↑ 夜明け前の東の空
未来の社会で、これから求められる学力を考えてみました。
これまでの社会では、限られた入学定員と固定的な社会の階層構造の二つの条件から、知識力を中心とした入学試験が行われていました。その試験に合格すれば、よりよいパスポートが手に入るというような社会の仕組みになっていました。
しかし、本当は、人間の知識力に点数で差がつくような違いがあること自体がおかしいのです。学校の成績が5段階評価などで分けられるということに、多くの人は慣れて当然のように考えていますが、
本来は、ほとんどすべての子供が全教科満点になるような教育をするべきなのです。そして現在、教育技術の発達によって、人間どうしの知識力の差は次第に少なくなっています。やがて、知識の差でテストをするような競争に意味がなくなり、みんながよい成績を取れる社会がやってくるでしょう。
そして同時に、将来は限られた入学定員ということに意味がなくなるような社会が到来します。それは、インターネットの発達によって、学ぶ場所と時間という制約が大幅に緩和されるからです。そのような時代に、どのような評価が人間に対して行われるのでしょうか。
これからの知識産業社会の中では、どんな職業でも知識が必要になります。しかし、だからといって、知識が人より多ければ有利になるというわけではありません。それよりも、
人格力がその人の評価を決めるというような社会になってきます。人格力とは別の言葉で言えば、勇気や知性や愛や思いやりに溢れた人間であるという力です。そして、これは江戸時代に多くの寺子屋教育によって目指されていた教育の目的でもありました。歴史は一巡して、江戸時代の教育の原点に再び戻るような時代になっているのです。
しかも、未来の社会では、江戸時代のころの人格力にとどまらない、より豊かな学力を可能にする条件が生まれています。それは、自由な政治体制と、活力ある産業社会の中で、人間が創造力と表現力を発揮して、自分の個性を社会の貢献に結びつけることのできる社会という条件です。
現在の英語、数学、国語、理科、社会などの教育は未来の社会でももちろん続きます。しかし、それらの学力で試験の点数をつけるというようなことに意味がなくなり、誰でもどの教科にも満点近い成績を取れるような社会がやってきます。そのような時代に必要な
本当の学力として、人格力、創造力、表現力を育てていくことを今から考えていく必要があると思います。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
↑ 池で遊ぶ、言葉の森の文鳥サクとブン(適当な名前ですが)
作文指導をしていて感じることが三つあります。
一つは、ほとんどの子が指導の初期に、見違えるほど上手になることです。苦手だった子がどんどん書けるようになるということで、先生も本人も感動する時期があります。
もう一つは、しかし、ある時期から進歩が停滞する子と、進歩が続く子がいることです。これは、あとで述べます。
そして、第三に、どんなに進歩が見えないような子でも、長く続けていると、必ず書くことに抵抗がなくなり書くことが好きになることです。
さて、
問題は、停滞する子と進歩する子の差です。その差は、ひとことで言えば読む力の差です。その学年にふさわしい読書をしている子(又は、音読や暗唱をしている子)は、その学年にふさわしい上達をしていきます。しかし、例えば、小学生のころは本をよく読み作文が上手に書けていた子でも、中学生になって中学生のころにふさわしい読書をしなければ、中学生としての作文力は伸びません。作文に要求される語彙力や思考力は年齢に応じて高くなっていくので、年齢に応じた読む力を育てていく必要があるのです。
読む力を育てるためには、これまでは多読と難読しかありませんでした。
本をたくさん読んでいる子、難しい本を読んでいる子は、例外なく読む力があり、考える力があり、作文も学年に応じて上達していきます。しかし、本をあまり読まない子に、「たくさん読みなさい」と言っても、「はい、そうですか」と読むようにはなりません。同じように、やさしい本ばかり読んでいる子に、「もっと難しい本を読みなさい」と言っても、すぐに読めるようにはなりません。
多読と難読は、正しい方向なのですが、それを実践する方法が漠然としていて実行できる人がほとんどいないのです。
そこで、多読と難読を補完するものとして考えられるのが暗唱です。
暗唱は、単なる音読ではありません。
目で文字を追いながら読む読み方と、空で読む読み方とでは、頭脳の使い方の質が違ってきます。暗唱で読んで、自分の手足のように自由に使える文章になったときに、初めてより深い理解力と表現力が育ちます。
また、暗唱は、単なる記憶ではありません。記憶力を育てるという発想をすると、記憶術のような方法で能率よく覚えた方がいいという考え方も出てきます。
文章を覚えることが目的なのではなく、文章を丸ごと把握する力をつけることが暗唱の目的です。
多読や難読が自然にできている子でも、暗唱の習慣をつければ更に理解力と表現力が高まります。多読や難読ができていない子では、暗唱以外に読む力をつける方法はないと思います。
作文の指導を一本の木を育てることと考えると、作文そのものを指導するのは枝葉や花を手入れすることです。読む力を育てるのが根を育てることです。受験までに時間がないというときは、枝葉だけの手入れだけで間に合わせるしかありませんが、長い目で考えれば、やはり根を育てることに力を入れていくことが勉強の王道です。
家庭でどのように暗唱と読書を定着させるかというと、毎日の生活時間に組み込むのがいちばんいい方法です。朝起きたら、まず音読や暗唱をしてから(場合によってはそのあとゲームを15分してよいことにしてから)朝ごはんを食べるようにします。そして、勉強が終わって夜寝る前には、読書を50ページ以上してから(そのあと、遊んでもいいし、そのまま読み続けてもいいし、寝てもいいということにして)自由に過ごすようにします。朝起きるときと、夜寝るときは、どんな日でも同じように過ごすことができるので、毎日の習慣を作るには最適の時間帯です。
勉強で最優先するのは、この音読、暗唱、読書です。
それ以外の勉強が何もできなくても、暗唱と読書だけは続けるという生活をしていけば、学力の土台はしっかりできます。この学力の土台ができた子は、いざ受験などで勉強する必要ができたというときになると、塾や予備校に通わなくても自力で成績をどんどん上げていきます。
作文力をつけるための読む勉強は、同時に学力全体を高めるための勉強にもなっているのです。