[2] 作文の総合点です。この総合点から、表記ミスや項目不足の減点をした点数が作文検定の点数になります。
[3] 作文の字数です。改行などによる空白を入れない正味の文字数です。
[4] 思考語彙の点数です。考える語彙が豊富な場合は高得点になるので、作文のジャンルによって大きく異なります。一般に生活作文が中心の小学生の場合は点数が低く、論説文が中心の高校生の場合は点数が高くなります。
下の棒グラフは、全体の点数の分布と自分の点数の位置を表しています。(グラフについては、以下同じ)
[5] 知識語彙の点数です。複雑な概念を表す言葉が多いと高得点になります。一般に、小学生では点数が低く、高校生では点数が高くなります。
[6] 表現語彙の点数です。語彙の多様性を表しています。実例の種類を広げたり、言い回しの仕方を工夫したりすることによって点数が高くなります。
[7] 総合点の位置と思考語彙、知識語彙、表現語彙の点数の位置を表しています。
総合点は、字数、思考語彙、知識語彙、表現語彙のバランスによって決まります。
[8] 思考語彙、知識語彙、表現語彙をイメージ化したものです。ひし形の縦と横の長さが同じに近いほどバランスが取れています。
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小5と小6の10.1週の長文で、フランス語とスペイン語の読み方にふりがながついていませんでした。
下記のように読んでくださるようお願いいたします。<(_ _)>
ordinateur(フランス語)→オーディナトゥール
ordenador(スペイン語)→オルデナドール
(いずれも、計算機やコンピュータという意味)
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通学の港南台教室で、長文の900字暗唱に挑戦しています。これは、300字暗唱を3回続けるだけですから。300字暗唱が1週間でできていれば、900字も簡単にできます。
ただし、900字をただ単に覚えようとするだけではやはり大変です。どこが難しいかというと、なかなか覚えられないような気がするという意識がブレーキになって、なかなか進まなくなるのです。しかし、イメージ記憶を活用すれば、これも簡単です。
港南台教室では、9月から900字暗唱を始めましたが、10月にはほとんどの人ができるようになるはずです。
中学生以上は、暗唱が他の分野にも応用できることを実感してもらうように、最初は英語の長文で暗唱をすることにしました。これも、暗唱用紙を使った方法であれば、毎日10分でそれほど苦労せずにできるようになると思います。
さて将来、この暗唱力を作文発表会に生かしたいと思っています。もうだいぶ前になりますが、昔も通学教室で発表会をしていたことがあります。それは自分の作文をみんなの前で読み、お互いに遊びで投票するというスタイルでした。
新しい発表会では、原稿を読むのではなく、暗唱して行う形で行います。暗唱という形にすると、読み方にいろいろな工夫ができるようになります。例えば、その作文に関係のある絵や写真を4こまほど用意し、それをプロジェクターで大きく映しながら発表することができます。また、暗唱の背景に、自分が選曲したバックグラウンドミュージックを流すこともできます。
1200字の作文なら3分で発表できますから、
1時間で約20人が映像と音楽を背景に自分の作文を暗唱で次々と発表するというのはなかなか壮観だと思います。
900字暗唱をみんなが楽にできるようになれば、いずれこのような発表会を企画したいと思っています。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
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■新しい教育のブルー・オーシャン
ブルー・オーシャンとは、まだだれもいない海、レッド・オーシャンとは、既に多くの人が競争を繰り広げている海のことです。
これまでの教育の大きな目標は、受験でした。しかし、受験が高度化し、競争が高度化するにつれて、学校教育や家庭教育だけでは不足するようになり、学習塾が子供たちの勉強をカバーするようになりました。
