キイチゴ(ブラックベリー)
「これからはベンチャーの時代」という言葉は、多くの保護者には受けいられないと思います(笑)。
ほとんどの保護者は、真面目に勉強して、真面目に仕事をしてきた世代に属しているからです。
====
「学生ベンチャー」が1200社近くまで増加 東大生「学生にとって『起業』は当然の選択肢」
https://dot.asahi.com/articles/-/223905?page=1
2022年の東京大学の入学式。藤井輝夫総長の祝辞に衝撃が走った。3分の2が起業の話だったからだ。
「東大関連ベンチャーの支援に向けた取り組みを積極的に進め、30年までにその数を700社にするという目標を掲げています」
「少しでも関心があればぜひ勇気を出して、本学での起業をめぐるポジティブな語りと対話の輪のなかに一歩足を踏み出してみてください。そこにはきっと、教室での学びとはまた違った新しい世界が広がっているはずです」
世界にインパクトを与えるベンチャー企業を生み出そうと、国や大学は今、様々な支援に乗り出している。
====
これから世の中は大きく変わります。
例えば、今進んでいる核融合エネルギーの開発が進めば、エネルギーコストは大きく低下します。
物やサービスの価格は、つきつめれば、使ったエネルギーの価格です。
その価格に、人件費が加わるだけです。
だからこそ、これまで、ドルは、金とリンクするのでなくペトロダラーとして生き延びてきたのです。
と考えれば、エネルギーが無償に近くなれば、それは、あらゆるものの価格が無償に近づくということです。
残る価格は人件費だけです。
その一方で、人の行う仕事は、ロボット化やAI化で次第に少なくなっていきます。
物やサービスが無償に近くなる一方、人間の働く仕事が減り、収入が少なくなれば、これまでのお金を基準にして回っていた経済は回らなくなります。
そこで、長い目で見れば、ベーシックインカムの時代になるのです。
長い目と言っても、私は、じきにそういう時代が来ると思っています。
地球の自然界は、太陽のエネルギーで生きています。
太陽のエネルギーは、無償です。
中村天風は、
「太陽の光線は、美人の顔も照らせば、犬の糞も照らしている」
と言いました。
太陽は、分け隔てないのです。
太陽の無償のエネルギーによって、植物が水と空気を使って光合成を行い、その植物によって草食動物が生まれ、やがて肉食動物が生まれ、やがて人間が生まれ、やがて人間の文化が生まれました。
すべての出発点は、太陽の無償のエネルギーでした。
そう考えると、人工の太陽とも言われる核融合のエネルギーは、人間のすべての社会生活に影響を与えます。
その影響のひとつが、人間はもう収入のために働く必要がなくなるということです。
しかし、日本には、昔から働く文化があります。
何のために働くのかと言えば、これからは、ほかの人を喜ばせるために働くのです。
勉強と仕事は、収入のために行う勉強と仕事ではなくなり、自分自身の幸福と向上と創造と貢献のために行うものになります。
これからの若者が目指すベンチャービジネスも、この方向で行う必要があるのです。
ヤマボウシ
(ヤマボウシの名前は、4枚の白い花びらが、白い頭巾をかぶった法師(僧兵)に似ていることに由来する。 ●近縁種にアメリカヤマボウシ(ハナミズキ)があるが、これはは耐寒性が弱く、北海道ではほとんど使われていない。)
紙の本と電子の本とどちらがいいかという記事がありました。
====
本を読むなら「紙」と「電子」、どっちが正解?
https://diamond.jp/articles/-/345052
……「内容を深く読み込む力については、電子よりも紙媒体の方が身につけやすい」といった見解がでてきます。
したがって、「幼少期の絵本の読み聞かせなどは、デジタル媒体ではなく紙媒体でやった方が良い」とも書かれていて、実際にわが家でもこうした知見に基づいた子育てを実践してきました。
====
言葉の森では、国語や数学や英語の問題集は、紙媒体で渡しています。
デジタル化することはできますが、勉強は、紙媒体ですることが大事だと思っているからです。
かつて、デジタル教科書という構想がありました。今でもあるかもしれませんが。
これは、子供の勉強の仕方をよく知らない人の発案です。
大人は、デジタルでもいいのです。
しかし、それは、紙媒体で身につけた読書の蓄積があるからです。
子供は、最初は紙媒体で読書を身につける必要があるのです。
もちろん、単に知識や情報として読むだけのものであれば、紙媒体でも電子媒体でも変わりません。
しかし、ずっと読み続けたい本や、教科書や参考書や問題集は、デジタルではなく、紙で読む必要があります。
例えば、「はてしない物語」の本は、作者のミヒャエル・エンデが、挿絵にこだわりを持っていました。
====
wikipediaより
父親が著名な画家だったエンデは自身も絵を描いており、本の装丁にもこだわりを持っていた。17年にわたりエンデの編集者を務めたローマン・ホッケは「エンデは、この本を『魔法の本』と言っていました。だから装丁も、中に独立した世界があるような、特別なものでなければならない、と」と語っており、出版された本はその言葉通り表紙に二匹の蛇が描かれた布張りの本として装丁され、物語に入り込む入り口としての装置となった。読者は自身が手にした本が、作中でバスチアンが読んでいるものと同じものであると悟り、主人公と一体化していくのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%A6%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84%E7%89%A9%E8%AA%9E
====
教科書や参考書や問題集は、1回だけ読むものではなく、何度も繰り返し読むものです。
何度も読むものは、読み返すときに、「あの話は、たぶんあの辺のページのあそこら辺に書いてあったなあ」という感覚で読み返すことができます。
これがタンジブル(触れることできる)ということです。
機械が情報を読み取るときは、情報をそのままコピーするので、タンジブルである必要はありません。
しかし、身体を持つ人間が情報を読み取るときは、その情報の媒体にタンジブルに接する必要があります。
大人の場合は、デジタルでもかまいません。
しかし、子供の場合は、本はデジタルではなく、手で触れることのできる本として読んでいく方がいいのです。
だから、教科書や参考書や問題集も、もちろん紙媒体である必要があるのです。
デジタル教科書という考えがありますが、教科書とか自分の好きな本とかいうものは、デジタルな情報ではなく、触れることのできる(タンジブル)ものである必要があります。
ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」は、昔はいい本だったのですが、その後、岩波少年文庫に収録されてから、安価で手に入りやすくなった分、情報中心の本になってしまった気がするなあ。