学習には臨界学習期があると言われています。例えば、日本人が英語のRとLの発音の区別を学べるのは、幼児期までです。ある時期を越えると、RとLの発音の区別をすることができなくなります。したがってほとんどの日本人はRとLの発音の区別ができません。しかしもちろん、それで困ることはあまりありません。言葉にはそれを伝えるときの文脈があるので、LiceとRiceを区別できなくて困るという場面はまずないからです。
ところで、この臨界期というのは、若いときにはできる能力があったのに、年をとったらできる能力がなくなったということではありません。年をとることによって、若いときにできていた能力に曇りがかかってできなくなったということなのです。若いときに何かを学ぶ手段となっていたものが、その手段であることに磨きをかけることによって、その手段によって学ぶ以外のものを学びにくくさせる障害になっていったという関係になっているのです。
RとLの発音に関して言えば、日本語でも人によってさまざまな「らりるれろ」の発音があります。男性の言う「らりるれろ」と女性の言う「らりるれろ」では当然音色が違います。幼児期には、それらの音色の違いをすべて聞き分ける能力があるのですが、それらを聞き分けていると能率がよくありません。同じ意味内容の言葉を違う音色として聞き分けるのは能率が悪いので、判断の能率をよくするためにRに近い「らりるれろ」もLに近い「らりるれろ」も同じと見なすという聞き方を選択するようになったのです。この選択するという手段に磨きがかかることが同時に、聞き分けることに対する曇りになっていったのです。これが臨界期の意味です。
このように考えると、複雑化と細分化で行き詰まりつつある現在の教育を打開する方法が見えてきます。未来の教育の方法論として求められるものは、曇りを前提としてさらに細分化を重ねていくような方法ではなく、その曇りを取り除くような方法なのです。
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これまでの学校の役割は、人類が獲得した膨大な知識を順序よくかみ砕いて教えるということでした。例えば、足し算を学んだあとに掛け算を学ぶ、ひらがなを学んだあとに漢字を学ぶ、というような流れが作られていれば、学び方はスムーズになります。
もしこれを独学で学ぶとすると、足し算の前に掛け算を学ぼうとしてしまったり、ひらがなの前に漢字を学ぼうとしてしまったりすることも起こります。それは、能率が著しく悪いので挫折の可能性も高まるということです。
そこで、教育を担う制度として学校が必要になったのですが、この必要というのはあくまでもやむを得ず必要になったということです。その自覚がないと、勉強というのは習わないとできない、先生に教えてもらわないとできない、というような錯覚に陥ってしまいます。
湯川秀樹は、5、6歳のときの家庭教育で、論語の素読(そどく)をさせられました。これは、ひらがなを教えたあとに漢字を教えるというな段階的な方法ではなく、最終的に学んで欲しい原文をそのまま直接に教えるという乱暴な方法でした。しかし、そこには、途中の過程はともかく、とりあえず丸ごと把握してしまえば、結果は同じになるという発想があったのです。
山に登るのに、なだらかに迂回して登る軟弱なコースと、何しろ最短距離で登る直登(ちょくと)に近いコースとがあります。この直登コースの方法論が、丸ごと身につける学力なのです。
(つづく)
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貝原益軒は、暗唱の方法として、100字の文章を100回というやり方を提唱しています。
しかし、現在はどこの家庭にもタイマーがあるので、「正」の字を100回書くよりもタイマーで10分間計った方が楽だと思い、言葉の森では、100字を10分間(回数にすると約30回)暗唱するというやり方にしています。
しかし、タイマーがない状態で暗唱することもあると思います。そのときの簡易カウンターの作り方を以前HPに載せました。
今回、自分で字数の制限のない暗唱に挑戦してみたとき、タイマーよりもこの簡易カウンターの方がやりやすいことがわかりました。
そこで、簡易カウンターの図を再掲します。チラシの紙などを使って作ってみてください。この折り方でやると、片道15回往復30回で、ちょうど100字の文章を往復の30回音読すると10分ほどの時間になります。回数で数えた方が早口で言うようになるので覚えやすいという効果もあります。
※もっとセンスのいい簡易カウンターを考えたら教えてください。
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現在の教育の問題は、教育の方法が複雑化しすぎているところにあります。
この複雑化というのは、教育以外の分野にもあります。近代の医療は、特定の現象に名前をつけて特定の対策をセットにする形で問題の解決を図ってきました。これは、デカルトの「問題点を細分化して考える」という分析の方法で、これが有効な時代も確かにありました。しかし、現在はその弊害の方が大きくなっているように思います。
というのは、医療において、医学が発達し、治療法が改善され、病名や原因などがより詳しくなっているにもかかわらず、ある時期から病人が減らなくなってきたからです。現在ではむしろ、医療費の上昇に反比例する形で病人が増えている感じさえあります。
教育においても、様々な教材が開発され、様々な教育方法が生まれていますが、ある時期から、子供たちが賢くならなくなったようです。そのうち、教育費の上昇に反比例する形で学力低下が広がっていくのではないかと思います。
