作文検定10級レベル
小学2年生になったら、自分だけがしたことを書こう
▼ここが大切!
▽書き出しの工夫
書き出しに、会話、色、音、情景を入れて、読み手をひきつけるような効果を出します。
▽自分だけがしたこと
作文の題材には、できるだけ白分のしたことを書くことが大切です。それはそのほうがその人らしい作文になるからでず。例えは、サッカーの試合の話を響くときに、「Aくんがパスして、Bくんがシュートをして、点を取った」というような書き方ではなく、「(ほかならぬ)ぼくがシュートをしようとして空振りした」というようなことを書いていくということです。
▽声・顔・動作の様子
会話の前後にその人の表情や動作を入れて書く練習です。
▽前の話・聞いた話
小学生が書く作文は、事実の経過を時間の順序で書く形になることが多いものです。このため、中心を絞って書くように要求すると字数が短くなってしまうという問題が出てきます。
中心を絞りながら話題を広げていくために、前にあった話や聞いた話を入れる練習です。聞いた話は、お父さんやお母さんが話してあげ、事前に準備しておきましょう。
▼作文を書き終えたあとに
子供が作文を書く前だけでなく、齧いたあとにも、親が経験した似た話を聞かせてあげましょう。子供の作文をきっかけにして、家族でいろいろな思い出話をするというイメージです。
小学生のうちは、間違いを直したり書き方の注意をしたりするよりも、何しろ楽しく話をするということがいちばんの勉強です。見本の作文は、見やすいように段落をつけていますが、三年生はまだ段落をつけて書く必要はありません。
▼作文のお手本!
七夕のねがい事
ガサガサと音がして、げんかんが開きました。お母さんが、大きな竹をかかえて入ってきました。ほくが、
「わあ、すごい竹やぶ。何をするの。」
と聞くと、お母さんが、
「これは、竹やぶじゃなくて、竹。」
と言いました。
お母さんとぼくと一年生の妹と二さいの弟で、竹のえだにいろんなかざりをつけました。ぼくは、おもちゃ箱からきら-きら光るシールを出してかざりにしました。まるで、クリスマスツリーみたいです。妹は、手をたたいて、
「ハッピーバースディトゥーユー。」
と歌っていました。
夜になって、お父さんが帰ってきました。お父さんは、おどろいた顔をして、そのあとすぐにふざけて、
「ジングルベール、ジングルベール、すずが鳴る。」
と歌いだしました。
ぼくは、お父さんとお母さんに、昔の話を聞いてみました。お父さんは、子どものころ、たんざくに「せかいせいふく」と書いたそうです。お母さんは、すきな子の名前を書いたと言っていました。
それから、みんなでねがい事を書きました。
お父さんは、まじめな顔をして、「みんながよろごぶいい仕事ができますように」と書きました。
お母さんは、「家族みんながけんこうでありますように」と書きました。
ぼくは、「レーシングカーがほしい」と書きました。
妹は、「うさぎになりたい」と書きました。
いちばん下の弟は、「わー」といいながら、「そ」という字を書きました。
ぼくは、七タの日が晴れてくれるといいなあと思いました。
▼小学3年生の日記の書き方
その日の出来事を、「前の話・聞いた話」「たとえ」が入るように書きましょう。お父さんやお母さんの「似た話」を聞かせてあげましょう。
小学三年生のころは、年上の人を尊敬し、その人からいろいろなものを吸収しようとする時期です。心に残るいい話をしてあげましょう。
○月○日
今日は、七タなのに雨でした。
ぼくは、
「天の川、見たいなあ。」
と言いました。
お父さんに聞くと、昔、山に登って見た真っ暗な空に、本当に川のように星が広がっていたそうです。
ぼくは、今度、ぜったいにお父さんに山につれていってもらおうと思いました。
▼日記を書き終えたあとに
お父さんやお母さんの子供のころの話をたっぷり聞かせてあげても、子供はその話をさらりとしか書かないことがあります。しかし、それでも子供の心の中には、その話がしっかり残っています。めげずに、いろいろな話をしてあげましょう。
学年別作文感想文の書き方
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5ねんせいのさくぶんのかきかたおしえて
4年生の書き方おしえて
「プレジデントファミリー9月号」(今発売中)の付録に、「4年生の作文の書き方」を載せています。
そちらを見るとわかりやすいと思います。
作文の書き方が分からない
もうすぐ直すので待っててね。
原稿用紙が埋まらない
似た例を両親に取材すると、面白い話が聞ける。
あと、意見文で、もう最後の意見になってしまったときは、そのあとに、「例えば」と意見を補強する実例を追加していくと長く書ける。
小学3年生で主張作文があります。
書き方がわかりません。
教えてください!
