勉強という時代はむしろ少なく、ほとんどが自分自身の知的好奇心や向上心からの勉強だったでしょう。
選抜テストが目指す教育の目標と、社会が求める必要な人材の方向は、大体において一致していると考えられます。しかし、テストは、評価の方向が人為的に作られているので、社会が求める人間像からしばしば逸脱してきます。中国の科挙などは、社会体制を維持するための試験制度でしたが、その試験制度が有為な人材を社会の重要な役割につけていたとは言えませんでした。なぜなら、科挙によって成り立っていた中国の社会は、近代化の波に大きく乗り遅れ、その後の中国の植民地化を招いたからです。それに対して、同じ時代の日本の青年は、テストのための勉強ではなく、自らの向上心による勉強に取り組み、その青年たちが、日本の近代化を大きく進めました。つまり、社会が本当に求める人材と青年たちの自主的な勉強が一致していたのです。
さて、明治維新のような激動の時代でない平和な時代では、社会とはその時代の身分制社会をあらわしています。身分制などというと、それは江戸時代までの士農工商の話であって、現代の社会にはあてはまらないと考える人もいますが、必ずしもそうとは言えません。現代もこれからも、社会の背後には、ある一定の上下関係を維持しようとする力が働いています。これが広い意味の身分制です。日本は比較的平等な社会ですが、世界にはまだ独裁制や貴族制の社会が数多くあります。また、表面は民主主義と平等の社会であっても、人種や宗教による隠れた身分制が存在している社会もあります。それらの社会によって構成された国際社会では、さらに国際的な力関係があります。G8、G20、常任理事国、非常任理事国の差は、国際的な身分の差です。こう考えると、身の回りでは民主主義が成立しているように見えても、社会の基調は身分的な上下関係で成り立っているというのが現実に近い見方です。しかし、それは、必ずしも身分制が悪いということではありません。もともと集団生活を営む性質を持つヒトという種は、グループを形成して生活するのが一般的で、そのグループの中では必ず身分的なものが生じてくるからです。つまり、身分というのは、純粋な力関係ではなく、ある力関係を維持する方向に働く仕組みなのです。
さて、こういうことばかり書いていると、教育の話が出てこないので、次回は勉強に関連する話を書きます。
(つづく)
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これから数回にわたって、未来の社会と教育の話を書いていきます。社会は大きな変動期にあります。今、目の前に見える状態に合わせて生きているだけでは不十分で、未来がどういう社会になるかを考えていかなければなりません。それは、教育や子供の成長には時間がかかるからです。昔のように身分制の停滞した社会では、未来のビジョンは考える必要はありませんでした。与えられた課題をこなしていれば十分だったからです。大井川の川渡しの家に育った子供は(というのはかなり特殊な事例ですが)、いかにうまく客を運んで川を渡るかということだけを熱心に研究していればよかったのです。しかし、明治維新になり大井川に橋がかかると、自分の仕事の前提そのものが変わってしまいました。これは、川渡しの人に限らず、明治時代の多くの人が多かれ少なかれ経験してきたことです。
しかし、社会の変革は、流される立場の人にとっては災難ですが、その流れに乗る人にとってはチャンスです。これから世の中でどういう変化が起こるのかを考え、その変化に対応した教育を考えていく必要があるのはそのためです。しかし、それは現在の教育や社会を軽視するものではありません。現在での教育にもしっかり対応していく必要があるが、その先にあるものを考えていくということです。
言葉の森の生徒のみなさんは、勉強が苦手だから来ているという人はむしろ少なく、勉強は得意だがそれだけでは物足りないので何か面白いものを学びたいという人の方が多いと思います。もちろん、苦手を克服するために来てくれるのは大歓迎ですから、苦手を克服しつつそれにプラスαの勉強をしていくというふうに考えていただいてもいいと思います。私事になりますが、私のうちの子供2人も小1から高3まで言葉の森で勉強をしましたが(高3のときは受験のためさすがにあまり提出しませんでしたが)、国語や作文は最初から普通かむしろ得意でした。では、言葉の森で何を得たかというと、長文の面白い話が身についたこと、自分の作品が記録に残ったこと、親子の対話が楽しめたこと、そして、国語や作文がさらに好きになったこと、などだと思います。
言葉の森でこれからどういう勉強をしていくのかということも含めて、次回から、未来の社会と教育というテーマを考えていきたいと思います。
(この文章は、構成図をもとに音声入力した原稿をamivoiceでテキスト化したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)
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子供が小学校低中学年のころは、習い事に行くようなこともあまりないので、夕方の食事の時間は家族の団欒の時間として過ごすことできます。ところが子供がだんだん成長して、学習塾に通うようになると、夕方の家族の対話の時間が少なくなってきます。
子供が夜遅くまで塾に行くようになると、家に帰ってくる時間も当然遅くなります。家庭生活のパターンが塾に行く曜日によって異なるようになると、毎日の自習の習慣を夕方の時間に当てていた場合は、塾や予備校のある日には自習ができないというになります。すると、どうせ週に何回かはできないのなら毎日やること自体が無理だから、毎日の自習もできなくて仕方ないということになってしまいます。
