あるお母さんから相談がありました(生徒の保護者ではありません)。
子供に何かを言っても、その子が話を聞いていないようだというのです。学校でも、先生がみんなに言ったことを、その子一人だけ聞いていないようだと言います。しかし、こういうことはだれでも多かれ少なかれ経験のあることです。それほど大した問題ではないと思います。
しかし、見方を変えてみると、話がすぐに理解できないという問題の根は実は深いところにあるのではないかと思いました。
教室で、生徒に一斉に同じような説明することがあります。みんな、先生の目を見て熱心に聞いています。しかし、話が終わるとしばらくして、「それで、何をやるんですか」と聞く子がたまにいます。その子にだけ再度同じ説明して、初めてわかるというような分かり方なのです。
一度だけではわからない、何度か説明するとわかるというのは、最初に聞いた言葉が頭に入っていないということです。
その理由は、注意力が足りないからというようなことではなく、長い文が頭に入りにくいからなのです。
子供たちに課題の長文の説明をしているとき、中学生や高校生に対する説明は、かなり難しくなることがあります。すると先生が、その子のすぐ隣で説明をしているのに、それを聞きながらこっくりと居眠りをしてしまう子がいます。先生の説明が難しく長いので、聞いているうちに眠くなってしまうのです。しかし、そういうときでも、理解力のある子はずっと最後まで興味深く聞いています。
学校でも30人ないし40人の生徒に先生が同じように説明して、何人かは先生の話が一度では理解できないという子がいるはずです。だれでも小学生のころは、先生の話をぼんやりとしか聞いていないことがよくありますから、先生の話を聞き忘れたということはそれほど大きな問題ではありません。
しかし、これがいつも続くとなると、例えば中学受験のテストで設問の意味が読み取れないというような問題につながります。さらに、社会人になれば、社会や周囲の情勢の変化が読み取れないということにもつながってきます。
理解力の根本にあるのは、長い複雑な文を読む力です。現在の社会では、子供たちは短い言葉の多い環境に取り囲まれています。短い言葉とは例えば、「面白い」「つまらない」「ドガーン」「バギューン」「ウグググ」などという言葉です。この短い言葉にビジュアルなアニメが組み合わされた環境に長くいると、脳が長い文を読まないことに慣れてしまうのです。
では、長い文を読む力はどこからつくのかというと、それはまず親子の対話の中からだと思います。子供にとって、両親は自分の生きる命綱のようなものです。子供は、親のしていることを真剣に真似しながら育ちます。特に小学校2、3年生は、自分の生き方のモデルを作る時期ですから、身近な両親や年上の人に自分のモデルを見出そうとします。この時期に親が子供との対話で長い文を話していれば、子供も自然にそういう文を理解する力をつけていきます。逆に、「ドガーン」「バギューン」などというテレビ番組をモデルにして育てば、長い文を理解する力は育ちません。この差は、実はかなり大きいのです。
一般に、学力の差がつくのは、小学5年生あたりからと思われていますが、実は小学2年生ごろから既に、長い文を理解できる子と理解できない子の差が生まれています。この差は生活の中でついた差なので、その後ますます大きく開いていきます。学校や塾には、家庭の生活の中でついた差を埋める力はありません。
そこで、長い文を理解する力をつけるために、家庭での対話と読書が大切になってきます。対話といっても、子供と深い関わりを持ちにくい多忙な父親の場合は、「勉強しているか」「うん」「ちゃんとやれよ」「わかった」というようなものになりがちです。子供の日常生活をよく知らないので、対話を深めるきっかけが見つからないのです。
ここで、言葉の森の作文課題や長文を生かすことができます。父親があらかじめ長文を読んでおき、日曜日などの時間のあるときに、その長文に追加する話をしたり、作文の課題について父親の子供のころの似た例を話したりできるのです。
子供を伸ばす家庭学習とは、問題集をやるような勉強ではなく、親と子が楽しく対話をするような生活です。
そのためには、家庭で普段から10分間の長文暗唱の自習をしておき、日曜日に父親の前で300字の長文暗唱をしてみせるようにするといいでしょう。このような形で話をしていけば、対話は自然に知的になり、長い文で話し合う環境ができます。親子の会話がはずむ家庭であれば、テレビなどは必要ありません。子供が友達との会話をするときにテレビの話題は多少は必要になることもあるでしょうが、それ以外ほとんどの番組は、見なければ見ないで済みます。それよりも、家族の対話の方がずっと魅力あるものになるからです。
作文の勉強は、書く力をつける意味ももちろんありますが、それ以上に、家庭学習の要にできるという利点があります。
