△ススキ
暗唱という勉強法は、評価が高い割に、そして簡単にできそうに思える割に、実行が意外と難しいという特徴があります。シュリーマンの、音読による外国語独習法を知ると、だれでもやってみたくなります。しかし、ほとんどの人が挫折します。音読や暗唱を続けるというのは、そんなに簡単にはできないのです。
ここで、ヒントになるのは、幸田文(こうだあや)の実例です。幸田文は子供のころ、父親の露伴から百人一首を毎日三首聞かされ、翌日までに覚えるようにという勉強をさせられました。百人一首の短歌は、一首三十五文字です。これを三首覚えるとなると、約百字の文章を暗唱することになります。百字というのは、二、三十回繰り返せば必ず覚えられる字数です。しかし、繰り返さないと覚えられません。
これがもし、五十字を覚えるということであれば、覚える意識さえ不要なぐらいに簡単に覚えられます。五十字というのは、短期記憶の処理できる範囲の字数なので、記憶を意識しなくても覚えることができます。短期記憶で覚えるということは、覚える力を使っていないということです。従って、五十字ぐらいの字数の暗唱は、負荷のない暗唱ですから、この程度の暗唱をいくら繰り返しても、暗唱する力はつきません。
負荷のない暗唱というのは、たとえていうと、お箸を何回も持ち上げて筋力をつけようとするようなものです。軽いものを持ちつづけると筋力は逆に低下していきます。宇宙の無重力状態で、筋肉や骨が弱くなるというのは、筋肉や骨を弱い力でしか使わなくなるからです。読書も同じです。易しい本は、読めば読むほど読む力を低下させるという面もあるのです。
しかし、誤解されないように言うと、だから易しい本を読むなというのではありません。日常生活の中では、お箸を持つ場面も爪楊枝を持つ場面もあります。易しい文章を読む場面も易しい会話を聞く場面もあります。易しいものがいけないのではなく、易しいものしかないこと、つまり難しいものがないことが問題なのです。
ある字数以下の暗唱は易しすぎる。しかし、ある字数を超えると急に難しくなる。易しすぎると難しすぎるのちょうど中間のある範囲に、暗唱学習に最適な領域があります。それが、百字から三百字ぐらいの字数です。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
江戸時代の寺子屋教育では、子供たちは、自由に遊びながら勉強していました。朝の七時半から午後の二時半まで小学校一年生から六年生ぐらいの子が長時間勉強するのですから、おとなしく静かにしていられるわけがありません。
もし、これらの子供たちをおとなしく長時間勉強させようとすれば、先生が教材を丹念に準備し、学年別に一斉指導する教室を分け、その一方で規律を守らせる仕組みをつくりながら勉強をさせなければなりません。
江戸時代と同じころヨーロッパで行われていた教育は、少人数の恵まれた家庭の子供たちを対象にした教育でしたが、先生は、ムチを持ちながら勉強を教えるというスタイルでした。それに対して、日本の江戸時代の寺子屋教育は、庶民から武士までさまざまな階層の子供たちが楽しくいたずらをしながら勉強をするという雰囲気でした。しかし、それでいて、当時の日本人の識字率は、七〇から八〇パーセントという世界最高の水準を達成していたのです。(当時のヨーロッパの先進国の識字率は、二〇から三〇パーセントだと言われています)
日本の寺子屋教育のように子供たちが楽しく騒ぎながら勉強するというスタイルがなぜ可能だったかというと、勉強の方法が、優れた見本を反復して自分のものにするというやり方だったからです。もちろん、深く考える勉強は雑然とした雰囲気の中ではできません。しかし、小学生のころの勉強は、たとえ深い理解を必要とするものであっても、単純な反復練習を通して、深い内容も丸ごと把握するという形でやっていけます。
だから、江戸時代の寺子屋では、騒いでいる子がいる一方で勉強をする子もいるという自由な雰囲気が可能になり、その中で、多くのすぐれた教育が行われていったのです。
暗いヨーロッパの教育(T_T) 泣いている子も。……先生はムチを持って。
明るい江戸時代の教育(^o^) 騒いでいる子ばっか。先生はうたた寝。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
[2] 作文の総合点です。この総合点から、表記ミスや項目不足の減点をした点数が作文検定の点数になります。
[3] 作文の字数です。改行などによる空白を入れない正味の文字数です。
[4] 思考語彙の点数です。考える語彙が豊富な場合は高得点になるので、作文のジャンルによって大きく異なります。一般に生活作文が中心の小学生の場合は点数が低く、論説文が中心の高校生の場合は点数が高くなります。
