ガクアジサイ
子供たちの勉強の様子を見ていると、スポーツの好きな子は、あまり読書をしない傾向があるように思いました。
もちろん、例外はたくさんあります。
スポーツも読書もという人は多いです。
しかし、そのとき思ったのは、肉体労働が続くと、本を読みたくなくなるという自分の体験でした。
学生時代、アルバイトで、マンションの4階まで重い荷物をいくつも運ぶという仕事を何日もしていたとき、仕事が終わって下宿に戻っても、本を読む気が起きませんでした。
時間はたっぷりあるのに、読書をしようという気にならないのです。
「重力と恩寵」を書いたシモーヌ・ヴェイユも、工場労働の経験のあとに、確かそのようなことを書いていました。
激しい肉体労働は、人間から、読むことや考える時間を奪うのです。
もちろん、スポーツは、いいものだと思います。
努力や向上心や目標など、人間の成長に役立つ面を持っています。
しかし、今人気のスポーツは、競争で勝つことを目的にしているので、かえって人間の成長にとって歪んだ面を持っています。
スポーツは、楽しくやればいいのであって、競争に勝つためにやるものではありません。
そのスポーツに少し似ているのが受験勉強です。
小学生時代に、よく本を読んでいていい作文を書いていた子が、受験勉強をしている間に本を読む時間がなくなり、その後、受験に合格したあとも本を読む習慣がなくなったということがありました。
読書は、生活習慣のようなものですから、読まない日が何日か続くと、その習慣が途絶えることがあるのです。
そして、本を読まないということは、考える時間がなくなるということです。
次のような記事がありました。
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週5フルタイムで働き、疲れ、本を読みたくてもSNSやYouTubeをぼーっと眺めてしまう、そんな生活おかしくないか?
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/81348?page=3
(この記事は、面白いのですが、ログインを強制されるので読まなくていいです。私はここに登録したことがありますが、そのメールとパスワードが認証されませんでした(笑)。)
正直、本を読む時間はあったのです。
電車に乗っている時間や、夜寝る前の自由時間、私はSNSやYouTubeをぼうっと眺めていました。あるいは友達と飲み会で喋ったり、休日の朝に寝だめしたりする時間を、読書に充てたらいいのです。
だけど、それができなかった。本を開いても、目が自然と閉じてしまう。なんとなく手がスマホのSNSアプリを開いてしまう。夜はいつまでもYouTubeを眺めてしまう。
あんなに、本を読むことが好きだったのに。
====
仕事に追われる人、勉強に追われる人、ほかの何かに追われる人は、本を読む時間がなくなります。
そして、その空白な時間を、YouTubeを見たり、SNSでやりとりをしたりするようになるのです。
YouTubeは、役に立つ情報も多いので、いいメディアだと思います。
しかし、昔のテレビに似ています。
テレビは、特に見たいものがないときでも、漠然とつける家庭が多かったのです。
では、どうしたらいいかというと、具体的には2つの方法があります。
第一は、タイマーをセットして、
「ちょっとYouTubeでも見て息抜きをしたいから、10分だけ見てみよう」
という時間制限をすることです。
もちろん、面白い番組であれば、もう一度10分のタイマーをセットし直せばいいのです。
大事なのは、タイマーをセットすることによって、本来の自分を取り戻すきっかけがつかめるということです。
第二は、読書は、
付箋読書で読むことです。
説明文の難しい本は、読むきっかけがつかめないと、読みかけで終わってしまいます。
しかし、読んだところまでに付箋をつけておくと、すぐに読み続けることができます。
そして、ある程度読んだあとに、また付箋をつけておけばいいのです。
人間は、身体を持っているので、手に触れる世界(タンジブルな世界)で生きています。
例えば、時間というものは、本来はあるかないかわからないものですが、人類はその時間を触れることのできる時間とするために時計を発明しました。
現在は、情報のメディアが次々に押し寄せてくるので、そのままでいると、情報に流されてしまいます。
情報に流されないためのひとつの方法が読書で、もうひとつの方法が文章を書くことで、第三の方法が発明や発見という自分なりの創造です。
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暇なときは読書をすればいいのですが、今は、スマホで情報に流される時間を過ごす人が多いです。
大事なことは、自分で何かを作り出すことです。
勉強も、仕事も、他から与えられた時間です。