小学3年生で、主張作文など書く必要はありません。
そういう無意味な苦労を子供にさせるよりも、お母さんがかわりに書いてあげるといいと思います。
なるほど!
参考になります。
4年の作文教えて
作文の書き方教えて下さい★
この記事に書いてあるとおりです★
それっていい作文ですね
3年生の作文の書き方を教えて!!!!!!
さりさん、がんばってね。
三年生で説明文を書くためのやりかたを教えてください。
説明文を書くために大事なことは、第一に、材料を集めることです。
第二は、構成をわかりやすく書くことです。
構成は、この返信のように、「第一に」「第二に」などで書くことをいくつかに整理していくといいです。
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作文検定11級レベル
小学2年生になったら、たとえを入れて書いてみよう
▼ここが大切
▽題名の工夫
低学年のころは、作文の題材を見つけやすいように、「きょうのこと」という題名で練習をします。題名の工夫とは、話の中心がわかるように工夫して題名をつける練習です。しかし、ただ題名をおもしろくすることだけを教えると、かえって内容のわからない題名をつけてしまうことがあります(「ドッカーン」「涙がぽろり」「大笑い」など)。一般的に題名の工夫は、「〇〇な□□」「〇〇の口□」「〇〇だった□□」のような形になることが多いので「〇〇な○○という形になるように工夫しよう」と指導すると子供に伝わりやすくなります(「地獄の遠足」「一番になった運動会」「かわいい金魚」など)。
▽どうしてかというと
作文の中で、理由を説明する必要力ある場面で、その理由を書く練習です。
▽途中に思ったこと
作文の結びだけでなく、途中にも思ったことを書く練習です。
事実のところどころに白分の思ったことを入れると、文章に変化と奥行きが出てきます。
▽たとえ
「まるで」「みたい」「よう」などとう言葉を使って、比揄を入れる練習です。
▽長い会話
味のある会話を書くために、二行以上の長い会話を思い出して書く練習をします。
▼作文を書き終えたあとに
ともかく、楽しく書く習慣をつけることが大切です。勉強のように間違いを直しなからだと、長続きしなくなります。どうしても間違いを直したいときは、たくさん褒めたあとに、ふと気がついたように一ヶ所だけという形にしておきましょう。
間違いは、読む力をつける中で白然に直していくものです。見本の作文は、見やすいように段落をつけていますが、二年生はまだ段落をつけて書く必要はありません。
▼作文のお手本!
