入選清書のページで、下記の生徒の清書が正しく表示されていませんでしたので訂正しました。<(_ _)>(以下、生徒コードで)
○小5……ひろみ、おたら
○中1……おへふ、かまむ、きえか、えふわ
○中2……おきに、かきな
○中3……くはゆ
○高2……おくく
○高3……みずき、あにい
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教育論というと、日本では「エミール」が有名ですが、著者のルソーは実際の教育の経験があったわけではありません。ルソーは、自分の人生経験から、こういう育てられ方をされたくないアンチテーゼとして「エミール」を書きました。だから、これは、教育論というよりも一つの文学です。その文学から実際的な教育の指針を引き出そうとすると、かえって人間の自然に反する面も出てきます。
それに対して、
貝原益軒は、八十歳代というそれまでの長い人生経験の中で十分に咀嚼された実践的な教育論を著しました。それが「和俗童子訓」です。益軒の教育論の根本にある人間観は、自身の経験や多くの見聞に裏付けられたもので、人間の成長の本質を的確にとらえています。
時代は異なりますが、シュタイナーも、人間の本質をとらえた優れた教育論を展開しました。しかし、シュタイナー教育は、手間がかかりすぎる面があります。
益軒の教育論は、誰でもどこでも容易に実践できる教育方法を提案しているという点で、理論的な面だけでなく、政策的な面でも優れた教育論になっています。
この貝原益軒の教育論が、江戸時代から明治時代にかけての日本人の学力の土台を形成しました。当時の日本は、世界でも最高水準の安定した社会と充実した教育を達成していました。
明治時代をリードした勝海舟や福沢諭吉などの青年たちは、西洋から流入した新しい学問を率先して学び取りました。しかし、これらの人々の教養の根底にあったのは、それまでの日本の教育でした。
オランダ語や英語や西洋の学問が明治時代を切り開いたのではなく、日本人のそれまでの蓄積された教養が西洋の学問を使うことを通して新しい時代を切り開いていったのです。
貝原益軒の著書でもうひとつ有名なのが「養生訓」です。この書物は、益軒が84歳のときに、やはりそれまでの長い人生経験の中から、古来の医学の知識を集大成する形で著したものです。この著書も、「和俗童子訓」と同じように、時の試練に耐えたバランスのとれた健康論を提示しています。
「和俗童子訓」は、益軒が晩年になってから著した書物とはいっても、決して昔からあるものをただまとめただけの内容ではありません。当時としては、論議を呼ぶようなさまざまな先鋭的な内容も含んでいました。
例えば、「学を本にして芸を末にする」というような考え方です。当時は、文化が成熟して芸能に対する理解が広まっていた時代です。そのような時代でも
社会の風潮に流されるもことなく、芸術よりもまず学問に専念することがすべての人にとって大切だという原則を明確に主張しました。
また、大家(たいか・豊かな家、尊い家柄)の子であっても、算数を学ぶ必要があるということも述べました。
なぜ算数を学ぶ必要があるかというと、社会の運営には、金銭や数量など数字をコントロールする能力が必要だからだというのです。当時、武士が金銭に関心を持つのは卑しいことだという考えがありました。益軒は、単に道徳論を述べるだけではなく、実際の社会生活を行うために必要な学力は何かということを考えていたのです。
益軒の「和俗童子訓」は、「養生訓」と同じような人間観に立脚しています。その人間観ないし人生観は一言でいうと、「あらかじめ手を打つ」という考え方です。健康法も、病気になってから治すための健康法ではなく、あらかじめ病気にならないように工夫する健康法でした。教育法も、
悪いところができてからそれを直すための教育法ではなく、初めからよくなるような教育をするための教育法でした。
この考え方は、作文指導にもあてはめることができます。子供たちの作文を見ると、低学年では特に、文章に多くの欠点が見られます。しかし、この欠点を直す指導は、実はあまりいい指導ではありません。優れた指導とは、欠点をもともと作らないような指導です。例えば、
低学年のころから、よい文章をたくさん読ませて自然に正しい書き方を身につけさせるというのが一流の指導です。読む勉強をあまりさせないまま、ただ作文を書かせて間違いを指摘して直すというのは、実は二流の指導なのです。
話は変わりますが、これは犬のトイレのしつけとも似ています。失敗を叱って直すのは二流のしつけです。成功だけするような形にして、その成功を褒めて定着させるのが一流のしつけなのです。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
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公立中高一貫校が人気です。この理由は、私立に比べて経済的に楽だということもあります。
しかし、それ以上に、公立中高一貫校が本気でいい教育をしようと考えていることを、多くの人が感じているからではないでしょうか。それは、それぞれの県のトップ高や準トップ高が公立の中高一貫校になっていることにも表れています。また、問題を見ても、よく考えられた良問が多く、いい生徒を集めたいという気合が感じられます。
更に、これまでの私立中学受験で無理な勉強を小学校のうちからすることへの反省も、公立中高一貫校の人気を支えているのではないかと思います。