下の棒グラフは、全体の点数の分布と自分の点数の位置を表しています。(グラフについては、以下同じ)
[5] 知識語彙の点数です。複雑な概念を表す言葉が多いと高得点になります。一般に、小学生では点数が低く、高校生では点数が高くなります。
[6] 表現語彙の点数です。語彙の多様性を表しています。実例の種類を広げたり、言い回しの仕方を工夫したりすることによって点数が高くなります。
[7] 総合点の位置と思考語彙、知識語彙、表現語彙の点数の位置を表しています。
総合点は、字数、思考語彙、知識語彙、表現語彙のバランスによって決まります。
[8] 思考語彙、知識語彙、表現語彙をイメージ化したものです。ひし形の縦と横の長さが同じに近いほどバランスが取れています。
■新しい教育のブルー・オーシャン
ブルー・オーシャンとは、まだだれもいない海、レッド・オーシャンとは、既に多くの人が競争を繰り広げている海のことです。
これまでの教育の大きな目標は、受験でした。しかし、受験が高度化し、競争が高度化するにつれて、学校教育や家庭教育だけでは不足するようになり、学習塾が子供たちの勉強をカバーするようになりました。
初期のころの学習塾は、学校と同じ集団指導教育を行っていました。しかし、やがて、集団指導教育よりもきめこまかく専門化された指導を行う個別指導教育が、集団指導教育に取って代わるようになってきました。
しかし、集団指導教育も個別指導教育も、その前提にしているものが受験教育であるという点では共通しています。これからの社会に求められる教育は、受験を前提にした教育の先にある、新しいブルーオーシャンの教育です。
では、ブルー・オーシャンの教育の特徴とはどういうものでしょうか。
第一は、スモールステップの教育ではなく、丸ごとすべてを把握するようなスタイルの教育です。
第二は、複雑な教材やカリキュラムではなく、単純な教材やカリキュラムによる教育です。
第三は、豪華で複雑な教材やシステムではなく、シンプルな教材やシステムを使った教育です。
第四は、ベテランの指導者でなければ教えられないような教育ではなく、学力さえあれば、新人でもすぐに教えられるような教育です。
第五は、高価格の教育ではなく、低価格の教育です。
第六は、成績アップという成績をよくするための教育ではなく、学力アップという頭をよくするための教育です。
第七は、規律的で規則的な雰囲気の教育ではなく、自由で楽しい雰囲気の教育です。
第八は、脱家庭で塾任せの教育ではなく、家庭との連携を密にした教育です。
勉強の目的は、よりよい人生を送ることです。受験に合格するために成績をよくするということを目的にするのではなく、頭をよくすることを勉強の目的にすることで、受験はもちろん人生にも通用する学力をつけることになるのです。
■小学校時代につけるのは、理解力と表現力
これまでの学力は、おもに知識の力をつけることが中心でした。そのため、テストと競争という方法で、費やした時間によって成績を上げるということが、勉強のスタイルになっていました。
しかし、最初は効果を上げていたその方法も、やがて弊害が次第に目立つようになってきました。
第一は、テストや競争がなければ勉強しないという子供たちが出てきたことです。
第二は、勉強漬けの生活に飽きて勉強そのものに飽きるような子供たちが増えてきたことです。
第三に、勉強に追われることに慣れてしまい、創造的な勉強を知らず、勉強というのは退屈なものだという思い込みを持つ子が多くなってきたということです。
これからの時代に必要な学力は、知識中心の学力ではなく、理解力と表現力を中心とした学力です。知識と技能は、基礎的なものが身についていれば十分です。
理解と表現に重点を置く勉強であれば、小学校時代はのびのびと勉強できます。そして、理解力と表現力の実力をつけた子供たちは、中学高校と学年が上がるにつれて学力も成績も向上していきます。
小学校時代は、成績を上げるのではなく、頭をよくする学習を中心にしていくことが大切で、そのための勉強が理解と表現の勉強です。
訓練しなければ解けないような難しい問題を短時間で解く練習に力を入れるよりも、文章を読んで内容を理解し、自分の考えを文章で表現するというごく普通のことをしっかりやれる力をつけていくことが小学校時代の勉強として大切なのです。
■国語力は、学力のすべてに影響する。
これからの学習に必要な理解力の中心になるものは、日本語の文章を理解する力、つまり広い意味での国語力です。
国語力の本質は、実は日本語による思考力です。決して文学的なセンスや好みに左右されるような学力が国語力なのではありません。