勉強や仕事のあとに、YouTubeを見たり、ゲームをしたりしていれば、一日中流される生活をしていることになるのです。
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モジズリあちこち
国語読解クラスと、基礎学力クラスと、総合学力クラスの生徒は、特に読解検定の申込みしなくても、ウェブの問題を表示して、いつでも無料で解くことができます。
また、14日までの申込みに間に合わなかった生徒も、ウェブの問題を表示して28日までに問題を表示して解くことができます。
しかし、そのときの点数が、実は悪い生徒が多いのです。
それは、ウェブで文章を読んで、ウェブで選択肢を選んで答えているからです。
つまり、じっくり問題文に戻って読み直すことをしていないからです。
国語読解の成績が伸びない生徒に共通しているのは、適当に解いていることです。
適当に解いているので、結果がわかっても、「当たった」「外れた」で終わってしまうのです。
国語読解問題は、100点を取ることが目標です。
国語読解力のある生徒は、よく質問をしてきます。
「どうして、この問題がこの答えなのですか」
という質問です。
また、お母さんが、子供と一緒に間違えた問題の解き直しをしていることが多いです。
こういう生徒は、国語以外のすべての教科の成績が上がります。
繰り返しますが、国語読解問題は、100点を取ることが目標です。
少なくとも80点以上を取ることが必要です。
平均点は60点ですから、最低でも60点は取らなければならないということです。
学校の国語の読解問題であれば、適当な解き方でも◎になります。
しかし、読解検定の問題は、大学入試の共通テストと同じような、緻密に解く解き方で解くようになっています。
家庭で、ウェブの読解問題をやる場合は、必ず事前に印刷して取り組むようにしてください。
家庭での印刷ができない場合は、14日までにその月の読解検定に申し込んでください。
そうすれば、当日までに郵送で問題文が届きます。
読解検定の受検料は通常は550円ですが、国語読解クラスと基礎学力クラスと総合学力クラスの生徒の場合は330円です。
問題を適当に解いて悪い点数になっても、何も力はつきません。
よく考えて解くことが大切なので、必ず紙にプリントした文章をしっかり読んで解くようにしてください。
▽読検ランキング
https://www.mori7.com/dokken/dk_rank.php
▽自分の点数は「学習グラフ」で確認してください。
https://www.mori7.com/gs/
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国語読解の問題は、適当に解いて「当たった」「外れた」と言っていても力はつきません。
100点を取ることを目標に、緻密に解いていく必要があります。
これまでに国語の成績の上がった生徒は、お母さんと一緒に間違えた問題をすべて解き直すか、それでもわからない場合は教室に質問してくるかした生徒です。
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キイチゴ(ブラックベリー)
「これからはベンチャーの時代」という言葉は、多くの保護者には受けいられないと思います(笑)。
ほとんどの保護者は、真面目に勉強して、真面目に仕事をしてきた世代に属しているからです。
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「学生ベンチャー」が1200社近くまで増加 東大生「学生にとって『起業』は当然の選択肢」
https://dot.asahi.com/articles/-/223905?page=1
2022年の東京大学の入学式。藤井輝夫総長の祝辞に衝撃が走った。3分の2が起業の話だったからだ。
「東大関連ベンチャーの支援に向けた取り組みを積極的に進め、30年までにその数を700社にするという目標を掲げています」
「少しでも関心があればぜひ勇気を出して、本学での起業をめぐるポジティブな語りと対話の輪のなかに一歩足を踏み出してみてください。そこにはきっと、教室での学びとはまた違った新しい世界が広がっているはずです」
世界にインパクトを与えるベンチャー企業を生み出そうと、国や大学は今、様々な支援に乗り出している。
====
これから世の中は大きく変わります。
例えば、今進んでいる核融合エネルギーの開発が進めば、エネルギーコストは大きく低下します。
物やサービスの価格は、つきつめれば、使ったエネルギーの価格です。
その価格に、人件費が加わるだけです。
だからこそ、これまで、ドルは、金とリンクするのでなくペトロダラーとして生き延びてきたのです。
と考えれば、エネルギーが無償に近くなれば、それは、あらゆるものの価格が無償に近づくということです。