さて、親が子に話すときに大事なことは、その対話の中で、子供を、笑わない、からかわない、けなさない、ということです。親が自分の自慢をするのはいいのですが、その自慢の延長で子供を馬鹿にしないということです。「お父さんのときは、こんなことをしたんだよ。それに比べて今の子供は……」というような話をしそうになったら、「今は今で別のいいところがあるけど……」と方向転換をするといいでしょう。また逆に、子供を褒めるときにも注意することがあります。それは、ほかの子をけなす形で褒めないということです。
学校や塾で行う勉強は、知識中心の表面的な勉強です。本当の知性の土台は、家庭の中で親子の対話のある生活を通して作られていくのです。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。受験作文小論文(89) 作文教育(134)
小学校高学年の生徒から、作文をもっと上手に書くにはどうしたらいいのですか、という質問がファクスで送られてきました。一緒に送られてきた作文を見ると、それなりに上手に書けています。しかし、もっと上手にするにはどうしたらいいのかということをその子に話しました。
今日は、多くの皆さんに関心のある「上手な作文を書くにはどうしたらいいか」ということについて説明したいと思います。
まず、上手な作文と一口に言いますが、実は、上手な作文の定義ははっきりしていません。しかし、上手な作文と感じられるものは実際にあります。それをどのように考えていたらいいのでしょうか。
その定義に入る前に、まず、文章書くということの社会的、歴史的な意義を説明したいと思います。
文章の役割というものは、書き手と読み手の関係によって四つの歴史的な段階があります。
┃受け手
┃多┃少
━━━━╋━╋━
与え手多┃3┃4
━╋━╋━
少┃2┃1
書き手も少なく読み手も少なかった時代には、役に立つ文章ということが文章を書くことの意義でした。
しかし、歴史的には、「役に立つ文章」以前の時代もありました。書き手も読み手も、ともにきわめて少なかった時代です。例えば、ギリシア時代では、プラトンはあまり本を読まなかったそうです。読むに値するような本そのものが少なかったからでしょう。プラトンの師であるソクラテスは、もっぱら弁証法という対話によって思索を深めました。ソクラテスが木の陰でじっと立って何事かを考えているというような光景がよく見られたそうです。当時は、文章を書くということがあまり一般的ではなかったので、考えを深めるためには、他人とディスカッションをするという方法が中心だったのです。
ところがその後、ペンや紙が発明され文章を書く手段が普及することによって、弁証法による対話の代わりに、文章を書くことによる自己との対話が可能になりました。つまり、書くということの本質は、最初は自己との対話だったのです。
しかし、その後、読み手が増え、更に書き手が増え、更に書き手がもっと増えるというような歴史の発展の中で、次第に書く意義が変化してきました。それぞれの時代に対応する文章の意義は、読み手が少ない=役に立つ、読み手が多い=わかりやすい、読み手がもっと多い=面白い、書き手の方が読み手よりも多い=その人らしい、となります。しかし、もともとの文章を書く本質は、自己との対話だったということです。
この文章の社会的意義と、上手な文章を書くということとは、別の次元の価値になっています。
例えば、悪文だが役に立つ文章、悪文だが面白い文章、悪文だがその人らしい文章、というものがあります。これと似た例として、悪筆だがその人らしい文字というようなものがあるのと同様です。
上手な文章を書くことよりも、むしろ役に立つ、面白い、その人らしい文章を書くことの方が、文章の本質的な価値になります。しかし、これらの本質的な価値は、文章が上手に書けるという自分なりの自信がないと表に出しにくいのです。よく、話をすると面白いが、書いた文章を見るとあまり面白くないという人がいます。シンデレラの本質は、美しい心でしたが、シンデレラは衣装がなければ舞踏会に行くことができませんでした。つまり、価値ある内容を表に出しやすくするために、上手な文章を書くという意義があるのです。
ここで、上手に書くことの大切さに話がつながりました。
しかし、スポーツなどにおいて、試合の勝敗とそのチームの実力との間に、相関は高いが必ずしも一致しないという関係があるように、文章の上手さについても、上手さと実力の間に、相関は高いが必ずしも一致しないという関係があります。
文章を書く実力は大きく分けると、字数力、語彙力、思考力、実例力などになります。このうちの字数力というものは表面的な実力のように見えますが、実は意外と重要で、その生徒の実力がどのくらいあるかということは、どのくらいの字数が楽に書けるかということと関連しています。字数には、書くことに対する慣れと豊富な話題が必要です。一方、語彙力、思考力、実例力は、広い意味での考える力です。この、文章を書きなれていることと、考える力のあることが、文章の実力を支える要因になっています。