これらの原因の根本にあるのは、複雑化です。教育では、細かい教科や単元に分ける教え方でなく、もっと学問の根本に立ち返る必要があるのです。いわば、ソクラテスやプラトンの時代の学そのものを学ぶというような姿勢を見直す必要があるのではないかと思います。もちろん、人によって得意な分野や好みの分野を研究することは大切ですが、その前提として、総合的にあらゆる分野に精通しているということが必要なのではないかと思います。
教育の複雑化というのは、年々、教科書に盛り込まれるべき内容が多くなるというところにも見られます。大学でも、細分化された隣接分野で対話が困難になるというような状況が生まれているそうです。しかし、これはやはり不自然なことです。学問の複雑化に人間が対応できないのは根本的に何かが間違っているのです。
(つづく)
(この文章は、構成図をもとに音声入力した原稿をamivoiceでテキスト化したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)
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ハワイで作文教室を開いている「あお」先生から、教室新聞が届きました。
ハワイにお出かけの際は、お立ち寄りください。
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「汝自身を知る」ことは、作文の勉強にも当てはまります。
人間の考えは、頭の中で考えているだけではまだ不完全です。現実に文章にしたり音声にしたりすることによって、初めて現実的なものとなります。この文章化されて表に出てきたものが自分自身の一つの面です。自分の書いた文章によって、自分自身を再確認するというところに文章を書く意義があります。
しかし、自分自身を再確認するというのは、単なる出発点です。この出発点を土台にして、新たな創造が始まるというのがいちばん大事なのです。
これは、作文を書く前の構成図について、よりはっきりした形で言えます。構成図を書くというのは、自分の頭の中にある考えを全部出していく作業です。テーマに関連して思いついたことを次々と書いていくと、自分自身の考えが客観的にわかってきます。そして、その考えた結果としての構成図を見ていると、自然にそこから新しい考えが湧き出てきます。
人から教えてもらった考えではなく、自分の中から湧き出てきた考えは、その真実性に確信が持てます。だから、文章を書く練習をしていると(それは日記のようなものでも言えると思いますが)、その人の考えはどんどん個性的になっていくのです。
さて、さらに話を広げて「汝自身を知る」ということで、歴史の勉強を考えてみます。
学校で学ぶ歴史は、世界史の勉強と日本史の勉強に分かれています。昔、私が高校生のころは、社会全体にインターナショナルな雰囲気が強く、西暦と元号を比較すると西暦の方が先進的で元号は古臭いという感覚を多くの人が持っていました。その結果、私は、受験の科目として自然に日本史ではなく世界史を選びました。たぶん、多くの人がそういう感覚を持っていたと思います。
しかし、現在はむしろ、ローカルのよさを見直そうという時代です。西暦と元号で言えば、日本にしかない元号を大事にしようという考え方です。世界史と日本史で言えば、日本人はまず足元の日本史を学ぶべきだという考えです。
「葉隠」という本の中に、次のような文章があります。「世界にはいろいろ歴史の本があるが、この藩の人は、この藩の歴史だけを知っていれば何も困ることはない」(意訳)。これは、ある意味で物事の本質をついています。
世界史と日本史で言えば、日本人はまず日本の歴史をしっかり学んでいれば、それを世界の歴史にも当てはめて考えることができるということです。また、日本人の多くは、これから日本の社会で活躍するはずですから、その足場となる日本の歴史を学んでいくことが役に立つということです。
日本史の勉強には、もう一つ大きな役割があります。それは、日本史を学んでいると、日本人のほとんどが、古事記や日本書紀の世界にまでつながる家の歴史を持っていることがわかるということです。小学生のころ、苗字によって源氏か平家かを分ける遊びが流行ったことがあります。乱暴な分け方にも見えますが、これも根拠がないわけではありません。
世界中の民族で、この日本人のように先祖のルーツをたどれる長期の平和な歴史を持っている民族はほとんどありません。日本史を学ぶということは、単に歴史の知識を学ぶことだけではなく、日本人としての自分自身を知るということにつながります。
そして、自分自身を正確に知れば、人間には自ずからそのよいところを伸ばし悪いところを直すという自然の力が働き出します。外国のよいところを学んで、それを外科手術や投薬治療のように外から日本の社会に当てはめようとするのではなく、日本の歴史の中から湧き上がるものによって自然によい方向に向かうという発想がこれからもっと必要になってくると思います。
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「汝自身を知れ」というソクラテスの言葉は有名ですが、この意味を深く理解している人は少ないと思います。私は、この言葉を、すべては自分の中に答えがあるということとして考えています。
例えば、「読書百遍意自ずから通ず」という言葉があります。つまり、何度も繰り返して読んでいけば自ずからわかるということです。この自ずからわかるような能力が、人間の中にはもともと備わっているのだと思います。
