昨日に引き続き、ジュリアン・ジェインズの話です。
彼は、面白い実験を提案しています。まず何でもいいから、自由な話題を数分間喋り続けます。それはだれにでもできます。そして、そのあと、同じように自由な話題を数分間歌い続けるという実験をします。しかし歌で喋るということは、すぐにできなくなります。歌に意識を向けると同じ言葉を繰り返すようになるか、逆に言葉に意識を向けると歌のようなメロディーにならなくなるからです。
つまり、
言語は、左脳で処理しているに対し、イメージやメロディーやリズムは、右脳で処理しているため、歌に話題を載せるという作業は、左脳と右脳に意識を交互に向けなければならなくなるから難しいのだと言うのです。
では、決まった歌詞のある歌はどうかというと、これは、言葉ではなく歌として右脳が把握しているので、歌うことができるのだと言います。脳出血などで左脳の言語中枢が使えなくなったとき、言葉を喋れなくなった人が、歌は歌うことができると言われています。
ジュリアン・ジェインズは、歌に言葉を載せるという練習を子供のころからしていてそれが自由にできるようになれば、左の言語脳が使えなくなったときも、歌で喋ることができるようになるのではないかという面白い提案をしました。たぶん、彼はこの実験を自分なりにしたのではないかと思います。
私は、同様のことが、暗唱についても言えると思いました。
暗唱をしていると、だんだんと言葉を喋っているというよりも、詩または歌を喋っているような感覚になります。
つまり、言葉の意味を把握するという左脳的な意識がないままに、言葉を発声しそれを聞くという行動を繰り返すので、言語をつかさどる左脳が、暗唱をしているうちに働くのをやめて休んでしまうのだと思います。
言語を処理する左脳が休んでいるのに、言語的な動作が続くとなると、相対的にイメージや音楽を処理する右脳が優位になります。このことによって、右脳のイメージ化された認識の仕方が、左脳の言語脳に生かしやすくなるということが言えるのではないかと思います。
私自身、毎日10分間の暗唱をするようになってからイメージが豊富にわいてくるようになった気がします。
具体的には、普段A4サイズのノートにいろいろなことをを記録していますが、それが暗唱を始める前は例年1年間で1000枚ぐらいを使っていました。ところが、暗唱を始めるようになってから、約2倍のペースでノートがなくなるようになりました。今、6月の時点で既に1000枚を超えています。
これまでの教育は、読む学力を育てることが中心でした。読んだものを理解してその知識をテストするような勉強なので、読んで内容を理解すれば勉強は終わりという学力でした。
ところが、これからは、読んだものをどのように生かすかということが大事になってきます。これを、書く学力と言ってもいいと思います。
読んだものを読んで理解することにとどめずに、新しいものを創造することに結びつけるような学力がこれから求められてくるということです。
この創造の一つの方法として、暗唱によるイメージ脳の活性化は大きな役割を果たすようになると思いました。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
ジュリアン・ジェインズの「神々の沈黙」は、意識と言語の起源について、心理学、生理学、歴史学、哲学、文学を駆使して大胆な仮説を立てた著作です。この中で、著者は、比喩は言語の本質であり、ひいては意識の本質であるというようなことを述べています。
これは、私たちが考えても、確かに納得できるところがあります。
初めて声を発することができるようになった原始時代の私たちの先祖たちは、大きいトラが「ウォー」を吠えるのを見て、その大きさを「オオ」という言葉で表したかもしれません。また、小さなネズミが「チーチー」といいながら逃げるの見て、その小ささを「チイ」という言葉で表したかもしれません。そして、仲間に何かを伝えるとき、例えば、向こうの山には大きいクリの実がなっているが、こちらの山には小さいクリの実しかなっていないというときに、向こうの山を指さして「オオ(きい)」、こちらの山を指さして「チイ(さい)」と言ったのだと思います。
トラやネズミの大きさをクリの実の大きさにたとえるというこの比喩が言語のもともとの姿です。
比喩は、現代でも、日々新しい言葉を生み出しています。例えば、雨の降り方を表すのに、「滝のような雨」「糸のような雨」「横殴りの雨」など様々な表し方があります。大味の概念を微妙な差のわかる概念にまで細分化することが比喩の役割です。
この比喩と似た効果を持つものに名言があります。例えば、「民主主義は教科書には書かれていない」という言葉があります。民主主義は、出来上がった形で与えられているものではなく、自分たちが日々試行錯誤の中で作っていくものだという意味です。「○○はAではなくBである」という表現によって、思想の輪郭をはっきりさせるというのが名言の役割です。
比喩や名言と同様な役割を果たすものに、もう一つダジャレがあります。ダジャレの発想は、比喩と同じです。
面白いダジャレを考えることができる能力は、個性的な比喩を考えることができるという能力に比例しています。
この比喩や名言がやがて、ことわざや故事になり、次第に陳腐になり、やがて新鮮さも陳腐さも消えて新しい概念または新しい言葉として定着していきます。
こう考えると、人間の言語の歴史は、それほど古くはありません。これからも次々と比喩が生まれ、その比喩が新しい言葉になり、新しい言葉がますます増えていくという言語の歴史が予想されます。
ところで現在でも、比喩をうまく使える子と、ありきたりの形でしか使えない子とがいます。この差はどこから来るかというと、やはり語彙に対する習熟度の違いから来ています。言葉を自分の手足のようによくなじんだ形で使える子は、面白い比喩を作ることができます。しかし、言葉を不便な道具のように使う段階の子は、まだうまく比喩が使えません。
語彙力の差は、読む力の差として表れてきます。漢字の書き取りの力は、書き取りの練習量に比例しています。しかし、漢字の読みの力は、練習量よりもむしろ読書量に比例しています。
大学入試センター試験では、語彙を問う問題が毎年出ています。
この語彙の問題を正しく答えられる人は、本をよく読んでいる人で、正しく答えられない人は本をあまり読んでいないということがわかります。
この差は通常の勉強の差と違って、読書の蓄積の差なので、短い時間では埋めがたいものがあります。
センター試験の問題では、こういうものがあります。
(問)名状し難い
1.言い当てることが難しい
2.名付けることが不可能な
3.意味を明らかにできない
4.何とも言い表しようのない
5.全く味わったことのない
答えは4
(問)気の置けない
1.気分を害さず対応できる
2.遠慮しないで気楽につきあえる
3.落ち着いた気持ちで親しめる
4.気を遣ってくつろぐことのない
5.注意をめぐらし気配りのある
答えは2
(問)是非に及ばない
1.言うまでもない
2.話にもならない
3.善悪が分からない
4.やむを得ない
5.判断ができない
答えは4
ほかに、「老成した」「率先垂範」「のっぴきならない」「小康」「固唾を呑んで」などの語彙を問う問題もあります。これらは国語の勉強というよりも読書の中で自然に身につくものでしょう。
これらの語彙を自然に知っているということが、比喩を上手に使う力と結びついているのです。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)