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作文の赤ペン添削の理論と方法 as/521.html
森川林 2009/06/12 07:59 


 言葉の森の作文指導は、どの先生が教えても同じ水準が保てるということを目標としています。これは、インターネットを介して講師の評価や講評が互いに共有できるというところから可能になっています。そのため、急な休講などがあった場合も、他の先生がその生徒のこれまでの勉強の内容を見ながら、同じ流れで指導を行うことができます。

 ところが、手書きの作文に直接入れる赤ペンは、生徒のもとにそのまま返却されてしまうので、講師の間での共有ができません。

 あるとき、保護者の方から、先生によって赤ペンのつけ方に違いがあるという指摘を受けました。赤ペンの基準は、(1)誤字は、とりあえず必ず直しておく、(2)よいところや面白いところ中心に褒めていく、(3)コメントは、生徒に対する手紙のような形にとどめ、指導の内容とはしない、(4)指導は、講師どうしが共有できる「山のたより」の評価・講評を中心にする、ということにしています。ところが実際には、赤ペンでたっぷりコメント書く先生と、あっさりとしかコメントを書かない先生の差が大きかったのです。


 今回は、この赤ペン添削の理論と方法について考えてみたいと思います。

 日本では、低学年の作文指導がよく行われています。こういう国は、世界的にはあまりありません。なぜかというと、日本語は、声に出した言葉がほぼそのまま文字の言葉になるからです。それに対して例えば、英語は、発音とスペルが一致しない言葉が多いので、低学年からの作文指導はできません。低学年の作文指導は、日本の教育の大きな特徴になっています。

 ところが、この作文指導が、小学校高学年、中学生、高校生になるとあまり行われなくなります。その理由は、赤ペンの添削に時間がかかるからというのがたぶん最も大きな理由です

 しかし、それでも赤ペンに効果があるのならいいのですが、実はそうでもないのです。

 赤ペンの添削は、子供の作文の場合は特に、病気になったときの対症療法と似ている面があります。あちこちにできているニキビや吹き出物に次々と薬をつけているが、いつまでたっても新たに悪いところが出てくるので治らないという感じなのです。

 子供の作文を上達させるということから考えると、この対症療法的な指導ではなく、もっと根本的な指導が大事だということは、多くの先生が漠然と感じています。

 ところが、赤ペンがびっしりと書かれていると、何か充実した指導が行われているような感じを受けます。実際、先生が手間をかけるので充実していることは確かですが、それが指導の成果に結びついているかということになると、そうではないのです。

 このため、学校などでも、先生は、自分の担当する30人から40人の生徒に対して、みんなにコメントを入れてあげたい、しかし、それでは、時間がかかりすぎて他の指導ができなくなる、というジレンマに置かれています。

 かつて教育法制化運動の作文指導法の一つとして、提出された作文には、大きく花丸をつけて返す、というだけの教え方が提案されていたことがありました。これは、赤ペンを入れるのに手間がかかるから何もしないというよりも、ただの花丸だけでもいいので、子供たちに作文を書かせることが大事だという考えから来た指導法です。これは、一つの卓見です。

 しかし、花丸をつけて返すだけよりも、本当は森リンなどの自動採点ソフトによる評価をつけて返せば、もっと身のある指導ができます。生徒がパソコンで入力したものを、自動採点ソフトで評価して返すという形です。この方法はすでに、アメリカではいくつかの州の公立高校の単位で行われているので、やがて日本でも採用されるようになると思います。


 さて、言葉の森以外の作文教室教室では、びっしりと書かれた赤ペン添削というものをセールスポイントにしているところもあります。赤ペンを入れるというのは、一見やりやすい指導のように見えますが、こういう形の指導を続けて1年も経つと、その子に何をどう教えて、その結果どうなったのかということがつかめなくなり、やがて継続した指導をすることができなくなっていきます。

 言葉の森では、作文に対する赤ペンは、指導にとっては付随的なもので、指導の中心は、あくまでも事前に与えられた課題と項目と構成に基づいたアドバイスだと考えています。


 赤ペンによる添削を講師の側から考えると、多数の生徒の作文を読んで赤ペンを入れるというのは、実はかなり精神的に疲労する作業です。なぜかというと、短い文章を次々と読むというのは、長い文章をまとめて読むのとは違う難しさがあるからです。ちょうど、加速してすぐに停止する渋滞の道路で車を運転しているような感じの読み方というと感じがわかると思います。長いひとまとまりの文章を読むのに比べて、異なる短いテーマの文章を次々と読むのは、人間の感覚として自然な読み方ではないのです。

 また、赤ペンの添削はどうしても直すところに意識が向きがちです。欠点を指摘して直すという見方でものを見ている状態は、これも実は読む人を疲労させます。ですから、言葉の森の赤ペン添削は、誤字をひととおりチェックして直したあとは、基本的に褒めることを中心に書くようにしています。


