人は何のために生まれてきたのか。
円は、自分のことを知りたいと思い、直径に尋ねた。
しかし、直径の答えには、どこまで行っても割り切れなさが残った。
ある日、円はふと気づいた。
直径が先にあるのではなく、僕が先にいたんだと。
人生の目的が先にあるのではなく、人生が先にあったのだと。
円は、考えた。
だから大事なのは、無限にある直径の可能性の中でどういう直径を選ぶかということだ。
その直径を軸として回転をすれば、円はひとつの球になるだろう。
球の中で、円は無限に存在する。
人が学ぶのは、球になる可能性を求めて、直径を引く場所を探すためだ。
孔子は、十五にして直径に志し、三十にして球になるために立った。
作文教育には、個人における教育としての面と、社会における文化としての面の両方の面があります。
個人の教育としての面は、知的創造性を育てるための準備という面です。
その方法として、言葉の森では四つの面からの勉強を考えています。
第一は吸収力をつけるための音読と暗唱の自習、第二は読解力をつけるための多読と復読の練習、第三は構成図を書くことによって思考力を育てる練習、第四は構成的な作文によって表現力をつける練習です。
この中でも、特に暗唱という自習が、読解力の元になる吸収力をつける、思考力をつける、表現力をつけるという三つの面から重要な練習だと考えています。
暗唱は、野球や剣道などで行われている素振りの練習に相当します。暗唱の学習は、社会の様々なところで行われています。例えば、九九を覚えるというのも、暗唱を利用した学習です。また、日本の社会では昔から論語の素読のような暗唱を学習に生かす文化がありました。英語や古文の練習でも、暗唱を生かした勉強がよく行われています。
暗唱による勉強は、だれでも多かれ少なかれ行ったことがあると思います。しかし、従来の暗唱の勉強には、いくつかの前提がありました。ひとつは一般に、一度に覚える量がそれほど多くないということです。もうひとつは、一度覚えたらそれで目標が達成されたことになるということです。さらにもうひとつは、暗唱は子供時代に行うものだと思われていることです。
作文教育に生かす暗唱は、従来の暗唱とは異なります。ひとつは、より長い文章を暗唱できる力をつけること、もひとつは、暗唱が完成したあとも継続してその暗唱を繰り返すこと、そしてもうひとつは、子供時代の学習としてだけではなく、成長してからも学習を続けることに意義があることです。
暗唱の土台の上に、読む力、考える力、書く力をつけるというのが、創造性を育てるための作文教育の中身になります。
社会における文化として作文という面では、教育の場よりも発表の場が重要になります。
2008年の総務省の調査によると、世界中のブログに使用されている言語の中で、日本語の使用率がかなり高いという結果が報告されています。この調査の結果が正しいとすると、日本人は文章を発表することが好きな民族なのだと思います。この発表の場を、プログ、SNS、又は様々なコンクールなどを利用して広めていくことが文化としての作文の広がりを作っていきます。
これからの社会では、新しいものを創造する力がますます必要とされるようになります。仕事においても、右のもの単に左に移すような仕事は、これからは人間ではなく機械が自動的にやってくれるようなものになるでしょう。
知識においても同様です。伝達するだけの知識ではない創造する知識がこれから求められるようになります。その創造する知識は、学校によって教え込まれるようなものとは性格が違います。社会に自由に発表する場があることによって初めて創造的な知識が広がっていきます。
その自由な発表の機会を育てていくというのが、作文教育の文化的な中身になります。
社会や文化においても、創造的であるところにその社会や文化の存在する意味があります。
日本の社会と日本の文化を守り発展させていく道は、日本が世界に対して知識の面でも仕事の面でも創造的であり続けることになると思います。