●動画:
https://youtu.be/nH4J2cOdI0Q
昔、言葉の森を始めたころ、「何のために勉強をするのか、そして、させるのか」と考えたことがあります。
その当時の社会の一般的な勉強の考え方と対置して考えたのは、次のようなことでした。
第一は、受験から実力へです。
受験に勝つことを目的にした勉強ではなく、自分の実力をつけるための勉強をしなければならないと考えたのです。
第二は、学校から家庭へです。
学校や塾などの外部の機関に頼る教育ではなく、教育の基本は家庭と地域で行うべきものだと考えたのです。
第三は、点数から文化へです。
点数をつけて評価されるようなことが中心になるのではなく、点数につかないような文化的なものこそ評価されるべきだと思ったのです。
第四は、競争から創造へです。
今の教育は、競争の中で行われています。それは、最終的には、受験に勝つことが目的になっているからです。
だから、人間にとって必要な知識ではなく、他人に勝つために間違いやすい問題ができるようになる知識を身につけなければならないのです。
この「競争から創造へ」というのは、最終的には、子供たちがその創造を生かして、独立した人生を歩むということにつながると考えていました。
独立とは、文字どおり独立して自分で会社を作り、又は、自分で仕事を作り出すようなことです。
しかし、当時は、そういうことを言っても、理解する人はあまりいなかったと思います。
だから、この教育の根本の目的は、自分の胸の中にしまっておいたのです。
ただ、教育は、個人を目的にしたものでなく、社会も目的にしたものでなくてはならないということはいつも思っていました。
だから、言葉の森のキャッチフレーズは、「明日の日本を支える子供たちの思考力、創造力、共感力を育てる」ということにしました。
大事なことは、子供たちが成長することと、日本がよくなることを結びつけることでした。
ところで、この「創造と独立」という考え方が、昔はあまり理解されなかったと思いますが、今は漠然と多くの人が、その方向を考えるようになっています。
この創造と独立という方向が、今後の教育の最も重要な柱になるのです。
その理由は、これまでの時代が利便性を中心とする時代だったのに対し、これからの時代は文化を中心とする時代になるからです。
人間の社会で価値あるものとは、みんなが求めるものです。多くの人が求めるものが価値あるものです。価値があるから求めるのではなく、多くの人が求めるから価値が生まれるのです。
わかりやすい例で言えば、ゴルフやサッカーのようなスポーツです。
メジャーなスポーツは、幅広い経済的な裾野を形成しています。つまり、そこで巨額のお金が動いています。
しかし、それは、例えば、地面の穴にボールを入れたり、ゴールの枠にボールを蹴り込んだりすることに価値があるからではなく、多くの人がそれらのスポーツに参加することによって価値が生まれたからなのです。
これまでの世界では、人間が求めるものは、多くは量的なものでした。
より多くの食糧、より多くの土地、より多くの人、という量の世界が価値の中心でした。
その後、価値は量的なものから、利便的なものに移りました。
より効率的なもの、より高性能なものを求めることが価値の中心になっていったのです。
その最新の現象を表すものは、GAFAに見られるネット企業の興隆です。
しかし、これは、利便性の時代がもうすぐ終わることの象徴でもあるのです。
利便性の追求は、やがて、その利便性がガスや電気や水道や交通機関のようなインフラになる方向に進みます。
ガスや電気や水道は、人間の生活に大きな価値のあるものですが、そこにはもはや新しい時代の価値を生み出すという魅力はありません。
人間の社会は、これから、そういう利便性の時代の先に進みます。
先の時代とは、文化の時代です。
その文化の時代のモデルは、江戸時代の300年間続いた平和の中にあります。
私がよく思い出すのは、ウズラの鳴き合わせという遊びがあったというような話です。
同じように、長い平和の時代の中で、真っ白な文鳥が作り出され、金魚や鯉のいろいろな色や形のものが作り出されました。
茶道や華道や俳句なども、それ自体の価値ではなく、文化的な価値として生まれ広がったものです。
このような文化を生み出す歴史を持っているのが、日本という国の特徴です。
イギリスやアメリカが世界の経済的中心であった時代に生まれたものは、ゴルフやサッカーやバスケットボールやアメリカンフットボールやマクドナルドやケンタッキーフライドチキンなどだったでしょう。
