ニワゼキショウ
工業化の時代が、終焉を迎えようとしています。
もちろん、いろいろな例外がありますが、歴史的に見れば、工業化の時代が終わりを迎えつつあるということです。
工業は、これまで世界の経済を牽引してきました。
しかし、多くの国では、すでに工業生産物が行きわたるようになりました。
一方、工業の供給先は、多くの国に広がっています。
これまでのように、旺盛な需要が新しい供給を引き出すというような関係ではなくなってきているのです。
現在の軍需産業や医薬品産業の需要は、作られた需要であって、本当の需要ではありません。
しかも、工業生産による環境破壊さえ問題になっています。
一方、情報産業は、GAFAとかFAANGとか呼ばれる頭文字の一部のメガテックが独占しています。
しかし、この繁栄は一時のあだ花です。
必要な情報は、今後、個人間のやりとりで行われるようになります。
そして、人間は、興味本位の広範な情報に興味を持つよりも、自分のしたいことに興味を持つようになるのです。
新しい時代の人間の関心は、物でも情報でもなく、自分自身になります。
最初は、健康とか美容とかファッションとかいう外形的なものに関心が向きますが、やがて、関心は、自身の成長とか新しい体験とかいうものに向かっていきます。
そこで、文化の時代が始まるのです。
文化の時代は、また学習と教育の時代にもなります。
江戸時代の平和な300年間にさまざまな文化が生まれたように、これから地球規模で新しい文化が生まれる時代になるのです。
その先端を行く国が日本です。
YouTubeでも、Xでも、Facebookでも、使用される言語の割合は、もちろん英語がトップですが、日本語もかなりの割合を占めているはずです。
(この具体的なデータは、昔はありましたが、残念ながら今はありません。)
日本では、ただ見るだけや聴くだけの人よりも、発信する人の割合が多いのです。
それは、8世紀後半という今から1250年も前に、日本で万葉集が作られたのと同じような文化的土壌が日本にはあるからです。
額田王(ぬかだのおおきみ614年)は、大海人皇子(後の天武天皇)に歌を送りました。
「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」
(あかねさすむらさきのゆきしめのゆきのもりはみずやきみがそでふる)
意味は、
「そんなに私に向かって袖を振っていたら、見張りの人に見られてしまって、秘めた恋がばれてしまうじゃないの」
です(笑)。
すると、大海人皇子は、歌を返します。
「紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも」
(むらさきのにおえるいもをにくくあらばひとづまゆえにわれこいめやも)
意味は、
「美しい紫草のように輝くあなたを、たとえ人妻であったとしても、私は憎むことができない。だからこそ、まだあなたを愛している」
です。
いいですねえ(笑)。
つまり、人間どうしのやりとりが、短歌という文化を通して行われていたのです。
同じように、江戸時代の庶民の娯楽のひとつは、手紙のやりとりでした。
つまり、見る文化や聴く文化だけでなく、作る文化、発信する文化があり、それが歴史的に続いていたのです。
この発信する文化が、時代ととともに、文学の世界だけでなく、多様な分野に広がります。
茶道、華道、鯉の養殖、ウズラの鳴き合わせ、和食、和服、関孝和(せきたかかず)の数学、伊能忠敬(いのうただたか)の測量、更には種子島に届いた鉄砲の国内製造などがそうです。
つまり、作る文化が、日本の文化の特徴だったのです。
そして、これがこれからの世界の新しい文化になります。
大事なことは、この作る文化が一部のエリートによってではなく、庶民のレベルで行われてきたことです。
しかし、日本の戦後の教育は、日本本来の作る文化よりも、「欧米に追いつき追い越せ」のキャッチアップ文化を優先してきました。
正しい答えは、欧米にあるから、それを学ぶことが第一だという考えです。
それは、教育のすべての面で広がりました。
そのひとつの終着点が、今の科挙化した受験勉強です。