さて、このあたりから、受験にも使える上手な作文の書き方になっていきます。以下の内容は、簡単にエッセンスだけ書いていますが、本当はかなり密度の濃い話です。
文章の上手さというものを言葉の森では四つに分けて考えています。
それは、構成、題材、表現、主題という四つの分類です。これらのほかに、表記というものもありますが、これは、書き方を間違えていない、あるいは読みにくくないということですので、上手さの要因というよりも、文章を書く上での前提のようなものです。
さて、第一は構成です。構成は文章全体の流れです。説明文や意見文の場合は、わかりやすい流れということになりますが、事実中心の文章では、伏線のようなものも構成に入ります。読んでいる途中で伏線が発見されると快感を感じるという心理が人間にはあります。「あそこでこうだったから、ここでこうなったのだ」ということが自分なりわかると、発見の喜びがあるのです。これは、説明文でも同じで、書き出しの文章と途中のキーワードと結びの文章が対応していると、読み手はその文章に居心地のよさを感じます。
第二位は題材です。この題材の面白さは、個性、挑戦、感動、共感、ユーモアなどと分けて考えることができます。コンクールに入選する作文には、この題材のよさが欠かせません。しかし、題材は実力よりも、どちらかと言えば偶然に左右されるものです。この点から見ても、実力と上手さは必ずしも一致しないということがわかります。
第三は表現です。この表現という分野が、文章の上手さという点で最も微妙な説明を要するところです。人間は、いい表現に出合うと、気持ちのよさを感じます。それは例えば詩的な文書に対して感じる快感と同じようなものです。言葉の森では、光る表現ということで、名言を自分で作ったりことわざを加工したりするという指導をしています。この光る表現が入ると、それだけで、文章の印象が何割か上手になります。
表現の分野では、もう一つ、もっと大事で微妙なことがあります。それは、多様な語彙が使われているということです。これは文章自動採点ソフトの森リンでかなりの程度正確に評価することができます。上手でない文章は、全体に単調な語彙しか使われていません。この語彙の単調さは、読書経験の少なさと結びついています。本をたくさん読んでいる子は、作文に使える語彙が自然に豊富になります。読んで理解できる語彙と、書くときに使える語彙は、その量がかなり違います。書く語彙は、読む語彙よりもずっと少ないのが普通です。
言葉の森では、小学校5年生から常体で書くという練習をしていますが、これは、小学校の5年生あたりから、教科書に載っている文章で常体の割合の方が多くなるからです。一般に、敬体の文章よりも常体の文章の方が、説明的な文章であったり、大人向けの文章であったりすることが多い傾向があります。子供たちの作文を見て、最初から何も指示しないのに常体で書いてくるという子は、それだけで難しい本をよく読んでいて語彙が豊富だということがわかります。小学校低中学年で既に常体で書くような子は、一般にかなり本好きな子です。ところが、普通は、大学生になっても、常体ではなく敬体で書く人の方がずっと多いのです。
第四が主題です。主題とは、読み手にとって価値ある意見や立場が書いてあるるかどうかということです。文章に書かれている意見に読み手が共感すると、その文章が上手に感じられます。逆にいうと、自分の考え方や感じ方と相反する文章は、上手には感じられません。説明文や意見文では、主題はその文章の立場や意見などになりますが、事実文では、主題はその文章の背後にあるトーンのようなものになります。上手に書いてあるが何か暗いものがあるという文章と、同じ上手さで何か明るいものが感じられるという文章とでは、普通は、自然に明るさが感じられる文章の方が上手に感じられるということです。
さて、ここまで説明すると、作文を上手に書くコツがわかったと思います。それは、言葉の森で勉強することはもちろんですが、その土台として、たくさんの本を読み、たくさんの挑戦的な経験をしていくということです。
そして、その上手さを土台にして、真に価値ある文章を書くことを作文の勉強の目的にしていってください。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
最初にかいた猫の耳のある女の子の絵がわかりにくかったので、男の子の絵にしました。(^^ゞ
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。作文の書き方(108) 受験作文小論文(89)
言葉の森の作文教室の特徴を説明します。
第一は、学習塾のようなものではないということです。どこかの学校に入ることが目的で、ここでの勉強がその手段となるような形の勉強を目的にしているわけではありません。
言葉の森は、読み書き考える力をつけること自体を目的としています。その結果、受験に合格したり、コンクールに入選したりする子が多くいるということなのです。