人間の成長の自然な姿は、小さいころはたっぷり遊び、成長するにつれて勉強するという形です。小学校時代はよく遊び、中学高校大学になるにつれて学問に目覚めていくというのが、本来の成長の姿です。
そのような成長の仕方をした子の方が、将来活躍します。小学校時代から単調な勉強に縛られているようでは、これからは、人間の幅が狭くなります。小さいころは、読書や趣味や家族との対話によって幅広い人間力の土台を作っていくことが大事なのです。
言葉の森では、公立中高一貫校の入試に向けて、作文試験の受験コースを開設しています。これは入試の五ヶ月前から毎週一回の割合で過去問に合わせた作文課題を書く練習をしていくコースです。
しかし、五ヶ月では実は、実力はあまり変わりません。
その生徒が持っている今の実力のままで最もよい作文を書けるように練習していくというのが受験コースの目標です。そして、この目標で、毎年多くの生徒が受験に合格しています。
言葉の森での作文の勉強は、通常次のような形で進みます。
まず、生徒が入会したあと、すぐに上手に書けるようになります。来てすぐに上手になるというのが、言葉の森の指導の一つの特徴です。
しかしそのあと、進歩はなだらかな曲線に入ります。このなだらかな進歩の期間も、先生が見る目からはその子は上達していますが、本人にとってはあまり上達しているように見えない時期です。
けれども、一年間ぐらいたつと、本人自身が自分でもうまくなったということを実感してきます。
上手になったことが確実に実感できるのに、一年間かかります。
ただし、これは、熱心に取り組んだ生徒の場合です。熱心というのはどういうことかというと、課題を事前に見て、書くこと自分なりに準備してくることです。それは、書く材料を考えてくることもありますし、家族に似た例を取材してくることもあります。また、暗唱、音読、読書などもそれなりにやっていることが必要です。つまり、熱心といっても、普通に真面目にやっていればいいのです。
しかし、一年間で、自覚できるぐらい上達したとはいっても、根本にある思考力の差はなかなか埋まりません。上手な子と普通の子の実力が短期間で逆転するようなことは、なかなかないのです。
そこで、
作文の勉強は小学校から低学年からスタートした方がいいということになります。
小学校1、2年生から始めると、まず暗唱などの自習の習慣がつきます。そして、1、2年生から始めた習い事は、長続きすることが多いのです。日本の昔からの言い伝えで、
六歳の六ヶ月目ごろから始めた習い事は長く続くといわれています。(六歳の六月六日とも言われています)
低学年のころは、勉強の中身よりも、勉強をスタートすることに意味があります。なぜかというと、その時期にスタートすると、それがその後の生活の習慣になるからです。
生活習慣は、子供だけではなく親も変わります。言葉の森の勉強で生活習慣のどこが変わるかというと、まず子供に毎日の勉強の習慣がつきます。一方、親は、勉強のことでやたらに怒らなくなり、家族の対話を大事にするようになります。
この親子の生活習慣の変化が、実は公立中高一貫校の学力の土台になっているのです。
毎日の積み重ねで育った学力があれば、たとえ受験をしなくても、その後の勉強のしっかりした基礎ができたことになります。
基礎のできた子は、やる気になったときにいつでも力を伸ばすことができます。
低学年の勉強は、一言で言えば、愛情と日本語です。
それ以外の勉強や習い事は、すべておまけのようなものだと考えていくとよいでしょう。いろいろな習い事や勉強をするのは子供の可能性を広げるという点でいいことですが、最優先するのは日本語をしっかり使えるようになることと、愛情のある子供に育てることです。
この「愛情と日本語」を具体的な勉強の形で表すと、作文の勉強を通した毎日の自習と親子の対話ということになるのです。
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読解力とは何でしょうか。よく使われる言葉ですが、意味が漠然としています。
文章を読んで理解することは誰でもできます。しかし、なぜその理解力に差があるのでしょうか。その差は、一つには理解の速さです。もう一つは、理解の深さです。
これらの差が、鋭く表面に出てくるのは主に国語のテストにおいてです。読解力が焦点になるのは、日常生活ではなく、国語のテストの中でなのです。
日常生活の中では、読む力があるかないかということは、あまり表面に出てきません。生活の中では、間違って読み取ったことでも、あとで修正できます。また、問題自体易しいものが多いのが通常の生活です。難しい問題に直面したときでも、わからないときはよくわかる人に聞くことができます。また、多くの場合、自分の専門にだけ詳しければ、大体のことは間に合います。
つまり、読解力はなくても、知識でカバーしたり経験でカバーしたりできるというのが日常の生活です。
ですから、生活の中での学力とは、読解力がそのまま出てくるのではなく、柔軟性とか、他人との協調性とか、持続力などが、その人の総合的な学力として表れてきます。しかし、国語のテストでは、柔軟性や他人との協調性や持続力などは評価に含まれません。そこで、読解力のエッセンスが国語のテストにおいて焦点になってくるのです。
国語のテストということを、入試問題で考えてみます。というのは国語のテストの中には易しい問題もあり、そういうテストでは日本語が普通に理解できればできてしまうものも多いからです。
入試問題は、差をつけるためのテストですから、敢えて何割かができないような問題として作られています。