お父さんにもらったカブトムシ
わたしは、虫が大すきです。この間、お父さんがカブトムシを一ぴきもってきてくれました。どうしてかというと、会社の人にもらったからです。ずっと前は、やはり会社の人から、スズムシをもらってきてくれました。わたは、お父さんの会社っておもしろそうだなあと思いました。
わたしは、そのカブトムシに「黒いいなづまハヤト」という名前をつけました。えさはバナナとリンゴです。お兄ちゃんが、「名前のわりに、食べているものが弱そう。」と言いました。
ハヤトは、タ方になると、おがくずのベッドからコソコソと出てきて、おいてあるえさをおいしそうに食ぺていました。
ところがある日、わたしがカゴを見てみると、ハヤトがよこになったままうごいていません。わたしは、目がまん丸になるぐらいおどろきました。
わたしは、お父さんの言ったことを思い出しました。
「クワガタは二、三年生きるけど、カブトムシは、一年なんだよ。」
手にとると、ハヤトは、もう虫のいきです。
ぐったりしているハヤトをおこして、わたしは、バナナを口に入れてあげました。
ハヤトはしばらくうれしそうにもがいていましたが、やがてだんだんうごかなくなってきました。
わたしは、なみだをこらえて言いました。
「ハヤト、こんどは、クワガタムシにうまれかわってきてね。」
できれば、オオクワガタがいいです。
▼小学2年生の日記の書き方
その日の出来事を「長い会話」「たとえ」が入るように書きましょう。出来事によっては、会話が入れにくい肘ものもあります・その場合は・会話のかわりに白分の思ったことを書きましょう。たとえが白分で思いつかないときは、お父さんやお母さんが教えてあげましょう。
○月○日
今日は、お父さんとコオロギをつかまえに行きました。お父さんが、
「コオロギというのは、こういう草むらのところにいるんたよなあ。」
と言って草をふむと、コオロギがまるで花火のようにとびはねて出てきました。
わたしは、コオロギが、
「たいへんだあ。大男がやってきたあ。」
と言っているみたいだなあと思いました・
▼日記を書き終えたあとに
文章を書くときには、「書きたい」というエネルギーが必要です。
書く前に、子供にいろいろな話を聞いてしまうと、子供は話をしたことで満足して、かえって書けなくなります。話をたっぷり聞くのは、書いたあとにしておきましょう。
学年別作文感想文の書き方
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通信教室では、現在中学生以上が自由な用紙で構成図を書く練習をしていますが、通学教室では、実験的に、フォーマットを使った構成図を小3以上で書いています。
下の画像は、小4の生徒が6.2週の題名課題で書いた構成図です。
構成図自体が一つの作品のような感じになるぐらい、楽しく書いている様子がよくわかります。
この子はまだ手書きで書いているので、構成図を書く作業と、作文を書く作業が二重になってしまう面があります。
そのへんが負担にならないように、今後工夫したいと思っています。
もう一つの画像は、小5の生徒が6.2週の感想文課題で書いた構成図です。
この図をもとに、2000字ぐらいの力作を書きました。
構成図を見ても、考えが深まっていることがよくわかります。
もう一つは、中1の生徒がやはり6.2週の感想文課題で書いた構成図です。楽しく考えを深めている様子がわかります。
通学コースの中学生以上は、これも実験的に音声入力を併用して書いています。この生徒は、まだ音声入力に慣れていないので、字数はあまり多くありませんが、マイクの使い方が上手なので、音声入力で修正するところはあまりありません。いずれ、パソコン入力よりも、ずっと能率よく作文を書くようになると思います。
小中学生のころは、やはり何事にも適応力が高いようです。
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画面が黒くなっていたため、お名前や連絡先などが読み取れませんでしたので、すみませんがもう一度ファクスをお送りくださるか、お電話でお申し込みくださるようお願いいたします。
電話0120−22−3987(平日9:00−20:00)
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作文検定12級レベル
小学1年生になったら、あったことを書いてみよう
■ここが大切
□いつ・どこ」の書き出し
作文の書き出しを「いつ、どこ、だれ」などがわかるように書きます。必ずしも「いつ」と「どこ」の両方が入っている必要はなく、必要に応じて、日時や場所や主体が特定できていればよいとします。
□名前・数字
どこかに出かけたときなど、場所などの名前(固有名詞)や日時などの数字を書いていくと、正確な文章になります。男の子は会話よりも数字や名前に関心か高く、女の子は数字や名前よりも会話に関心か高くなる傾向かあります。数字は縦書きで書くときには、漢数字を使うのか」般的です。
□会話
そのときの会話を思い出して、描写的に書く練習です。長く書けない子の多くは、物事を説明的に書いています。
会話を思い出すと、そのときの様子を具体的に長く書けるようになります。会話は、カギカッコを使い、行を変えて書くと読みやすくなります。
□「〇□○□」
そのときの様子を、「カラカラ」「きらきら」など擬声語・擬態語を使って表します。音はカタカナ、状態はひらがなで書きます。
□思ったこと
作文の結びに思ったことを書く練習です。これは、二つの意味があります。一つは、結びを「たのしかった」「おもしろかった」などの単純な感想でまとめずに、白分なりに思ったことを書いてまとめることです。「たのしかったと思いました」は、一年生ではよいとします。もう一つの意味は、将来意見文を書くときの構成に合わせて、結びには感想や意見を書く意識付けをすることです。
■作文を書き終えたあとに
一年生は、この見本のようには書けません。まず、書いたことを褒めてあげましょう。
間違いはたくさんあるはずですが、直すのは一つの作文で一ヶ所だけにとどめます。見本の作文は、見やすいように段落をつけていますが、一年生はまだ段落をつけて書く必要はありません。
■作文のお手本!
