小学校高学年の子のお母さんから、本を読みすぎることについての質問がありました。
その子は、家でも学校でもいつでも本を読んでいるというのです。学校から帰ってきてもすぐに本を読み始めるそうです。
小学校時代は、勉強よりも読書優先の生活の方が力がつきますから、本が好きだということはよいことです。しかし、このように読みすぎるのは何か不自然な感じがします。そこで、お母さんも相談をしてきたのでしょう。
一般に、読書というものは、人生がうまくいっていないときにするという面があります。毎日の生活が幸せに満ちていれば、本を読む必要性はあまり感じません。
勝海舟も、自伝の中で、自分が初めて本格的に本を読んだのは蟄居(ちっきょ)の時代だったと述べています。
読書は、自分の人生に満足できないものがあり、求めるものがあるからするという面と、その裏返しとして、自分の今の人生から逃避したいからするという面があります。
そこで、その子は、学校生活で友達があまりいないために、その現実から逃がれることを読書に求めているのではないかと思いました。これは、いじめというほどのことではなく、友達と楽しく遊ぶ関係が作りにくいということです。
しかし、そういう子も、成長する中でやがて本当に仲のいい友達ができるはずですから、今友達がいるかいないかということあまり気にする必要はありません。
ただ、本人は心の中で友達と楽しく遊べないことを悩んでいるわけですから、家庭で、その子にとって楽しい人間関係を作ってあげることが大切です。
例えば、家族でどこかに遊びに出かける、家族で何かイベントを企画する、というようなことです。
現在の社会では、KYという言葉に見られるように、他人からどう思われているかということを気にする傾向があります。しかし、
他人の目にはあまりとらわれず、自分らしく生きていけば必ずその自分らしさに共鳴してくれる他人と出会うものだというふうに長い目で考えていけばいいのです。
ただし、友達の関係があまりない子は、やはり人間関係の技術がうまく身についていない面もあります。そこで、家族との遊びの中で、友達と遊ぶときのコツをお父さんやお母さんが先輩の立場から少しずつ教えてあげることです。
子供の問題で大事なことは、一緒にいる家族です。身近に見ている親がいちばんよく事情を把握していて、またいちばん根本的な決断ができます。
この子も、優しく心配してくれるお母さんがいるというだけで、もう問題はほぼ解決していると思いました。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
数年前まで、ペットの犬を飼っていました。ゴールデンレトリバーという大型の犬でしたが15年も長生きしました。
その後しばらく、動物は、小鳥しか飼っていませんでした(と言っても、オカメインコと文鳥とウズラ)。ところが
今度、新たに犬を飼うことにしました。今度は、前よりもちょっと小さいミニチュアシュナウザーです。
そこで、犬のしつけを再確認するために、犬の飼い方の本を十冊近くまとめて読んで研究することにしました。
話は変わりますが、
新しいことを始めるときは、関連する本を十冊読むというのが勉強の基本です。高校生が大学入試に取り組むときも、本人にとって大学入試は初めての経験ですから、入試に関する情報の載っている本をとりあえず十冊は読むといいのです。
ところが、高校生の多くは、塾や予備校や友人などのクチコミの情報に頼りがちです。何かを始めるときは、まず書物を活用することで土台となる知識を作るということをもっと考えていく必要があります。そのためには、家庭で、子供が利用できるアマゾンの購入枠などを決めておくのもいいかもしれません。
さて、犬のしつけの本を読んでいて、十数年前とは、しつけの仕方が少し違っていることに気がつきました。それは、
犬がしてはいけないことをしたときも、叱らずにただ無視をする、例えば、背中を向ける、顔を見せない、という叱り方だけにとどめるという方法が主流になっているのです。
その一方で、褒めるときには、小さなお菓子をやるというような方法が併用されています。この、叱らずに無視するだけ、褒めるときにはお菓子をやる、というしつけを見て、何か違和感を感じました。
もちろんここには、叱ることの行き過ぎに対する反省があります。しごき事件などに見られるように、暴力というものは習慣化し、伝染する傾向があります。ですから、叱るときに、暴力や強制力をできるだけ使わないようにするというのは教育の大原則です。
しかし、「無視」と「お菓子」だけで、果たしていい子は育つのかということを考えました。