残る価格は人件費だけです。
その一方で、人の行う仕事は、ロボット化やAI化で次第に少なくなっていきます。
物やサービスが無償に近くなる一方、人間の働く仕事が減り、収入が少なくなれば、これまでのお金を基準にして回っていた経済は回らなくなります。
そこで、長い目で見れば、ベーシックインカムの時代になるのです。
長い目と言っても、私は、じきにそういう時代が来ると思っています。
地球の自然界は、太陽のエネルギーで生きています。
太陽のエネルギーは、無償です。
中村天風は、
「太陽の光線は、美人の顔も照らせば、犬の糞も照らしている」
と言いました。
太陽は、分け隔てないのです。
太陽の無償のエネルギーによって、植物が水と空気を使って光合成を行い、その植物によって草食動物が生まれ、やがて肉食動物が生まれ、やがて人間が生まれ、やがて人間の文化が生まれました。
すべての出発点は、太陽の無償のエネルギーでした。
そう考えると、人工の太陽とも言われる核融合のエネルギーは、人間のすべての社会生活に影響を与えます。
その影響のひとつが、人間はもう収入のために働く必要がなくなるということです。
しかし、日本には、昔から働く文化があります。
何のために働くのかと言えば、これからは、ほかの人を喜ばせるために働くのです。
勉強と仕事は、収入のために行う勉強と仕事ではなくなり、自分自身の幸福と向上と創造と貢献のために行うものになります。
これからの若者が目指すベンチャービジネスも、この方向で行う必要があるのです。
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ヤマボウシ
(ヤマボウシの名前は、4枚の白い花びらが、白い頭巾をかぶった法師(僧兵)に似ていることに由来する。 ●近縁種にアメリカヤマボウシ(ハナミズキ)があるが、これはは耐寒性が弱く、北海道ではほとんど使われていない。)
紙の本と電子の本とどちらがいいかという記事がありました。
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本を読むなら「紙」と「電子」、どっちが正解?
https://diamond.jp/articles/-/345052
……「内容を深く読み込む力については、電子よりも紙媒体の方が身につけやすい」といった見解がでてきます。
したがって、「幼少期の絵本の読み聞かせなどは、デジタル媒体ではなく紙媒体でやった方が良い」とも書かれていて、実際にわが家でもこうした知見に基づいた子育てを実践してきました。
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言葉の森では、国語や数学や英語の問題集は、紙媒体で渡しています。
デジタル化することはできますが、勉強は、紙媒体ですることが大事だと思っているからです。
かつて、デジタル教科書という構想がありました。今でもあるかもしれませんが。
これは、子供の勉強の仕方をよく知らない人の発案です。
大人は、デジタルでもいいのです。
しかし、それは、紙媒体で身につけた読書の蓄積があるからです。
子供は、最初は紙媒体で読書を身につける必要があるのです。
もちろん、単に知識や情報として読むだけのものであれば、紙媒体でも電子媒体でも変わりません。
しかし、ずっと読み続けたい本や、教科書や参考書や問題集は、デジタルではなく、紙で読む必要があります。
例えば、「はてしない物語」の本は、作者のミヒャエル・エンデが、挿絵にこだわりを持っていました。
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wikipediaより
父親が著名な画家だったエンデは自身も絵を描いており、本の装丁にもこだわりを持っていた。17年にわたりエンデの編集者を務めたローマン・ホッケは「エンデは、この本を『魔法の本』と言っていました。だから装丁も、中に独立した世界があるような、特別なものでなければならない、と」と語っており、出版された本はその言葉通り表紙に二匹の蛇が描かれた布張りの本として装丁され、物語に入り込む入り口としての装置となった。読者は自身が手にした本が、作中でバスチアンが読んでいるものと同じものであると悟り、主人公と一体化していくのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%A6%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84%E7%89%A9%E8%AA%9E
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教科書や参考書や問題集は、1回だけ読むものではなく、何度も繰り返し読むものです。