 赤ペンに教育的な意義があるとすると、それは、子供がそれを見て喜ぶという効果です。赤ペンは、子供にとって、先生から個人的な手紙をもらったという感じのメッセージになるからです。赤ペンは、勉強の指導というよりも、交流、共感、対話、コミュニケーションという意味を持つ手紙のような役割を持っています。


 そこで考えたのが、指導と対話を分離することです。


 言葉の森の指導は、数ヶ月の大きな方向を指し示して、その方向に沿って毎週小さなチェックを行うようなシステムになっています。

 指導法の特徴の一つは項目指導で、もう一つは電話指導です。将来は、インターネットの活用による生徒どうしのコミュニケーションも指導の重要な要素になると思います。

 電話で毎週先生が指導するという方法がとれるので、先生が生徒の作文に対して書く講評は、この電話指導のメモとして使う形になります。

 講評というと、それ自体が指導と考えられがちですが、そういう要素はあまりありません。ですから、講評を生徒が読まなくても全く問題はありません。先生が電話を通して、その講評の内容を子供にわかるように伝える仕組みになっているからです。


 このような特徴を生かしながら、指導と対話を分離して実現していくという方法を現在考えています。

 対話というのは、生徒と先生の人間的な触れ合いです。しかしこの触れ合いを赤ペンを通して行うのでは、指導と対話の境界がはっきりせず、赤ペンを書くのに負担がかかりすぎるようになります。

 指導は、必要なことを簡潔に伝えることが大事ですが、対話は、たっぷり時間をかけること自体が重要になるからです。

 教育で大事なことは、長続きする教育ですから、教える側にも負担がかからない、しかし教わる側には触れ合いがあるというような工夫をしていくことが必要になります。

 シュタイナー教育は、人間の触れ合いを大事にしている優れた教育法ですが、教える側の手間がかかりすぎる面があります。それは、教師が教育のすべてを担うという専門性を持ちすぎているからです。手間がかかるということは、結局、世の中に普及させにくいということです。

 昔の日本の子育ては、父親も母親も多忙な生活を送る中で、子供どうしの遊びや地域の行事や家庭の文化がそれぞれ高度な教育力を持っていました。子供は、日本の社会や文化の中で自然に多くのことを学び、親はそれをときどきチェックするというような関係だったのです。

 これは、寺子屋のような教育機関でも同じです。先生がすべての生徒に対して専門性を発揮して面倒を見るのではなく、生徒どうしの関係や教育カリキュラムの流れが自然に教育力を発揮していたのです。

 福沢諭吉の自伝に、そのあたりの事情が垣間見られるエピソードがあります。諭吉がオランダ語を学んでいたころの塾の様子は、(1)生徒が定期的に先生の前でオランダ語を訳す、(2)その出来具合によって勉強しやすい場所に自分の席を確保することができる、(3)上の生徒が下の生徒を教える、という仕組みになっていたようです。


 今後の教育には、生徒どうしの交流と、家庭と講師との連係プレーによる親・子・講師三者の触れ合いという二つのことを考えていく必要があると思っています。

 そのための具体策を今考えているところです。


(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)


マインドマップ風構成図
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作文教育(134) 

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ファイルからデータベースへ=物から情報へという流れは、教育にも大きな影響を与える as/520.html
森川林 2009/06/11 07:33 


 6月10日の日本経済新聞に、「今後の主役、ハイブリッドより電気自動車」という記事が載っていました。

 ハイブリッド車、つまりガソリンエンジンと電動モーターを併用する仕組みの車は、トヨタのプリウスに見られるように現在大きな人気を博しています。しかし、アメリカのテスラ・モーターズが発売した電気自動車のように、世界の大きな流れは、ガソリンから電気へと大きく変化しています。ハイブリッド車は、過渡的なものは消滅するという法則のとおり、将来は自動車の歴史における木炭車と同じものになるでしょう。


 自動車が電気自動車中心になると、その構造は、単純化され、自動車のコモディティー化が始まります。

 これは、かつてのパソコンがたどった道と同じです。IBMのパソコンは、中国のレノボがそのブランドを引き継ぎました。パソコンはすでに、いくつかの部品を組合わせれば誰でも作れるものになっています。やがて自動車も、モーターと電池の組合わせで、特別の技術や設備がなくても組み立てられるものになっていきます。


 このような大きな変化は、インターネットの世界でも起こっています。しかし、これは、すでにいろいろところで言われているので省略します。


 さて、話は大きく変わりますが、現在の世界では、軍事力の中心は核兵器です。しかし、この核兵器は、かつての武田勝頼の騎馬軍団に相当するようになるのではないでしょうか。