難関中学の受験で多いのが、長い文を読ませる形の問題です。これは、読解力を主に速さの面から評価するテストです。一回読んだだけですぐに頭に入るというような読み方のできる子が、読解力の速度のある子です。そして、この速さは、主にそれまでの読書量に比例しています。
難関大学の入試で多いのが、難しい文章を読ませる形の問題です。高校の入試は、中学と大学のちょうど中間にあり、長い文を読ませる面と難しい文章読ませる面の両方が重なっています。
難しい文章読ませるということについては、二つの難しい文章が考えられます。一つは、見た目の難しい文章、つまり読みにくい文章、いわゆる悪文といわれるものです。もう一つは、本当の難しい文章です。入試問題では多くの場合、見た目の難しい文章と本当に難しい文章が混ざり合った形で問題が出されます。
では、本当に難しい文章とはどういう文章なのでしょうか。それは、一言で言えば、発見や創造のある文章です。
つまり、これまでの読書生活あるいは実生活の中で、接したことのないような新しいものの見方や考え方をその場で理解する力が難しい文章を読み取る力なのです。
ここで、私の個人的な例を挙げます。学生のころ、サルトルの「存在と無」を読みました。哲学のジャンルの本を読んだのはそのサルトルが初めてだったので、中に書かれている用語がなかなか理解できませんでした。「即自存在」「対自存在」「即自かつ対自存在」という概念を理解するのに、図をかいたり別の言葉で言い換えたりしてやっと何とか頭に入りました。その後、この概念がヘーゲルから出ていることを知り、ヘーゲルの「精神現象学」や「大論理学」を読みましたが、このときも新しい概念が次々と出てきてかなり苦労しました。
同じように、さまざまなジャンルの古典と呼ばれる本を読んでいくと、古典というものに共通する本質がだんだんわかってきました。古典とは、その時代にそれまでになかった新しい発見や創造を提案した本だったのです。
これらの本を読んでいくうちに、新しい概念が出てくる難しい文章もだんだん早く読み取れるようになってきました。そして、読解力というものは、決して学校時代の国語のテストで評価されるだけでなく、生涯進歩していくものだということが実感できたのです。
本の中には、単に知識が増えるだけの本と、発見のある本とがあります。また発見のある本の中にも、小さな発見のある本と、大きな発見のある本とがあります。
入試問題で出されるのは、大なり小なり発見のある文章なので、ここで難しい文章、つまり新しい概念を読み取る力があるかないかが問われてきます。
では、難しい文章を読み取るための勉強はどのようにしたらいいのでしょうか。実は入試問題は、そういう文章の宝庫なのです。
問題集に載っている問題文を読むと、それぞれの問題文が小さな発見のある文章であることが多いので、読む力のある子は読んでいて面白さを感じるようです。
高校生が、言葉の森で勉強していて、高校3年生になると急に文章力がついてくるというケースがよくあります。これはなぜかというと、受験勉強で現代文の難しい文章を読むようになるので、難しい文章を読む力がついてきて語彙力と思考力が深まるからです。
難読力をつけるには、入試問題の問題文を読んで理解するということが最も手軽で最も本質的な勉強法です。そして、文章の中で理解できないところがあれば、先生に聞きます。これは必ずしも国語の先生でなくてもいいのです。読解力のある大人であれば、難しい文章をやさしく解説することができます。
この勉強法は、数学や英語の勉強法と同じです。数学や英語でも、わからない問題やわからない文を、問題の解法や文の構造から理解し直すことが学力になります。
国語の入試問題は、読解力を評価することが大きな目的になっていますが、その読解力の評価にも、二つの形があります。
一つは、記述型の問題で評価される読解力です。もう一つは選択式の問題で評価される読解力です。
実はその文章を本当に読む力があるかどうかは、記述型の問題でなければ把握できません。選択式の問題は、選択のテクニックも必要になります。逆にいうと、読む力が低くても、読むテクニックあればある程度正解が得られるというのが選択式の問題の特徴です。ところが採点が大変なので、記述型の問題よりも選択式の問題が多いのです。
国語の家庭学習というと、すぐに漢字の書き取りのようなことを連想する人がいますが、漢字力は、国語力のごく一部です。国語力の本質は読解力で、その読解力は、もって生まれたものではなく、学習によって身につくものです。
しかし、読解力の本質を知らないと、問題集を解くような勉強で読解力がつくと思ってしまいます。
ただ問題を解いて解説を聞くような勉強では、読解力はつきません。塾に行っても国語の成績が上がらないとよく言われるのは、塾では問題を解かせる形の勉強になりがちだからです。
では、音読や暗唱がいいかというと、音読や暗唱そのものの意義もありますが、それ以上に大事なのが、何を音読し暗唱するかということです。
昔からある有名な文章、例えば「平家物語」や「日本国憲法」を読めばいいというのではなく、発見や創造のある文章を読むところに読解力と思考力を深めるポイントがあります。昔からある有名な文章を読む意義は、文化に接するという文化的意義であって、読解力を高めるという教育的意義とは別のものだと分けて考える必要があります。
音読と黙読の違いは、音読の方が反復しやすく定着度を高めやすいが、黙読の方が早く楽にできるという点にあります。
問題集の問題文を毎日読む勉強をする場合、音読ではくたびれるので黙読でいいのですが、勉強の自覚がまだ不十分な年齢の間は、黙読では読み方が形骸化します。多少苦しくても、音読で読み続けた方が中身のある勉強になります。
