スズメたち
●動画:https://youtu.be/gnEw-1iYNGU
これからの子供たちの勉強で大事なのは、ひとつは国語、算数、英語などの教科的な学力をつけることですが、もうひとつは、作文、創造発表、プログラミングなどの創造的な学力をつけることです。
国語、算数、英語などの学力は、塾に通わなくても、家庭で毎日の学習習慣があればそれで十分です。
しかし、小学123年生のころは、親の指示で勉強していた子も、小学4年生以上になると、親子関係だけでなく、友達関係の中で勉強することを望むようになります。
そこで、言葉の森が提案するのが、小学456年生対象の総合学力クラスです。
総合学力クラスでは、1週目に国語の授業、2週目に算数の授業、3週目に英語の授業、4週目に創造発表の授業を行います。
それぞれの授業で更に深めたいものがあれば、国語読解や算数数学や英語や創造発表やプログラミングのクラスに移ることもできます。
いずれも、小学456年生にとどまらず、中学3年生まで続けることができます。(作文、国語読解、創造発表、プログラミングは高校3年生まで)
作文は、これからの学力として重要になりますから、小学456年生の基本的な学習は、作文と総合学力ということで進めていき、総合学力の中で更に深めたい講座があれば、国語読解、算数数学、英語、創造発表、プログラミングなどの単独の講座を受講するというのがいいと思います。
総合学力クラスは、新しく開設したので、まだクラス数が限られていますが、今後クラス数を増やしていきます。
友達と一緒に勉強できるオンライン5人クラスで、国語、算数、英語、創造発表の授業を体験してみてください。
先日、4週目の創造発表の授業の際に、小4の生徒が発表してくれた作品の一部を紹介します。
▽スクラッチゲーム
▽ニュートンのゆりかご
▽空中に浮かぶコマ
▽白玉作り
こういう創造発表を週1回できるというのは、勉強としてもかなり面白いです。
すでに大学入試では、総合選抜入試が主流になっていますが、小学校時代から、自分の興味のあることを研究し実験し発表するというのは、新しい勉強のスタイルになると思います。
無料体験学習を希望される方は、お電話でお申込みください。(クラス数が少ないため先着順)
電話:045-353-9061(平日10:00~17:00、土日10:00~12:00)
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言葉の森は、これまでは作文指導がメインでした。
その後、国語読解指導が加わりました。
今後は、国語、算数数学、英語の全教科をカバーし、更にそれに加えて、作文、創造発表、プログラミングの教育を行っていきます。
言葉の森で勉強すれば、ワンストップですべての必要な勉強がこなせる教室を目指していきます。
そして、大事なことは、それを子供たちのコミュニティを育てる方向で行っていくことです。
たぶん、数年後には、言葉の森で勉強した子供たちの同窓会ができると思います。
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メジロ2羽
●動画:https://youtu.be/K7P3JTdihYc
齋藤孝さんの「こども作文力」があまりにもレベルの低い内容だったので、参考までに齋藤孝さんの「こども読解力」という本も読んでみました。
言葉の森は、作文指導以外に、国語読解指導もしているからです。
「こども読解力」の本には、もとの文章に、赤や青や緑で線が引いてあり、解説のようなことが書いてあります。
一目見て、これでは読解力はつかないと思いました。
それどころか、読解力のある生徒は、このようなわずらわしい解説は読みません。
もとの文章だけ読んでいた方が、ずっと頭に入るからです。
読解力のない生徒は、もとの文章も解説もどちらも読まないと思います。
この本には、「読解力」と書いてありますが、読解の問題はどこにもありません。
これでは、読解力は身につきません。
読解力は、読む力と解く力のふたつからできています。
このふたつは、似ていますが、全然違うものです。
だから、読む力があっても解く力がない生徒や、逆に解く力があっても読む力がない生徒は、どちらも読解の点数が上がりません。