 信長の鉄砲隊が登場することによって、それまでの軍事力の概念は大きく変化しました。日本は現在、軍事力の質という点で周辺の諸国よりも後れを取っています。しかし、日本の安全は、従来の軍事力の延長で考えるのではなく、独自の科学技術やシステムを生かした道で考えていくべきです。この大きな方向を目指しているか否かということが、これからの日本の未来を大きく左右するはずです。

 単に、相手も核を持っているからこっちも核をという選択肢しか考えつかないのでは、平和の問題は袋小路に陥ります。


 さて、話を元に戻して、ウェブでも今後大きな方向の変化があります。それは、一言で言えば、ファイルからデータベースへという流れです。

 すでに10年以上前から、ローカルのパソコンの世界では、様々なアプリケーションがデータベースを中心にして動くという形に変化していました。

 一時、年賀状ソフトが人気のあるアプリケーションだった時代がありましたが、年賀状ソフトの限界は、データベースを年賀状ソフト用に構築しなければならなかったことです。

 言葉の森によく売り込みに来た顧客管理システムも同じです。顧客管理システムに合わせてデータベースを構築すると、ひとつの会社の中でデータベースが複数作られてしまいます。

 これからのアプリケーションは、ある一つのデータベースを中心に、そこからワンストップで情報を引っ張って加工するという形が中心になります。

 さらに言えば、ローカルのパソコンにデータベースがあるのではなく、インターネット上にデータベースがあり、その情報を自宅からも外出先からもレジャー先からもアクセスできるということが求められるようになります。

 マイクロソフトのモデルであったオフィスソフトのセット販売という時代から、グーグルなどが目指しているウェブ上でのアプリケーション利用の時代に今IT環境は大きく変わろうとしているのです。


 インターネットのホームページにこの変化を当てはめてみると、やはりファイルからデータベースへという流れが、当面の最も目立つ変化になります。

 これは、このことによって、ブログの役割がこれからますます大きくなってくるということでもあります。

 ブログにも、静的なファイルを生成するブログと、データベースから動的なページをそのつど生成するブログがあります。また、動的に生成したファイルを静的なファイルに見せる仕組みのブログもあります。これらは将来、編集のしやすさという点から、多くが動的なページになっていくと思われます。

 SEO対策の面からは、今はまだ静的なページの方が検索されやすいという点で有利なようですが、これも将来は検索エンジンの仕組み自体が動的なページ中心に改良されていくと思います。


 今、SNSとブログは、相互に乗り入れする形で互いにSNS的なブログとプログ的なSNSになりつつあります。しかし、ウェブ上の表現力の点から見れば、ブログからスタートしたSNS的ブログの方に分があるようです。例えば、mixiとアメブロでは、mixiで自分の日記を公開するよりも、アメブロで公開している日記で他の人とコミュニケーションも図るという形が多くなっていくと思います。


 今後、企業のホームページも、ページ自体がブログ化する形で進んでいきます。

 ブログ化したホームページの優位性は四つ考えられます。

 第一は更新頻度が高いことです。ブログはFTPのような設備がなくても、会社からでも自宅からでも外出先からでもどこからでも必要なときに更新できます。

 第二はデータベースから情報を引っ張っているので、個々のページの加工がきわめて容易だということです。

 第三は、静的なページではなく、動的なページで常にコミュニケーションが図れるということです。

 第四はRSSで記事の更新がすぐに全世界に通知できるという点です


 言葉の森では現在、HTMLで作っている静的なページをすべてデータベースから生成する動的なページに作りかえていく予定です。

 さて、この「ファイルらデータベースへ」という流れの本質は、「物から情報へ」という流れです。

 このことを、これからの職業にあてはめてみると、次のようなことが言えます。

 P・ドラッカーは、企業の寿命は30年ほどだと述べました。人間の生きている時間はそれよりももっと長いという点から考えると、企業に就職するという時代はすでに終わりつつあり、今後は自分の知識や技能を生かせる職種に就くという形の就職が中心になってきます。


 このことはまた、教育の変化についても、大きな示唆を与えています。

 それは、ひとことで言うと、教科書や教科や学部や学校という外側の枠組みに結びついた知識ではなく、その人の生きる中身に結びついた知識がこれから重要になってくるということです。


 昔は、ある学部に入ることや、ある学歴を持つことや、ある資格を持つことが、ある職業につくための条件だった時代がありました。特定の企業や組織に就職すれば一生その構成員でいられる時代にはそれでよかったのです。

 しかし、これからはそうではありません。どこに放り出されてもひとりで自分を売り込める中身がなければ、変化の大きい社会では生きていけません。


 それは、ある意味で多くの可能性を秘めた社会です。これまでは、偏差値に見られるように、特定の勉強の出来不出来で序列化が可能な社会でした。これからは、自分の得意分野を頂点にして、世の中にある無数の勉強を自分なりに組み立てて勝負していく社会です。