要約という勉強法も国語の力をつけるためには有効ですが、要約をチェックする人がいないと勉強が進まないという欠点があります。
いい勉強法とは、教材や先生の制約がなく、本人の力で進めていけるものです。
要約よりも、文章を音読し暗唱し、その暗唱した文章を筆写するという勉強を基本にした方が勉強の能率が上がります。
また、要約も何を要約するかという要約の対象選びが最も重要です。
よく「天声人語」の要約ということが言われますが、「天声人語」では文章が内容的に易しすぎます。難読という点でものたりなさがあるのです。やはりいちばんいいのは、発見と創造のある入試問題の問題文です。
ただし、入試問題を作成する人自身も、読解力の本質を知らないことが多いので、ただ読みにくいだけの悪文を問題文としていることもあります。入試問題の文章ならどれでもいいのではなく、ある程度大人が文章を選択してあげる必要があります。
以上まとめて言うと、読解力には二種類あり、一つは速さの読解力、もう一つは深さの読解力です。
速さの読解力は多読によって身につくので、読書量を増やしていく必要があります。
深さの読解力は難読によって身につくので、入試問題集や難しい本を理解できるまで読むというような勉強が必要になります。
これらの本質を押さえた上で、読解力をつける勉強をしていってください。
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上手な作文の一つの重要な要素として、題材の値打ちというものがあります。
題材の値打ちということを、言葉の森では個性、挑戦、感動、共感、ユーモアに分けて考えています
帰国子女の入試では、課題のスタイルがどこでもかなり似ています。その課題は、海外での体験を通して学んだことを書くというものです。これは帰国子女の入試に限らず、志望理由などを書かせる課題でも似た傾向があります。
ここで、題材としての体験の値打ちということが出てきます。以下、題材の値打ちということを六つに分けて説明していきます。
第一は個性です。ある帰国子女の生徒は、海外での体験として、初めて海外の学校に行ったとき先生や友達が優しくしてくれてうれしかったと書きました。しかし、これは、自分の体験ではなく、優しくしてくれた先生や友達の体験です。自分らしさがあまり出ていないので、このような体験では文章が弱くなります。
個性というのは、自分の体験を書いていくということです。海外の学校で、自分が新しい友達を作るために何か工夫をしたというようなことが書いてある方がその子の個性が出てきます。
第二は挑戦です。カナダにホームステイに行ったとか、ハワイでイルカと泳いだとか、北海道で激流の川下りをしたとかいうような作文の題材は、値打ちがありそうな気がします。しかし、本人にとっては初めての挑戦であっても、だれかにつれられて行ったのであれば、あまり挑戦のある体験にはなりません。
挑戦というのは、敢えて自分が何かをしたということです。例えば、止められたのに行ったとか、みんなと違うところに行ったとかいうようなことが挑戦の体験になります。結果として人と違うことをしたということではなく、ささやかであっても動機として挑戦したという姿勢があればいいのです。
第三が感動です。これは、必ずしも自分自身の体験でなくても、感動の実例となることがあります。心の洗われるエピソードというのがそれです。自分が心から感動したということが書いてあると、その感動が読み手にも伝わります。
例えば、「盲導犬が電車の中でフンをしてしまった。犬も盲人も途方にくれていたところ、乗客の一人がさっと寄ってそのフンを片付けてくれが。私にはとてもできることではないので感動した」。こういう話が書いてあると、本人の体験ではありませんが、その感動は読み手にも伝わります
第四が共感です。共感というのは、人間なら誰でもしてしまうよくある失敗というようなことです。例えば、「電車の中で席を譲ろうとして何度か声をかけようとしたが、恥ずかしくてできなかった」というような例です。このようなことは、小中学生なら誰でも経験したことがあります。また大人でも、そういう子供時代の気持ちはよくわかります。このような例が書いてあると、そこに読み手が共感をします。
しかし、失敗した話や悲しかっただけの話は、文章が暗くなることもあります。共感の中にも前向きの考え方が盛り込まれている必要があります。
第五はユーモアです。しかしユーモアは、受験の場合には不要です。それに受験のときにユーモアのある実例を書こうという余裕はあまりありません。
第六は、本人の体験ではありませんが、ハロー効果というものです。ここで両親が登場します。
お父さんやお母さんの挑戦体験や感動体験が子供の作文中に書かれていると、読み手はそこにその子のよい面を感じ取ります。ひとつには、そういう家族の会話が成り立っていることに対する評価です。もう一つには、父母の生き方が子供の生き方にもつながっているだろうという漠然としたプラスの感覚です。
言葉の森では、作文の入試の準備として、毎週の課題を両親が読み、子供に似た例を話してあげることを勧めています。お父さんやお母さんが話した子供時代の似た例は、受験で使えることも使えないこともあります。しかし、これは子供の人生に必ず大きな影響を与えます。
私の母は昔、何かの折によく「天知る、地知る、人が知る」ということを言っていました。また、「人間はみんな、天照大神の子供なんだから」(それは違うだろ(笑))ということもよく言っていました。子供時代に親から聞いたことは、その後の人生のバックボーンになっていくような気がします。