初期のころの学習塾は、学校と同じ集団指導教育を行っていました。しかし、やがて、集団指導教育よりもきめこまかく専門化された指導を行う個別指導教育が、集団指導教育に取って代わるようになってきました。
しかし、集団指導教育も個別指導教育も、その前提にしているものが受験教育であるという点では共通しています。これからの社会に求められる教育は、受験を前提にした教育の先にある、新しいブルーオーシャンの教育です。
では、ブルー・オーシャンの教育の特徴とはどういうものでしょうか。
第一は、スモールステップの教育ではなく、丸ごとすべてを把握するようなスタイルの教育です。
第二は、複雑な教材やカリキュラムではなく、単純な教材やカリキュラムによる教育です。
第三は、豪華で複雑な教材やシステムではなく、シンプルな教材やシステムを使った教育です。
第四は、ベテランの指導者でなければ教えられないような教育ではなく、学力さえあれば、新人でもすぐに教えられるような教育です。
第五は、高価格の教育ではなく、低価格の教育です。
第六は、成績アップという成績をよくするための教育ではなく、学力アップという頭をよくするための教育です。
第七は、規律的で規則的な雰囲気の教育ではなく、自由で楽しい雰囲気の教育です。
第八は、脱家庭で塾任せの教育ではなく、家庭との連携を密にした教育です。
勉強の目的は、よりよい人生を送ることです。受験に合格するために成績をよくするということを目的にするのではなく、頭をよくすることを勉強の目的にすることで、受験はもちろん人生にも通用する学力をつけることになるのです。
■小学校時代につけるのは、理解力と表現力
これまでの学力は、おもに知識の力をつけることが中心でした。そのため、テストと競争という方法で、費やした時間によって成績を上げるということが、勉強のスタイルになっていました。
しかし、最初は効果を上げていたその方法も、やがて弊害が次第に目立つようになってきました。
第一は、テストや競争がなければ勉強しないという子供たちが出てきたことです。
第二は、勉強漬けの生活に飽きて勉強そのものに飽きるような子供たちが増えてきたことです。
第三に、勉強に追われることに慣れてしまい、創造的な勉強を知らず、勉強というのは退屈なものだという思い込みを持つ子が多くなってきたということです。
これからの時代に必要な学力は、知識中心の学力ではなく、理解力と表現力を中心とした学力です。知識と技能は、基礎的なものが身についていれば十分です。
理解と表現に重点を置く勉強であれば、小学校時代はのびのびと勉強できます。そして、理解力と表現力の実力をつけた子供たちは、中学高校と学年が上がるにつれて学力も成績も向上していきます。
小学校時代は、成績を上げるのではなく、頭をよくする学習を中心にしていくことが大切で、そのための勉強が理解と表現の勉強です。
訓練しなければ解けないような難しい問題を短時間で解く練習に力を入れるよりも、文章を読んで内容を理解し、自分の考えを文章で表現するというごく普通のことをしっかりやれる力をつけていくことが小学校時代の勉強として大切なのです。
■国語力は、学力のすべてに影響する。
これからの学習に必要な理解力の中心になるものは、日本語の文章を理解する力、つまり広い意味での国語力です。
国語力の本質は、実は日本語による思考力です。決して文学的なセンスや好みに左右されるような学力が国語力なのではありません。
従って、国語が得意であれば、英語も当然得意になります。国語が得意で英語が苦手だというのは、ただ単に英語の勉強を正しくしていないからです。特に、大学入試のようなレベルになれば、英語力は更に国語力に影響されてきます。逆に、国語力のない人は、大学入試になると、英語が伸び悩むようになってきます。
また、国語力があると、数学も当然できるようになります。国語が得意で数学が苦手だというのは、数学の勉強の仕方を正しく理解していないからです。考える力というものは共通なので、国語力があれば、数学が一時的に苦手であっても、勉強の仕方さえわかるとすぐに成績が上がるようになります。これとは逆に、数学の得意な子が、自然に国語も得意になるということはありません。