何度も読むものは、読み返すときに、「あの話は、たぶんあの辺のページのあそこら辺に書いてあったなあ」という感覚で読み返すことができます。
これがタンジブル(触れることできる)ということです。
機械が情報を読み取るときは、情報をそのままコピーするので、タンジブルである必要はありません。
しかし、身体を持つ人間が情報を読み取るときは、その情報の媒体にタンジブルに接する必要があります。
大人の場合は、デジタルでもかまいません。
しかし、子供の場合は、本はデジタルではなく、手で触れることのできる本として読んでいく方がいいのです。
だから、教科書や参考書や問題集も、もちろん紙媒体である必要があるのです。
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デジタル教科書という考えがありますが、教科書とか自分の好きな本とかいうものは、デジタルな情報ではなく、触れることのできる(タンジブル)ものである必要があります。
ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」は、昔はいい本だったのですが、その後、岩波少年文庫に収録されてから、安価で手に入りやすくなった分、情報中心の本になってしまった気がするなあ。
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クチナシ 八重咲き
国語力とは、つまるところ読解力です。
漢字を書く力とか、文法とか、古文とか漢文とかいう力は、知識の力ですから、国語力の本質とは少し異なります。
難しい文章を読みこなせて、質問に的確に答えられるというのが国語力です。
ただし、漢字を読む力は、読解力との相関が高いです。
漢字を書く力は、漢字の書き取りの勉強をすることによって身につきます。
しかし、漢字を読む力は、読書力のある子であれば、自然に身につくのです。
将来、社会人になって必要なのは、漢字を書く力よりも漢字を読む力です。
書く力は、今は、漢字変換ですぐに出てきます。
しかし、読む力は、その言葉の意味がわからないということですから、国語力という点ではより重症です。
試みに、中学生の子に、中学生用の国語問題集の問題文を読ませてみるとわかります。
ほとんどの子に、漢字の読み間違いがあります。
それは、そういう漢字のある文章を読んだことがないからです。
つまり、難しい文章を読んだ経験がないということです。
昔、「
術語集(岩波新書)」という本が、高校生によく読まれていたことがありました。
術語という言葉の意味は、「学術上、特に定義して使う専門語」です。
要するに、難しい語彙の解説の本です。
例えば、その中に「恣意的(しいてき)」という言葉がありました。
これは、中高生の難しい国語の文章にはよく出てきます。
しかし、「恣意的」という言葉の読み方も意味もわからないという中学生高校生は多いと思います。
それでも、そのような語彙のある文章を読んでいると、大体のニュアンスはわかってきます。
術語として覚えるよりも、文脈として理解することが大事なのです。
現在、この「術語集」に似ているのは、語彙力の本です。
検索すると、「語彙力図鑑」とか「語彙力アップ」とかいう本がいろいろ出てきます。
もちろん、こういう語彙力の本を読むのはいいことです。
しかし、語彙力の本を読んで、語彙力がつくわけではありません。
語彙力は、知識として身につけるものではなく、文章を読み、その文脈の中で身につけるものです。
ことわざなども、「ことわざ辞典」などでの意味は仮の知識です。
本当のことわざの理解は、日常生活で、お父さんやお母さんが、あるいはおじいちゃんやおばあちゃんが普段の会話の中で使うことわざとして身につきます。
国語力の根底には、読書と対話があるのです。
だから、家庭でできることは、子供の読む本に、説明文や意見文の本を取り入れること、親子の対話で高度な話をすることです。
高度な対話は、小学5年生からの感想文の課題に合わせて、親子で話し合う機会を作れば、自然にできます。
小学5年生からの作文は、抽象的なテーマが出てくるので、急に難しくなるからです。
小学5年生以降の作文の勉強は、親子の対話とセットにして進めるといいのです。
その対話は、子供にとってだけでなく、親にとっても楽しい時間になると思います。
(つづく)
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国語力は、知識として身につけるのではなく、国語力を育てる生活の中で身につけるものです。
国語力は、漢字の書き取りとか、語彙力の本とかではなく、読書と対話の中で自然に身につきます。
対話については、小学校高学年の作文のテーマに関して、親子で楽しい話をすることが最も効果的です。