従って、国語が得意であれば、英語も当然得意になります。国語が得意で英語が苦手だというのは、ただ単に英語の勉強を正しくしていないからです。特に、大学入試のようなレベルになれば、英語力は更に国語力に影響されてきます。逆に、国語力のない人は、大学入試になると、英語が伸び悩むようになってきます。
また、国語力があると、数学も当然できるようになります。国語が得意で数学が苦手だというのは、数学の勉強の仕方を正しく理解していないからです。考える力というものは共通なので、国語力があれば、数学が一時的に苦手であっても、勉強の仕方さえわかるとすぐに成績が上がるようになります。これとは逆に、数学の得意な子が、自然に国語も得意になるということはありません。
また、社会に出てから生きてくる能力は、他の人の意見や資料を読み取る力と、自分の考えを多くの人に表現する力です。国語力は社会に出てから更に重要になってくるのです。
■国語力は、これで完璧
数学の勉強法は、難問の解法をマスターすることです。解法の蓄積によって、新しい問題に対しても解き方が思いつくようになるというのが、数学の成績がよくなるということの意味です。
しかし、国語は、問題の解説をいくら理解しても国語力を蓄積したことにはなりません。それにもかかわらず、国語の勉強というと、問題集の問題を解いて解説を読むというような勉強の仕方をしている人が多いのです。
問題を解いても国語の力はつきません。逆に、問題を解く形の勉強は時間がかかるので、肝心の国語力をつけるための勉強ができなくなります。
国語力をつけるための勉強とは、一言でいえば読む勉強です。その学年にふさわしい良質の文章を読むことが国語力をつけるいちばんの近道です。
実際に、このアドバイスをもとに国語の文章を読む練習をした子は、必ず国語の力をつけています。国語は成績を上げにくい教科だと言われていますが、読む勉強によって国語の成績を上げ、大学入試でも国語だけは自信があるというようになった人もたくさんいるのです。
■国語力だけでなく、読書力、作文力をつける
国語力は、学校時代に必要な学力です。しかし、大学生や社会人になると、国語のテストに表れるような国語力ではなく、より幅広い国語力としての読書力が必要になってきます。
読書力があれば、大学を卒業したあとも、社会人にふさわしい国語の実力が向上します。しかし読書力がないと、高校時代や大学時代が国語力のピークだったということになってしまいます。
読書力とは、幅広いジャンルの難しい本を読みこなす力です。この読書力を学生時代の間につけておくことが大切です。
また、読書力とセットになる作文力について言うと、今の学校では作文を学習する機会がきわめて限られています。小学校低中学年のころは作文指導がありますが、小学校高学年から中学生、高校生と学年が上がるにつれて、今の指導体制では作文の指導は物理的にできなくなってきます。
そこで、子供たちが社会人になって文章を書く必要に迫られたときに、途方にくれてしまうということも出てくるのです。
名文を書く必要はありませんが、他人に伝わるような文章を書くことにおいて自信があるということは、社会生活を送る上できわめて大切な能力になってきます。
単に国語力をつけるのではなく、一生にわたって生かせるような読書力、作文力を育てることに結びつけて国語力をつけることが大切なのです。
■小学校時代に始めれば、中学、高校と学年が上がるほど学力が伸びる
小学校時代の勉強は、小学生のときの成績を目標にするものではありません。小学校のときの成績だけを考えると、どうしても時間をかけすぎた勉強になります。小学校の成績ではなく、中学、高校になったときの土台を作ることを主な目標にしていく必要があります。
中学、高校の土台を作るために小学校時代は頭をよくしておく時期だと考えると、小学校のころは余裕のある勉強ができるようになります。そして、小学校の時期に頭をよくしておけば、中学、高校と学年が上がるにつれて成績が向上していきます。
小学校時代に勉強で消耗していない子は、学年が上がっても新鮮な気持ちで勉強を続けていくことができます。また、読む力や考える力があると、学年が上がり勉強の内容が難しくなるほど成績がよくなっていきます。
逆に、小学校時代に知識の再現を繰り返すような勉強をしてきた子は、考える習慣がつかないので、学年が上がり勉強の内容が難しくなると、次第に成績が低下してきます。
現代は、多くの家庭が核家族で、祖父母からの長い人生経験を学ぶ機会がありません。また、地域社会がなく、学校や家庭を中心とした人間関係の中では、同年齢かその前後の子供たちの話しか目に入りません。
そのため、狭い範囲で密度の濃い情報に囲まれていると、どうしても目先の結果に左右されるような考え方を親も子も持ってしまうのです。
しかし、こういうときだからこそ、大きな歴史的視野で、子供の長い人生を考えた教育を行っていく必要があるのです。