ザリガニをつかまえたこと
ぼくは、このあいだの日よう日、ちかくのせがみのいけにザリガニをつかまえにいきました。
いっしょにいったのは、けんちゃんとみよこちゃんです。
でも、いつもいるばしょに、でした。ザリガニは一ぴきもいませんでした。ぼくは、
「おかしいなあ。」
といいました。けんちゃんは、
「もう、にげちゃったんじゃないの。」
といいました。みよこちゃんは、
「じゅんくん、もっとふかいところにいってみたら。」
と、ひとごとみたいにいいました。
ぼくは、「よし」とけっしんすると、ながぐつのまま、どろの中に入りました。
ズブズブッとながぐつがどろの中に入りました。右の足をぬこうとカを入れたら、こんどは左の足がズボッとしずみました。
ズボッ。ズブズブ。ズボット。ズブズブ。
となんどもくりかえして、あみをどろの中にいれ、やっとどろから出てきてみたら、りょうほうともはだしでした。
でも、ラッキーなことに、あみの中には、どろだらけの小さいザリガニが三びきも入っていました。
みよこちゃんは、
「やったあ。じゅんくんすてき。」
といいました。けんちゃんは、
「ようし、おれも。」
といったあとすぐに、
「いくのはやめとこう。」
といいました。
いえにかえると、おかあさんがいいました。
「ながぐつは、どうしたの。」
それから、くらくなったみちを、おかあさんとおにいちゃんとでながぐつをさがしにいきました。
おにいちゃんが、どろの中からながぐつをひろってきてくれました。
ぼくは、おにいちゃんすごいなあとおもいました。
■小学1年生の日記の書き方
その日の出来事を、「名前・数字」「会話」「思ったこと」か入るように書きましょう。
余裕かあれば、二年生の書き方で学ぶ「まるで……みたい」というたとえを入れなから書きましょう。散歩のときなどにお父さんやお母さんかたとえを使って話してあげるといいでしょう。勉強のように話すのではなく、お父さんやお母さん白身か楽しみなからたとえを使うことか大切です。
○月○日
きょうは、たはらというおみせに、ザリガニのいれものをかいにいきました。
ほくが、
「あ、あった。」
というと、おとうさんが、
「もっと大きいのにしよう。」
といいました。ぼくは、いちばん大きい入れものをかいました。ねだんは三九八○円でした。
いえにかえって、水草も入れて、ジャングルみたいにしました。
ぼくは、ザリガニがきもちよさそうだなあとおもいました。
■日記を書き終えたあとに
家族で旅行に出かけても、日記に書いたのは、朝ごはんかおいしかったことだけということもあります。また、数日たつと、作文に書きたいという気持ちは急速に薄れていきます。親が書いてほしいことを無理にかせようとするのではなく、子供はそういうものだと思ってあきらめるしかありません。
作文という形には残らなくて皇楽しい思い出は子供の心の中に残っています。
学年別作文感想文の書き方
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すばらしーーっ
おかしいなあ。」
とおいいました。けんちゃんは、
”お”はタイプミスですよね
ご指摘ありがとうございます。
タイプミスでした。
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小学校高学年の子のお母さんから、本を読みすぎることについての質問がありました。
その子は、家でも学校でもいつでも本を読んでいるというのです。学校から帰ってきてもすぐに本を読み始めるそうです。
小学校時代は、勉強よりも読書優先の生活の方が力がつきますから、本が好きだということはよいことです。しかし、このように読みすぎるのは何か不自然な感じがします。そこで、お母さんも相談をしてきたのでしょう。
一般に、読書というものは、人生がうまくいっていないときにするという面があります。毎日の生活が幸せに満ちていれば、本を読む必要性はあまり感じません。
勝海舟も、自伝の中で、自分が初めて本格的に本を読んだのは蟄居(ちっきょ)の時代だったと述べています。
読書は、自分の人生に満足できないものがあり、求めるものがあるからするという面と、その裏返しとして、自分の今の人生から逃避したいからするという面があります。
そこで、その子は、学校生活で友達があまりいないために、その現実から逃がれることを読書に求めているのではないかと思いました。これは、いじめというほどのことではなく、友達と楽しく遊ぶ関係が作りにくいということです。
