タマスダレ
●動画:https://youtu.be/96m5vq0esLw
世の中の悪の原因は、ひとことで言えばエゴがあることです。唐突ですが。
すべての人が、自分の利益のために行動すれば、他人の幸福は考えなくなります。
それが、奪い合いの世界です。
ごく一部の人は、その奪い合いの世界から離れることができました。
法隆寺の玉虫厨子の物語は、そのひとつの例です。
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法隆寺の大宝蔵には有名な玉虫の厨子がある。……ここに描かれている釈迦の仏世界の絵とは、「捨身飼虎」(しゃしんしこ)の図なのだ。
昔インドの薩□王子(さったおうじ、□は土偏に垂。釈迦の前世)が馬で山野を駆けめぐっている時、飢えた虎が七匹の小虎を連れて竹林をさまよっているのに出合った。薩□太子は飢えた虎親子を憐れに思い、わが身を虎に与えるべく、竹でのどを刺した。血を見れば虎は襲いかかるはずなのに飢えのひどさのために襲う力さえなく、太子を食べようとしなかった。そこで太子は、崖に上って上衣を脱ぎ、崖から飛び隆り、地上に墜落した自分の肉を虎に食べさせた
。
という仏世界の慈悲深い物語りであるが、この菩薩行を絵に描いたのが「捨身飼虎」の図である。(引用)
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この話をオーバーに思う人もいると思いますが、同じような例は数多くあります。
例えば、太平洋戦争のとき、硫黄島でアメリカ軍と戦った日本人は、自分たちが米軍に負けることが明らかにわかっていました。それは、勝ち目のない戦いだったからです。
しかし、それにもかかわらず、日本軍は、本土にいる妻や子供たちを守るために、少しでも米軍の侵攻を遅らせるという目的でアメリカ軍と戦いました。(日本軍の死者22,000人)
その結果、実際に、アメリカの日本侵攻は遅れたのです。
これが、現代の捨身飼虎です。
さて、奪い合いの世界が残っているのは、多くの人が自分の利益を先に考えるからです。
自分にとって必要なものだけを取ればいいのに、必要以上のものを取ろうとする人がいるから争いが起こります。
その争いのもとにあるのは、必要なものが限られた世界があるということです。
人間の意識が、個人のエゴから脱却して他人の幸福も同時に考えられるようになれば、争いの世界はなくなります。
その例のひとつは、東北大震災で示された、被災地の人々の行動です。
しかし、地球上のほとんど人は、まだそういう意識にはなっていません。
その前提は、必要なものが限られた世界が残っているということです。
必要なもののもとになるものは、現代の社会ではお金です。
そのお金のもとになるものは、必要な物材を作り出すための方法とエネルギーです。
方法の根本にあるものは、植物のもつ光合成です。
また、微生物の持つ多様な能力です。
植物と微生物の能力は、自然界に無償で提供されています。
植物や微生物の能力を生かすためには、エネルギーが必要です。
エネルギーのもとになるものは、太陽です。
自然界の生き物は、植物や微生物の助けを借りて、太陽のエネルギーだけで生きています。
しかし、人間には人工的な環境が必要です。それが衣食住です。
その人工的な環境を維持するためには、太陽のエネルギーを圧縮する必要があります。
それが、薪であり、石炭であり、石油であったのです。
今、世の中にある物材やサービスの価格のほとんどは、つきつめればエネルギーと人間の手間によるものです。
人間の手間は、機械化とIT化によって今後大きく減っていきます。
エネルギーに関しては、フリーエネルギーはまだ少し先のことだとしても、すでに石油を10分の1のコストで作れる技術が日本で生まれています。
https://www.youtube.com/watch?v=THSY6B3bmhA
エネルギーのコストが10分の1になれば、物材のコストも10分の1に近づきます。
エネルギーのコストが、いずれ太陽と同じように0になれば、物材のコストもいずれ0になります。
現代は、こういう時代が来る前の前夜の時代なのです。