こうならないようにするために大事なことは、低学年のうちから、朝起きてすぐに毎日の自習をするという習慣を作っておくことです。また、休日には、食卓の話題としてテレビに流されない知的な話をするという習慣もつけて行く必要があると思います。対話の習慣をつけるためにも、子供の長文暗唱というのはいい話題を提供してくれるはずです。
しかし、このような家庭の文化というものは、ある意味で親の習慣として作られてきたところがあります。親が早起きでなければ、子供に早起きの習慣をつけることはなかなかできません。子供の生活にとっていちばんいいのは、自然のリズムに合った生活をすることです。自然のリズムとは、毎日決まった時間に起きて食べて勉強をして遊んで寝るような生活です。ところが、親は一週間単位という人工的な社会生活を行っています。そこで、翌日が休日のときは夜更かしをして朝は遅くまで寝ているという生活をしてしまいがちです。親にとっては自分の気ままに過ごせる自然な時間ですが、子供にとってはそれは自然な時間の過ごし方とは言えません。
ところが、この習慣を変えるというのは、子供にとってよりも親にとって非常に難しいことなのです。子供に毎日の長文暗唱の自習をさせ、特にそれを朝おきてすぐにさせるようにし、そして、食卓ではできるだけ家族の対話をするという家庭生活の仕組みを作るのにいちばん苦労するのはやはり親になると思います。
しかし、考え方を変えれば、いったんそういう家庭の文化を作りさえすれば、その文化は子供が成長して家庭を持ったときにも受け継がれていきます。現代の親は、終戦で日本の家庭文化の伝統がいったん失われたところから、テレビやゲームや塾という障害を乗り越えて新しい家庭の文化を作るという大きな役割を担っているのだとも言えます。
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昔、といっても四、五十年前ですが、そのころは家庭にテレビがなかったので、1台のラジオを家族全員が聞いて、そのあと家族でおしゃべりをするというような生活がありました。ところが、今はテレビが茶の間を占領していて、そのテレビを見るだけで家族の団欒の時間が済んでしまうようなところがあります。家庭の文化のかわりにテレビの文化が日本の社会に広がっているのです。
子供が小さいころにテレビの文化に浸り、家族の対話がない状態が続いていると、やがて子供が大きくなり各自が自分の部屋でインターネットを見るような生活になると、ますます家族の対話は乏しくなります。
テレビの問題点は、惰性で見てしまいがちなところにあります。ニュースや何かの番組が終わったあと、考えたり話し合ったりする時間がなく、すぐに次の画面が始まりその画面に流されていきます。読書でも、深い読み方をしているときは、途中で本をたたんで数分考えてからまた読み出すという読み方をします。そういう考える時間が取れないというのがテレビの弱点です。
しかし、逆に言えば、このテレビのような媒体を有効に使えば、新しい文化を形成することにも大いに役立ちます。独裁国家では、海外からのテレビ電波受信を禁止したり、インターネットの特定のサイトを禁止したりすることがよくありますが、それはテレビやインターネットのプラスの影響力を恐れているからです。
話は少し変わりますが、よく途上国への支援で学校を建設するということが行われますが、学校のような支援で効果があるのは、途上国の中でもある程度の豊かさが保障されている都市部に限られるのではないかと思います。人口密度の薄い農村部で、草原の真ん中に学校が突然建っても、その学校を維持するコストのわりには周辺に与える効果はあまりありません。これは、図書館の建設のようなことについても言えます。日本の社会に住んでいると、学校や図書館という形がすぐに身近な例として思い浮かびがちですが、世界の実態はそうではないのではないかと思います。貧しい国の教育に必要なのは、学校や図書館のような入れ物よりもむしろ、その国の家庭生活の習慣に根ざした文化形成で、その文化形成のためにテレビやインターネットは有効に活用できると思います。ただし、その使い方には、教育支援としてテレビやインターネットを活用するという独自の工夫が必要になりますが。
さて、家庭での文化力を高めるためには、テレビに流されない家庭生活が大事ですが、それと同時に、学習塾に流されない家庭生活ということももっと考えていいのではないかと思います。(つづく)
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浪人時代に難しい本を読むことによって国語の成績が上がったという石田さんは、自分の経験から、難しい内容の文章をやさしく解説することによって子供たちの読む力がつくと考えました。そこで、子供たちに、わかりやすい解説をすることによって難しい本を面白く読めるようにするという形の勉強を進めたそうです。
言葉の森でも、高校生の課題は長文自体が難しくなってくるので、その難しい課題をわかりやすい例で説明すると、子供たちは興味深く聞いています。ただ、事前に自分なりに読んでくる子は力がつきますが、自分なりに読まずに面白い解説だけ聞いていると力はなかなかつきません。
この難しい内容のものをやさしく解説するということは、高校生だけでなく、小中学生にもそれぞれの学年に応じてあてはまります。そして、その役割はもっぱら家庭の中にあるのではないかと思います。