第二は、たぶんどこよりもわかりやすい指導している点です。
どんなに苦手な子供でも、言葉の森に来れば作文を書き出すことができます。本人も親も初めてこんなに書けたと驚くことが多いのですが、言葉の森ではごく普通に行っている指導です。
第三は、たぶんどこよりもハイレベルな指導しているということです。小学生から高校生まで書くことにどんなに自信がある子でも、言葉の森に来ればそこでまた新たなことを学ぶことができます。
ほかのところでは教えてもらわないような指導の蓄積がたっぷりあるからです。
第四は、家庭での教育を大事にしている点です。勉強をすべて教室でお任せにしてもらうのではなく、家庭の教育がサポートする形の学習を考えています。
子供たちを育てるのは、学校や塾などの外にある機関ではなく家庭だからです。家庭で、子供の作文に関心を持ち、長文をもとに家族の対話をしたり、作文の課題をもとに両親の子供のころの話を教えてあげたりすれば、勉強の効果は何倍も大きくなります。
第五は、子供たちに勉強のノウハウを教えるようにしている点です。方法が分かれば、自分で勉強を続けていくことができます。特定の教材や機器に頼らなければできないような形の勉強は行っていません。
教材や機器にあたるものは、ほとんどすべてインターネット上で公開しています。
第六は、読む力書く力考える力をトータルに考えている点です。
作文を書くだけではなく、その土台としての読む力や考える力を育てることに力を入れています。作文は、日本語力の集大成となるものですが、作文の勉強だけしても力はつきません。日本語力の裾野にあたる読む力や考える力を育てることが作文の勉強には欠かせません。
第七は、
幼稚園や小学校低学年から、高校生大学生社会人までのトータルな指導の流れを考えている点です。これまでの生徒たちの中には、小学校一年生から初めて高校三年生や大学生になるまで勉強を続けた人が何人もいます。小学生の間に上手な作文を書くことが目的なのではなく、将来大人になったときに書く文章の準備として小学生の間の勉強をしていくように考えています。
第八は、これらの土台になる考えとして、作文というものの哲学的なビジョンを考えている点です。現在の日本の社会に作文の教育をどのように位置づけるかということを考えて指導を行っています。ですから、
作文を単に日本語の力として考えるだけでなく、日本の文化や日本人の心として考えていきたいと思っています。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
明日は、これらの特徴を個々に説明していきます。
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。言葉の森の特徴(83)
言葉の森の作文指導の特徴は構成作文というもので、書く前にあらかじめ構成と表現を指示して書く書き方です。
低学年からこのような形で書いているので、
言葉の森の生徒の作文には特徴があります。構成がわかりやすいので、小論文試験などでも構成力の評価がきわめて高いのです。
構成の方向が決まっているので、子供たちの勉強で、これまで構成メモはあまり必要ありませんでした。
しかし、考える過程を深めるために、構成図を書く指導を始めました。
構成図は、構成メモをビジュアルに発展させたもので、現在、中学生以上の作文について指導しています。できあがった形がマインドマップに似ていますが、マインドマップではありません。しかし、マインドマップを知っている人が増えたようで、ほとんどの子が抵抗なく楽しそうに書いています。現在、通学教室では、小学生もフォーマットを使った構成図を書いています。
構成図を使う利点は、考えが深まることだけではありません。音声入力をするときに、構成図があると、文章化がスムーズにできるのです。
音声入力は、構成図をもとに作文を音声で入力する方法で、現在、通学教室の中学生以上で行っています。
音声入力を使うと、これまでのパソコン入力で書いていた作文が、数分の一の時間で書き上げられるようになります。ですから、この書き方を身につければ、大学生や社会人になったときにも役に立ちます。
そういう方法を使っていると、普通に書く書き方ができなくなるのではないかという心配をする人もいるかもしれませんが、そういうことはありません。
フォトリーディングでも、10分か20分で本を読んだあと、気に入ればまたじっくり読み直すことができます。
音声入力は、1200字の文章でも10分程度で書けるほど能率がいいのが長所です。もちろん、そのあと誤変換の編集があるので実際にはもう少し時間がかります。しかし、このように早く書き上げることができるので、いったん音声で入力したあと、普通に最初から自分で書き直すこともできます。実際に、そのようにする生徒もときどきいます。