 勉強をすることは、昔も今もその必要性は変わりませんが、昔のように勉強の側に主体があるのではなく、自分の人生の方に主体がある社会になっていくのです。


(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)

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教育論文化論(255) 

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貝原益軒を現代の教育に生かすには as/519.html
森川林 2009/06/10 09:19 



 貝原益軒の教育論は私たちがこれから考える教育の基本になりますが、しかし現代にはまた現代の情勢に合わせて加味するものがあるはずです。それを考えてみます。


 大前研一氏は、IT教育や投資教育や語学教育が、これからの教育には必要だと述べています。

 しかし、IT教育は、表面的な教育です。むしろ、日本語文字コードのShift_JIS、EUC−JP、UTF−8の並存状態を統一するような工夫をすれば、子供たちは遊びの中でITの世界を自然にマスターしていくはずです。日本のIT界のいちばんの問題は、文字コードの混乱のために最初の敷居が高くなりすぎ、小中学生が気軽にITの世界に入れないところにあります。


 投資教育は、経営学や人生論の一部として行うものであって、投資の世界だけを取り出して教育するほどの重要性はありません。


 外国語教育は、確かにこれからの時代の教育に必要な要素です。しかし、今の英語教育のようなやり方ではなく、もっと楽に取り組めるような方法を開発する必要があるように思います。日本人は、これまで、中国語を漢文として受け入れる文化を作ってきました。この伝統を英語教育にも生かせると思います。


 国際化が進む現代社会では、日本人の教育だけではなく在日外国人または移民の教育も重要になってきます。その要になるのは、やはり外国人にもすぐに取り組めるような日本語教育のノウハウです。

 このノウハウができれば、日本は世界に輸出するような日本の教育方法を作ることができます。


 また、教育そのものではありませんが、現代の社会では、様々な教育を阻む誘惑があります。その誘惑への防波堤を社会的に作っていくことも、教育の支えになります。

 例えばゲーム、テレビ、マスメディアなどは、日常的に接する時間をコントロールする必要があります。子供たちが、人間どうしの接触のほうがずっと魅力があるということに気がつけば、ゲームやテレビのようなバーチャル的な誘惑はほどほどに楽しむ程度のものになります。


 現代の社会では、少子化が進み、同年齢や異年齢の子供たちが直接に接する機会が減っています。子供たちが互いに協力するような機会を作ることも、これからの教育の重要な要素です。

 今はスポーツチームなどがその同年齢や異年齢の子供たちの交流の場になっていますが、スポーツチームに参加すると、勝敗にこだわりすぎる傾向がどうしても出てきます。

 子供たちが、スポーツもできる、自然とも接することができる、互いに協力もできるという、昔の青年団や少年団のような集まりがこれからの社会には必要になってきます。

 これらを実現するための具体的なイメージは、地域の学習塾+αのような形です。「+α」の部分は、しつけ、道徳、礼儀、そして、友達どうしの協力や交流、さらに自然の中での経験や、社会に対する実践や行動という要素です。

 歴史の風雪に耐えた貝原益軒の伝統的な教育論を土台に、現代の社会のニーズに対応した新しい教育を作ることが求められているのです。


(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)

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教育論文化論(255) 

記事 518番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/11/25
小4の5月の読解問題への質問 as/518.html
森川林 2009/06/09 19:57 


 小4の5月の読解問題で質問がありました。


問4

 本文は、「おひげのあるさかなでもたべさせてはどうかな。……とうさんヒョウは、ジャングルの川へとんでいきました。めざすのは、もちろん大ナマズ。」となっています。(……は略の部分)

 Bの選択肢は、「とうさんヒョウは、ペポネにナマズを食べさせようとした」で○です。

 質問は、「本文には『大ナマズ』と書いてあるので、選択肢の『ナマズ』は×ではないか」ということでした。

 本文が「大ナマズ」で選択肢が「小ナマズ」だったら×です。また、本文が「ナマズ」で選択肢が「大ナマズ」だったら×です。

 しかし、大ナマズという概念は、ナマズという概念よりも小さいので、本文が大ナマズで選択肢がナマズの場合は○です。

 例えば、正方形と長方形は小さい概念で、四角形は大きい概念ですから、本文に「正方形がありました」となっていて、選択肢に「四角形はありましたか」となっていれば○です。


問5

 本文は、「ぼくが自分の部屋で模型飛行機の修理をしているとき……お父さんが指さす先には、……ハトが……うずくまっていた。」となっています。(……は略の部分)