第一に、読む力をつけるためには、入試問題に出てくるような文章を繰り返し読むことです。
それが、言葉の森が行っている問題集読書です。
ただし、小学生の場合は、難しい文章を読む以前に、読書の量を確保しておく必要があります。
第二に、解く力をつけるためには、理詰めに問題文を読むことです。
その解き方のコツは、「
小学生のための読解・作文力がしっかり身につく本」に載せています。
これは、「小学生のための」となっていますが、小学生がひとりで読むには難しすぎます。
保護者が読んで、子供の読解のテストを分析するときに使うものです。
また、この本は、本当は、小学生向けではなく、中学生、高校生向けの本です。
大学入試共通テストの対策として使うのがいちばんいいと思います。
昔、私が教えていた高校3年生にセンター試験国語の現代文を解かせたところ、最初はみんな60点ぐらいしか取れませんでした。
そこで、1人について2時間ぐらい解き方のコツを説明すると、翌週からみんな100点近い成績を取れるようになりました。
どうして説明に2時間ぐらいかかるかというと、その生徒の間違えた部分についてだけじっくり解説するからです。
だから、一斉指導はできないのです。
読解検定で高得点を取っている生徒は、お母さんが同じようなやり方をしています。
問題文に沿って、その選択肢のどこが合っているのか違うのかということを理詰めに考えるようにすると、必ず読解の成績は上がります。
ただし、解き方のコツで成績が上がるのは、読書力のある子の場合です。
読解力がないという生徒の場合、多くは解き方のコツを理解する以前に、読む力をつけておく必要があります。
その力をつけるのが問題集読書です。
更に、問題集読書をやる以前に、読書量自体を増やすことが必要な子もいます。
最近は、そういう子の方が増えています。
小学校低中学年の国語力は、国語読解クラスで勉強するよりも前に、まず家庭で本を読む習慣をつけることが大事です。
ところで、私は、毎回書いていますが、人を批判することは好きではありません。
批判よりも大事なことは、創造だからです。
ただ、言葉の森が指導している作文と国語読解に関連して、あまりにも低レベルな本が出ているのを見ると、日本の作文教育、国語読解教育の質を下げないためにも、一応説明をしておく必要があると思いました。
それで、あえて批判的なことを書きました。
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国語読解力をつけるためには、読む力と解く力を分けて考えること
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ガーデンシクラメン
●動画:https://youtu.be/0hTL8dcP5sk
寺子屋教育の本質は、ひとことで言えばコミュニティ教育です。
子供たちは、成績や競争や賞罰によって勉強するのではなく、友達と一緒だから楽しくて勉強したのです。
今の教育、特に受験教育は、子供たちを個々ばらばらに孤立させて、競争によって意欲化させるという方法で行われています。
ここに、根本的な違いがあります。
そして、寺子屋教育の勉強の方法は、精選された教材を元にした音読、暗唱、書写、算盤の反復学習でした。
しかし、ただそれだけを続けていては、学習が単調になってしまうので(マンネリ化という言葉よりも単調化の言葉の方が日本語らしい)、季節ごとに街に出て多くの人に自分の書写を見てもらうというような企画も用意されていました。
寺子屋時代の子供たちは、コミュニティを楽しんでいたので、いろいろな悪ふざけやいたずらもしました。
それが行き過ぎると、先生は叱らなければなりませんでした。
しかし、叱る方法は、単純な禁止や罰という方法は少なく、子供たちが傷つかないような工夫した叱り方が行われていました。
例えば、先生が悪いことをした子供をひどく叱ったあとに、近所のおばあさんが出てきて、「私に免じてどうか許してやってください」と頼むというような打ち合わせが事前に仕組みとして考えられていたのです。
子供たちは、朝早くから寺子屋に来て、みんなで大声で暗唱するような勉強をしたあと、午後は家に帰り、そのあとは子供たちどうしで楽しく遊びました。