しかし、これからは、日本が、日本の歴史を背景にした新しい文化を生み出す時代になります。
その文化の時代には、多くの人が独立起業に参加できるようになります。
GAFAの時代の独立起業は、あるひとつのビジネスモデルでグローバルなシェアを取ることが成功の基準でした。
だから、独立起業に成功するためには、世界一になることが必要で、1位ではなく2位になることは敗北でした。
利便性を基準にした世界では、生き残るのは世界で1社だけというのが原則だったのです。
しかし、文化の時代はそうではありません。
オンリーワンの文化が多種多様に生まれるのが文化の時代です。
そして、今、私たちの価値観は、今、利便性の価値観から文化の価値観へと大きく動き始めています。
この文化の時代の独立起業を想定するならば、子供たちの教育の目標もそこに向かって進めることができます。
ここに来てやっと、勉強の目標として、競争と勝敗ではなく、創造と独立を考える時代が到来したのです。
●動画:
https://youtu.be/3CoC3024_NU
学校 あの不思議な場所
茨木のり子
午後の教室に夕日さし
ドイツ語の教科書に夕日さし
頁がやわらかな薔薇いろに染った
若い教師は厳しくて
笑顔をひとつもみせなかった
彼はいつ戦場に向うかもしれず
私たちに古いドイツの民謡を教えていた
時間はゆったり流れていた
時間は緊密にゆったり流れていた
青春というときに
ゆくりなく思い出されるのは 午後の教室
やわらかな薔薇いろに染った教科書の頁
なにが書かれていたのかは
今はすっかり忘れてしまった
"ぼくたちよりずっと若いひと達が
なにに妨げられることもなく
すきな勉強をできるのはいいなァ
ほんとにいいなァ"
満点の星を眺めながら
脈絡もなくおない年の友人がふっと呟く
学校 あの不思議な場所
校門をくぐりながら蛇蝎のごとく嫌ったところ
飛びたつと
森のようになつかしいところ
今日もあまたの小さな森で
水仙のような友情が生れ匂ったりしているだろう
新しい葡萄酒のように
なにかがごちゃまぜに醗酵したりしているだろう
飛び立つ者たち
自由の小鳥になれ
自由の猛禽になれ
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茨木のり子さんの詩です。
わかるなあ。
「蛇蝎のごとく嫌ったところ
飛びたつと
森のようになつかしいところ
今日もあまたの小さな森で
水仙のような友情が生れ匂ったりしているだろう」
子供のころを思い出すと、いろいろ理不尽なことはあり、子供だったからそれに敏感だったこともあり、蛇蝎のごとく嫌ったこともありますが、大きく見れば、学校はやはり森のようになつかしいところでした。
言葉の森のオンラインクラスの運営も、そのようになつかしいところにしていきたいと思います。
そのためには、勉強の目的を、成績の輪切りの上に行くことではなく、オンリーワンになることに置く必要があります。
昔、年功序列と終身雇用の時代には、輪切りの輪のひとつでも上に行くことが勉強の目標でした。
今も、多くの先生は、その昔の意識で子供たちを指導しています。
しかし、未来は、ベーシックインカムと独立起業の時代になります。
今はまだ、その萌芽もほとんど見られないかもしれませんが、時代は確実にその方向に向かっています。
子供たちは、教科の成績の輪切りに収まらない、無限の個性の可能性を誰もが持っています。
もちろん、これからの個性は学問に裏付けされている必要があります。
だから、学問の実力をつけることは前提ですが、勉強の目的は、勉強そのものではなく自分の個性を生かして生きていくことなのです。
言葉の森は、そういう新しい学校のような場所になることを目指しています。
と書いていてい、ふと「学校ごっこ」という言葉を思い出しました。
子供たちは、学校はあまり好きではありませんが、学校ごっこという遊びは好きです。
勉強したり、教えたり、教えられたちということは、本来楽しいものなのでしょう。
それが、制度として強制されるのでなければ、学校は楽しい場所になるのです。
いつも示唆に富んだ記事を公開して下さり、ありがとうございます。いつか中学生高校生と親のかかわり方について、先生のお考えをお聞きしてみたいと思います。中高生たちは、大きな変化の時代が訪れた社会に出ることが目前に迫った今現在も、頻回の試験や膨大な課題と向き合っています。親はどのような姿勢で子どもと過ごせばよいとお考えでしょうか。よろしくお願いいたします。