しかし、そういう子も、成長する中でやがて本当に仲のいい友達ができるはずですから、今友達がいるかいないかということあまり気にする必要はありません。
ただ、本人は心の中で友達と楽しく遊べないことを悩んでいるわけですから、家庭で、その子にとって楽しい人間関係を作ってあげることが大切です。
例えば、家族でどこかに遊びに出かける、家族で何かイベントを企画する、というようなことです。
現在の社会では、KYという言葉に見られるように、他人からどう思われているかということを気にする傾向があります。しかし、
他人の目にはあまりとらわれず、自分らしく生きていけば必ずその自分らしさに共鳴してくれる他人と出会うものだというふうに長い目で考えていけばいいのです。
ただし、友達の関係があまりない子は、やはり人間関係の技術がうまく身についていない面もあります。そこで、家族との遊びの中で、友達と遊ぶときのコツをお父さんやお母さんが先輩の立場から少しずつ教えてあげることです。
子供の問題で大事なことは、一緒にいる家族です。身近に見ている親がいちばんよく事情を把握していて、またいちばん根本的な決断ができます。
この子も、優しく心配してくれるお母さんがいるというだけで、もう問題はほぼ解決していると思いました。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
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拝読して、「家の娘とまったく同じ!」と思いました。先生が書かれたアドバイス通りの運びとなり、今は読書好き、国語が得意の中3です。
つい先日のことです。
「あのころは話す友達がいなかったから本ばかり読んでいた」と母に打ち明けてくれました。もっとかかわってあげれば良かったと、少々反省しています。
彼女は今も毎日相当な量の読書をしていますが、中学では、やはり読書好きの親友ができ、毎日充実している様子です。
そうですね。
その時代は苦しかったと思いますが、それがその子の心の豊かさになっていったのだと思います。
若いときは友達がいるかいないかということが大きな問題となりますが、自分らしく生きていれば、自然にそういう友達と出会うようになるのでしょうね。
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数年前まで、ペットの犬を飼っていました。ゴールデンレトリバーという大型の犬でしたが15年も長生きしました。
その後しばらく、動物は、小鳥しか飼っていませんでした(と言っても、オカメインコと文鳥とウズラ)。ところが
今度、新たに犬を飼うことにしました。今度は、前よりもちょっと小さいミニチュアシュナウザーです。
そこで、犬のしつけを再確認するために、犬の飼い方の本を十冊近くまとめて読んで研究することにしました。
話は変わりますが、
新しいことを始めるときは、関連する本を十冊読むというのが勉強の基本です。高校生が大学入試に取り組むときも、本人にとって大学入試は初めての経験ですから、入試に関する情報の載っている本をとりあえず十冊は読むといいのです。
ところが、高校生の多くは、塾や予備校や友人などのクチコミの情報に頼りがちです。何かを始めるときは、まず書物を活用することで土台となる知識を作るということをもっと考えていく必要があります。そのためには、家庭で、子供が利用できるアマゾンの購入枠などを決めておくのもいいかもしれません。
さて、犬のしつけの本を読んでいて、十数年前とは、しつけの仕方が少し違っていることに気がつきました。それは、
犬がしてはいけないことをしたときも、叱らずにただ無視をする、例えば、背中を向ける、顔を見せない、という叱り方だけにとどめるという方法が主流になっているのです。
その一方で、褒めるときには、小さなお菓子をやるというような方法が併用されています。この、叱らずに無視するだけ、褒めるときにはお菓子をやる、というしつけを見て、何か違和感を感じました。
もちろんここには、叱ることの行き過ぎに対する反省があります。しごき事件などに見られるように、暴力というものは習慣化し、伝染する傾向があります。ですから、叱るときに、暴力や強制力をできるだけ使わないようにするというのは教育の大原則です。
しかし、「無視」と「お菓子」だけで、果たしていい子は育つのかということを考えました。