また、社会に出てから生きてくる能力は、他の人の意見や資料を読み取る力と、自分の考えを多くの人に表現する力です。国語力は社会に出てから更に重要になってくるのです。
■国語力は、これで完璧
数学の勉強法は、難問の解法をマスターすることです。解法の蓄積によって、新しい問題に対しても解き方が思いつくようになるというのが、数学の成績がよくなるということの意味です。
しかし、国語は、問題の解説をいくら理解しても国語力を蓄積したことにはなりません。それにもかかわらず、国語の勉強というと、問題集の問題を解いて解説を読むというような勉強の仕方をしている人が多いのです。
問題を解いても国語の力はつきません。逆に、問題を解く形の勉強は時間がかかるので、肝心の国語力をつけるための勉強ができなくなります。
国語力をつけるための勉強とは、一言でいえば読む勉強です。その学年にふさわしい良質の文章を読むことが国語力をつけるいちばんの近道です。
実際に、このアドバイスをもとに国語の文章を読む練習をした子は、必ず国語の力をつけています。国語は成績を上げにくい教科だと言われていますが、読む勉強によって国語の成績を上げ、大学入試でも国語だけは自信があるというようになった人もたくさんいるのです。
■国語力だけでなく、読書力、作文力をつける
国語力は、学校時代に必要な学力です。しかし、大学生や社会人になると、国語のテストに表れるような国語力ではなく、より幅広い国語力としての読書力が必要になってきます。
読書力があれば、大学を卒業したあとも、社会人にふさわしい国語の実力が向上します。しかし読書力がないと、高校時代や大学時代が国語力のピークだったということになってしまいます。
読書力とは、幅広いジャンルの難しい本を読みこなす力です。この読書力を学生時代の間につけておくことが大切です。
また、読書力とセットになる作文力について言うと、今の学校では作文を学習する機会がきわめて限られています。小学校低中学年のころは作文指導がありますが、小学校高学年から中学生、高校生と学年が上がるにつれて、今の指導体制では作文の指導は物理的にできなくなってきます。
そこで、子供たちが社会人になって文章を書く必要に迫られたときに、途方にくれてしまうということも出てくるのです。
名文を書く必要はありませんが、他人に伝わるような文章を書くことにおいて自信があるということは、社会生活を送る上できわめて大切な能力になってきます。
単に国語力をつけるのではなく、一生にわたって生かせるような読書力、作文力を育てることに結びつけて国語力をつけることが大切なのです。
■小学校時代に始めれば、中学、高校と学年が上がるほど学力が伸びる
小学校時代の勉強は、小学生のときの成績を目標にするものではありません。小学校のときの成績だけを考えると、どうしても時間をかけすぎた勉強になります。小学校の成績ではなく、中学、高校になったときの土台を作ることを主な目標にしていく必要があります。
中学、高校の土台を作るために小学校時代は頭をよくしておく時期だと考えると、小学校のころは余裕のある勉強ができるようになります。そして、小学校の時期に頭をよくしておけば、中学、高校と学年が上がるにつれて成績が向上していきます。
小学校時代に勉強で消耗していない子は、学年が上がっても新鮮な気持ちで勉強を続けていくことができます。また、読む力や考える力があると、学年が上がり勉強の内容が難しくなるほど成績がよくなっていきます。
逆に、小学校時代に知識の再現を繰り返すような勉強をしてきた子は、考える習慣がつかないので、学年が上がり勉強の内容が難しくなると、次第に成績が低下してきます。
現代は、多くの家庭が核家族で、祖父母からの長い人生経験を学ぶ機会がありません。また、地域社会がなく、学校や家庭を中心とした人間関係の中では、同年齢かその前後の子供たちの話しか目に入りません。
そのため、狭い範囲で密度の濃い情報に囲まれていると、どうしても目先の結果に左右されるような考え方を親も子も持ってしまうのです。
しかし、こういうときだからこそ、大きな歴史的視野で、子供の長い人生を考えた教育を行っていく必要があるのです。