構成図プラス音声入力のいちばんの利点は、忙しいときでも10分ほどの時間があれば1200字の作文を書き出すことができるという点です。
普通に作文を書くのであれば、1時間ぐらいの余裕がないと作文の勉強を始められません。作文は、途中まで書いて続きはあとで書くという形での勉強をしにくいからです。
ところが、構成図を書くだけなら10分もあれば十分にできます。構成図を書き終えたあと、いったん終了しても、あとからすぐに全体を思い出して再開することができます。
構成図を書いたあとの音声入力は、これも慣れてくれば10分もあればできます。このあと、入力したものを編集する必要がありますが、入力だけでいったん終了しても、あとからすぐに続きの作業にとりかかることができます。
1時間の見通しがなければ取りかかれない作文と、10分の見通しがあれば取りかかれる作文との差は、多忙な日常生活の中ではかなり大きい差になります。構成図と音声入力に慣れてくると、この差が実感としてわかってくると思います。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。音声入力(10)
さて、速読によって多読ができるようになり、付箋又は傍線によって再読がしやすくなるということを先に書きました。
読書のもう一つの重要な要素である難読は、どのようにして実現していったらいいのでしょうか。
子供たちは、読みやすい本を読み続けるという傾向があります。もちろん、自分の好きな本を読むというのは読書の基本です。大人から見てあまり感心しないような本でも、子供たちが夢中になって読む本は、やはりその子を成長させる何かがあるのです。
しかし、
好きな本を読むというだけで、周りの大人が何もしなければ、好きな本を読み続けてそれらの本に飽きてきたときに、その後の本を読む段階に進まなくなるということも多いのです。
特に、現代のように豊富な情報メディアに囲まれている時代では、絵本や漫画を読み終えたあとに続けて読む本がなく、テレビやゲームの世界に入ってしまうということもあります。
そこで、読むのに値する本を大人がアドバイスするということも重要になってきます。
通学教室では、六月から、その子の読む力に応じておすすめの本を毎週一冊貸し出し、それをフォトリーディングを使って読みながら付箋をはっていくという読書の方法を実施することにしました。
良書の貸出をするだけでは、子供たちは本を読んできません。読み方の指導をして初めて図書の貸出が意味を持ってきます。
子供たちの勉強の様子や成長の様子を見ていると、読書の量と学力の間にかなり高い相関があることがわかります。
読書は、作文力や国語力だけでなく、学力の全体と深い関係を持っています。
社会に出てからも役立つ学力ということ考えると、学力を高めるための読書はこれから一層重要になってくると思います。
(おわり)
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
次回は、「1200字の作文が10分で書ける音声入力という方法」。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。読書(95)
読書において、「読書」→「思考」という関係があるように、作文についても、「思考」→「作文」という関係が成り立ちます。
その「思考」の部分をカバーするのが、構成図です。
これまで、文章を書くのは、思考と作文が同時に進行しているような書き方が一般的でした。
書きながら考え、考えながら書いているので、書くこと自体は楽しいのですが、あまり能率のよい書き方ではありませんでした。
言葉の森で、現在中学生以上の生徒が使っている構成図は、思考の過程を独立させたものです。(通学教室では、小学生から構成図のフォーマットを使って書く書き方をしています)
作文を書くときに、書き出してはみたものの最後がどうなるかは書き終わってみるまでわからないという書き方をする人がよくいます。書くことを楽しんでいると考えればそれでもいいのですが、能率のよくない書き方ですし、作文の試験などではもちろん使えません。
構成図を使うと、自分が書こうと思っていた材料が、頭の中からいったん全部紙の上に出てくるので、そこで考えを深めることができます。
構成図で、自分の考えを深め全体の構成の見通しができるようになると、その構成図を使って、音声入力も簡単にできるようになります。
「思考」の部分をカバーするのが構成図だとすれば、「作文」の部分を表現だけに絞ってカバーするのが音声入力です。「思考」と「作文」を一緒に行うのが、書きながら考えるという書き方です。
どちらも、それぞれ利点がありますが、
「思考」と「作文」を分けて行うことができるようになると、思考の能率も、作文の能率も、ともに何倍もアップします。
(つづく)
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。音声入力(10) 構成図(25)
↑言葉の森の文鳥「サク」