今の世の中には、これまでの限られた資源の時代に、その限られた資源を利用して他人をコントロールする道具に使ってきた人々が残っています。
それらの人々が、誰のプラスにもならないが、自分たちだけのプラスになる戦争や過剰な医療を生み出してきました。
しかし、限られた資源という前提がなくなれば、誰もが自由に生きられるようになります。
これまでは、「そんなことじゃ食っていけない」という言葉が成り立っていました。
しかし、ジャングルにいるサルたちは、毎日好きなバナナを食べて暮らしています(たぶん)。
人間も、衣食住の心配がなくなれば、関心は、食べることにではなく、自分らしく生きることに向かいます。
今はまだ、これまでの限られた資源の世界を利用して世の中をコントロールしてきた人々が、自分たちの既得権を守るために、世界の進歩を止めようとしています。
ロシアとウクライナの戦争にしても、イスラエルとハマスの戦争にしても、将来のパンデミック対策へのWHOの提案にしても、一昔前であれば、ほとんどの人がマスメディアの情報を信じてきました。
しかし、今は、まだ不十分ではあっても、インターネットによって正しい情報が広がるようになっています。
今後、情報がオープンになることに比例して、世の中はよくなっていかざるを得ません。
よくなってほしいではなく、よくならざるを得ないのです。
私たちは、今、そういう新しい世の中の手前にいるのです。
メジロ
●動画:https://youtu.be/VNJ6Ru9a-CA
私は、前回も書きましたが、人を批判するのは好きではありません。
しかし、間違ったことが公にされていて、それを多くの人が知らないというのは、世の中の進歩にとって、特に教育の分野においてはマイナスになると思うので、あえて批判的なことも書くことにしました。
「ブンブンどりむ」の監修者である齋藤孝さんの作文指導の骨格に、穴埋め作文という方法があります。
ただし、斎藤さんは、そういう言葉で述べているわけではありませんから、穴埋め作文というのは、私が作った造語です。
この穴埋め作文というのは、作文指導に慣れていない人が行いやすい方法です。
「最初にこういうことを書いて、次にこういうことを書いて、最後はこういうふうにまとめてみよう」と、構成の仕方を穴埋め式に指導する方法です。
学校教育でも、作文の授業で、作文指導に慣れていない先生が子供たちに構成メモを書かせるやり方をすることがあります。
作文を書く前に、構成メモを書かせ、そのメモをもとに作文を書かせるという指導法です。
こういう授業を受けた生徒のほとんどは、「直接作文を書いた方が簡単なのに」と言います。
特に、作文力のある生徒は、構成メモを書くことを面倒に思います。
逆に、作文力のない生徒は、構成メモを書いても、それで作文がよりよく書けるようにはなりません。
構成メモは、ただ遠回りするだけの勉強になっているのです。
それは、なぜかというと、子供たちの物事に対する認識の仕方には、学年による違いがあるからです。
年齢で言うと、構成的に考えることのできる学年は小学5年生からです。
小学4年生までは、作文を書く前に全体の構成を考えるということ自体に無理があります。
だから、小学2、3年生までの生徒に、最初にメモを書いてから作文を書くという指導をするのは、子供にとっては途方にくれるだけで、何のプラスにもなりません。
しかし、小学5年生以上、特に中学生や高校生に、思いついたままに書いていいというのでは作文指導になりません。
思いついたままに書いていいのは、自由な日記だけです。
日記を書くときに構成メモを考える人はまずいません。
ところが、近年の中学入試、高校入試、大学入試では、作文小論文の課題が出ることが増えています。
作文の試験で、受験生が思いつくままに書いたのでは、当たり外れを大きくなります。
また、書き出す前に、どう書こうかと考える時間が長くなります。
だから、学年が上がったときには、構成を考えてから書くことに慣れておく必要があるのです。
しかし、その構成の仕方は、シンプルなものである必要があります。
いちいち先生に、「最初にこう書いて、次にこう書いて、最後はこうまとめて」と教えてもらっているのでは実際の試験では使えません。