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■世界の歴史の大きな流れ
まず、世界の歴史の大きな流れをとらえ、次に日本の教育の大きな流れを把握し、最後に、具体的な学習の方法について述べていきたいと思います。
世界のここ数百年の歴史を産業の歴史という点から見ると、大きく三つのステージに分けられます。一つは中世の身分制社会です。もう一つは近代の工業化社会です。そして、最後は、今やって来つつある知識産業社会です。
アメリカは、一足先に工業社会を脱して、知識産業を社会に突入しました。しかし、アメリカの知識産業社会は、国内での所得格差の進展と並行して成り立ったために、特殊な発展の仕方をしました。
パワーエリートと呼ばれる少数の高学歴・高所得のグループは、知識産業社会の中で、新しい大衆サービス産業、IT産業、金融産業を発展させました。一方、社会の大部分を形成する大衆は、スポーツ界や芸能界でアメリカンドリームを目指す一方、ほとんどの人は、絶えず低賃金化する傾向にあるサービス業の労働者として働くという道を選ばざるを得ませんでした。
そのため、アメリカでは、製造業の新しい産業は宇宙や軍事以外はあまり発展せず、ある歪みを持った金融産業が社会の主要な地位を占めるようになったのです。
現在、工業社会を担っているのは、日本をはじめとする西ヨーロッパの諸国です。しかし、日本が、格差の少ない知的な大衆によって形成される平等社会であるのに対して、ヨーロッパは少数のエリートと多数の大衆によって形成される階級社会です。従って、ヨーロッパの社会が工業社会を脱して行き着く先は、アメリカと同じような形態にならざるをえません。老いたヨーロッパには、もはや新しい知識産業社会を創造する活力はないのです。
また、近代工業社会に新たに参入しようとしている中国を初めとするBRICs諸国も、少数のエリートと多くの大衆によって形成される格差の大きい社会です。そのため、これらの国の工業立国の形態は、低賃金を生かした海外輸出か、国内の耐久消費財をもとにした内需拡大かという道になっています。日本のように均質で良質な労働力に支えられた高度な工業国に発展するのは難しいのです。
アメリカ型の金融産業社会に、未来の世界を支えるビジョンは感じられません。一方、そのあとに続くヨーロッパやBRICs諸国の工業社会にも未来の展望は感じられません。日本がこれから進もうとしている未来の社会は、国民の大部分を占める知的な大衆によって支えられた新しい知識産業の社会です。それは、大衆的なレベルでの多様な文化的需要によって、新しい価値ある産業が生まれるような文化産業社会です。
■日本の教育の大きな流れ
寺子屋教育に代表されるような日本の中世の身分制社会における教育は、その身分に適応した生活教育と、人生論の一般的な教育が中心でした。従って、教育の到達目標というものはなく、実際の生活に役立つ範囲で成果があるというような学習であり、勉強の基本的なスタイルは、自主的な楽しい雰囲気の学習でした。
これに対して、明治時代から始まった、近代工業社会に対応するための教育は、規格にあった人間を大量に作り出すための教育であり、到達すべき目標がはっきりと決まっている教育でした。
この目標としての規格を達成するための方法として、テストと競争が重視されました。この発想は、もちろん今でも続いています。ところが、日本人の研究熱心さと大衆的な進学志向により、競争のノウハウが次々に高度化されていき、それに伴ってテストも高度に瑣末化するという循環が生まれました。このために現在、教育は、かけた金額やかけた時間に比例して成果が上がるようなものになっているのです。
競争の高度化とテストの瑣末化の結果、勉強の方法が細分化され、スモールステップ教育が、教育方法の主流となりました。このスモールステップ教育は、資本主義の論理と結びつき、ステップが細かいがゆえにGDPを押し上げるという効果をもたらしました。その結果、高付加価値化、複雑化、専門化、高額化、細分化というようなスタイルの教育が広がっていったのです。