 Bの選択肢は、「ぼくは、飛行機を作りかけのまま、窓からハトを見た」で○です。

 質問は、「『模型飛行機』は『飛行機』とは違うし、『修理する』は『作る』とは違うから×ではないか」ということでした。

 これは微妙なところですが、これも、「模型飛行機」は「飛行機」という大きい概念の一部と考えて○です。選択肢が「本物の飛行機」となっていたら×ですが、ここは文脈で本物の飛行機ということにはならないからです。

 また、「修理する」は「作る」の一部と考えて○としました。「作る」には、「こしらえる」「くみたてる」という意味があるので、本文中にある「水平尾翼を接着している」ことを「作る」と見なしたのです。

 しかし、「作る」には「新たに作り出す」というニュアンスもあるので、質問された方の言うように、「修理する」と「作る」は違うと考えることもできます。

 そこで、この問5のBの選択肢は×を選んだ人も正解としました。


 国語の読解問題は、このように微妙なところがあります。

 これからも、疑問に思われる点がありましたら、ぜひご意見ご質問をお寄せくださるようお願いします。


 なお、毎月第4週の読解問題は、小3以上はかなり難度の高い問題になっています。

 高校生の問題は、センター試験の現代文の問題と同じぐらいの難しさの問題ということで作成しています。つまり、本気で解けば満点も可能だが、普通に解くと6割ぐらいという難しさです。

 小中学生のみなさんは、点数が低くてもがっかりせずに、正解の理由を考えて力をつけていってください。

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入選清書の掲載を正しく表示しなおしました as/517.html
森川林 2009/06/09 18:14 
 入選清書のページで、下記の生徒の清書が正しく表示されていませんでしたので訂正しました。<(_ _)>(以下、生徒コードで)
○小5……ひろみ、おたら
○中1……おへふ、かまむ、きえか、えふわ
○中2……おきに、かきな
○中3……くはゆ
○高2……おくく
○高3……みずき、あにい



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日本の教育の原点、貝原益軒の「和俗童子訓」 as/516.html
森川林 2009/06/09 08:27 


 教育論というと、日本では「エミール」が有名ですが、著者のルソーは実際の教育の経験があったわけではありません。ルソーは、自分の人生経験から、こういう育てられ方をされたくないアンチテーゼとして「エミール」を書きました。だから、これは、教育論というよりも一つの文学です。その文学から実際的な教育の指針を引き出そうとすると、かえって人間の自然に反する面も出てきます。

 それに対して、貝原益軒は、八十歳代というそれまでの長い人生経験の中で十分に咀嚼された実践的な教育論を著しました。それが「和俗童子訓」です。益軒の教育論の根本にある人間観は、自身の経験や多くの見聞に裏付けられたもので、人間の成長の本質を的確にとらえています。

 時代は異なりますが、シュタイナーも、人間の本質をとらえた優れた教育論を展開しました。しかし、シュタイナー教育は、手間がかかりすぎる面があります。益軒の教育論は、誰でもどこでも容易に実践できる教育方法を提案しているという点で、理論的な面だけでなく、政策的な面でも優れた教育論になっています。

 この貝原益軒の教育論が、江戸時代から明治時代にかけての日本人の学力の土台を形成しました。当時の日本は、世界でも最高水準の安定した社会と充実した教育を達成していました。

 明治時代をリードした勝海舟や福沢諭吉などの青年たちは、西洋から流入した新しい学問を率先して学び取りました。しかし、これらの人々の教養の根底にあったのは、それまでの日本の教育でした。オランダ語や英語や西洋の学問が明治時代を切り開いたのではなく、日本人のそれまでの蓄積された教養が西洋の学問を使うことを通して新しい時代を切り開いていったのです。

 貝原益軒の著書でもうひとつ有名なのが「養生訓」です。この書物は、益軒が84歳のときに、やはりそれまでの長い人生経験の中から、古来の医学の知識を集大成する形で著したものです。この著書も、「和俗童子訓」と同じように、時の試練に耐えたバランスのとれた健康論を提示しています。

 「和俗童子訓」は、益軒が晩年になってから著した書物とはいっても、決して昔からあるものをただまとめただけの内容ではありません。当時としては、論議を呼ぶようなさまざまな先鋭的な内容も含んでいました。

 例えば、「学を本にして芸を末にする」というような考え方です。当時は、文化が成熟して芸能に対する理解が広まっていた時代です。そのような時代でも社会の風潮に流されるもことなく、芸術よりもまず学問に専念することがすべての人にとって大切だという原則を明確に主張しました。

 また、大家(たいか・豊かな家、尊い家柄)の子であっても、算数を学ぶ必要があるということも述べました。なぜ算数を学ぶ必要があるかというと、社会の運営には、金銭や数量など数字をコントロールする能力が必要だからだというのです。当時、武士が金銭に関心を持つのは卑しいことだという考えがありました。益軒は、単に道徳論を述べるだけではなく、実際の社会生活を行うために必要な学力は何かということを考えていたのです。