教える先生は、正しい答えを覚えることを生徒に求め、生徒はその要求に応えるために勉強時間の多くを費やします。
本当は、基礎の勉強は、もっと短時間で済ませ、そのあとは自分の個性や創造性を活かす学び方をすることが大事なのです。
しかし、その教育の転換が、今起きつつあります。
それが、高校における探究学習や大学入試における総合選抜などの広がりです。
大学に入ったあとも、意欲のある学生は、どこかに就職するよりも、自分で起業することを目指すようになりつつあります。
しかし、その新しい起業は、これまでの工業時代の起業でも、情報時代の起業でもありません。
能力のある学生は、第二第三のビッグテックを目指し、新しいユニコーン企業を作ることを夢見るかもしれませんが、これからは、もうそういう時代ではありません。
これからは、ローカルの時代であり、地産地消の時代であり、人と人との関わりのある時代になります。
その関わりの中で、新しい文化を作る時代になるのです。
その文化が、たまたま広がる場合もあるので、それが新しいビッグ文化になるかもしれません。
しかし、基本は人間どうしの関わりで多様な文化が生まれていくということです。
そういう創造的な文化を作り出せる子供を育てることが、これからの教育のひとつの目標です。
そのためには、もちろん基礎的な教養は必要です。
しかし、それは、家庭学習で十分にできるものです。
その家庭学習を時々チェックしてくれるところがあればいいのです。
それは、例えば、基礎学力クラスや総合学力クラスや全科学力クラスです。
特に、力を入れたい教科がある場合は、国語読解や算数数学や英語のクラスに参加すればいいのです。
大事なのは、基礎的な教養以外に、自分で発信する学習をすることです。
発信する学習強には、発表する場が必要です。
それが、作文クラス、創造発表クラス、プログラミングクラスなどです。
創造的な教育が進むと、やがて、その子供たちが社会に出て、創造的な文化を作り出すようになります。
新しい創造文化が、更に新しい創造教育を生み、相互作用で日本全国が創造的な文化の国になります。
インターネットの時代には、創造文化が国境を越えて広がります。
そして、世界中が、創造文化の時代になるのです。
これが、日本復活の道筋です。
日本の未来は、創造教育文化立国を目指すことなのです。
マツバギク
外国人が日本語を覚えるときに、いちばんネックになるのが漢字だと思われています。
確かに、常用漢字2000字は、普通の大人の日本人であれば楽に読めますが、日本語を知らない人にとっては、それが大きなハードルになってしまうように思えます。
しかし、ここで大事なことは、日本語を教える教育の方法です。
教えることを先に考える人は、まずネックになっている漢字や個々の単語や文法を教えようとします。
これが、間違いなのです。
野口悠紀雄さんは、学習の基本として、まず全体を学ぶということを述べています。
これが、教育の基本です。
例えば、文章の読解が苦手な生徒がいたとします。
分析主義、と敢えて言いますが、分析主義的な教育をする人は、文章を個々の段落に分け、それぞれの段落の内容を理解させようとします。
それぞれの段落の中で意味のわからない言葉があれば、その言葉の意味を辞書を引いて理解させようとします。
そして、言葉の意味がわかり、段落の意味がわかり、文章全体の内容がわかるようになると考えるのです。
これは、最も遠回りな方法です。
この方法では、文章全体を理解する前に、ほとんどの生徒は文章を読むことが嫌になってしまいます。
そして、読解力は身につきません。
本当の教育法は、その文章を丸ごと何度も繰り返し読むことなのです。
国語読解クラスの勉強の基本は、問題集の問題文を繰り返し読む学習法です。
それで、本当の読解力がつくのです。
漢字を覚えさせたり、個々の言葉の意味を覚えさせたりするのは、分析主義的な教育法です。
それは、教える側の発想であって、学ぶ側の発想ではありません。
日本語を学ぼうとする子は、まず日本語の全体を学びたいと思っています。
そのための方法は、ふりがな付きの日本語の文章を読むことです。