当時のヨーロッパでは、限られた貴族階級の子弟たちが、先生に鞭で脅されながら勉強をしていました。
日本の当時の識字率は、世界でも最も高いものでした。
その子供たちが、明治時代に日本の近代化を急速に成し遂げる人物に育ていったのです。
勉強は、楽しく主体的にやるものです。
競争で煽られながら、言われたことをただひたすらやって、その結果を競争で評価されるようなものではありません。
言葉の森が目指しているのは、かつての日本の寺子屋教育の伝統を、現代のITテクノロジーを生かして、高度に復活させることです。
そのプラットフォームが、現在、500人以上の生徒が参加しているオンライン少人数クラスの教育です。
オンライン教育は、しばしば対面式の通学教育と比較されますが、言葉の森のオンライン少人数クラスは、通学教育よりも更に対面式の密度が濃くなったオンライン教育です。
このオンライン少人数クラスの教育を生かすためには、同学年の同レベルの生徒が5人以内の少人数で集まるクラス運営を無数に増やす必要があります。
そのためには、生徒数は、1万人を超える必要があります。
この規模になれば、現在の通学式の集団一斉指導の学校教育は、少人数の対面式オンライン教育に置き換わるでしょう。
それが、寺子屋教育を現代に復活させるということです。
教育改革の第一歩は、先生がどうしたとか、教材がどうしたとか、教え方がどうしたとかいうことではなく、理想のプラットフォームを作ることです。
そのプラットフォームを作ったあとに、先生や教材や教え方の問題が出てくるのです。
こういう言葉の森のビジョンと同じようなことを言っている人は、まだ誰もいません。
しかし、言葉の森には、毎日楽しく勉強している子供たちと、言葉の森の教育を理科してくれる保護者の方と、長年言葉の森で指導を担当してきた多くの優れた講師がいます。
日本によりよい教育を作り上げ、そして、日本をよりよい国にするためにこれからも努力していきたいと思います。
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言葉の森の電話受付時間を、平日10:00~17:00、土曜・日曜10:00~12:00とします。
(平日の時間を早めに終了することにしました。一方、日曜の午前中も電話連絡を受け付けるようにしました。)
受付時間外の欠席連絡は、検索の坂から、又は、オンラインクラス一覧表のご自分の名前の横の△印からお願いします。
受付時間外のその他のご連絡やご相談は、個別れんらく板からお願いします。
土曜・日曜は、教育相談も受け付けます。ただし、ご相談は15分以内を目安としてください。
以上、よろしくお願いいたします。
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ミカンとメジロ
●動画:https://youtu.be/hDu6rb1sQvs
私は、何度も同じことを書きますが、人を批判することは好きではありません。
大事なことは、批判ではなく創造することだからです。
だから、批判のような話になるときは、必ずこちらの独自の対案を出しています。
日本の作文教育は、世界の水準を大きく超えています。
諸外国で、日本のように小学1年生から作文が書ける教育をしているところはありません。
なぜ、日本でそのような作文教育ができるかというと、日本語は、喋る音と書く言葉が一対一で対応しているからです。
数少ない例外が「わとは」「おとを」「えとへ」「小さいゃゅょっ」などです。
これらの例外を除けば、日本では、喋ることのできる子は作文を書けるのです。
このように恵まれた日本語環境で生きる子供たちにもかかわらず、作文の苦手な子は数多くいます。
また、作文教育のほとんどが、小学校の間で終わります。
小学校時代の中でも、作文教育が主に行われるのは、小学2、3年生までです。
小学校高学年、中学生、高校生と、作文指導は、次第に少なくなるか、なくなります。
それは、作文指導の理論と方法がないからです。
現在の作文指導のほとんどは、穴埋め作文のような構成メモと、赤ペン添削による指導です。
この指導で、作文が書けるようになる子は、もともと書ける子だけです。
また、中学生、高校生まで作文の学習を続けようとする子はいません。