沖縄の方の水泳の教え方で、子供を船から海に落としておぼれそうになったら引き上げるというやり方があるそうです。ちょっとかわいそうですが(笑)。何度もおぼれそうになっては引き上げられているうちに、自然に泳ぎ方を覚えてしまうというのです。これも、人間にはもともと泳ぐ能力があり、それを思い出せば自然に泳げるようになるということです。
尿療法という健康法があります。自分の尿に含まれている自分自身の情報を知ることによって、病気などが自然に治癒の方向に向かうというのです。これも人間の体の中にある自然治癒力が、自分自身を知ることによって最適の状態で活性化するということなのではないかと思います。
Oリングテストという方法も、人間の筋肉の中に自ずから自分にとってよいものを感知する力があるということを示していると思います。
もっと身近な例でいうと、私たちはオレンジを見れば自然に唾液が出ます。これは、努力をして身につけた能力ではなく、もともとあらかじめ自分の体の中に、オレンジという状況に対応する能力として備わっているものです。
実際に遺伝子工学のレベルでも、同様のことが証明されています。病気などになったときに、どのようにして身体がその病気に対応するかというと、その病気を治すことに対応したDNAの情報が読み取られて必要な酵素などが合成されるのだそうです。つまり、新しく何かを作るのではなく、すでに自分の中にある情報をただ読み出すだけというやり方で、生物は外界の変化に対応しているのです。これは、身体の外から薬を与えたり手術をしたりするような方法とは180度違う発想で、もともと人間に備わっている自然治癒力を活性化するという考え方です。
話は少し脱線しますが、声にはその人のそのときの感情が載っているそうです。これを利用して、声で感情を読み取るソフトが開発されました。ということは逆にいうと自分の声をずっと聴いていると、そのときの自分の感情が把握されて、その感情を最もよい状態に修正するような力が人間の中にあるのではないかとも思えてきます。念仏を唱えるなどということの中には(私はやりませんが)、実はこういう効果もあるのではないかと思います。しかしこれは単なる仮説です。
さて、「汝自身を知れ」は、作文の勉強についてもあてはまります。
(つづく)
(この文章は、構成図をもとに音声入力した原稿をamivoiceでテキスト化したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)
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高校生と大学受験生の連休中の勉強について説明します。
高校1年生、高校2年生は、まだ受験という差し迫った目標がないので、ある程度時間的な余裕があります。この時期に、空いている時間をどのように有効に使うかというと、一つは読書です。勉強や受験には関係ないように見える読書にたっぷり時間を割いておくとあとで必ずよかったと思うときが来ます。もう一つは、英単語です。高1や高2の時間のあるときには、あまり考えずに進められる勉強として英単語の暗記をしておくと、高校3年生なって受験勉強に突入したときに勉強がはかどります。いちいち辞書を引かずに英語の勉強を進められるからです。第3は、苦手科目に集中することです。夏休みの1ヶ月間苦手科目に取り組めば、ほぼ必ずその科目は得意科目になります。
高校3年生の受験生にとって大事なことは、三つあります。
第一は、赤本や青本などで志望校の過去問を必ずやってみることです。もちろん、志望校の過去問を解く実力はまだありません。教科によっては全然できないものもあります。しかし、答えを書き込みながらでもその過去問をやっておくと、問題の傾向や性格が必ず分かってきます。問題の傾向や性格が分かってから進める勉強は、一般的な勉強よりもはるかに能率がよくなります。普通の高校生は、ただ漠然と勉強して最後の仕上げとして過去問をやるというような発想で勉強しやすいのですが、これ全く逆です。できなくてもいいから、まず過去問をやって、その過去問の傾向に合わせた勉強をしていくというふうに考えるのです。しかし、実際には高3の初めの時期に過去問に取り組むような自覚的な高校生はほとんどいません。したがって、ある程度強制的に家庭で過去問に取り組む時間を確保しておく必要があると思います。予備校などで、なぜ過去問を早めにやらせないというと、生徒が過去問をやって個別の学校や個別の自分の実力について相談されても一斉指導のスタイルでは対応しきれないからです。
第二は、ほかの人の合格体験記を読んでおくことです。特にその学校が自分の志望校と同じであれば、参考書や問題集や勉強の仕方で参考になる例が多数載っています。情報時代には、そういう先人の知恵を生かしておくことが大切です。
第三は、その合格体験などの記事を元にして、自分なりによいと思われる参考書や問題集をまとめ買いすることです。今はインターネット書店があるので、必要な本が時間をかけずに手に入るようになっています。そこで、自分でいいと思った参考書や問題集を一つの教科について複数買っていきます。そして、その教材が届いたら試しに数ページやってみて、自分にとっていちばん相性がいいものをメインの教材と決めます。メインの教材はこれから1年間つきあうのですから、手触りやレイアウトの好みなど感覚的なものが意外と重要です。そして、その参考書や問題集を、わからないところがなくなるまで5回ぐらい繰り返し読むような予定で勉強を進めていきます。数冊を80パーセント仕上げるのではなく、1冊を100パーセント仕上げるというのが勉強の鉄則です。
これからの1年間は、過去問をときどき解き直し、過去問で勉強の軌道修正をしながら勉強を進めていってください。
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