その文章が、面白い内容であれば、子供はどんどん読み進めます。
そして、自然に日本語をマスターするのです。
毎日小学生新聞5月23日号の記事に、「外国ルーツの子に漢字を」という記事が載っていました。
この試みをしているNPO法人の人たちの志は尊いと思います。
しかし、教育の基本は、分析主義的な方法ではなく、まず全体から入るという方法であるべきだと思ったので、敢えてこの記事を書きました。
ムラサキツメクサ
作文が上手に書けるようになるには、まず書く力が必要です。
書く力は、書く練習をすることによってつきます。
だから、毎週、作文を書いていくことが大事です。
書く力がついたあとに、必要なのは、書き方です。
構成の仕方考え、表現の仕方を工夫し、主題を深め、題材を個性的なものにしていくことです。
小学生の場合は、題材の個性に、お父さんやお母さんへの取材が入ります。
似た話を取材すると、その対話の中で、子供の語彙力が伸びます。
語彙力のある子は、感想の部分を長く書くことができます。
語彙力のない子は、感想の部分が、
「とても楽しかったです。これからもやってみたいと思いました。」
のようなパターン化されたもので終わることが多いです。
作文を書く力の土台になるものは、読む力です。
「書くことがない」とか「書けない」とか言う子のほとんどは、本をあまり読んでいません。
読む量が増えれば、自然に書くことが楽になります。
ただし、もし本をよく読んでいるのに作文が苦手という子がいたら、それはそれまでの作文の勉強の仕方が悪かっただけです。
子供が書いた文章に、いろいろな注意をする先生やお母さんがいたということです。
そういう子は、言葉の森で勉強すれば、すぐに作文が得意になります。
学力の基本は、読む力です。
漢字の書き取りや計算の練習や英語の発音などは、学力ではなく、勉強的な作業です。
読む力をつけるためには、絵本や漫画だけでなく、字の多い本を読むことです。
また、物語文とともに説明文意見文の本を読むことです。
読む力のある子は、熱中して本を読みます。
小学生では、人が話しかけても気づかないくらい本を読むことに熱中していることがあります。
そういう子は、何の勉強をしてもすぐにできるようになります。
勉強する力の基本は、読む力なのです。
読む力があっても、国語の成績があまりよくない場合は、国語問題の解き方がわかっていないことが原因です。
言葉の森の読解検定で、×になったところを、お母さんと一緒に考えれば、解き方のコツがわかります。
国語の問題は、センスで解くものではなく、理詰めで解くものです。
しかし、大学入試レベルの国語の問題は、次第に科挙化しています。
それは、入試の国語は、実力を見るための国語ではなく、受験生に点数の差をつけるための国語になっているからです。
国語の実力を評価するためにいちばんいいのは、国語の問題ではなく、作文の問題を出すことです。
しかし、作文は、採点者が評価するのが大変なので普及していません。
国語力を評価するためのもうひとつの方法は、口頭試問です。
しかし、これも、評価が大変なので普及していません。
さて、ここまでが普通の話です。
ここからあとは、予測の話です。
将来は、AI技術によって、作文や口頭試問が、人間の手を借りずに行われるようになります。
人間が評価するのは、最終段階だけになります。
これは、今の段階の技術でもできることです。
しかし、その後は、オンライン教育の普及によって、入試自体がなくなります。
学校の定員がなくなるので、誰でも好きな学校に入れるようになるからです。
勉強は、どこかに合格するために行うものではなく、自分の成長のために行うものになります。
そして、勉強の目的は、社会に出て、自分らしい創造によって社会に貢献することになります。
と、ちょっと先の話を書きましたが、今、子育て中のお母さんお父さんは、目の前の成績だけでなく、こういう先の展望を考えて子供を育てていくといいと思います。
そのための勉強の優先順位は、第一に読書、第二に親子の対話、第三に作文、第四に創造発表、第五にいろいろな体験、第六に国語算数数学英語理科社会になると思います。