齋藤孝さんが書いた「こども文章力」は、この低レベルの作文教育の現状を追認し、そのまま作文指導の標準としたものです。
作文教育を考える現場の先生やお父さんお母さんが、こういう作文教育でいいのだと考えれば、作文が書ける子は、もともと書く力がある子だけになります。
また、中学生、高校生まで作文の勉強を続けようとする子は出てきません。
なぜ、このような作文指導になるかというと、著者に、作文教育というものに対する理論と方法がないからです。
作文通信教育講座「ブンブンどりむ」は、齋藤孝さんが監修しています。
寄せ集めの作文指導で作文が書けるようになる子は、親がていねいにフォローしてあげることのできる子だけです。
私は、最初、「こども文章力」のそれぞれの章について、もっとよい別の指導の仕方があるということを書こうとしました。
しかし、ほぼ全ページについて書く必要があるとわかりました。
それぐらい、レベルが低いのです。
それで、以下は、簡単にまとめて書くことにしました。
より詳しい話を知りたいという方がいれば、コメント欄に書いておいてください。
■全体の感想
基本的な考え方は、穴埋め作文です。
「最初にどうして」「次にどうして」「最後にどうなった」という穴埋めの枠を埋めることができても、それを作文として長く書けるのは、もともと書く力がある子だけです。
そして、書く力がある子は、そういう遠回りなことをするよりも、直接作文を書きたいと思います。
学校でよく行われている構成メモの指導も、この穴埋め作文の指導と同じです。
■例文
この本に唯一載っている小学3年生向けの例文は、生徒の見本とするような例文になっていません。
第一に、題材に個性も感動もありません。第二に、「朝起きてから寝るまで」の作文のように構成が平板です。第三に、結びの感想が「うれしかったです」のような浅い感想で終わっています。第四に、たとえを使うというような表現の工夫がどこにもありません。
字数を埋めるために、出来事を順番に書いているだけの例文になっています。
■日記
日記で、何を書くかという穴埋めの提案をしていますが、日記で大事なのは、何を書くかではなく、どう書くかです。
また、そもそも、小学校低学年で日記を書かせる指導に意味はありません。
大事なことは、書かせる前に、本を読ませることです。
■読書感想文
物語の内容と自分のエピソードを結びつけようという書き方は、言葉の森の指導法とそっくりです。
言葉の森が、この読書感想文の指導法を始めたとき、同じような読書感想文指導をしているところはどこにもありませんでした。
本当は、この読書感想文の指導にこそ、具体的な例文が必要ですが、この本にはそれはありません。
(言葉の森の例文は、
感想文の書き方)
■将来の夢
将来の夢について、将来のことを書く手順が書かれています。
しかし、「将来の夢」という題名は、将来のことを書くのではなく、そう思った過去の実例を書くことが大事です。
■問いを立てて書く
テーマを考えて理由と結論を書く書き方が漠然と説明されています。
しかし、問いを立て、その理由を述べるには、問い自体に対比が必要です。
「BではなくAだと思う」という対比があればこそ理由が書けます。
■観察したことを書く、比較したことを書く
観察したこと、比較したことなどという作文の課題が書かれています。
こういう「○○作文」というような作文指導をしている先生は多いと思います。
しかし、作文指導は、いろいろなことを思いつきでやらせるものではなく、ひとつの方針に沿って指導するものです。
■調べたことを書く
調べることとして定義、背景、経緯などを調べると書かれています。
しかし、調べたことを書く際に大事なことは、データ(数字や固有名詞)を入れることです。
また、作文を書いている途中でデータを調べるのではなく、すでに調べたデータを作文にあてはめるという考え方をする必要があります。
そうしないと、調べるだけで時間がかかってしまうからです。
■この中学校を選んだ理由(志望動機)
志望理由として、その学校のこと、自分のやりたいことを書くと書かれています。
しかし、志望動機は、ただ学校のこと、将来のやりたいことを書くのではなく、自分の過去の実績をもとにして書くことが大事です。
このコツを知らない人が多いです。
■小学校時代の思い出
