ドウダンツツジ
●動画:https://www.youtube.com/watch?v=83JTtONJylc
日本語と英語と中国語は、どれも同じ言語のように思いますが、人間が使える母語はひとつです。
日本人にとっては日本語が母語です。
母語というのは、身体化された言語です。
母語とは別に習得する言語は、学習する言語です。
その学習する言語は、今日のAIの発達によって次第に機械化されるようになっています。
機械化は、世の中のさまざまな面で進んでいます。
機械化のわかりやすい例が電卓です。
難しい計算も、電卓を使えば瞬時に答えを出せます。
しかし、機械化された計算ではなく、身体化された計算もあります。
それは、算盤です。
算盤に習熟すると、数字が実感を持ってとらえられるようになります。
言語についても同様です。
言葉を単に伝達の道具として使うだけでなく、実感を持って使うためには、母語に習熟しておく必要があります。
外国語の利用における機械化は進んでいます。
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“自分の声”でリアルタイム翻訳 英語など4カ国語に対応 NTTが日本初の新技術(2023年12月15日)
https://www.youtube.com/watch?v=Q5LXQRHYEvo
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この動画を見ると、英語や中国語などの習得は、話し言葉の利用も含めて、すべて機械に任せられる日が近いことがわかります。
だから、大事なのは、身体化された言語である母語に習熟しておくことです。
日本語を伝達の道具として使えるということと、日本語を身体化された言葉として使えることとは違います。
伝達の言語は、頭で理解する言語ですが、身体化された言語は、身体で実感する言語です。
身体化された言葉は、感情や感動と結びついています。
実感できる言葉が、人間を人間らしく成長させます。
例えば、坂村真民さんの詩。
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念ずれば
花ひらく
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった
坂村真民のおすすめ詩文集
http://home.catv-yokohama.ne.jp/33/k544539/sakamurashinmin.html
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こういう言葉が心に響くようになるにつれて、人間は成長していきます。
そのために大事なことは、言葉を身体化させる時間を持つことです。
それが、子供時代からの対話と読書と作文です。
対話で聞く言葉と、YouTubeの動画で聴く言葉とは違います。
対話とは、人間のつながりの中で聞く言葉です。
茨木のり子さんの詩。
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汲む―Y・Yに―
大人になるというのは
すれっからしになるということだと
思い込んでいた少女の頃
立居振舞の美しい
発音の正確な
素敵な女の人と会いました
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました
初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました
私はどきんとし
そして深く悟りました
大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子どもの悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと……
わたくしもかつてのあの人と同じぐらいの年になりました
たちかえり
今もときどきその意味を
ひっそり汲むことがあるのです
庭文庫
http://niwabunko.com/125/
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中学生の子供たちは、勉強するよりも、こういう詩を読んで言葉を実感するのがいいのです。
もちろん、勉強はしてもいいけれど(笑)。
ブンチョウ
●動画:https://youtu.be/VrGVPADiXiw
ある保護者の方から質問がありました。
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> 先日の○○で、親のインタビューを書くことがパターン化されていると書かれておりました……
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文章を読み取る力のない人は、すぐに「パターン化がどうした」ということを言います。
作文を評価する人は、パターンで見るのではなく、内容で見ることが大事です。
手紙の書き方などは、パターン化の典型です。
しかし、そのパターンの中に、内容が盛り込まれています。
パターン化の批判への対応の仕方としては、今後、親へのインタビューの部分を省いて(というのもパターン化ですが)書くといいです。
しかし、作文そのものとしては、もちろん親のインタビューがあった方がずっといいものになります。
ある都立の中高一貫校の入試作文で、言葉の森の生徒がよく合格していました。
そのときも、学校説明会では、「パターン化がどうした」ということを言っていました。
学校としては、たくさんの上手な子の選抜をするよりも、たくさんの下手な子がいた方が採点しやすいので、そういうことを言っているだけです。
それは、やむを得ない面もあります。
作文の採点をする人は、本当に大変だからです。
ただ、そこに同情しているわけにはいきません。
作文の評価でいちばんいいのは、
森リンで採点することですが、日本の教育界は、まだそこまでの決断はできないと思います。
今後、AGI(汎用人工知能)の利用で、教育の世界は大きく変わります。
しかし、教育に携わっている人は頭の古い人が多いので、新しい教育に踏み出せません。
だから、いまだに読書感想文の宿題を出すような学校があります。
読書感想文の宿題は、ChatGPTの利用ができる時代には、もうとっくに無意味になっています。
読書感想文は、宿題として出すものではなく、授業の中で指導していくものです。
授業の中で指導できないから、宿題にしているのです。
と、辛口のことばかり書きましたが、すべて本当のことです。
だから、親が、子供の真の成長を考えて判断していくことが大事です。
学校の宿題なども、やらなくていいものが多いと思います。
「この宿題は、お母さんがやっておくから、あなたは好きな読書をしていなさい」
というような対応があってもいいのです。
我が家でも、子供が小1のとき、「足し算の答えが同じものを色で塗る」という宿題が出されました。
先生は、それなりに工夫して宿題として出したのだと思いますが、子供はため息をつきながらその宿題をやっていました。
それを見て、私は、「お父さんがやってやるから、お前は本でも読んでな」と言って、電卓で計算して色を塗りました。いいのか(笑)。
子供は、「わあい」と喜んで、のんびり本を読んでいました。
勉強の主体は、というよりも、子供の成長の主体は、学校でも塾でもなく家庭です。
そして、子育ての基準は、子供がにこやかに生きていくことです。