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なぜコンクールの入選を目指すかというと、第一に、入選によって作文に自信がつくからです。
特に小学校の3、4年生のころはコンクールに入選したり褒められたりすると、それが一生のいい思い出につながります。
これに対して、小学校2年生以下では、コンクールなどに入選するということの価値がまだよくわかりません。また、小学校5年生以上では、恥ずかしさの方が先に立ち無邪気に喜べないようになってきます。しかしもちろん大きな賞であれば、恥ずかしさよりも喜びの方が大きくなります。
入選を目指す意味の第二は、力のある子は腕試しをする場を欲しているからです。作文や感想文を書く機会は、子供たちの日常ではあまり多くありません。文章を書くことが好きな子は、自分の書いた文章を発表する場を求めています。大人であれば、発表の場としてブログのようなものがありますが、子供にとってはいろいろなコンクールに応募することが発表の場になります。
作文でも感想文でも、大事なのものは、その文章の材料となる部分です。言葉の森では、この材料のことを題材や実例という言葉で呼んでいます。テーマに合ったぴったりの材料があれば、作文や感想文の八割はうまくいったと思っていいでしょう。では、その実例にどのようなものがよいかというと、それは、個性のある実例、挑戦の感じられる実例、感動のある実例、共感のある実例、などです。(これは、また別の機会に述べます)
ぴったりの実例があれば、次は、構成です。全体の流れを明確に指示しておくと、子供たちは楽に作文を書き出します。物事を構成的に考える力は、小学校5年生以降に徐々に育っていくものですから。小学校4年生のころまでは、親や先生がある程度の方向づけをしてあげる必要があります。方向づけをする指導の仕方で、どんな苦手な子でも言葉の森に来ると作文を書くことができるのです。
題材と構成のあとは、表現と主題です。しかし、入選する作文や感想文で、表現力はあまり重要ではありません。大事なことは、読みやすく書かれているか、無駄な重複がないかという程度です。そして更にその上に、切れ味のいい表現が一言入っていれば、作文の全体の印象は大きく向上します。
切れ味のいい表現とは、個性的なたとえや自分で作った名言のことです。名言とは、「○○はAでなくBである」というような形で書ける発見や創造のある見方や考え方です。この切れ味のいい表現は、作文感想文の全体の主題につながります。
このあたりの説明は、やや複雑に感じられるかもしれませんが、それは、この切れ味のいい表現というものが文章のセンスのようなものと幾分関係しているからです。
さて、コンクールの入選を目指すことは意味あることですが、入選するよりも大事なことは決して子供に無理をさせないということです。例えば、親や先生が子供にいい表現を教えてそれを書かせるような形で作文を書いた場合、その作文が評価されても子供は喜びません。
したがって、言葉の森では、コンクールに出す作文の添削を頼まれることがありますが、表現には一切手を加えません。
では、大人の役割は何かというと、それは四つあります。以下は、主に小学生ぐらいの子に対するアドバイスですが、基本的な考え方は、中学生や高校生にもあてはまります。
第一は、こういう流れで書いたらいいという構成の方向をアドバイスしてあげることです。全体の構成は、子供の力ではなかなかできないからです。構成がはっきりしていれば、子供は自分の力でその中身を書いていくことができます。
第二は、実例に対して協力してあげるということです。テーマに合わせた経験ができるように協力する、又は、その子の面白い経験を思い出させるように協力するということです。
第三は、不要なところを削るということです。作文の中には、書かなくてもいい無駄なところや、同じようなことが書かれている重複したところが必ずあります。それは、大人でも同じですが、本人にはなかなかわかりません。第三者が作文を見て、要らないと思われるところを削ってあげると密度の濃い文章になります。これは、大人の表現を押しつけることではないので、子供を傷つけることにはなりません。
第四に、いちばん大事なことは、もう少しいい表現をしてほしいというようなところに対するアドバイスです。これは、大人が、こういう書き方をしたらいいと答えを教えるのでありません。
言葉の森では、よく感想文コンクールに提出する作品のアドバイスを頼まれることがありますが、そのとき、もう一言いい表現がほしいという部分には、「ここはもう一工夫」と書いておきます。すると、必ず本人が自分の力でもっといい書き方をしていきます。もし本人がそれ以上いい書き方にできないとすれば、それはそれでいいという立場です。入選することも大事ですが、それ以上に大事なことは、子供が自分の力で入選することだからです。
以上、入選するような作文や感想文の書き方をまとめて言うと、書く前に全体の構成を指示してあげる、つまらない実例になっているところはもっと面白い実例を書くように注文する、無駄なところはカットしてあげる、切れ味のよさが求められところについては「もう一工夫」と言ってあげる、ということになります。
夏休みにはいろいろな作文コンクールがあります。言葉の森のホームページにある作文・感想文の書き方を参考に、皆さんもぜひコンクールに挑戦してください。
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ぼくもやってみたいです
やってみてねー。ヽ(`▽´)/
大きな賞を取りたいですね!