「無視」と「お菓子」を別の言葉で言えば、「否」と「是」のコントラストです。「叱る」と「褒める」も明確なコントラストですが、「叱る」よりも弱い「無視する」の場合は、コントラストをつけるために「たくさん褒める」=「お菓子を与える」になっているのではないかと思いました。
しかし、
お菓子で褒めるということを続けていると、結局、お菓子がなければしつけられないことになってしまいます。
犬と人間の理想的な関係は、信頼に基づく関係です。しつけも、えさとテクニックでしつけるのではなく、心の触れ合いの中でしつけることが大切です。お菓子は逆に、心の触れ合いを阻害するような気がしたのです。
イルカの調教も同じだと言われています。イルカは、えさやムチで訓練を受け入れるのではなく、調教師との人間関係に応えようとしてジャンプをしたり輪をくぐったりします。
レベルの高い生き物は、みんなそうなのでしょう。人間ももちろん、
えさをもらえたり、ムチが怖かったりするから行動するのではなく、相手の心意気に感じて行動します。特に、日本人はそうだと思います。そう考えると、日本における犬のしつけは、欧米のようにアメとムチによるしつけではなく、心の触れ合いによるしつけになるべきなのではないかと思いました。
これは、人間の教育にもあてはまります。
今、
教育の分野では、褒めて育てることが万能のように思われていますが、実は、褒めることは、叱ることとセットになって初めて効果があります。
現在、学校では、叱るということに対して大きな制約があります。先生が心をこめて叱るときは、つい手が出てしまうこともあります。しかし、形の上で体罰をしたかどうかだけが問われると、先生は心を込めずに叱るようにしなければなりません。もちろん、それでは、叱ったことになりません。
ですから、子供たちが、学校で心を込めて叱られない分を、家庭でカバーして、明確な褒め方叱り方を子供に伝えていく必要があります。というよりも、本来、家庭はしつけの場であり、学校は勉強の場なのですから、褒めたり叱ったりするのはもともと家庭の役割です。
以上、犬のしつけから考えを始めて、しつけの仕方の本質は、「褒める」と「叱る」のコントラストだと気づき、そのコントラストは、人間の子供の教育に対しても大切ではないかと思い至りました。
その家庭の褒め方叱り方で、大事なことは二つあるように思います。
第一は、
父が叱れば母がカバーする、母が叱れば父がカバーする、という関係です。一人で子育てをする場合は、叱ったあと必ず優しく褒めるということです。例えば、犬のしつけでも、吠えたらすぐ叱る、吠えるのをやめたらすぐ褒めるというコントラストが必要で、しかも最後は必ず褒めるで終わることが大事です。
よくないのは、父と母が一緒になって子供を叱ることです。又は、叱りっぱなしにすることです。
その点、父と母が一緒になって子供を褒めることや、褒めっぱなしにすることは、あまり弊害がありませんが、その場合でも、
褒めている一方で、褒めすぎになることを抑える働きかけが必要です。それは、叱るというよりも、謙虚さを教えるということです。
第二は、
叱るのは人間の道にはずれたときだけで、成績のことでは決して叱らないということです。成績がいいから褒める、成績が悪いから叱るというのは、子供のためを思った褒め方叱り方ではなく、親の単なる感情的な反応の仕方です。成績がよくていちばん嬉しいのは子供です。また、成績が悪くていちばん悔しいのも子供です。親が子供と同じ感情を共有するのはいいのですが、親は子供よりも一歩上の立場に立って、成績がいいときにも悪いときにもその中身を客観的に分析し、今後の方向をアドバイスするようにならなければなりません。
人間の道というのは、そんなに難しいことではありません。例えば、家庭において、子供が母親や祖父母などに対して悪い言葉遣いをしたような場合です。そういうときは、烈火のごとく叱らなければなりません。しかし、叱っておしまいではないのが家庭のいいところです。叱ったあと、子供が寝る前までの間にひとこと、「さっきはひどく叱ったけど、おまえが心からそんなことを思っているのではないことはよくわかっているよ。お休み」と優しく言ってあげればいいのです。学校ではこういうフォローはできません。
毎日寝起きをともにする家庭だからこそ、根本的に叱ったり褒めたりすることができるのです。
この叱ることが最も大事な年齢は、小学校5、6年生から中学1、2年生にかけてです。このころは、子供が悪いことを覚えてそれを試してみたくなる時期です。