行事に参加したこと、知らない土地や人に出会ったこと、芸術やスポーツを見て感動したことなど、思い出の例が羅列されています。
しかし、思い出という実例が先にあるのではなく、自分の考えが変わったというような主題を先に立て、その主題に合った実例を見つけるのが書き方のコツです。
■自分の長所と短所
自分の長所と短所をよい面悪い面の両方から考えてみようと書かれています。
しかし、長所と短所は、自分で考えるより先に、家族に聞いた話をもとにすることによってより客観的な作文になります。
小学生の作文指導は、家族の対話とセットになっているのです。
■物語の要約(浦島太郎)
要約の仕方として、すでに知られている浦島太郎の話をもとに、言葉をしぼりこむということが書かれています。
しかし、要約は、実際の文章を読んで要約の練習をしなければ書けるようにはなりません。
言葉の森の要約の仕方は、
こちらです。
■報告文、キャッチコピーの作り方、手紙の書き方
この本を読んで、報告文、キャッチコピー、手紙の書き方までやろうという子は、まずいないと思います(笑)。
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日本では、思いつきの作文指導が多すぎます。
作文教育に対する理論と方法がないからです。
理論と方法のない典型的な例が、ブンブンどりむを監修している齋藤孝さんの「こども文章力」です。
勘違いして、この本をもとに家庭で作文の書き方を教えようとすれば、途中から親子げんかになると思います(笑)。
どうして「言葉の森」を知ったか思い出しました。
斎藤孝さんの著書をたくさん読んでて、文章が書ける子にしたいな~~っておもったのがきっかけでした。
ママさん、ありがとうございます。
齋藤孝さんというかブンブンどりむは、言葉の森も真似ばかりしています。
作文にしても、読解にしても、暗唱にしてもですが、それがいずれもレベルの低いやり方を物量作戦で押し通そうとしているのが迷惑なところです。
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センリョウ
●動画:https://youtu.be/_AqE5OhYYrw
大人は、「書く」という結果を見がちだが、「書く」前提として「読む」がある。
読む量が少なければ、うまく書けない。
そのうまく書けないことを添削でいくら直しても、やはりうまく書けるようにはならない。
しかし、読む量が増えれば、直さなくてもうまく書けるようになる。
小学校では、2年生ぐらいで日記を書く指導が増える。
たいていの親子は、そこで、何を書いていいかわからなくなる。
「何を書くか」というところに目が向くから、書くことがなくなる。
作文通信教育講座ブンブンどりむの監修者、齋藤孝さんの「こども文章力」でも、「日記は『したこと』を思い出すところからスタート」(P16)と言っているが、これは日記指導の本質を知らない人の話。
「( )を食べた、( )を見た、( )に行った」などいくら穴埋めの言葉を入れても、すぐに書くことはなくなる。
日記は、「何を書くか」ではなく、「どう書くか」と考えるのが大事。
例えば、「たとえを入れて書く」「会話を入れて書く」「どうしてかというとという言葉を入れて書く」「色や音を入れて書く」「ダジャレを入れて書く」という書き方だ。
これなら、毎日、その日の朝ごはんのことを書いたとしても、毎日新しいたとえやダジャレを思い出して書ける。
そして、何よりも、目標があることと、自分なりの創造があることが楽しくなる。
勉強は、つまらないことを義務感としてやらせるのではなく、主体的で楽しくできることを親や先生が工夫してやらせることだ。
※私は、人を批判するのは好きではありません。
批判するよりも、自分で新しいものを創造することが大事だからです。
しかし、勘違いした作文教育の方法が広がれば、それは多くの人にとってマイナスです。
だから、あえて名前を挙げて、どこが問題なのか、そしてどうしたらいいのかを書くことにしました。
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日記指導なんてさせるものではないというのが私の持論です。
面白くも何ともないし、またそれで文章を書く力がつくわけでもないからです。