内閣総理大臣賞取った事ありますっ!
ゆんさん、すごいね!
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あるお母さんから相談がありました(生徒の保護者ではありません)。
子供に何かを言っても、その子が話を聞いていないようだというのです。学校でも、先生がみんなに言ったことを、その子一人だけ聞いていないようだと言います。しかし、こういうことはだれでも多かれ少なかれ経験のあることです。それほど大した問題ではないと思います。
しかし、見方を変えてみると、話がすぐに理解できないという問題の根は実は深いところにあるのではないかと思いました。
教室で、生徒に一斉に同じような説明することがあります。みんな、先生の目を見て熱心に聞いています。しかし、話が終わるとしばらくして、「それで、何をやるんですか」と聞く子がたまにいます。その子にだけ再度同じ説明して、初めてわかるというような分かり方なのです。
一度だけではわからない、何度か説明するとわかるというのは、最初に聞いた言葉が頭に入っていないということです。
その理由は、注意力が足りないからというようなことではなく、長い文が頭に入りにくいからなのです。
子供たちに課題の長文の説明をしているとき、中学生や高校生に対する説明は、かなり難しくなることがあります。すると先生が、その子のすぐ隣で説明をしているのに、それを聞きながらこっくりと居眠りをしてしまう子がいます。先生の説明が難しく長いので、聞いているうちに眠くなってしまうのです。しかし、そういうときでも、理解力のある子はずっと最後まで興味深く聞いています。
学校でも30人ないし40人の生徒に先生が同じように説明して、何人かは先生の話が一度では理解できないという子がいるはずです。だれでも小学生のころは、先生の話をぼんやりとしか聞いていないことがよくありますから、先生の話を聞き忘れたということはそれほど大きな問題ではありません。
しかし、これがいつも続くとなると、例えば中学受験のテストで設問の意味が読み取れないというような問題につながります。さらに、社会人になれば、社会や周囲の情勢の変化が読み取れないということにもつながってきます。
理解力の根本にあるのは、長い複雑な文を読む力です。現在の社会では、子供たちは短い言葉の多い環境に取り囲まれています。短い言葉とは例えば、「面白い」「つまらない」「ドガーン」「バギューン」「ウグググ」などという言葉です。この短い言葉にビジュアルなアニメが組み合わされた環境に長くいると、脳が長い文を読まないことに慣れてしまうのです。
では、長い文を読む力はどこからつくのかというと、それはまず親子の対話の中からだと思います。子供にとって、両親は自分の生きる命綱のようなものです。子供は、親のしていることを真剣に真似しながら育ちます。特に小学校2、3年生は、自分の生き方のモデルを作る時期ですから、身近な両親や年上の人に自分のモデルを見出そうとします。この時期に親が子供との対話で長い文を話していれば、子供も自然にそういう文を理解する力をつけていきます。逆に、「ドガーン」「バギューン」などというテレビ番組をモデルにして育てば、長い文を理解する力は育ちません。この差は、実はかなり大きいのです。
一般に、学力の差がつくのは、小学5年生あたりからと思われていますが、実は小学2年生ごろから既に、長い文を理解できる子と理解できない子の差が生まれています。この差は生活の中でついた差なので、その後ますます大きく開いていきます。学校や塾には、家庭の生活の中でついた差を埋める力はありません。
そこで、長い文を理解する力をつけるために、家庭での対話と読書が大切になってきます。対話といっても、子供と深い関わりを持ちにくい多忙な父親の場合は、「勉強しているか」「うん」「ちゃんとやれよ」「わかった」というようなものになりがちです。子供の日常生活をよく知らないので、対話を深めるきっかけが見つからないのです。
ここで、言葉の森の作文課題や長文を生かすことができます。父親があらかじめ長文を読んでおき、日曜日などの時間のあるときに、その長文に追加する話をしたり、作文の課題について父親の子供のころの似た例を話したりできるのです。
子供を伸ばす家庭学習とは、問題集をやるような勉強ではなく、親と子が楽しく対話をするような生活です。
そのためには、家庭で普段から10分間の長文暗唱の自習をしておき、日曜日に父親の前で300字の長文暗唱をしてみせるようにするといいでしょう。このような形で話をしていけば、対話は自然に知的になり、長い文で話し合う環境ができます。親子の会話がはずむ家庭であれば、テレビなどは必要ありません。子供が友達との会話をするときにテレビの話題は多少は必要になることもあるでしょうが、それ以外ほとんどの番組は、見なければ見ないで済みます。それよりも、家族の対話の方がずっと魅力あるものになるからです。