ところが現在では、苦労して高学歴を手に入れても、昭和初期までのようなエスカレーターが社会に用意されているわけではありません。ほとんどの人は、社会でもさらに過酷な競争に参加せざるをえません。一方、自由な職業と思われている医師や弁護士や教師においても、年々競争が厳しくなり、またそれらの仕事が本来持つはずの喜びも、確かなものではなくなっています。
しかし、だからといって、日本の社会は、学歴や定職のない人が個性だけで一旗あげることができるような社会ではありません。アメリカの社会でアメリカンドリームが可能なのは、同じ境遇の人が大きな層を形成しているからです。日本人の大多数は、学歴や定職に基づく社会に属しているので、そこから離れたジャパンドリームというものが生まれる余地はほとんどありません。
しかし、ここに実は日本の未来の可能性があるのです。今後考えられることは、日本人の高い学力を土台にした、知的な大衆による新しい多様な文化が生まれるということです。
かつて日本には、剣道、華道、茶道などの世界に類を見ないユニークで洗練された文化がありました。このような新しい文化がこれから日本の社会に生まれてくるということです。そのために、これからの勉強は、高い学力と豊かな創造性を両立させるようなものになることが求められているのです。
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長文暗唱の自習をするとき、低学年では最初のうち、お母さんの助けが必要なことがあります。
そのときの教え方で、よい例とよくない例を紹介します。
この教え方は、あらゆる家庭学習に共通しています。
よくない教え方 | よい教え方 |
| 子供の反応 | |
「さあ、長文の暗唱をするよ」
(暗く、いかにも苦しい勉強が始まるかのように言う) | 「さあ、長文の暗唱をするよ」
(明るく、いかにも楽しいことが待っているかのように言う) |
| 「えー! なんで」
(いやそうに) | |
「なんでかというとね……」
(くどくどと説明する) | 「はい、大人が子供のために言っていることに『なんで』なんて言わないの」
(あっさり) |
| 「なんで、○○○なの」
(と更に続く) | |
(更にくどくどと説明する)
「さあ、この100字を読んでみて」 | 「ほら、『なんで』って言わないの(笑)」
(子供の理屈につきあう必要はありません。ただし、子供が心から疑問に思っていることについてはしっかり説明します)
「さあ、この100字を読んでみて」 |
| 「○○○、○○○○○」
(だらだらと読み、ときどき読み間違いがあるが気がつかない) | |
「そこは、○○じゃなくて、□□でしょ」
(と注意してしまう) | 「あ、じょうずに読めたね」
(注意はせずに、感心して褒める) |
| 「○○○、○○○○○」
(何度も同じところを読み間違える) | |
「ほら、○○じゃなくて、□□でしょ」
(そのつど注意してしまう) | 「じょうずに読めるね」
(注意は全くせずに、ただ感心して褒める) |
| 「ねえ、まだやるの?」
(いやそうに言う) | |
「そうだよ。これをしなきゃ読む力がつかないから」
(真面目に返事をする) | 「はい、続けて言ってみよう(笑)」
(子供の言葉にはとりあわず、単純に明るく続けさせる) |
| 「○○○、○○○○○」
(いやいや読み出し、また読み間違える) | |
「ほら、しっかりやらなきゃいつまでたっても……」
(真面目に注意する) | 「ようし、どんどんじょうずになってきた」
(注意は一切せずに、感心したように褒める) |
| 「ねえ、まだやるの?」
(たまに、思い出したように言う) | |
「そうよ。これを読んでいたら、勉強ができるようになるんだから」
(そのつど真面目に答える) | 「はい、あと10回ぐらい。がんばろう」
(子供の言葉にはとりあわず、明るくスポーツの練習のように続けさせる) |
| 「○○○、○○○○○」
(何とか30回読み終わる) | |
「ほら、がんばってやればできるんだから」
(いかにも苦しいことがやっとできたかのように言う) | 「ようし、できた。じゃあ、見ないで言ってみよう」
(いかにもできて当然だったかのように明るく言う) |
| 「○○○、○○○○○」
(ところどころ間違えながら暗唱する) | |
「うーん、ちょっと○○のところが違ったけどね」