では、どうしたらいいかというと、読ませる指導と親子の対話の指導をすることです。
教育の根本はシンプルなのです。
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スズメたち
●動画:https://youtu.be/AZpD4fJQkME
作文通信教育講座「ブンブンどりむ」の監修者である齋藤孝さんが「
こども文章力」という本を出しています。
2021年の発行ですから、これが斉藤さんの現在最新の作文指導の方法だと思います。
この本の中に、小学3年生の子が書いたという設定の例文が載っています。
例文とされているものは、このページの文章だけで、あとは説明と穴埋め問題ですから、代表的な作文例は、この例文の文章だけです。
私は、もし教えている生徒が、この例文のような作文を書いてきたら、必ず褒めます。
作文力は、注意したり直したりすることによって上達するのではなく、よいところを褒めることによって上達するからです。
しかし、小3の子供が書く模範の例文として、こういう文章が載せられているとしたら、それはやはり疑問に感じます。
以下、その理由を説明します。
つまり、この模範の例文の不足しているところを直せば、それは本当にいい例文になるのです。
第一は、一読して題材がつまらないことです。
作文における題材の評価は、個性、挑戦、感動、共感のいずれかがあることです。
少なくとも、自分から進んでしたことが書いてあることが、よい題材の条件です。
この例文では、おばあちゃんに連れられてスマホを買い替えに行き、店員さんに話を聞いておばあちゃんに教えてあげたということが書かれています。
そこには、個性も、挑戦も、感動も、共感もほとんどありません。
しかし、もちろん実際に書いた子供にはそういうことは言いません。
「話の内容がありきたりだ」などとアドバイスしても、子供は途方に暮れるだけで、決して作文が上手に書けるようにはならないからです。
では、どうしたらいいかというと、その子が、個性、挑戦、感動、共感のある作文を書いたときに、そのことを褒めるのです。
悪いところを直すのではなく、よいところが出るのを待って、それを褒めるのが教え方の基本です。
しかし、模範となる例文がこれでは困ります。
これを読んだ子供が、作文というのはこういう独り言みたいなだらだらしたことを書くものだと思ってしまうとも考えられるからです。
作文を書くとき、小学3年生の子供であれば、価値ある題材を見つけて書こうとします。
「朝起きて、学校に行って、給食を食べて、帰ってきて、寝ました」のような作文を書く子はいません。
作文は、ただ字数を埋めるために書くものではなく、価値ある題材を伝えるため書くものだからです。
第二は、構成の仕方が平板だということです。
最初から最後まで携帯を買い替えに行った話ですが、作文を立体的にするためには、途中で別の似た例を入れていく方がいいのです。
例えば、自分も携帯がほしいとか、お母さんやお父さんが使っている携帯とか、今の世の中で携帯がどう売れているかなどと、話を膨らませて書くのです。
その中で、いちばんいいのは、やはりお母さんやお父さんに取材することです。
子供は、大人と話をすることによって、語彙が増え、考えの幅が広がります。
出来事を直接書くだけでなく、その出来事に関連した「聞いた話」「調べた話」「過去の話」などを書くことによって、作文の幅も広がるし、感想の幅も広がるのです。
第三は、主題(感想)が深まっていないことです。
それは、話が平板なのでやむを得ない面もありますが、本をよく読んでいる子であれば、もっと個性的な感想を書きます。
「おばあちゃんがよろこんでくれて、うれしかったです」のような感想は、文章力のある子であれば、ものたりない感じがして避けると思います。
もっと自分にしか書けない感想を書こうと思うのです。
この感想の部分は、実は重要で、中学受験の作文でも、結びの感想をしっかり書ける子とそうでない子に分かれます。
実例は面白いのに、感想がありきたりという子は意外と多いのです。
その原因は、説明文や意見文の本を読んでいないためと、親子で話をする機会が少ないために、感想を書くための抽象的な語彙が出てこないからです。
この例文もそうです。
第四は、表現に、光るものがないことです。