作文の勉強は、書く力をつける意味ももちろんありますが、それ以上に、家庭学習の要にできるという利点があります。
さて、親が子に話すときに大事なことは、その対話の中で、子供を、笑わない、からかわない、けなさない、ということです。親が自分の自慢をするのはいいのですが、その自慢の延長で子供を馬鹿にしないということです。「お父さんのときは、こんなことをしたんだよ。それに比べて今の子供は……」というような話をしそうになったら、「今は今で別のいいところがあるけど……」と方向転換をするといいでしょう。また逆に、子供を褒めるときにも注意することがあります。それは、ほかの子をけなす形で褒めないということです。
学校や塾で行う勉強は、知識中心の表面的な勉強です。本当の知性の土台は、家庭の中で親子の対話のある生活を通して作られていくのです。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
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小学校高学年の生徒から、作文をもっと上手に書くにはどうしたらいいのですか、という質問がファクスで送られてきました。一緒に送られてきた作文を見ると、それなりに上手に書けています。しかし、もっと上手にするにはどうしたらいいのかということをその子に話しました。
今日は、多くの皆さんに関心のある「上手な作文を書くにはどうしたらいいか」ということについて説明したいと思います。
まず、上手な作文と一口に言いますが、実は、上手な作文の定義ははっきりしていません。しかし、上手な作文と感じられるものは実際にあります。それをどのように考えていたらいいのでしょうか。
その定義に入る前に、まず、文章書くということの社会的、歴史的な意義を説明したいと思います。
文章の役割というものは、書き手と読み手の関係によって四つの歴史的な段階があります。
┃受け手
┃多┃少
━━━━╋━╋━
与え手多┃3┃4
━╋━╋━
少┃2┃1
書き手も少なく読み手も少なかった時代には、役に立つ文章ということが文章を書くことの意義でした。
しかし、歴史的には、「役に立つ文章」以前の時代もありました。書き手も読み手も、ともにきわめて少なかった時代です。例えば、ギリシア時代では、プラトンはあまり本を読まなかったそうです。読むに値するような本そのものが少なかったからでしょう。プラトンの師であるソクラテスは、もっぱら弁証法という対話によって思索を深めました。ソクラテスが木の陰でじっと立って何事かを考えているというような光景がよく見られたそうです。当時は、文章を書くということがあまり一般的ではなかったので、考えを深めるためには、他人とディスカッションをするという方法が中心だったのです。
ところがその後、ペンや紙が発明され文章を書く手段が普及することによって、弁証法による対話の代わりに、文章を書くことによる自己との対話が可能になりました。つまり、書くということの本質は、最初は自己との対話だったのです。
しかし、その後、読み手が増え、更に書き手が増え、更に書き手がもっと増えるというような歴史の発展の中で、次第に書く意義が変化してきました。それぞれの時代に対応する文章の意義は、読み手が少ない=役に立つ、読み手が多い=わかりやすい、読み手がもっと多い=面白い、書き手の方が読み手よりも多い=その人らしい、となります。しかし、もともとの文章を書く本質は、自己との対話だったということです。
この文章の社会的意義と、上手な文章を書くということとは、別の次元の価値になっています。
例えば、悪文だが役に立つ文章、悪文だが面白い文章、悪文だがその人らしい文章、というものがあります。これと似た例として、悪筆だがその人らしい文字というようなものがあるのと同様です。
上手な文章を書くことよりも、むしろ役に立つ、面白い、その人らしい文章を書くことの方が、文章の本質的な価値になります。しかし、これらの本質的な価値は、文章が上手に書けるという自分なりの自信がないと表に出しにくいのです。よく、話をすると面白いが、書いた文章を見るとあまり面白くないという人がいます。シンデレラの本質は、美しい心でしたが、シンデレラは衣装がなければ舞踏会に行くことができませんでした。つまり、価値ある内容を表に出しやすくするために、上手な文章を書くという意義があるのです。
ここで、上手に書くことの大切さに話がつながりました。
しかし、スポーツなどにおいて、試合の勝敗とそのチームの実力との間に、相関は高いが必ずしも一致しないという関係があるように、文章の上手さについても、上手さと実力の間に、相関は高いが必ずしも一致しないという関係があります。