 益軒の「和俗童子訓」は、「養生訓」と同じような人間観に立脚しています。その人間観ないし人生観は一言でいうと、「あらかじめ手を打つ」という考え方です。健康法も、病気になってから治すための健康法ではなく、あらかじめ病気にならないように工夫する健康法でした。教育法も、悪いところができてからそれを直すための教育法ではなく、初めからよくなるような教育をするための教育法でした。

 この考え方は、作文指導にもあてはめることができます。子供たちの作文を見ると、低学年では特に、文章に多くの欠点が見られます。しかし、この欠点を直す指導は、実はあまりいい指導ではありません。優れた指導とは、欠点をもともと作らないような指導です。例えば、低学年のころから、よい文章をたくさん読ませて自然に正しい書き方を身につけさせるというのが一流の指導です。読む勉強をあまりさせないまま、ただ作文を書かせて間違いを指摘して直すというのは、実は二流の指導なのです。

 話は変わりますが、これは犬のトイレのしつけとも似ています。失敗を叱って直すのは二流のしつけです。成功だけするような形にして、その成功を褒めて定着させるのが一流のしつけなのです。

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公立中高一貫校の受験対策は、低学年の作文の家庭学習から as/515.html
森川林 2009/06/08 09:22 


 公立中高一貫校が人気です。この理由は、私立に比べて経済的に楽だということもあります。しかし、それ以上に、公立中高一貫校が本気でいい教育をしようと考えていることを、多くの人が感じているからではないでしょうか。それは、それぞれの県のトップ高や準トップ高が公立の中高一貫校になっていることにも表れています。また、問題を見ても、よく考えられた良問が多く、いい生徒を集めたいという気合が感じられます。


 更に、これまでの私立中学受験で無理な勉強を小学校のうちからすることへの反省も、公立中高一貫校の人気を支えているのではないかと思います。


 人間の成長の自然な姿は、小さいころはたっぷり遊び、成長するにつれて勉強するという形です。小学校時代はよく遊び、中学高校大学になるにつれて学問に目覚めていくというのが、本来の成長の姿です。

 そのような成長の仕方をした子の方が、将来活躍します。小学校時代から単調な勉強に縛られているようでは、これからは、人間の幅が狭くなります。小さいころは、読書や趣味や家族との対話によって幅広い人間力の土台を作っていくことが大事なのです。


 言葉の森では、公立中高一貫校の入試に向けて、作文試験の受験コースを開設しています。これは入試の五ヶ月前から毎週一回の割合で過去問に合わせた作文課題を書く練習をしていくコースです。

 しかし、五ヶ月では実は、実力はあまり変わりません。その生徒が持っている今の実力のままで最もよい作文を書けるように練習していくというのが受験コースの目標です。そして、この目標で、毎年多くの生徒が受験に合格しています。


 言葉の森での作文の勉強は、通常次のような形で進みます。

 まず、生徒が入会したあと、すぐに上手に書けるようになります。来てすぐに上手になるというのが、言葉の森の指導の一つの特徴です。

 しかしそのあと、進歩はなだらかな曲線に入ります。このなだらかな進歩の期間も、先生が見る目からはその子は上達していますが、本人にとってはあまり上達しているように見えない時期です。

 けれども、一年間ぐらいたつと、本人自身が自分でもうまくなったということを実感してきます。上手になったことが確実に実感できるのに、一年間かかります。

 ただし、これは、熱心に取り組んだ生徒の場合です。熱心というのはどういうことかというと、課題を事前に見て、書くこと自分なりに準備してくることです。それは、書く材料を考えてくることもありますし、家族に似た例を取材してくることもあります。また、暗唱、音読、読書などもそれなりにやっていることが必要です。つまり、熱心といっても、普通に真面目にやっていればいいのです。

 しかし、一年間で、自覚できるぐらい上達したとはいっても、根本にある思考力の差はなかなか埋まりません。上手な子と普通の子の実力が短期間で逆転するようなことは、なかなかないのです。


 そこで、作文の勉強は小学校から低学年からスタートした方がいいということになります。

 小学校1、2年生から始めると、まず暗唱などの自習の習慣がつきます。そして、1、2年生から始めた習い事は、長続きすることが多いのです。日本の昔からの言い伝えで、六歳の六ヶ月目ごろから始めた習い事は長く続くといわれています。(六歳の六月六日とも言われています)

 低学年のころは、勉強の中身よりも、勉強をスタートすることに意味があります。なぜかというと、その時期にスタートすると、それがその後の生活の習慣になるからです。


 生活習慣は、子供だけではなく親も変わります。言葉の森の勉強で生活習慣のどこが変わるかというと、まず子供に毎日の勉強の習慣がつきます。一方、親は、勉強のことでやたらに怒らなくなり、家族の対話を大事にするようになります。