周りにいる大人がこの時期にきちんと叱ることによって、子供の人生はバランスが取れたものになっていくのだと思います。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
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言葉の森の作文指導は、どの先生が教えても同じ水準が保てるということを目標としています。これは、インターネットを介して講師の評価や講評が互いに共有できるというところから可能になっています。そのため、急な休講などがあった場合も、他の先生がその生徒のこれまでの勉強の内容を見ながら、同じ流れで指導を行うことができます。
ところが、手書きの作文に直接入れる赤ペンは、生徒のもとにそのまま返却されてしまうので、講師の間での共有ができません。
あるとき、保護者の方から、先生によって赤ペンのつけ方に違いがあるという指摘を受けました。赤ペンの基準は、(1)誤字は、とりあえず必ず直しておく、(2)よいところや面白いところ中心に褒めていく、(3)コメントは、生徒に対する手紙のような形にとどめ、指導の内容とはしない、(4)指導は、講師どうしが共有できる「山のたより」の評価・講評を中心にする、ということにしています。ところが実際には、
赤ペンでたっぷりコメント書く先生と、あっさりとしかコメントを書かない先生の差が大きかったのです。
今回は、この赤ペン添削の理論と方法について考えてみたいと思います。
日本では、低学年の作文指導がよく行われています。こういう国は、世界的にはあまりありません。なぜかというと、日本語は、声に出した言葉がほぼそのまま文字の言葉になるからです。それに対して例えば、英語は、発音とスペルが一致しない言葉が多いので、低学年からの作文指導はできません。
低学年の作文指導は、日本の教育の大きな特徴になっています。
ところが、
この作文指導が、小学校高学年、中学生、高校生になるとあまり行われなくなります。その理由は、赤ペンの添削に時間がかかるからというのがたぶん最も大きな理由です
しかし、それでも赤ペンに効果があるのならいいのですが、実はそうでもないのです。
赤ペンの添削は、子供の作文の場合は特に、病気になったときの対症療法と似ている面があります。あちこちにできているニキビや吹き出物に次々と薬をつけているが、いつまでたっても新たに悪いところが出てくるので治らないという感じなのです。
子供の作文を上達させるということから考えると、この対症療法的な指導ではなく、もっと根本的な指導が大事だということは、多くの先生が漠然と感じています。
ところが、赤ペンがびっしりと書かれていると、何か充実した指導が行われているような感じを受けます。実際、先生が手間をかけるので充実していることは確かですが、それが指導の成果に結びついているかということになると、そうではないのです。
このため、学校などでも、先生は、自分の担当する30人から40人の生徒に対して、みんなにコメントを入れてあげたい、しかし、それでは、時間がかかりすぎて他の指導ができなくなる、というジレンマに置かれています。
かつて教育法制化運動の作文指導法の一つとして、提出された作文には、大きく花丸をつけて返す、というだけの教え方が提案されていたことがありました。これは、赤ペンを入れるのに手間がかかるから何もしないというよりも、ただの花丸だけでもいいので、子供たちに作文を書かせることが大事だという考えから来た指導法です。これは、一つの卓見です。
しかし、
花丸をつけて返すだけよりも、本当は森リンなどの自動採点ソフトによる評価をつけて返せば、もっと身のある指導ができます。生徒がパソコンで入力したものを、自動採点ソフトで評価して返すという形です。この方法はすでに、アメリカではいくつかの州の公立高校の単位で行われているので、やがて日本でも採用されるようになると思います。
さて、言葉の森以外の作文教室教室では、びっしりと書かれた赤ペン添削というものをセールスポイントにしているところもあります。赤ペンを入れるというのは、一見やりやすい指導のように見えますが、こういう形の指導を続けて1年も経つと、その子に何をどう教えて、その結果どうなったのかということがつかめなくなり、やがて継続した指導をすることができなくなっていきます。
言葉の森では、
