コブシ
総合学力クラスの小学4年生の生徒が、創造発表の週の授業のとき、自分の作ったキャラクタを紹介して、「いつか、このキャラクタを売れるようにしたい」と言っていました。
大物(笑)。
昔ながらの国算英理社を勉強していただけでは、こういう発想は生まれません。
昔の勉強は、仕事をさせられる人になることが目標で、仕事をする人になることではなかったからです。
経済が発展しているときは、仕事をするためのハードルは低いものでした。
勉強は、そこそこできれば、自分で新しい仕事を始めることができました。
松下幸之助、本田宗一郎、井深大(まさる)は、学校の勉強は、普通にそこそこできていただけだと思います。
少なくとも、超エリートと呼ばれるような学歴では全くありませんでした。
しかし、日本が戦後の復興に向けて、新しい社会を作ろうとしているときに、高学歴は必要なかったのです。
必要なことがあれば、必要なときに学べばいいので、学ぶ力と意志があれば、学ぶことはあとからいくらでも身につけることができたのです。
しかし、その後、日本の経済は停滞しました。
量的には発展していましたが、質的には停滞していきました。
できあがったものを改良して増やしていくだけの経済になったのです。
今も、その時代は続いています。
だから、今の若者の多くは、大学入試のゴールを達成したあと、大企業に入社することをゴールにしています。(一部は、違いますが)
もちろん、それは、悪いことではありません。
企業の大きな肩の上に乗って、自分の個性を更に大きく伸ばすことはできます。
しかし、それは沈んでゆく豪華客船の上で、よりよい上の階に移ることでしかないように思うのです。
新しい時代は、新しい小船に乗って始めることです。
今はまだ、そういう選択は無謀のことのように思えます。
しかし、世の中の変化が迫っているときには、早めに無謀なことに挑戦していくのがいいのです。
明治時代に入る前の福沢諭吉の選択に賛同する人は、家族でも友人でも知人でも誰ひとりいませんでした。
みんなから認められるようなことは、時代の変革期には時代遅れのことなのです。
ところが、新しい時代に挑戦するためのベースは、松下幸之助、本田宗一郎、井深大が生きていた時代とは違っています。
その違いを理解することが大事です。
第一は、現代の新しいテクノロジーを前提にすることです。
それが、パソコン、ChatGPT、3Dプリンタ、仮想通貨、クラウドファンディングなどです。
しかし、新しいテクノロジーをそのまま使うようなものは、すぐに競争過多になります。
中国のシェアサイクルは、一時は広まりましたが、今残っているの会社はわずかです。
結局、競争が過多になるものは、工夫を続けるところしか生き残ることができません。
だから、必要なことの第二は、読書によって自分の考えを深めることです。
単に新しいものに着手するだけではなく、そこに自分なりの哲学を作っていくことです。
新しい技術と古い読書、これが、これからの子供たちの学ぶべきものの基本です。
しかし、子供たちの保護者である、お父さんやお母さんの多くが、どちらも苦手であることが多いのです(笑)。
大人の人が今から読書をがんばるのは難しいので、とりあえず、子供と一緒に新しい技術に接していくことが大事になると思います。
レンギョウのつぼみ
目白駅に行かなければならない用事があったので、本を3冊カバンに入れて、行き帰りで読むことにした。
行きに1時間半、帰りに1時間半ぐらいだから、たっぷり読めた。
本棚から急いで取り出したので、かなりランダムだが、
「
日本転生」(苫米地英人)
「ChatGPTプログラミング1年生」(森巧尚)
「シリウス宇宙連合アシュター司令官VS保江邦夫緊急指令対談」(保江邦夫・江國まゆ)
もうすでに読んでいたものもあったが、繰り返し読んでもいいと思ったので持っていった。
3冊の読後感をまとめてひとことで言えば、世の中はいい方向に変わっているということだ。
特に、苫米地さんの話は、一昔前だったら言えなかっただろうことが書かれている。
保江さんも、そう。
ChatGPTは、これから中学生以上の生徒全員がアカウントを取得するといいと思う。
野口悠紀雄さんの「ChatGPT超勉強法」にも書いてあったが、もう、先生という仕事は要らなくなると思う。
そのときの新しい教育の方向はわかっている。
それは、ひとつは作文と創造発表とプログラミングだ。
しかし、もうひとつ、国数英理社の教科の勉強をひととおりしておく必要がある。
それは、基礎学力、総合学力、全科学力でまとめて短時間でやればいい。
勉強を短時間で済ませて、空いた時間は、自分の好きなことと難読に力を入れることだ。
苫米地さんの本で、共感したところが、学生は難しい本をしっかり読めということだった。
考える力のある人は、すべて読書の大切さを知っている。
とりとめのない話になってしまったが、今日は充実した一日だった。