全国の学力テストで、学力の高い県を調べてみると、意外なことに学習塾が盛んでないところほど全体の学力は高い傾向があるようでした。つまり、家庭生活の中での文化的な力が、学力の土台になっているのではないかと思われるのです。
家庭の中で、難しい話を子供の理解力に応じてわかりやすく説明するような機会があれば、子供たちの学力は向上します。学力は、問題集を解くような形の勉強によってではなく、家族の知的で楽しい対話の中でこそつくのです。
(つづく)
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「勉強脳をしつける勉強法」の著者石田勝紀さんは、大学受験の浪人時代に、それまで読まなかった難しい本を読むようになると、40ぐらいだった国語の偏差値が20以上アップした、と述べています。また、国語の成績が上がるのと並行して、英語や数学も勉強を特にしたわけでもないのに成績が上がったという体験談を書いています。
私も、高校3年生のときに、総合月刊誌を何冊も読むようになると、不思議なことに国語の点数が上がったという経験があります。当時の総合月刊誌は、学園紛争の影響で新左翼的な難解な文章が流行していました。そういう文章を読んで、自然に読解力が伸びたのではないかと今は思っています。
私が大学を卒業するとき、学生時代の四年間にあまり勉強をした感じがしなかったので、古今の名著と呼ばれるものなるべくたくさん読もうと決心して、数年間いろいろな本を読みました。
そのときに読んだ本のひとつがケインズの「雇用利子及び貨幣の一般理論」です。内容は難しかったので十分に理解したとはいえませんが、こういう古典と言われる名著を読むと、作者が、考えている道筋を自分も一緒にたどって読むという感じがあります。古典を読むことが大切なのは、こういう経験ができるからです。「ケインズ入門」のような教科書や入門書では、すでに完成した答えが死んだ知識として並べられているだけなのに対し、原典には、作者が思索をしているその現場を自分も一緒に思索しながら読み進められるという利点があります。
当時読んだ本の中に、デカルトの「方法序説」がありました。書名は難しそうでしたが、書かれている内容はわかりやすく、デカルトが自分の考え方の道筋をできるだけわかりやすく読者に知らせようという情熱の感じられる本でした。その後、言葉の森で高校生を指導しているとき、高校生ぐらいで読むにはとてもいい内容のものだと思ったので、高校生の感想文課題に「方法序説」を取り入れました。当時は長文ではなく、本のひとつの章を読んで感想文を書かせる課題でした。4人ぐらいいた高校生に本を配って、同じ章を読ませていると、数分後、全員が寝ていました。
(つづく)
(この文章は、構成図をもとに音声入力した原稿をamivoiceでテキスト化したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)
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大学入試の英語の問題は、かなりの部分が国語力です。英文で書いてある内容自体が難しくなるので、難しい文章を読む国語的な力がないと、英文も当然読みきれなくなります。また、英語の選択肢の問題も、現代文の選択肢の問題と同じように、消去法で必ずしもそうとは言えないものを×にして残ったものが○となるというような選択の仕方になります。従って、大学入試のような問題になれば、国語力がなければ英語の力があっても得点が取れなくなります。
同じようなことは、古文や漢文についても言えます。古文には、古語の文法や単語の力が必要ですが、難しい問題になると最後は国語力が物を言います。選択式の問題も、現代文の選択式の問題を解く力がなければ解けなくなります。
数学の問題は、やさしい問題をいくらたくさん解いても、難しい問題が解けるようにはなりません。難しい問題を解けば、易しい問題を解く力もつきますが、難しい問題を解かずに易しい問題だけ解いても数学の実力はつきません。だから、問題集は解くことに意味があるのではなく、できなかった問題を解けるようにすることで初めて勉強の意味が出てきます。
数学の勉強が何の役に立つかというと、一つは、合理的な世界像が形成されることです。数学の得意な子は、世界には答えがあり、それは努力すれば解明できるというような世界観を持っています。こういう世界観があると、困難なことに直面しても最後までがんばろうという気持ちを自然に持つようになります。数学の好きな子は、仕事をするときでも忍耐強いようです。
数学のより現実的な意義は、形のあるものを作る仕事に携わるときには必ず数学が必要になってくるというところにあります。例えば、橋を作ったり、道路を作ったり、車を作ったりするときには、どこかで数学が必要になります。また、プログラムを作るというような仕事でも、数学が必要になってきます。形のあるものを作るときには、その形に応じて数学が必要になります。それが物理的な形であればあるほど、数学の必要性は増していきます。
社会人になると数学はあまり必要なくなるというのは、物を作る作業に直接タッチしていないからであって、決して社会生活で数学が必要ないからということではありません。
このように考えると、勉強でいちばん大事なのは、国語と数学ではないかと思います。
(この文章は、構成図をもとに音声入力した原稿をamivoiceでテキスト化したものです)
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