作文に対する赤ペンは、指導にとっては付随的なもので、指導の中心は、あくまでも事前に与えられた課題と項目と構成に基づいたアドバイスだと考えています。
赤ペンによる添削を講師の側から考えると、多数の生徒の作文を読んで赤ペンを入れるというのは、実はかなり精神的に疲労する作業です。なぜかというと、短い文章を次々と読むというのは、長い文章をまとめて読むのとは違う難しさがあるからです。ちょうど、加速してすぐに停止する渋滞の道路で車を運転しているような感じの読み方というと感じがわかると思います。長いひとまとまりの文章を読むのに比べて、異なる短いテーマの文章を次々と読むのは、人間の感覚として自然な読み方ではないのです。
また、赤ペンの添削はどうしても直すところに意識が向きがちです。欠点を指摘して直すという見方でものを見ている状態は、これも実は読む人を疲労させます。ですから、言葉の森の赤ペン添削は、誤字をひととおりチェックして直したあとは、基本的に褒めることを中心に書くようにしています。
赤ペンに教育的な意義があるとすると、それは、子供がそれを見て喜ぶという効果です。赤ペンは、子供にとって、先生から個人的な手紙をもらったという感じのメッセージになるからです。
赤ペンは、勉強の指導というよりも、交流、共感、対話、コミュニケーションという意味を持つ手紙のような役割を持っています。
そこで考えたのが、指導と対話を分離することです。
言葉の森の指導は、数ヶ月の大きな方向を指し示して、その方向に沿って毎週小さなチェックを行うようなシステムになっています。
指導法の特徴の一つは項目指導で、もう一つは電話指導です。将来は、インターネットの活用による生徒どうしのコミュニケーションも指導の重要な要素になると思います。
電話で毎週先生が指導するという方法がとれるので、先生が生徒の作文に対して書く講評は、この電話指導のメモとして使う形になります。
講評というと、それ自体が指導と考えられがちですが、そういう要素はあまりありません。ですから、講評を生徒が読まなくても全く問題はありません。先生が電話を通して、その講評の内容を子供にわかるように伝える仕組みになっているからです。
このような特徴を生かしながら、
指導と対話を分離して実現していくという方法を現在考えています。
対話というのは、生徒と先生の人間的な触れ合いです。しかしこの触れ合いを赤ペンを通して行うのでは、指導と対話の境界がはっきりせず、赤ペンを書くのに負担がかかりすぎるようになります。
指導は、必要なことを簡潔に伝えることが大事ですが、対話は、たっぷり時間をかけること自体が重要になるからです。
教育で大事なことは、長続きする教育ですから、教える側にも負担がかからない、しかし教わる側には触れ合いがあるというような工夫をしていくことが必要になります。
シュタイナー教育は、人間の触れ合いを大事にしている優れた教育法ですが、教える側の手間がかかりすぎる面があります。それは、教師が教育のすべてを担うという専門性を持ちすぎているからです。手間がかかるということは、結局、世の中に普及させにくいということです。
昔の日本の子育ては、父親も母親も多忙な生活を送る中で、子供どうしの遊びや地域の行事や家庭の文化がそれぞれ高度な教育力を持っていました。子供は、日本の社会や文化の中で自然に多くのことを学び、親はそれをときどきチェックするというような関係だったのです。
これは、寺子屋のような教育機関でも同じです。先生がすべての生徒に対して専門性を発揮して面倒を見るのではなく、生徒どうしの関係や教育カリキュラムの流れが自然に教育力を発揮していたのです。
福沢諭吉の自伝に、そのあたりの事情が垣間見られるエピソードがあります。諭吉がオランダ語を学んでいたころの塾の様子は、(1)生徒が定期的に先生の前でオランダ語を訳す、(2)その出来具合によって勉強しやすい場所に自分の席を確保することができる、(3)上の生徒が下の生徒を教える、という仕組みになっていたようです。
今後の教育には、生徒どうしの交流と、家庭と講師との連係プレーによる親・子・講師三者の触れ合いという二つのことを考えていく必要があると思っています。
そのための具体策を今考えているところです。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
(急いで書いたのでうまくありません)
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