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ナンテンのつぼみ
学校で行われる国語の問題は、易しいものが多いです。
難しい面があるのは、国語の問題が先生の趣味で出されている場合があるからです。
受験の国語は、長文を読ませるものが多くなります。
学校の国語とは、レベルが違います。
その受験の国語を解くテクニックというものが紹介されていました。
====
「国語ができない子ども」他の科目も伸び悩む根拠
英語・社会・数学…国語はすべての科目に通じる
https://toyokeizai.net/articles/-/757205?page=7
(読む必要はないです。)
====
タイトルはいいのですが、中身は、単なる解き方のテクニックです。
例えば、こういう説明です。
====
選択肢の中に「絶対」「例外なく」「必ず」なんて表現があったら、それは断定的な表現なので、×になることが多いです。
====
このようなレベルで解ける国語の読解問題というのは、「ちょっと難しい」という程度の国語問題です。
こういうテクニックを覚えても、国語の力はつきません。
もうひとつ、こういう記事もありました。
====
【超人気国語講師が教える】子どもの「国語力」をあげるために親がすべきことベスト・1
https://news.yahoo.co.jp/articles/05647ab61955a56a8132aa5dbeefd17973f18114
(これも、読む必要はないです。)
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この記事には、こういうことが書いてあります。
====
ちなみに、「本を読まない子」でも中学受験の国語は突破できます。
お子さんが読書をしないということで心配される親御さんが多いのですが、中学受験の国語に関しては、「教材」をしっかり勉強すれば充分合格できます。
中学入試では「1万字を読む力は必要」とされていますが、これはおよそ新聞の1面に相当する文字数です。
さきほどお伝えした「言葉に触れる環境作り」でこのレベルにまで到達していれば、「中学受験の国語」を戦う土台はあると考えてOKです。
あとは講師がしっかりテクニックを教えれば結果はついてきます。
「1万字を読む力」は育むべきですが、「数万字の本を1冊読み切る力」はマストではありません。
お子さんが読書することはもちろんよいことですが、読書体験を重ねることが国語力アップの最短ルートではないという点は意識したほうがいいでしょう。
====
この記事を書いている人は、国語力不足に悩んでいるお母さんやお父さんを安心させてあげたいという気持ちで書いていると思うので、いい人だとは思います。
しかし、私がいつも疑問に思うのは、子供が何のために勉強するのかという原点が、「成績を上げるため」や「受験に合格するため」になっていることです。
大事なのは、子供が人間として成長することです。
その途中の過程で、成績を上げることや合格することが目標になります。
もちろん、受験のときには、それは当然目標になっていいのです。
しかし、本当に大事な国語力とは、考える力をつけること、感じる心を育てること、表現する力をつけることです。
これらの国語力が、国語以外の、数学、英語、理科、社会の勉強にも生きてくるのです。
そのためのいちばんの近道は、読書と対話と作文です。
そういう近道が遠回りだと思って(変な言い方ですが)、解き方のテクニックを先に考えるのでは、道の行く先が違ってきます。
解き方のテクニックなどは、ほんの数時間で身につきます。
私が昔、高校3年生の子供たちに、大学入試共通テストの解き方を説明したときは、数時間の説明で、次の週からほとんどの子が、平均点から満点近くになりました。
中学3年生の国語が苦手という子に、国語の解き方も教えたときもそうでした。
その子は、そのうち国語がいちばん得意と言うようになりました。
しかし、本をあまり読んでいない子は、解き方のテクニックを教えても、ある程度の点数までしか成績が上がりません。
解き方のコツがわかっても、もともとの読む力がないと、ある段階までしか成績が伸びないのです。
では、読む力をつけるためには、どうしたらいいかというと、それは難しい説明文や意見文の本をばりばり読むことなのです。
「読書をしなくても国語の成績は上がる」というのは、少しは上がるかもしれない、ということです。
こういう安易な記事に惑わされずに、本道の勉強をしていくことが大事です。
本道の勉強とは、難しい文章をしっかり読むことです。
もうひとつ、面白い記事がありました。
====
子どもの読解力は家族との会話の中で養われる
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2024/06/post-104669_3.php