「無視」と「お菓子」を別の言葉で言えば、「否」と「是」のコントラストです。「叱る」と「褒める」も明確なコントラストですが、「叱る」よりも弱い「無視する」の場合は、コントラストをつけるために「たくさん褒める」=「お菓子を与える」になっているのではないかと思いました。
しかし、
お菓子で褒めるということを続けていると、結局、お菓子がなければしつけられないことになってしまいます。
犬と人間の理想的な関係は、信頼に基づく関係です。しつけも、えさとテクニックでしつけるのではなく、心の触れ合いの中でしつけることが大切です。お菓子は逆に、心の触れ合いを阻害するような気がしたのです。
イルカの調教も同じだと言われています。イルカは、えさやムチで訓練を受け入れるのではなく、調教師との人間関係に応えようとしてジャンプをしたり輪をくぐったりします。
レベルの高い生き物は、みんなそうなのでしょう。人間ももちろん、
えさをもらえたり、ムチが怖かったりするから行動するのではなく、相手の心意気に感じて行動します。特に、日本人はそうだと思います。そう考えると、日本における犬のしつけは、欧米のようにアメとムチによるしつけではなく、心の触れ合いによるしつけになるべきなのではないかと思いました。
これは、人間の教育にもあてはまります。
今、
教育の分野では、褒めて育てることが万能のように思われていますが、実は、褒めることは、叱ることとセットになって初めて効果があります。
現在、学校では、叱るということに対して大きな制約があります。先生が心をこめて叱るときは、つい手が出てしまうこともあります。しかし、形の上で体罰をしたかどうかだけが問われると、先生は心を込めずに叱るようにしなければなりません。もちろん、それでは、叱ったことになりません。
ですから、子供たちが、学校で心を込めて叱られない分を、家庭でカバーして、明確な褒め方叱り方を子供に伝えていく必要があります。というよりも、本来、家庭はしつけの場であり、学校は勉強の場なのですから、褒めたり叱ったりするのはもともと家庭の役割です。
以上、犬のしつけから考えを始めて、しつけの仕方の本質は、「褒める」と「叱る」のコントラストだと気づき、そのコントラストは、人間の子供の教育に対しても大切ではないかと思い至りました。
その家庭の褒め方叱り方で、大事なことは二つあるように思います。
第一は、
父が叱れば母がカバーする、母が叱れば父がカバーする、という関係です。一人で子育てをする場合は、叱ったあと必ず優しく褒めるということです。例えば、犬のしつけでも、吠えたらすぐ叱る、吠えるのをやめたらすぐ褒めるというコントラストが必要で、しかも最後は必ず褒めるで終わることが大事です。
よくないのは、父と母が一緒になって子供を叱ることです。又は、叱りっぱなしにすることです。
その点、父と母が一緒になって子供を褒めることや、褒めっぱなしにすることは、あまり弊害がありませんが、その場合でも、
褒めている一方で、褒めすぎになることを抑える働きかけが必要です。それは、叱るというよりも、謙虚さを教えるということです。
第二は、
叱るのは人間の道にはずれたときだけで、成績のことでは決して叱らないということです。成績がいいから褒める、成績が悪いから叱るというのは、子供のためを思った褒め方叱り方ではなく、親の単なる感情的な反応の仕方です。成績がよくていちばん嬉しいのは子供です。また、成績が悪くていちばん悔しいのも子供です。親が子供と同じ感情を共有するのはいいのですが、親は子供よりも一歩上の立場に立って、成績がいいときにも悪いときにもその中身を客観的に分析し、今後の方向をアドバイスするようにならなければなりません。
人間の道というのは、そんなに難しいことではありません。例えば、家庭において、子供が母親や祖父母などに対して悪い言葉遣いをしたような場合です。そういうときは、烈火のごとく叱らなければなりません。しかし、叱っておしまいではないのが家庭のいいところです。叱ったあと、子供が寝る前までの間にひとこと、「さっきはひどく叱ったけど、おまえが心からそんなことを思っているのではないことはよくわかっているよ。お休み」と優しく言ってあげればいいのです。学校ではこういうフォローはできません。
毎日寝起きをともにする家庭だからこそ、根本的に叱ったり褒めたりすることができるのです。
この叱ることが最も大事な年齢は、小学校5、6年生から中学1、2年生にかけてです。このころは、子供が悪いことを覚えてそれを試してみたくなる時期です。
周りにいる大人がこの時期にきちんと叱ることによって、子供の人生はバランスが取れたものになっていくのだと思います。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。