ミカン
https://www.youtube.com/watch?v=HNvW6K4C-7k
言葉の森が、森リンという自動採点ソフトを開発し、国際特許を取ったのは、私が、文章の自動採点というものについて危機感を感じたことがあったからです。
当時、E-raterという自動採点ソフトが、アメリカで開発されているという情報が入りました。
アメリカは、当然、そのソフトがうまく行けば、世界中に広げようと思うはずです。
言語が異なっても、理論的な仕組みは同じはずだからです。
そのとき、私は、日本の一太郎というワープロソフトが、アメリカのワードというワープロソフトに駆逐された歴史を思い浮かべたのです。
当時のワードは、ひどいソフトでした。日本語ではありえないような欠陥がありました。
しかし、日本語に十分な対応ができていないにも関わらず、ワード+エクセル+アクセスという統合環境で、結局ワードが日本のワープロソフト市場の勝者になったのです。
ワープロソフトなら、まだ仕方がありません。
しかし、教育の内容に関するところまでアメリカのソフトが入ってくれば、例えば、歴史の教育などは大きく歪められます。
日本は、日本独自のソフトを開発しなければならないと思ったのです。
幸い、言葉の森が開発した森リンは、アメリカのE-raterと同等の成果を出しました。だから、すぐに特許を取りました。
しかも、アメリカのソフト開発が、多数の開発メンバーを要し、膨大な資金を投入したのに比べて、こちらは、自分1人で費用は数千円(プリント代だけ)、基本的な設計ができるのに1ヶ月もかかりませんでした。
頭の中身が違うのです。
ところで、今、言葉の森が取り組んでいるのは、新しいオンライン教育です。
現在、日本にあるオンライン教育は、ほとんどすべてリアル教育の劣化コピーです。
そういうオンライン教育がいくつあっても、世の中はよくなりません。
言葉の森が行っているオンライン教育は、対面式オンライン教育と言ってもいいと思いますが、子供たちの発表と対話を生かした創造的なオンライン教育です。
しかし、その教育のよさが、まだ多くの人に伝わっていないと思います。
いずれ、アメリカと中国が、言葉の森が行っているような対面式のオンライン教育を開発すると思います。
アメリカも、中国も、土地が広いので、オンライン教育のニーズは日本よりもずっとあるからです。
それに対して、日本は人口密度が高いので、よほど辺鄙なところでなければ、すべて通学の教育で間に合います。
しかし、これからの世の中の流れは、必ずオンラインにシフトします。
すでに、日常生活の品物を注文するのに、歩いて数分で行けるリアルな店舗を利用するよりも、パソコンでアマゾンや楽天に注文するようなことが増えています。
コロナ禍のあとに広がったリモートワークは、それまで通勤で出社していた社員にとっては朗報でした。
自宅で仕事ができるのであれば、時間的にも精神的にもそれに越したことはありません。
今、リモートワークからオフィスワークへの揺り戻しが生まれていますが、いったん成立したリモートワークは、これから少しずつ定着していくと思います。
オンライン教育についても、同様です。
特に、言葉の森のオンライン教育は、対面式の少人数クラスのオンライン教育ですから、リアル教育よりも効果の高い、しかも面白い授業ができます。
やがて、アメリカや中国も、言葉の森のような少人数のオンライン教育を始めると思います。
そのときに、日本の側に、先に進んだオンライン教育がなければ、アメリカや中国のペースで進めるオンライン教育が日本にも広がる可能性があるのです。
教育には、国や民族や言語を超えた普遍性があります。
特に、理数系の教育はそうです。
だから、私は危機感を持っているのです。
日本の教育は、日本人が行う必要があります。
アメリカや中国に日本の教育を任せることはできません。
こういう危機感を持っているのは、たぶん私しかいないと思いますが。
言葉の森の目標は、今運営している日本のオンライン教育を広げることです。
この理念に賛同してくだる方は、ぜひ言葉の森のオンライン教育をほかの人にも伝えてください。
これは、日本の未来の教育を考えた目標なのです。
https://youtu.be/Pv4J_5MBF7c
中学生や高校生になるにつれて成績を上げる子がいます。
一方、小学生時代はよくできたのに、中学生、高校生になるにつれて成績が下がる子がいます。
その違いは、読書力の差です。
勉強の密度は、小学校低学年のころよりも高学年の方がずっと高いので、小学校低学年のときによくできなかった子でも、高学年になってやる気になればすぐに逆転できます。