(特に読まなくてもいいです。)
====
対話と国語力には、幼児期や小学校低中学年の時期には、特に高い相関関係があります。
小学校低学年の子供たちの作文課題は、自由な題名です。
小学校中学年の子供たちの作文課題は、身近な事実文です。
この時期に、その作文の準備として、親子でたっぷり話をするのです。
その話とは、親の体験談をおもしろおかしく話してあげることです。
だから、お母さんやお父さんの小学校時代の失敗談などを話してあげるといいのです。
この親子の対話の中で、子供たちの語彙力と思考力が育っていきます。
それが、その後、中学生や高校生になってからの子供の読書力につながっていくのです。
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「国語力をつけるために、特に読書をする必要はない」という耳あたりのいいことを言う人がいます。
その国語力とは、結局、国語の成績を上げたり、受験に受かったりするためだけの国語力です。
そんな国語力は、社会に出てから、何の役にも立ちません。
本当の国語力は、難しい本をしっかり読むことでつくのです。
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ヤマアジサイ
対面式の教室とオンラインの教室の違いということを聞かれることがあります。
しかし、その対比は、もう古いのです。
2020年のコロナ禍のとき、即席で作られたオンラインの教室は、古い時代のオンライン教育でした。
それは、授業をただ動画で流すようなオンラインだったからです。
また、双方向性をうたっているところでも、先生がみんなの顔を見えるとか、生徒が先生に質問をすることもできるという程度の限られた双方向性でした。
これが、レベルの低いオンライン教育です。
しかし、言葉の森のオンラインクラスは、違います。
まず4人から5人以内の少人数で授業をしています。
また、そのクラスは、固定したメンバーと固定した先生です。
更に、生徒全員に発言する機会があります。
先生が生徒に一方的に教える授業ではなく、生徒が発表する授業を目指しているのです。
そのため、小学校低学年から同じクラスで勉強していると、友達のような関係ができます。
通学式の塾でも、子供たちの楽しみは、行き帰りの道で友達とお喋りをすることです。
オンラインの教室でも、楽しさの中身は、自分が発表し、その発表を通して友達の質問や感想を聞く機会があることなのです。
★そこで、言葉の森のオンラインクラスは、今後、授業の中だけでなく、授業の前後にも生徒どうしが自由にお喋りを楽しめるようにしたいと思います。
お喋りは自由ですから、気の合った生徒どうしで話をしたいときに話をするということです。
ただし、時間制限として、授業の前の15分以内、授業のあとの15分以内とします。
それは、時間制限をしないと、惰性で話をしてしまうことがあるからです。
授業の前は、メインルームに入り、先生の授業が始まるまでは自由にお喋りをしていいです。
授業のあとは、ブレークアウトルームがいくつかできていますから、その中の使われていないブレークアウトルームに移動しお喋りをしていいです。
ただし、繰り返しますが、いずれも時間は15分以内です。
この時間制限がないと、互いに相手に遠慮して、だらだら話してしまうことがあるからです。
お喋りを始める前に、「じゃあ、私は、今日は○分までいるからね」というようなことを予め言っておいてもいいと思います。
大人の中には、子供たちをブロイラーのように教育することが能率的な教育だと思っている人がいます。
真面目な大人の人は特にそうです。
しかし、子供は生き物です。当たり前ですが。
時々は息抜きをしながら、しかし、集中するときには集中するというムラのある生き方をするのが人間の自然な生き方です。
以前、子供がパソコンで勉強しているときに、YouTubeを見ていたというので、子供を叱って、もうパソコンは使わせないというお母さんがいましたが、そういう脱線は、どの子もやっています。
むしろ、そういう子の方が人間らしい生き方をしています。
言葉の森の昔の通学教室でも(今は、通学教室はすべてオンラインに切り替えたので通学教室はありませんが)、中学生や高校生の生徒は、自分の席に着くと、パソコンに入っているゲームをひとしきり楽しんでから、と言っても数分ですが、それから勉強に取り組んでいました。
人間は、ニワトリではないのです。
今、YouTubeやゲームに熱中している子供もたくさんいると思いますが、それは、その子が、YouTubeやゲームに対する免疫を獲得する時期だからです。
やがて、YouTubeやゲームの遊びはほどほどにやっていればいいのだという感覚が生まれます。
それが免疫です。