 この親子の生活習慣の変化が、実は公立中高一貫校の学力の土台になっているのです。

 毎日の積み重ねで育った学力があれば、たとえ受験をしなくても、その後の勉強のしっかりした基礎ができたことになります。

 基礎のできた子は、やる気になったときにいつでも力を伸ばすことができます。


 低学年の勉強は、一言で言えば、愛情と日本語です。

 それ以外の勉強や習い事は、すべておまけのようなものだと考えていくとよいでしょう。いろいろな習い事や勉強をするのは子供の可能性を広げるという点でいいことですが、最優先するのは日本語をしっかり使えるようになることと、愛情のある子供に育てることです。

 この「愛情と日本語」を具体的な勉強の形で表すと、作文の勉強を通した毎日の自習と親子の対話ということになるのです。


(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)

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読解力をつけるには as/514.html
森川林 2009/06/07 11:56 


 読解力とは何でしょうか。よく使われる言葉ですが、意味が漠然としています。

 文章を読んで理解することは誰でもできます。しかし、なぜその理解力に差があるのでしょうか。その差は、一つには理解の速さです。もう一つは、理解の深さです。

 これらの差が、鋭く表面に出てくるのは主に国語のテストにおいてです。読解力が焦点になるのは、日常生活ではなく、国語のテストの中でなのです。

 日常生活の中では、読む力があるかないかということは、あまり表面に出てきません。生活の中では、間違って読み取ったことでも、あとで修正できます。また、問題自体易しいものが多いのが通常の生活です。難しい問題に直面したときでも、わからないときはよくわかる人に聞くことができます。また、多くの場合、自分の専門にだけ詳しければ、大体のことは間に合います。つまり、読解力はなくても、知識でカバーしたり経験でカバーしたりできるというのが日常の生活です。

 ですから、生活の中での学力とは、読解力がそのまま出てくるのではなく、柔軟性とか、他人との協調性とか、持続力などが、その人の総合的な学力として表れてきます。しかし、国語のテストでは、柔軟性や他人との協調性や持続力などは評価に含まれません。そこで、読解力のエッセンスが国語のテストにおいて焦点になってくるのです。


 国語のテストということを、入試問題で考えてみます。というのは国語のテストの中には易しい問題もあり、そういうテストでは日本語が普通に理解できればできてしまうものも多いからです。

 入試問題は、差をつけるためのテストですから、敢えて何割かができないような問題として作られています。

 難関中学の受験で多いのが、長い文を読ませる形の問題です。これは、読解力を主に速さの面から評価するテストです。一回読んだだけですぐに頭に入るというような読み方のできる子が、読解力の速度のある子です。そして、この速さは、主にそれまでの読書量に比例しています。

 難関大学の入試で多いのが、難しい文章を読ませる形の問題です。高校の入試は、中学と大学のちょうど中間にあり、長い文を読ませる面と難しい文章読ませる面の両方が重なっています。

 難しい文章読ませるということについては、二つの難しい文章が考えられます。一つは、見た目の難しい文章、つまり読みにくい文章、いわゆる悪文といわれるものです。もう一つは、本当の難しい文章です。入試問題では多くの場合、見た目の難しい文章と本当に難しい文章が混ざり合った形で問題が出されます。

 では、本当に難しい文章とはどういう文章なのでしょうか。それは、一言で言えば、発見や創造のある文章です。つまり、これまでの読書生活あるいは実生活の中で、接したことのないような新しいものの見方や考え方をその場で理解する力が難しい文章を読み取る力なのです。


 ここで、私の個人的な例を挙げます。学生のころ、サルトルの「存在と無」を読みました。哲学のジャンルの本を読んだのはそのサルトルが初めてだったので、中に書かれている用語がなかなか理解できませんでした。「即自存在」「対自存在」「即自かつ対自存在」という概念を理解するのに、図をかいたり別の言葉で言い換えたりしてやっと何とか頭に入りました。その後、この概念がヘーゲルから出ていることを知り、ヘーゲルの「精神現象学」や「大論理学」を読みましたが、このときも新しい概念が次々と出てきてかなり苦労しました。

 同じように、さまざまなジャンルの古典と呼ばれる本を読んでいくと、古典というものに共通する本質がだんだんわかってきました。古典とは、その時代にそれまでになかった新しい発見や創造を提案した本だったのです。

 これらの本を読んでいくうちに、新しい概念が出てくる難しい文章もだんだん早く読み取れるようになってきました。そして、読解力というものは、決して学校時代の国語のテストで評価されるだけでなく、生涯進歩していくものだということが実感できたのです。