書き出しの工夫も、結びの工夫も、たとえなどの比喩の表現もありません。
もちろん、ダジャレもありません(笑)。
作文を書くことが好きな子は、必ず表現の工夫をしようとします。
小学生で最もしやすい表現の工夫は、「たとえ」です。
ただし、小学校高学年の生徒では、たとえはかえって幼稚になることがあります。
中学生以降の表現の工夫は、自作名言という方法です。
書き出しの工夫や結びの工夫は、特に行う必要はありません。
しかし、文章を書くのが好きな人は、自然に書き出しと結びを工夫しようとします。
この例文には、そういう表現上の工夫はありません。
以上、題材、構成、主題、表現の4つの分野について、書き方のアドバイスをしました。
世の中にある作文教室の多くは、作文の見方に、題材、構成、主題、表現という切り口があるということを知りません。
では、言葉の森だったら、どういうふうに小学3年生の作文の例文を作るかということですが、それは、こちらです。
https://www.mori7.com/as/528.html
このほかに、小学1年生から高校生までの作文の例文、読書感想文の例文も載っています。
https://www.mori7.com/beb_category.php?id=27
(このページの下の方です。どの例文にも、必ず笑いが入っているのが工夫したところです。)
※私は、人の批判のようなことは普通しません。
批判は、何も生み出さないからです。
しかし、作文教育の理論も方法もない人が、名前だけで作文指導の話をすれば、それを鵜呑みにしてしまう人も出てきます。
それは、長い目で見て子供の教育にとってプラスにはなりません。
そこで、あえて名前を挙げて、その作文指導のどこが問題なのかを書くことにしました。
しかし、もちろん批判だけでなく、こちらの対案も出しています。
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勉強は、面白くなければなりません。作文も、そうです。
しかし、作文はいちばん面白くない勉強になりやすいのです。
それは、せっかく一生懸命書いた文章を直されるからです。
そして、ほかの子の上手な作文を褒められるからです。
子供の作文を褒める指導をするためには、褒めるための方法論が必要なのです。
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タマスダレ
●動画:https://youtu.be/96m5vq0esLw
世の中の悪の原因は、ひとことで言えばエゴがあることです。唐突ですが。
すべての人が、自分の利益のために行動すれば、他人の幸福は考えなくなります。
それが、奪い合いの世界です。
ごく一部の人は、その奪い合いの世界から離れることができました。
法隆寺の玉虫厨子の物語は、そのひとつの例です。
====
法隆寺の大宝蔵には有名な玉虫の厨子がある。……ここに描かれている釈迦の仏世界の絵とは、「捨身飼虎」(しゃしんしこ)の図なのだ。
昔インドの薩□王子(さったおうじ、□は土偏に垂。釈迦の前世)が馬で山野を駆けめぐっている時、飢えた虎が七匹の小虎を連れて竹林をさまよっているのに出合った。薩□太子は飢えた虎親子を憐れに思い、わが身を虎に与えるべく、竹でのどを刺した。血を見れば虎は襲いかかるはずなのに飢えのひどさのために襲う力さえなく、太子を食べようとしなかった。そこで太子は、崖に上って上衣を脱ぎ、崖から飛び隆り、地上に墜落した自分の肉を虎に食べさせた
。
という仏世界の慈悲深い物語りであるが、この菩薩行を絵に描いたのが「捨身飼虎」の図である。(引用)
====
この話をオーバーに思う人もいると思いますが、同じような例は数多くあります。
例えば、太平洋戦争のとき、硫黄島でアメリカ軍と戦った日本人は、自分たちが米軍に負けることが明らかにわかっていました。それは、勝ち目のない戦いだったからです。
しかし、それにもかかわらず、日本軍は、本土にいる妻や子供たちを守るために、少しでも米軍の侵攻を遅らせるという目的でアメリカ軍と戦いました。(日本軍の死者22,000人)
その結果、実際に、アメリカの日本侵攻は遅れたのです。
これが、現代の捨身飼虎です。
さて、奪い合いの世界が残っているのは、多くの人が自分の利益を先に考えるからです。