(できなかったところを一応注意する)
(親も子もくたびれる)
(翌日も真面目にやる)
(だんだん負担になってくる)
(親子げんかになる)
| 「すごい! よくできた。この調子」
(注意は一切せずに明るく褒める)
(親も子もさわやかな達成感)
(翌日もスポーツのように明るくやる)
(いつの間にか力がつく)
|
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小6の保護者の方から、「自由課題のときはよくできたのに感想文になると難しくなった。特に要約がなかなかできない」というご質問をいただきました。
以下は、そのお返事です。
書きにくいときは、教室にお電話をしてくだされば、更にわかりやすく説明します。
要約は、小学6年生では実はかなり難しい作業です。じっくりやろうとすると、ほとんどの子は、かなり長い要約になってしまいます。しかし、この長い要約になってしまう子は、実は国語力のある子なのです。
要約ができるかどうかは、年齢的な問題ですので、今は苦労しているように見えても、学年が上がるとずっと楽にできるようになってきます。
小6の要約では、内容を把握して大事なところを抜き出すというような高度なことを要求してもほとんどの子はできません。
要約らしい外見を整えるために、長文全体の始め、中、終わりから一文ずつ抜き書きするということで十分です。
いわゆる三文抜き書きという形で、要約らしい雰囲気を作れればいいということです。学年が上がり、文章を構造的に読む力がついてくると、その要約らしい外見に内実が伴ってきます。
このやり方であれば、どんな子でもほぼ百パーセント、要約ができるようになります。
これは、小4の段落指導も同じです。内容の変わるところで段落をつけると言っても、ほとんどの子は「内容が変わる」というあいまいなことを理解できません。そこで、言葉の森では、文が三つ続いたら段落にしておくというやり方をしています。
三文で段落にするという外見の形が自然にできるようになると、やがて子供自身が、「これ、三文じゃないけど、こっちで段落にしていい?」と聞いてきます。外見ができれば、内実はあとからついてくるのです。
ですから、小6の要約は、三文抜き書きと同じで、とりあえずはどこでもいいから三文を選んで形だけできていればいいと考えてください。
力を入れるのは、要約よりも、むしろ似た話で題材を広げることの方です。似た話で、本人の体験ばかりでなく、お父さんやお母さんの経験を取材して書くようにすると、感想文の内容が充実してきます。
要約や三文抜き書きの方法を説明するときは、あまり勉強的な話にせずに、作業的な話にするのが大事です。
実際の電話指導では、こんな感じです。
「えーと、この長文の最初の方の一文ね。ここがいいかなあ。あ、こっちでもいいや。『○○○○○……』という文を最初に書いておいてね。
それから、次はこの長文の真ん中あたり、えーと。ここでいいかな。『□□□□□……』。この文を二番目に書いておいてね。
それから最後は、この長文の終わりの方。どこでもいいけど、ここかな。『◇◇◇◇◇……』。これを三番目に書いておいてね。
今、先生が選んだところをそのまま抜き書きしていけばいいけど、○○君がもっと別のところを選びたいというのであれば、それを書いておいてもいいからね」
いかにも、簡単な勉強のように思えてきます。
一般に作文が上手に書けるのは、小4までです。小5以降は課題が難しくなるので、なかなかうまく書けません。
更に、中学生になると、小学校高学年のころよりももっとうまく書けなくなります。
小学校高学年から中学生にかけては、文章を書くための語彙が、文章を読むための語彙の比べて相対的に少なくなってしまうためです。
このことは、本人もうすうす感じるので、小5から中2にかけては、作文を書くことが負担になってきます。
しかし、この時期に、読書や長文音読などを気長に繰り返しながら作文を書いていると、また中学3年生のころからいい文章が書けるようになってくるのです。
長い展望を持って、あまり負担にならないように楽しくやっていてください。
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