 本の中には、単に知識が増えるだけの本と、発見のある本とがあります。また発見のある本の中にも、小さな発見のある本と、大きな発見のある本とがあります。

 入試問題で出されるのは、大なり小なり発見のある文章なので、ここで難しい文章、つまり新しい概念を読み取る力があるかないかが問われてきます。


 では、難しい文章を読み取るための勉強はどのようにしたらいいのでしょうか。実は入試問題は、そういう文章の宝庫なのです。

 問題集に載っている問題文を読むと、それぞれの問題文が小さな発見のある文章であることが多いので、読む力のある子は読んでいて面白さを感じるようです。

 高校生が、言葉の森で勉強していて、高校3年生になると急に文章力がついてくるというケースがよくあります。これはなぜかというと、受験勉強で現代文の難しい文章を読むようになるので、難しい文章を読む力がついてきて語彙力と思考力が深まるからです。

 難読力をつけるには、入試問題の問題文を読んで理解するということが最も手軽で最も本質的な勉強法です。そして、文章の中で理解できないところがあれば、先生に聞きます。これは必ずしも国語の先生でなくてもいいのです。読解力のある大人であれば、難しい文章をやさしく解説することができます。

 この勉強法は、数学や英語の勉強法と同じです。数学や英語でも、わからない問題やわからない文を、問題の解法や文の構造から理解し直すことが学力になります。


 国語の入試問題は、読解力を評価することが大きな目的になっていますが、その読解力の評価にも、二つの形があります。

 一つは、記述型の問題で評価される読解力です。もう一つは選択式の問題で評価される読解力です。

 実はその文章を本当に読む力があるかどうかは、記述型の問題でなければ把握できません。選択式の問題は、選択のテクニックも必要になります。逆にいうと、読む力が低くても、読むテクニックあればある程度正解が得られるというのが選択式の問題の特徴です。ところが採点が大変なので、記述型の問題よりも選択式の問題が多いのです。


 国語の家庭学習というと、すぐに漢字の書き取りのようなことを連想する人がいますが、漢字力は、国語力のごく一部です。国語力の本質は読解力で、その読解力は、もって生まれたものではなく、学習によって身につくものです。

 しかし、読解力の本質を知らないと、問題集を解くような勉強で読解力がつくと思ってしまいます。ただ問題を解いて解説を聞くような勉強では、読解力はつきません。塾に行っても国語の成績が上がらないとよく言われるのは、塾では問題を解かせる形の勉強になりがちだからです。


 では、音読や暗唱がいいかというと、音読や暗唱そのものの意義もありますが、それ以上に大事なのが、何を音読し暗唱するかということです。

 昔からある有名な文章、例えば「平家物語」や「日本国憲法」を読めばいいというのではなく、発見や創造のある文章を読むところに読解力と思考力を深めるポイントがあります。昔からある有名な文章を読む意義は、文化に接するという文化的意義であって、読解力を高めるという教育的意義とは別のものだと分けて考える必要があります。


 音読と黙読の違いは、音読の方が反復しやすく定着度を高めやすいが、黙読の方が早く楽にできるという点にあります。

 問題集の問題文を毎日読む勉強をする場合、音読ではくたびれるので黙読でいいのですが、勉強の自覚がまだ不十分な年齢の間は、黙読では読み方が形骸化します。多少苦しくても、音読で読み続けた方が中身のある勉強になります。

 要約という勉強法も国語の力をつけるためには有効ですが、要約をチェックする人がいないと勉強が進まないという欠点があります。

 いい勉強法とは、教材や先生の制約がなく、本人の力で進めていけるものです。要約よりも、文章を音読し暗唱し、その暗唱した文章を筆写するという勉強を基本にした方が勉強の能率が上がります。


 また、要約も何を要約するかという要約の対象選びが最も重要です。よく「天声人語」の要約ということが言われますが、「天声人語」では文章が内容的に易しすぎます。難読という点でものたりなさがあるのです。やはりいちばんいいのは、発見と創造のある入試問題の問題文です。

 ただし、入試問題を作成する人自身も、読解力の本質を知らないことが多いので、ただ読みにくいだけの悪文を問題文としていることもあります。入試問題の文章ならどれでもいいのではなく、ある程度大人が文章を選択してあげる必要があります。


 以上まとめて言うと、読解力には二種類あり、一つは速さの読解力、もう一つは深さの読解力です。

 速さの読解力は多読によって身につくので、読書量を増やしていく必要があります。

 深さの読解力は難読によって身につくので、入試問題集や難しい本を理解できるまで読むというような勉強が必要になります。


 これらの本質を押さえた上で、読解力をつける勉強をしていってください。


(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
 記事のもととなった構成図です。

(急いで書いたのでうまくありません)

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