そういう免疫の感覚が生まれるまでの期間は、熱中しすぎるということは誰でもあります。
では、免疫を早めに獲得するにはどうしたらいいかというと、それは読書です。
伝記や歴史の本を読むと、自分の生き方をより大きい視野で見ることができるようになります。
すると、目の前の興味に夢中になっていることが、軽いことのように思えてくるのです。
子供の教育法は、「△△をしない」ということではなく、「○○をする」ということで進めるといいのです。
「漫画を読まない」ということではなく、「いい本を読む」ということです。
「ゲームをしない」ということではなく、「自分でプログラミングをする」ということです。
子供が普通に成長していれば、親は、その子の自然な成長力を信頼していればいいのです。
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未来の教育は、対話型の少人数オンラインクラスの教育になります。
しかし、まだ、オンライン教育を、授業動画を見せるだけの教育と思っている人が多いです。
大事なのは、オフラインかオンラインかではなく、生徒どうし、及び、生徒と先生の対話があることです。
人間は、人間との関わりの中で成長します。
AIテクノロジーでも成長はできますが、その成長は機械的な成長です。
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モジズリのつぼみ
少し前に、ディベートをいう勉強法がはやったことがあります。
しかし、これは普及しませんでした。
当然です。
日本には、論争するという文化がないのです。
必要に応じて論争することはできますが、その論争で勝っても負けても、面白くも何ともありません。
あとに、虚しさが残るだけです。
それは、論争が何かを生み出すわけではないからです。
同じような言葉に、クリティカル・シンキングがあります。
欧米には、弁証法的な思考法があり、それは、ある意見に対する反対意見があると、それらを止揚して新しい意見が生まれるという考え方です。
言葉の森の中学生の作文の課題も、複数の意見→総合化の主題ですから、こういう弁証法的な考え方の練習です。
これは、頭の体操としてはいいのですが、日本人は普通、批判を通して総合化するという考え方をしません。
では、どうするかというと、まず共感するのです。
相手の意見に、とりあえず共感したあと、自分だったら更にどうするか考えるというのが、日本的な思考法です。
このときに必要なのは、創造的に考えるということです。
批判を通して創造的に考えるのではなく、共感を通して創造的に考えるということです。
言葉の森のオンラインクラスの授業の中では、読書紹介や、発表会や、一人一言の発言という時間があります。
不思議なのは、それらの質問感想の時間のときに、相手の言っていることを批判するような意見を言う子がひとりもいないことです。
文字どおり、ひとりもいません。
別に、先生や親がそうしろと言ったわけでもないのに、どの子も、相手のいいところを認めるような発言をします。
これが日本文化です。
では、そこからどういう創造が生まれるかというと、自分とは異なる他の意見に共感した子は、自分がその意見を受け入れたあと、自分の中で新しい創造を始めるということです。
批判を通しての創造ではなく、共感を通して自分の中で創造するです。
だから、学校教育でのやり方としては、相手の意見を聞いたあとに、批判するところを探すのではなく、まず共感するところを探すことです。
その共感の上に立って、自分だったら更にどうするかと考えるのが創造的な考え方です。
言葉の森の意見文には、反対理解、複数の実例、複数の理由、複数の方法、複数の原因、複数の対策などのいくつかの項目があります。
ある人の意見に対して、共感しつつ、別の反対理解、別の実例、別の理由、別の方法、別の原因、別の対策などを考えることはいくらでもできます。
それは、単に相手の意見を批判することよりもずっと頭を使う創造的な考え方になるのです。
さて、全然関係ない歌ですが、みんな、いい顔をしてい歌っているなあと思ったので紹介します。
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西洋には、批判を通して新しい考えが生まれるという弁証的な発想があります。
日本には、そういう文化はありません。
日本では、共感を通して新しい考えが生まれます。
なぜ西洋で弁証法が広がったかというと、語彙が貧困だったからです。
貧困な語彙のもとでは、新しい発想は、論争でしか生まれません。
だから、日本は、今更ディベートとかクリティカル・シンキングとかいうことをやる必要はありません。
これまでの共感の対話で十分なのです。
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