自分の中に、構成の枠組みがいくつかあり、それに当てはめて考えていくようにするのがいいのです。
言葉の森では、この構成の仕方に、小1から高3まで学年別の構成法を割り当てています。
例えば、中学1年生であれば、是非の主題(良いか悪いかを明確にした意見)のあとに複数の理由を展開するというのが、中1の作文の構成の大枠です。
例としては、「宿題は良いか悪いか」「漫画は良いか悪いか」「嘘は良いか悪いか」というような課題です。
何が正しい意見かというのではなく、自分の述べる意見に、裏付けとなる複数の理由が書けることが大事です。
小学生の作文も、小学生だけの作文指導にとどまるのではなく、将来、中学生や高校生になったときの作文指導に結びつけるかたちで構成を考える必要があります。
しかし、小学5年生までは、子供たちに物事を構成的に考えるという意識がまだないので、構成は、言葉の項目を中心に組み立てています。
例えば、「題材」としては会話を思い出して書こう、「表現」としてはたとえを入れて書こう、「主題」としては自分の思ったことを長く書こう、初歩的な「構成」としては、お父さんやお母さんに似た話を聞いて話を立体的にして書こう、というような書き方です。
この書き方を身につければ、題名ごとに穴埋め式の構成メモを考える必要はありません。
また、先生に教えてもらわなくても、自分で構成的な作文を書くことができます。
構成的に書くという発想ができると、大学入試の小論文でも、すぐにどういう切り口で書くかという考え方ができるようになります。
「これは、社会問題の主題で、原因と対策というかたちで書いていこう」とか、「これは、生き方の主題で、複数の方法というかたちで書いていこう(この場合の複数の方法のひとつは人間的な方法、もうひとつは社会的な方法という形で拡げることが大事です)」などという考え方ができるのです。
齋藤孝さんの穴埋め作文では、このようなところまでは考えていないはずです。
だから、穴埋め式の作文指導は、子供たちに実際に作文を教えたことがない人が思いつきで作文の書き方を教えるときによくやるやり方と似てくるのです。
それを、添削をする講師が、熱心に添削するとしても、もともとの方法論がない状態での添削ですから、添削も雰囲気的なものにならざるを得ません。
添削する人はそれぞれに一生懸命やっていますが、大事なことは、現場の熱心さではなく、大きな方針があるかどうかということです。
更に言えば、作文教育に関して、何らかの理念的な柱があるかどうかということが大事なのです。
作文教育を含めた言葉の森の教育の理念については、下記のページに載せています。
「日本の教育を根本的に改善するオンライン4人クラス――対面式教育とオンライン式教育を超えた新しいオンライン教育のプラットフォーム 」
https://www.mori7.com/as/4582.html
====(一部を引用)
言葉の森の教育理念は、子供たちの思考力、創造力、共感力を育てることです。
他の通信教育や学習塾は、受験競争に勝つことが教育の目的です。
言葉の森は、思考力、創造力、共感力を育てる結果として、受験競争にも勝つということで勉強を進めています。
だから、言葉の森は、成績を上げるための無理な詰め込みはしません。
しかし、小学校高学年や中学生ぐらいになると、ほとんどの子はがんばって勉強するようになります。
普通に育っていれば、子供たちは中学3年生になるころには、自然に自分の意思でがんばるようになります。
大事なことは、知識の詰め込みを先取りすることではなく、子供たちの自然な成長を育てることです。
今は、人為的な環境が多いので、自然に育てることをまず意識的に行っていく必要があります。
自然に育てるということは、楽しく遊び、楽しく学ぶ環境を作るということです。
将来、現在のような受験競争を中心とした勉強はなくなります。
それに代わって登場するのは、子供たちの個性を伸ばし創造性を育てる教育です。
大人は、今の価値観で子供の教育を考えるのではなく、子供たちが成長する時代の価値観を想像して子供の教育を考えていく必要があります。
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