フォトリーディングという読み方を覚えると、いつか読もうと思って積んであった本もすぐに読めるようになります。何しろ、早ければ十分でひととおり読めるのですから、時間がなくても読む気になれます。
また、付箋をつけて読むので、途中で読むのを止めても、あとで読みかけの場所から再開することができます。
更に重要なことは、
一度読んで印象に残ったところに付箋がはってあるので、その部分を再読できるようになります。
この再読が、実は読書の中で最も重要な部分です。
読書と作文の関係は、一般に次のようになっていると思われています。
「読書」→「作文」
読む力が書く力の土台となるという点で、この考え方に間違いはありません。しかし、この単純な関係だけを見ると、現在の勉強のスタイルに似ていることに気がつきます。
「知識」→「試験」
つまり、吸収したものをどれだけ正確に再現できるか評価することによって、吸収の度合をテストするという発想です。「日本で一番長い川は」→「はい、信濃川です」というような勉強の仕方です。
同じことを読書と作文に当てはめると、読んだものをただ書くだけのコピー&ペーストの世界になってしまいます。これでは、右のものを左に移すような作文です。
読書と作文の関係は、単純な「読書」→「作文」ではなく、本当は次のようになっています。
「読書」→「思考」→「作文」
つまり、
読書と作文の間に、自分なりの思考が入っているのです。
この「読書」→「思考」における思考の材料を作るのが再読です。ある本を読みっぱなしにするのではなく、読んだ中で印象に残ったものを再読し、自分の中で消化して思考の材料とするというのが、読書の要になっているのです。
小学生の保護者から、「同じ本ばかり読んでいるのですが」という相談を受けることがありますが、
次々といろいろな本を読むよりも、同じ本を繰り返し読む方が確実に読む力がつきます。それは、繰り返し読む、つまり再読することによって本の中身が自分のものになるからです。
(つづく)
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。読書(95)
通常、人間が普通の努力をして無理なくできる速読は、分速1200字程度です。それ以上の3000字、4000字というような速読は、普通の速読ではなく、特別の練習で無理をして読むような速読です。ですから、そのような速度で読めるようになった人も、その後ずっと日常的にそういう読み方をするわけではなく、次第に普通の速度に戻って読むようになってしまうようです。
これに対して、フォトリーディングという本の読み方があります。これは、ページを開いて視野に入ったものは、たとえ文字として読まなくても、頭に入るというはずだという考えに基づいています。少なくともその人にとって必要なものは、頭に入るという考えです。
読むという考えではなく、頭に入れるという考えですから、あまり無理がありません。もちろん、ところどころは読むのですが、全部の文字を猛スピードで読むという読み方ではないので、それほど苦しくはありません。難しい点があるとすれば、そういう読み方でもいいのだと納得することぐらいです。
実際、読書というものは、積んでおくだけでは、何の役にも立ちません。ページを開かなければ何も始まらないというのが読書です。そして、ページを開いて、たとえ一ヶ所でも自分にとって何か得る箇所が見つかれば、それは何も読まなかったことよりも、はるかに価値のあることになります。
また、そのようにして急いで読んだ本についても、興味があれば、あとでゆっくり読み返すことができます。
大事なのはまず積んである本を開いて読むこと、そして、できるだけ毎日読むことです。
そのためには、自分には速読ができ、一冊の本を急げは十分または二十分で読める、というような見通しのあることが必要になってきます。
時間がないと本が読めないというのは、読書は時間がかかるものでそれがどのくらいかかるかは読んでみないとわからないという気持ちがあるからです。
そこで、フォトリーディングを使った読書を、付箋をはって再読する読書に結びつけるような指導を考えました。
このやり方であれば、読書を宿題扱いにすることもできます。毎週、図書の貸出を行い、何しろ週に一冊は読んでくるようにします。
忙しいときは、フォトリーディングを使って十分か二十分で読んできます。面白そうな本なのでじっくり読みたいというときは、そのあと自分の好きなペースでゆっくり読み直すことができます。
そして、読みながら印象に残った箇所に付箋をはっておき、その付箋の箇所を教室で付箋をはがしながら再読するというような勉強法です。
フォトリーディングのような、これまでの読書の概念と異なるような読み方は、考え方の柔軟な年代の方が抵抗なくできるような気がします。
(つづく)
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。読書(95)