ヤマボウシ
(ヤマボウシの名前は、4枚の白い花びらが、白い頭巾をかぶった法師(僧兵)に似ていることに由来する。 ●近縁種にアメリカヤマボウシ(ハナミズキ)があるが、これはは耐寒性が弱く、北海道ではほとんど使われていない。)
紙の本と電子の本とどちらがいいかという記事がありました。
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本を読むなら「紙」と「電子」、どっちが正解?
https://diamond.jp/articles/-/345052
……「内容を深く読み込む力については、電子よりも紙媒体の方が身につけやすい」といった見解がでてきます。
したがって、「幼少期の絵本の読み聞かせなどは、デジタル媒体ではなく紙媒体でやった方が良い」とも書かれていて、実際にわが家でもこうした知見に基づいた子育てを実践してきました。
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言葉の森では、国語や数学や英語の問題集は、紙媒体で渡しています。
デジタル化することはできますが、勉強は、紙媒体ですることが大事だと思っているからです。
かつて、デジタル教科書という構想がありました。今でもあるかもしれませんが。
これは、子供の勉強の仕方をよく知らない人の発案です。
大人は、デジタルでもいいのです。
しかし、それは、紙媒体で身につけた読書の蓄積があるからです。
子供は、最初は紙媒体で読書を身につける必要があるのです。
もちろん、単に知識や情報として読むだけのものであれば、紙媒体でも電子媒体でも変わりません。
しかし、ずっと読み続けたい本や、教科書や参考書や問題集は、デジタルではなく、紙で読む必要があります。
例えば、「はてしない物語」の本は、作者のミヒャエル・エンデが、挿絵にこだわりを持っていました。
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wikipediaより
父親が著名な画家だったエンデは自身も絵を描いており、本の装丁にもこだわりを持っていた。17年にわたりエンデの編集者を務めたローマン・ホッケは「エンデは、この本を『魔法の本』と言っていました。だから装丁も、中に独立した世界があるような、特別なものでなければならない、と」と語っており、出版された本はその言葉通り表紙に二匹の蛇が描かれた布張りの本として装丁され、物語に入り込む入り口としての装置となった。読者は自身が手にした本が、作中でバスチアンが読んでいるものと同じものであると悟り、主人公と一体化していくのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%A6%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84%E7%89%A9%E8%AA%9E
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教科書や参考書や問題集は、1回だけ読むものではなく、何度も繰り返し読むものです。
何度も読むものは、読み返すときに、「あの話は、たぶんあの辺のページのあそこら辺に書いてあったなあ」という感覚で読み返すことができます。
これがタンジブル(触れることできる)ということです。
機械が情報を読み取るときは、情報をそのままコピーするので、タンジブルである必要はありません。
しかし、身体を持つ人間が情報を読み取るときは、その情報の媒体にタンジブルに接する必要があります。
大人の場合は、デジタルでもかまいません。
しかし、子供の場合は、本はデジタルではなく、手で触れることのできる本として読んでいく方がいいのです。
だから、教科書や参考書や問題集も、もちろん紙媒体である必要があるのです。
デジタル教科書という考えがありますが、教科書とか自分の好きな本とかいうものは、デジタルな情報ではなく、触れることのできる(タンジブル)ものである必要があります。
ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」は、昔はいい本だったのですが、その後、岩波少年文庫に収録されてから、安価で手に入りやすくなった分、情報中心の本になってしまった気がするなあ。
クチナシ 八重咲き
国語力とは、つまるところ読解力です。
漢字を書く力とか、文法とか、古文とか漢文とかいう力は、知識の力ですから、国語力の本質とは少し異なります。
難しい文章を読みこなせて、質問に的確に答えられるというのが国語力です。
ただし、漢字を読む力は、読解力との相関が高いです。
漢字を書く力は、漢字の書き取りの勉強をすることによって身につきます。
しかし、漢字を読む力は、読書力のある子であれば、自然に身につくのです。
将来、社会人になって必要なのは、漢字を書く力よりも漢字を読む力です。
書く力は、今は、漢字変換ですぐに出てきます。
しかし、読む力は、その言葉の意味がわからないということですから、国語力という点ではより重症です。
試みに、中学生の子に、中学生用の国語問題集の問題文を読ませてみるとわかります。
ほとんどの子に、漢字の読み間違いがあります。
それは、そういう漢字のある文章を読んだことがないからです。
つまり、難しい文章を読んだ経験がないということです。
昔、「
術語集(岩波新書)」という本が、高校生によく読まれていたことがありました。
術語という言葉の意味は、「学術上、特に定義して使う専門語」です。
要するに、難しい語彙の解説の本です。
例えば、その中に「恣意的(しいてき)」という言葉がありました。
これは、中高生の難しい国語の文章にはよく出てきます。
しかし、「恣意的」という言葉の読み方も意味もわからないという中学生高校生は多いと思います。
それでも、そのような語彙のある文章を読んでいると、大体のニュアンスはわかってきます。
術語として覚えるよりも、文脈として理解することが大事なのです。
現在、この「術語集」に似ているのは、語彙力の本です。
検索すると、「語彙力図鑑」とか「語彙力アップ」とかいう本がいろいろ出てきます。
もちろん、こういう語彙力の本を読むのはいいことです。
しかし、語彙力の本を読んで、語彙力がつくわけではありません。
語彙力は、知識として身につけるものではなく、文章を読み、その文脈の中で身につけるものです。
ことわざなども、「ことわざ辞典」などでの意味は仮の知識です。
本当のことわざの理解は、日常生活で、お父さんやお母さんが、あるいはおじいちゃんやおばあちゃんが普段の会話の中で使うことわざとして身につきます。
国語力の根底には、読書と対話があるのです。
だから、家庭でできることは、子供の読む本に、説明文や意見文の本を取り入れること、親子の対話で高度な話をすることです。
高度な対話は、小学5年生からの感想文の課題に合わせて、親子で話し合う機会を作れば、自然にできます。
小学5年生からの作文は、抽象的なテーマが出てくるので、急に難しくなるからです。
小学5年生以降の作文の勉強は、親子の対話とセットにして進めるといいのです。
その対話は、子供にとってだけでなく、親にとっても楽しい時間になると思います。
(つづく)