自分にとって必要なものだけを取ればいいのに、必要以上のものを取ろうとする人がいるから争いが起こります。
その争いのもとにあるのは、必要なものが限られた世界があるということです。
人間の意識が、個人のエゴから脱却して他人の幸福も同時に考えられるようになれば、争いの世界はなくなります。
その例のひとつは、東北大震災で示された、被災地の人々の行動です。
しかし、地球上のほとんど人は、まだそういう意識にはなっていません。
その前提は、必要なものが限られた世界が残っているということです。
必要なもののもとになるものは、現代の社会ではお金です。
そのお金のもとになるものは、必要な物材を作り出すための方法とエネルギーです。
方法の根本にあるものは、植物のもつ光合成です。
また、微生物の持つ多様な能力です。
植物と微生物の能力は、自然界に無償で提供されています。
植物や微生物の能力を生かすためには、エネルギーが必要です。
エネルギーのもとになるものは、太陽です。
自然界の生き物は、植物や微生物の助けを借りて、太陽のエネルギーだけで生きています。
しかし、人間には人工的な環境が必要です。それが衣食住です。
その人工的な環境を維持するためには、太陽のエネルギーを圧縮する必要があります。
それが、薪であり、石炭であり、石油であったのです。
今、世の中にある物材やサービスの価格のほとんどは、つきつめればエネルギーと人間の手間によるものです。
人間の手間は、機械化とIT化によって今後大きく減っていきます。
エネルギーに関しては、フリーエネルギーはまだ少し先のことだとしても、すでに石油を10分の1のコストで作れる技術が日本で生まれています。
https://www.youtube.com/watch?v=THSY6B3bmhA
エネルギーのコストが10分の1になれば、物材のコストも10分の1に近づきます。
エネルギーのコストが、いずれ太陽と同じように0になれば、物材のコストもいずれ0になります。
現代は、こういう時代が来る前の前夜の時代なのです。
今の世の中には、これまでの限られた資源の時代に、その限られた資源を利用して他人をコントロールする道具に使ってきた人々が残っています。
それらの人々が、誰のプラスにもならないが、自分たちだけのプラスになる戦争や過剰な医療を生み出してきました。
しかし、限られた資源という前提がなくなれば、誰もが自由に生きられるようになります。
これまでは、「そんなことじゃ食っていけない」という言葉が成り立っていました。
しかし、ジャングルにいるサルたちは、毎日好きなバナナを食べて暮らしています(たぶん)。
人間も、衣食住の心配がなくなれば、関心は、食べることにではなく、自分らしく生きることに向かいます。
今はまだ、これまでの限られた資源の世界を利用して世の中をコントロールしてきた人々が、自分たちの既得権を守るために、世界の進歩を止めようとしています。
ロシアとウクライナの戦争にしても、イスラエルとハマスの戦争にしても、将来のパンデミック対策へのWHOの提案にしても、一昔前であれば、ほとんどの人がマスメディアの情報を信じてきました。
しかし、今は、まだ不十分ではあっても、インターネットによって正しい情報が広がるようになっています。
今後、情報がオープンになることに比例して、世の中はよくなっていかざるを得ません。
よくなってほしいではなく、よくならざるを得ないのです。
私たちは、今、そういう新しい世の中の手前にいるのです。
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もうすでに、世の中の方向は大きく変わりました。
だから、私も、いいものはいい、悪いものは悪いとはっきり言うことにしました。
すでに、YouTubeやFacebookも、正しい情報をBANすることができなくなっています。
朝日新聞などのマスメディアも、これまでの論調を微妙に変えています。
間違った情報が流されなくなったあとに来るものは、私たち自身が新しい創造的な仕事をすることです。
批判のあとに来る時代は、創造の時代なのです。
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