文章を書く実力は大きく分けると、字数力、語彙力、思考力、実例力などになります。このうちの字数力というものは表面的な実力のように見えますが、実は意外と重要で、その生徒の実力がどのくらいあるかということは、どのくらいの字数が楽に書けるかということと関連しています。字数には、書くことに対する慣れと豊富な話題が必要です。一方、語彙力、思考力、実例力は、広い意味での考える力です。この、文章を書きなれていることと、考える力のあることが、文章の実力を支える要因になっています。
さて、このあたりから、受験にも使える上手な作文の書き方になっていきます。以下の内容は、簡単にエッセンスだけ書いていますが、本当はかなり密度の濃い話です。
文章の上手さというものを言葉の森では四つに分けて考えています。
それは、構成、題材、表現、主題という四つの分類です。これらのほかに、表記というものもありますが、これは、書き方を間違えていない、あるいは読みにくくないということですので、上手さの要因というよりも、文章を書く上での前提のようなものです。
さて、第一は構成です。構成は文章全体の流れです。説明文や意見文の場合は、わかりやすい流れということになりますが、事実中心の文章では、伏線のようなものも構成に入ります。読んでいる途中で伏線が発見されると快感を感じるという心理が人間にはあります。「あそこでこうだったから、ここでこうなったのだ」ということが自分なりわかると、発見の喜びがあるのです。これは、説明文でも同じで、書き出しの文章と途中のキーワードと結びの文章が対応していると、読み手はその文章に居心地のよさを感じます。
第二位は題材です。この題材の面白さは、個性、挑戦、感動、共感、ユーモアなどと分けて考えることができます。コンクールに入選する作文には、この題材のよさが欠かせません。しかし、題材は実力よりも、どちらかと言えば偶然に左右されるものです。この点から見ても、実力と上手さは必ずしも一致しないということがわかります。
第三は表現です。この表現という分野が、文章の上手さという点で最も微妙な説明を要するところです。人間は、いい表現に出合うと、気持ちのよさを感じます。それは例えば詩的な文書に対して感じる快感と同じようなものです。言葉の森では、光る表現ということで、名言を自分で作ったりことわざを加工したりするという指導をしています。この光る表現が入ると、それだけで、文章の印象が何割か上手になります。
表現の分野では、もう一つ、もっと大事で微妙なことがあります。それは、多様な語彙が使われているということです。これは文章自動採点ソフトの森リンでかなりの程度正確に評価することができます。上手でない文章は、全体に単調な語彙しか使われていません。この語彙の単調さは、読書経験の少なさと結びついています。本をたくさん読んでいる子は、作文に使える語彙が自然に豊富になります。読んで理解できる語彙と、書くときに使える語彙は、その量がかなり違います。書く語彙は、読む語彙よりもずっと少ないのが普通です。
言葉の森では、小学校5年生から常体で書くという練習をしていますが、これは、小学校の5年生あたりから、教科書に載っている文章で常体の割合の方が多くなるからです。一般に、敬体の文章よりも常体の文章の方が、説明的な文章であったり、大人向けの文章であったりすることが多い傾向があります。子供たちの作文を見て、最初から何も指示しないのに常体で書いてくるという子は、それだけで難しい本をよく読んでいて語彙が豊富だということがわかります。小学校低中学年で既に常体で書くような子は、一般にかなり本好きな子です。ところが、普通は、大学生になっても、常体ではなく敬体で書く人の方がずっと多いのです。
第四が主題です。主題とは、読み手にとって価値ある意見や立場が書いてあるるかどうかということです。文章に書かれている意見に読み手が共感すると、その文章が上手に感じられます。逆にいうと、自分の考え方や感じ方と相反する文章は、上手には感じられません。説明文や意見文では、主題はその文章の立場や意見などになりますが、事実文では、主題はその文章の背後にあるトーンのようなものになります。上手に書いてあるが何か暗いものがあるという文章と、同じ上手さで何か明るいものが感じられるという文章とでは、普通は、自然に明るさが感じられる文章の方が上手に感じられるということです。
さて、ここまで説明すると、作文を上手に書くコツがわかったと思います。それは、言葉の森で勉強することはもちろんですが、その土台として、たくさんの本を読み、たくさんの挑戦的な経験をしていくということです。
そして、その上手さを土台にして、真に価値ある文章を書くことを作文の勉強の目的にしていってください。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)
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最初にかいた猫の耳のある女の子の絵がわかりにくかったので、男の子の絵にしました。(^^ゞ
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