わかりやすく言えば、小学1年生のときに1時間かけて身につけたことも、小学6年生で取り組めば10分でできるというようなことです。
なぜ、このような違いがあるかというと、小学1年生までの読書量と、小学6年生までの読書量が違うからです。
つまり、読書量があれば、それだけ理解する力や考える力が伸びているので、短時間で新しいことも身につけることができるのです。
それが、中学、高校での勉強にも続きます。
例えば、数学の問題の解法であっても、読書力のある子は、自分なりに理解しようとします。そして、理解できます。
読書力のない子は、数学の解法が少しややこしくなると、「難しいから、よくわからない」となるのです。
そして、勉強がわかりにくくなるから、勉強に対する意欲が低下します。
意欲が低下すると、成績も下がるので、更に勉強に対する意欲が低下します。
こうして、中学生や高校生の学年が上がるにつれて、成績が下がる生徒と、逆に学年が上がるにつれて成績が上がる生徒の差が生まれてくるのです。
親も、先生も、その根底に読書力があるのだとは気づいていません。
勉強の面だけで頑張らせようとします。
勉強の面だけ頑張って成績を上げることができるのは、小学校低中学年までの話なのです。
ところで、国語力という言葉は、範囲が広くなりすぎます。
漢字の書き取りや、国語の文法や、古文や漢文は、本当の国語力ではありません。
本当の国語力とは、読解力のことです。
その読解力の基礎になるのが、読書力と難読力です。
難しい説明文、意見文を読む力が難読力です。
その難読力の土台になっているのが、易しい本の読書も含めた読書量です。
小学1、2年生で、字の多い本をすらすら音読できる子は、学力の土台はひとまず安心です。
小学1、2年生で、つっかえながら本を読む子は、今は成績がよくても、あとで伸び悩みます。
将来の学力の差は、小学1、2年生のころに、すでについています。
また、中学生になっても物語文の本しか読まない子と、説明文、意見文の本も読める子との差も、同じように高校生以降の学力の差として表れてきます。
読書と成績の関係をうまく説明していた記事がありました。
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なぜ文系も理系も「東大現役合格」は現代文が得意なのか…教え子の偏差値を劇的に伸ばした「R80メソッド」とは
https://president.jp/articles/-/76476
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東大に行くような子は、それが理系であれ文系であれ、現代文がよくできているということです。
言葉の森の、中学生以降の意見文は、R80の80文字の文章と同じように、論理的に1200字の文章を書く練習です。
この練習をしていれば、読解力だけでなく記述力も身につきます。
ただし、そのためには、事前の予習メモを考えておくことが必要です。
たまに、振替授業を受ける作文個別の生徒で、先生が、「今日はどんなことを書くの」と聞いても、「まだ決まっていません」とか「まだ長文を読んでいません」という子がいます。
先生の解説を聞けば、その場で書くこともできますが、こういう生徒は考える力はつきません。
事前に課題を見て、自分なりにどう書くか考えておくことが勉強の前提です。
作文クラスの場合は、予習メモの発表の時間があるので、考えずに参加する生徒はまずいません。
この点でも、作文個別よりも作文クラスの方が、勉強がはかどるのです。
マンツーマンの指導が生きるのは、生徒が受験直前などで、やる気が十分にある場合か、受験直前でなくても毎週真面目に書くことを準備している生徒だけです。
子供たちの学力の土台は、読書力です。
これまでのペーパーテスト中心の入試では、読書力がなくても知識の勉強だけで、それなりの大学に合格することもできました。
しかし、そういう生徒は、大学に合格したころまでが学力のピークで、あとはその学力を使い減らすだけになります。
大学の合格後も、学力を伸ばすことができるのは、読書力のある生徒です。
読書力が学力の土台です。
作文力は、学力の集大成です。
作文の中には、あらゆる要素が入ってきます。
中学生の作文課題にあるデータ実例や、高校生の作文課題にある自然科学実例は、文章を書く力以外の予備知識を用意しなければ書けません。
将来、社会に出てからの文章力で必要になるのは、こういう総合的な作文力です。
小学4年生のころまでの生活作文の作文力から先に進むためには、読書のレベルを上げ、考える力を伸ばす必要があるのです。